五
「失礼ですが旦那は、やっぱり東京ですか」
「東京と見えるかい」
「見えるかいって、一目見りゃあ、――第一言葉でわかりまさあ」
「東京はどこだか知れるかい」
「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも下町じゃねえようだ。山の手だね。山の手は麹町かね。え? それじゃ、小石川? でなければ牛込か四谷でしょう」
「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
「こう見えて、私も江戸っ子だからね」
「道理で生粋だと思ったよ」
「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
「何でまたこんな田舎へ流れ込んで来たのだい」
「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」
「もとから髪結床の親方かね」
「親方じゃねえ、職人さ。え? 所かね。所は神田松永町でさあ。なあに猫の額見たような小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえはずさ。あすこに竜閑橋てえ橋がありましょう。え? そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名代な橋だがね」
「おい、もう少し、石鹸を塗けてくれないか、痛くって、いけない」
「痛うがすかい。私ゃ癇性でね、どうも、こうやって、逆剃をかけて、一本一本髭の穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに今時の職人なあ、剃るんじゃねえ、撫でるんだ。もう少しだ我慢おしなせえ」
「我慢は先から、もうだいぶしたよ。御願だから、もう少し湯か石鹸をつけとくれ」
「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。全体、髭があんまり、延び過ぎてるんだ」
やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、棚の上から、薄っ片な赤い石鹸を取り卸ろして、水のなかにちょっと浸したと思ったら、それなり余の顔をまんべんなく一応撫で廻わした。裸石鹸を顔へ塗りつけられた事はあまりない。しかもそれを濡らした水は、幾日前に汲んだ、溜め置きかと考えると、余りぞっとしない。
すでに髪結床である以上は、御客の権利として、余は鏡に向わなければならん。しかし余はさっきからこの権利を放棄したく考えている。鏡と云う道具は平らに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。もしこの性質が具わらない鏡を懸けて、これに向えと強いるならば、強いるものは下手な写真師と同じく、向うものの器量を故意に損害したと云わなければならぬ。虚栄心を挫くのは修養上一種の方便かも知れぬが、何も己れの真価以下の顔を見せて、これがあなたですよと、こちらを侮辱するには及ぶまい。今余が辛抱して向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで裂ける。仰向くと蟇蛙を前から見たように真平に圧し潰され、少しこごむと福禄寿の祈誓児のように頭がせり出してくる。いやしくもこの鏡に対する間は一人でいろいろな化物を兼勤しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬはまず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合や、銀紙の剥げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜体を極めている。小人から罵詈されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒を感ぜぬが、その小人の面前に起臥しなければならぬとすれば、誰しも不愉快だろう。
その上この親方がただの親方ではない。そとから覗いたときは、胡坐をかいて、長煙管で、おもちゃの日英同盟国旗の上へ、しきりに煙草を吹きつけて、さも退屈気に見えたが、這入って、わが首の所置を托する段になって驚ろいた。髭を剃る間は首の所有権は全く親方の手にあるのか、はた幾分かは余の上にも存するのか、一人で疑がい出したくらい、容赦なく取り扱われる。余の首が肩の上に釘付けにされているにしてもこれでは永く持たない。
彼は髪剃を揮うに当って、毫も文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。揉み上の所ではぞきりと動脈が鳴った。顋のあたりに利刃がひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱を踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。
最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な臭いがする。時々は異な瓦斯を余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ何時、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我なら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛でも掻き切られては事だ。
