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教育と文芸(きょういくとぶんげい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 8:30:45  点击:  切换到繁體中文


 ローマンチックの道徳は何となしに対象物をして大きく偉く感じさせる。ナチュラリズムの道徳は、自己の欠点を暴露させる正直な可愛らしい所がある。
 ローマンチシズムの芸術は情緒的エモーショナルで人をして偉く大きく思わせるし、ナチュラリズムの芸術は理智的で、正直に実際を思わしめる。即ち文学上から見てローマンチシズムはいつわりを伝えるがまた人の精神に偉大とか崇高すうこうとかの現象を認めしめるから、人の精神を未来に結合さする。ナチュラリズムは、材料の取扱い方が正直で、また現在の事実を発揮さすることにつとむるから、人の精神を現在に結合さする、例えば人間を始めから不完全な物と見て人の欠点を評したるものである。ローマンチシズムは、おのれ以上の偉大なるものを材料として取扱うから、感激的であるけれども、その材料が読む者聞く者には全く、没交渉ぼつこうしょうで印象にヨソヨソしい所がある、これに引き換えてナチュラリズムは、如何に汚い下らないものでも、自分というものがその鏡に写って何だか親しくしみじみと感得かんとくせしめる。く能く考えて見ると人というものは、平時においては軽微の程度におけるローマンチシズムの主張者で、或者を批評したり要求するに自己の力以上のものを以てしている。
 一体人間の心は自分以上のものを、渇仰かつごうする根本的の要求を持っている、今日よりは明日に一部の望みを有するのである。自分よりえらいもの自分より高いものを望む如く、現在よりも将来に光明こうみょうを発見せんとするものである。以上述べた如くローマンチシズムの思想即ち一の理想主義の流れは、永久に変ることなく、深く人心じんしんの奥底にながき生命を有しているものであります。