「石鹸なんぞを、つけて、剃るなあ、腕が生なんだが、旦那のは、髭が髭だから仕方があるめえ」と云いながら親方は裸石鹸を、裸のまま棚の上へ放り出すと、石鹸は親方の命令に背いて地面の上へ転がり落ちた。
「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「二三日前来たばかりさ」
「へえ、どこにいるんですい」
「志保田に逗ってるよ」
「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな事たろうと思ってた。実あ、私もあの隠居さんを頼て来たんですよ。――なにね、あの隠居が東京にいた時分、わっしが近所にいて、――それで知ってるのさ。いい人でさあ。ものの解ったね。去年御新造が死んじまって、今じゃ道具ばかり捻くってるんだが――何でも素晴らしいものが、有るてえますよ。売ったらよっぽどな金目だろうって話さ」
「奇麗な御嬢さんがいるじゃないか」
「あぶねえね」
「何が?」
「何がって。旦那の前だが、あれで出返りですぜ」
「そうかい」
「そうかいどころの騒じゃねえんだね。全体なら出て来なくってもいいところをさ。――銀行が潰れて贅沢が出来ねえって、出ちまったんだから、義理が悪るいやね。隠居さんがああしているうちはいいが、もしもの事があった日にゃ、法返しがつかねえ訳になりまさあ」
「そうかな」
「当り前でさあ。本家の兄たあ、仲がわるしさ」
「本家があるのかい」
「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」
「おい、もう一遍石鹸をつけてくれないか。また痛くなって来た」
「よく痛くなる髭だね。髭が硬過ぎるからだ。旦那の髭じゃ、三日に一度は是非剃を当てなくっちゃ駄目ですぜ。わっしの剃で痛けりゃ、どこへ行ったって、我慢出来っこねえ」
「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く逗留する気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえ事った。碌でもねえものに引っかかって、どんな目に逢うか解りませんぜ」
「どうして」
「旦那あの娘は面はいいようだが、本当はき印しですぜ」
「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂だって云ってるんでさあ」
「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、現に証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」
「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくり、煙草でも呑んで御出なせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」
「頭はよそう」
「頭垢だけ落して置くかね」
親方は垢の溜った十本の爪を、遠慮なく、余が頭蓋骨の上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根を一本ごとに押し分けて、不毛の境を巨人の熊手が疾風の速度で通るごとくに往来する。余が頭に何十万本の髪の毛が生えているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫にふくれ上った上、余勢が地磐を通して、骨から脳味噌まで震盪を感じたくらい烈しく、親方は余の頭を掻き廻わした。
「どうです、好い心持でしょう」
「非常な辣腕だ」
「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」
「首が抜けそうだよ」
「そんなに倦怠うがすかい。全く陽気の加減だね。どうも春てえ奴あ、やに身体がなまけやがって――まあ一ぷく御上がんなさい。一人で志保田にいちゃ、退屈でしょう。ちと話しに御出なせえ。どうも江戸っ子は江戸っ子同志でなくっちゃ、話しが合わねえものだから。何ですかい、やっぱりあの御嬢さんが、御愛想に出てきますかい。どうもさっぱし、見境のねえ女だから困っちまわあ」
「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」
「違ねえ、がんがらがんだから、からっきし、話に締りがねえったらねえ。――そこでその坊主が逆せちまって……」
「その坊主たあ、どの坊主だい」
「観海寺の納所坊主がさ……」
「納所にも住持にも、坊主はまだ一人も出て来ないんだ」
「そうか、急勝だから、いけねえ。苦味走った、色の出来そうな坊主だったが、そいつが御前さん、レコに参っちまって、とうとう文をつけたんだ。――おや待てよ。口説たんだっけかな。いんにゃ文だ。文に違えねえ。すると――こうっと――何だか、行きさつが少し変だぜ。うん、そうか、やっぱりそうか。するてえと奴さん、驚ろいちまってからに……」
「誰が驚ろいたんだい」
「女がさ」
「女が文を受け取って驚ろいたんだね」
「ところが驚ろくような女なら、殊勝らしいんだが、驚ろくどころじゃねえ」
「じゃ誰が驚ろいたんだい」
「口説た方がさ」
「口説ないのじゃないか」
「ええ、じれってえ。間違ってらあ。文をもらってさ」
「それじゃやっぱり女だろう」
「なあに男がさ」
「男なら、その坊主だろう」
「ええ、その坊主がさ」
「坊主がどうして驚ろいたのかい」
「どうしてって、本堂で和尚さんと御経を上げてると、突然あの女が飛び込んで来て――ウフフフフ。どうしても狂印だね」
「どうかしたのかい」
「そんなに可愛いなら、仏様の前で、いっしょに寝ようって、出し抜けに、泰安さんの頸っ玉へかじりついたんでさあ」
「へええ」
「面喰ったなあ、泰安さ。気狂に文をつけて、飛んだ恥を掻かせられて、とうとう、その晩こっそり姿を隠して死んじまって……」
「死んだ?」
「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
「何とも云えない」
「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって冴えねえから、ことによると生きてるかも知れねえね」
「なかなか面白い話だ」
「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、根が気が違ってるんだから、洒唖洒唖して平気なもんで――なあに旦那のようにしっかりしていりゃ大丈夫ですがね、相手が相手だから、滅多にからかったり何かすると、大変な目に逢いますよ」
「ちっと気をつけるかね。ははははは」
生温い磯から、塩気のある春風がふわりふわりと来て、親方の暖簾を眠たそうに煽る。身を斜にしてその下をくぐり抜ける燕の姿が、ひらりと、鏡の裡に落ちて行く。向うの家では六十ばかりの爺さんが、軒下に蹲踞まりながら、だまって貝をむいている。かちゃりと、小刀があたるたびに、赤い味が笊のなかに隠れる。殻はきらりと光りを放って、二尺あまりの陽炎を向へ横切る。丘のごとくに堆かく、積み上げられた、貝殻は牡蠣か、馬鹿か、馬刀貝か。崩れた、幾分は砂川の底に落ちて、浮世の表から、暗らい国へ葬られる。葬られるあとから、すぐ新しい貝が、柳の下へたまる。爺さんは貝の行末を考うる暇さえなく、ただ空しき殻を陽炎の上へ放り出す。彼れの笊には支うべき底なくして、彼れの春の日は無尽蔵に長閑かと見える。
砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、参差として幾尋の干網が、網の目を抜けて村へ吹く軟風に、腥き微温を与えつつあるかと怪しまれる。その間から、鈍刀を溶かして、気長にのたくらせたように見えるのが海の色だ。
この景色とこの親方とはとうてい調和しない。もしこの親方の人格が強烈で四辺の風光と拮抗するほどの影響を余の頭脳に与えたならば、余は両者の間に立ってすこぶる円
方鑿の感に打たれただろう。幸にして親方はさほど偉大な豪傑ではなかった。いくら江戸っ子でも、どれほどたんかを切っても、この渾然として駘蕩たる天地の大気象には叶わない。満腹の饒舌を弄して、あくまでこの調子を破ろうとする親方は、早く一微塵となって、怡々たる春光の裏に浮遊している。矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯において氷炭相容るる能わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在って始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく
磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。大人の手足となって才子が活動し、才子の股肱となって昧者が活動し、昧者の心腹となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じている。長閑な春の感じを壊すべきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半ばに呑気な弥次と近づきになったような気持ちになった。この極めて安価なる気
家は、太平の象を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。
こう考えると、この親方もなかなか画にも、詩にもなる男だから、とうに帰るべきところを、わざと尻を据えて四方八方の話をしていた。ところへ暖簾を滑って小さな坊主頭が
「御免、一つ剃って貰おうか」
と這入って来る。白木綿の着物に同じ丸絎の帯をしめて、上から蚊帳のように粗い法衣を羽織って、すこぶる気楽に見える小坊主であった。
「了念さん。どうだい、こないだあ道草あ、食って、和尚さんに叱られたろう」
「いんにゃ、褒められた」
「使に出て、途中で魚なんか、とっていて、了念は感心だって、褒められたのかい」
「若いに似ず了念は、よく遊んで来て感心じゃ云うて、老師が褒められたのよ」
「道理で頭に瘤が出来てらあ。そんな不作法な頭あ、剃るなあ骨が折れていけねえ。今日は勘弁するから、この次から、捏ね直して来ねえ」
「捏ね直すくらいなら、ますこし上手な床屋へ行きます」
「はははは頭は凹凸だが、口だけは達者なもんだ」
「腕は鈍いが、酒だけ強いのは御前だろ」
「箆棒め、腕が鈍いって……」
「わしが云うたのじゃない。老師が云われたのじゃ。そう怒るまい。年甲斐もない」
「ヘン、面白くもねえ。――ねえ、旦那」
「ええ?」
「全体坊主なんてえものは、高い石段の上に住んでやがって、屈托がねえから、自然に口が達者になる訳ですかね。こんな小坊主までなかなか口幅ってえ事を云いますぜ――おっと、もう少し頭を寝かして――寝かすんだてえのに、――言う事を聴かなけりゃ、切るよ、いいか、血が出るぜ」
「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ一人前じゃねえ。――時にあの泰安さんは、どうして死んだっけな、御小僧さん」
「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その後発憤して、陸前の大梅寺へ行って、修業三昧じゃ。今に智識になられよう。結構な事よ」
「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。御前なんざ、よく気をつけなくっちゃいけねえぜ。とかく、しくじるなあ女だから――女ってえば、あの狂印はやっぱり和尚さんの所へ行くかい」
「狂印と云う女は聞いた事がない」
「通じねえ、味噌擂だ。行くのか、行かねえのか」
「狂印は来んが、志保田の娘さんなら来る」
「いくら、和尚さんの御祈祷でもあればかりゃ、癒るめえ。全く先の旦那が祟ってるんだ」
「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう褒めておられる」
「石段をあがると、何でも逆様だから叶わねえ。和尚さんが、何て云ったって、気狂は気狂だろう。――さあ剃れたよ。早く行って和尚さんに叱られて来めえ」
「いやもう少し遊んで行って賞められよう」
「勝手にしろ、口の減らねえ餓鬼だ」
「咄この乾尿
」
「何だと?」
青い頭はすでに暖簾をくぐって、春風に吹かれている。
六
夕暮の机に向う。障子も襖も開け放つ。宿の人は多くもあらぬ上に、家は割合に広い。余が住む部屋は、多くもあらぬ人の、人らしく振舞う境を、幾曲の廊下に隔てたれば、物の音さえ思索の煩にはならぬ。今日は一層静かである。主人も、娘も、下女も下男も、知らぬ間に、われを残して、立ち退いたかと思われる。立ち退いたとすればただの所へ立ち退きはせぬ。霞の国か、雲の国かであろう。あるいは雲と水が自然に近づいて、舵をとるさえ懶き海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難き境に漂い来て、果ては帆みずからが、いずこに己れを雲と水より差別すべきかを苦しむあたりへ――そんな遥かな所へ立ち退いたと思われる。それでなければ卒然と春のなかに消え失せて、これまでの四大が、今頃は目に見えぬ霊氛となって、広い天地の間に、顕微鏡の力を藉るとも、些の名残を留めぬようになったのであろう。あるいは雲雀に化して、菜の花の黄を鳴き尽したる後、夕暮深き紫のたなびくほとりへ行ったかも知れぬ。または永き日を、かつ永くする虻のつとめを果したる後、蕋に凝る甘き露を吸い損ねて、落椿の下に、伏せられながら、世を香ばしく眠っているかも知れぬ。とにかく静かなものだ。
空しき家を、空しく抜ける春風の、抜けて行くは迎える人への義理でもない。拒むものへの面当でもない。自から来りて、自から去る、公平なる宇宙の意である。掌に顎を支えたる余の心も、わが住む部屋のごとく空しければ、春風は招かぬに、遠慮もなく行き抜けるであろう。
踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣も起る。戴くは天と知る故に、稲妻の米噛に震う怖も出来る。人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから、火宅の苦は免かれぬ。東西のある乾坤に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎である。目に見る富は土である。握る名と奪える誉とは、小賢かしき蜂が甘く醸すと見せて、針を棄て去る蜜のごときものであろう。いわゆる楽は物に着するより起るが故に、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客なるものあって、飽くまでこの待対世界の精華を嚼んで、徹骨徹髄の清きを知る。霞を餐し、露を嚥み、紫を品し、紅を評して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着するのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々たる大地を極めても見出し得ぬ。自在に泥団を放下して、破笠裏に無限の青嵐を盛る。いたずらにこの境遇を拈出するのは、敢て市井の銅臭児の鬼嚇して、好んで高く標置するがためではない。ただ這裏の福音を述べて、縁ある衆生を麾くのみである。有体に云えば詩境と云い、画界と云うも皆人々具足の道である。春秋に指を折り尽して、白頭に呻吟するの徒といえども、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、かつては微光の臭骸に洩れて、吾を忘れし、拍手の興を喚び起す事が出来よう。出来ぬと云わば生甲斐のない男である。
されど一事に即し、一物に化するのみが詩人の感興とは云わぬ。ある時は一弁の花に化し、あるときは一双の蝶に化し、あるはウォーヅウォースのごとく、一団の水仙に化して、心を沢風の裏に撩乱せしむる事もあろうが、何とも知れぬ四辺の風光にわが心を奪われて、わが心を奪えるは那物ぞとも明瞭に意識せぬ場合がある。ある人は天地の耿気に触るると云うだろう。ある人は無絃の琴を霊台に聴くと云うだろう。またある人は知りがたく、解しがたき故に無限の域に
して、縹緲のちまたに彷徨すると形容するかも知れぬ。何と云うも皆その人の自由である。わが、唐木の机に憑りてぽかんとした心裡の状態は正にこれである。
余は明かに何事をも考えておらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。されども吾は動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚と動いている。
強いて説明せよと云わるるならば、余が心はただ春と共に動いていると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打って、固めて、仙丹に練り上げて、それを蓬莱の霊液に溶いて、桃源の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間に毛孔から染み込んで、心が知覚せぬうちに飽和されてしまったと云いたい。普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不分明であるから、毫も刺激がない。刺激がないから、窈然として名状しがたい楽がある。風に揉まれて上の空なる波を起す、軽薄で騒々しい趣とは違う。目に見えぬ幾尋の底を、大陸から大陸まで動いている
洋たる蒼海の有様と形容する事が出来る。ただそれほどに活力がないばかりだ。しかしそこにかえって幸福がある。偉大なる活力の発現は、この活力がいつか尽き果てるだろうとの懸念が籠る。常の姿にはそう云う心配は伴わぬ。常よりは淡きわが心の、今の状態には、わが烈しき力の銷磨しはせぬかとの憂を離れたるのみならず、常の心の可もなく不可もなき凡境をも脱却している。淡しとは単に捕え難しと云う意味で、弱きに過ぎる虞を含んではおらぬ。冲融とか澹蕩とか云う詩人の語はもっともこの境を切実に言い了せたものだろう。
この境界を画にして見たらどうだろうと考えた。しかし普通の画にはならないにきまっている。われらが俗に画と称するものは、ただ眼前の人事風光をありのままなる姿として、もしくはこれをわが審美眼に漉過して、絵絹の上に移したものに過ぎぬ。花が花と見え、水が水と映り、人物が人物として活動すれば、画の能事は終ったものと考えられている。もしこの上に一頭地を抜けば、わが感じたる物象を、わが感じたるままの趣を添えて、画布の上に淋漓として生動させる。ある特別の感興を、己が捕えたる森羅の裡に寓するのがこの種の技術家の主意であるから、彼らの見たる物象観が明瞭に筆端に迸しっておらねば、画を製作したとは云わぬ。己れはしかじかの事を、しかじかに観、しかじかに感じたり、その観方も感じ方も、前人の籬下に立ちて、古来の伝説に支配せられたるにあらず、しかももっとも正しくして、もっとも美くしきものなりとの主張を示す作品にあらざれば、わが作と云うをあえてせぬ。
この二種の製作家に主客深浅の区別はあるかも知れぬが、明瞭なる外界の刺激を待って、始めて手を下すのは双方共同一である。されど今、わが描かんとする題目は、さほどに分明なものではない。あらん限りの感覚を鼓舞して、これを心外に物色したところで、方円の形、紅緑の色は無論、濃淡の陰、洪繊の線を見出しかねる。わが感じは外から来たのではない、たとい来たとしても、わが視界に横わる、一定の景物でないから、これが源因だと指を挙げて明らかに人に示す訳に行かぬ。あるものはただ心持ちである。この心持ちを、どうあらわしたら画になるだろう――否この心持ちをいかなる具体を藉りて、人の合点するように髣髴せしめ得るかが問題である。
普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに恰好なる対象を択ばなければならん。しかるにこの対象は容易に出て来ない。出て来ても容易に纏らない。纏っても自然界に存するものとは丸で趣を異にする場合がある。したがって普通の人から見れば画とは受け取れない。描いた当人も自然界の局部が再現したものとは認めておらん、ただ感興の上した刻下の心持ちを幾分でも伝えて、多少の生命を
しがたきムードに与うれば大成功と心得ている。古来からこの難事業に全然の績を収め得たる画工があるかないか知らぬ。ある点までこの流派に指を染め得たるものを挙ぐれば、文与可の竹である。雲谷門下の山水である。下って大雅堂の景色である。蕪村の人物である。泰西の画家に至っては、多く眼を具象世界に馳せて、神往の気韻に傾倒せぬ者が大多数を占めているから、この種の筆墨に物外の神韻を伝え得るものははたして幾人あるか知らぬ。
惜しい事に雪舟、蕪村らの力めて描出した一種の気韻は、あまりに単純でかつあまりに変化に乏しい。筆力の点から云えばとうていこれらの大家に及ぶ訳はないが、今わが画にして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬杖をやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子を尋ね当てるため、六十余州を回国して、寝ても寤めても、忘れる間がなかったある日、十字街頭にふと邂逅して、稲妻の遮ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵られても恨はない。いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲直がこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風韻のどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、牛であれ馬であれ、ないしは牛でも馬でも、何でもないものであれ、厭わない。厭わないがどうも出来ない。写生帖を机の上へ置いて、両眼が帖のなかへ落ち込むまで、工夫したが、とても物にならん。
鉛筆を置いて考えた。こんな抽象的な興趣を画にしようとするのが、そもそもの間違である。人間にそう変りはないから、多くの人のうちにはきっと自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何らの手段かで、永久化せんと試みたに相違ない。試みたとすればその手段は何だろう。
たちまち音楽の二字がぴかりと眼に映った。なるほど音楽はかかる時、かかる必要に逼られて生まれた自然の声であろう。楽は聴くべきもの、習うべきものであると、始めて気がついたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。
次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている境界もとうてい物になりそうにない。余が嬉しいと感ずる心裏の状況には時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓次に展開すべき出来事の内容がない。一が去り、二が来り、二が消えて三が生まるるがために嬉しいのではない。初から窈然として同所に把住する趣きで嬉しいのである。すでに同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳したところで、必ずしも時間的に材料を按排する必要はあるまい。やはり絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。ただいかなる景情を詩中に持ち来って、この曠然として倚托なき有様を写すかが問題で、すでにこれを捕え得た以上はレッシングの説に従わんでも詩として成功する訳だ。ホーマーがどうでも、ヴァージルがどうでも構わない。もし詩が一種のムードをあらわすに適しているとすれば、このムードは時間の制限を受けて、順次に進捗する出来事の助けを藉らずとも、単純に空間的なる絵画上の要件を充たしさえすれば、言語をもって描き得るものと思う。
議論はどうでもよい。ラオコーンなどは大概忘れているのだから、よく調べたら、こっちが怪しくなるかも知れない。とにかく、画にしそくなったから、一つ詩にして見よう、と写生帖の上へ、鉛筆を押しつけて、前後に身をゆすぶって見た。しばらくは、筆の先の尖がった所を、どうにか運動させたいばかりで、毫も運動させる訳に行かなかった。急に朋友の名を失念して、咽喉まで出かかっているのに、出てくれないような気がする。そこで諦めると、出損なった名は、ついに腹の底へ収まってしまう。
葛湯を練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸に手応がないものだ。そこを辛抱すると、ようやく粘着が出て、攪き淆ぜる手が少し重くなる。それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。しまいには鍋の中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。詩を作るのはまさにこれだ。
手掛りのない鉛筆が少しずつ動くようになるのに勢を得て、かれこれ二三十分したら、
青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。

蛸掛不動。篆煙繞竹梁。
と云う六句だけ出来た。読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。これなら始めから、画にすればよかったと思う。なぜ画よりも詩の方が作り
易かったかと思う。ここまで出たら、あとは大した苦もなく出そうだ。しかし画に出来ない
情を、次には
咏って見たい。あれか、これかと思い
煩った末とうとう、
独坐無隻語。方寸認微光。人間徒多事。此境孰可忘。会得一日静。正知百年忙。遐懐寄何処。緬

白雲郷。
と出来た。もう一返最初から読み直して見ると、ちょっと面白く読まれるが、どうも、自分が今しがた入った神境を写したものとすると、索然として物足りない。ついでだから、もう一首作って見ようかと、鉛筆を握ったまま、何の気もなしに、入口の方を見ると、襖を引いて、開け放った幅三尺の空間をちらりと、奇麗な影が通った。はてな。
余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。
一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側を寂然として歩行て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。
花曇りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間の中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥と見えつ、隠れつする。
女はもとより口も聞かぬ。傍目も触らぬ。椽に引く裾の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行いている。腰から下にぱっと色づく、裾模様は何を染め抜いたものか、遠くて解からぬ。ただ無地と模様のつながる中が、おのずから暈されて、夜と昼との境のごとき心地である。女はもとより夜と昼との境をあるいている。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装をして、この不思議な歩行をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。逝く春の恨を訴うる所作ならば何が故にかくは無頓着なる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅を飾れる。
暮れんとする春の色の、嬋媛として、しばらくは冥
の戸口をまぼろしに彩どる中に、眼も醒むるほどの帯地は金襴か。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然たる夕べのなかにつつまれて、幽闃のあなた、遼遠のかしこへ一分ごとに消えて去る。燦めき渡る春の星の、暁近くに、紫深き空の底に陥いる趣である。
太玄の
おのずから開けて、この華やかなる姿を、幽冥の府に吸い込まんとするとき、余はこう感じた。金屏を背に、銀燭を前に、春の宵の一刻を千金と、さざめき暮らしてこそしかるべきこの装の、厭う景色もなく、争う様子も見えず、色相世界から薄れて行くのは、ある点において超自然の情景である。刻々と逼る黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦きもせず、狼狽もせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊しているらしい。身に落ちかかる災を知らぬとすれば無邪気の極である。知って、災と思わぬならば物凄い。黒い所が本来の住居で、しばらくの幻影を、元のままなる冥漠の裏に収めればこそ、かように間
の態度で、有と無の間に逍遥しているのだろう。女のつけた振袖に、紛たる模様の尽きて、是非もなき磨墨に流れ込むあたりに、おのが身の素性をほのめかしている。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚のままで、この世の呼吸を引き取るときに、枕元に病を護るわれらの心はさぞつらいだろう。四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐のない本人はもとより、傍に見ている親しい人も殺すが慈悲と諦らめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科があろう。眠りながら冥府に連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果すと同様である。どうせ殺すものなら、とても逃れぬ定業と得心もさせ、断念もして、念仏を唱えたい。死ぬべき条件が具わらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南無阿弥陀仏と回向をする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。仮りの眠りから、いつの間とも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩悩の綱をむやみに引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏かに寝かしてくれと思うかも知れぬ。それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡から救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否や、何だか口が聴けなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。なぜ何とも云えぬかと考うる途端に、女はまた通る。こちらに窺う人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微塵も気に掛からぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初手から、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭々と封じ了る。
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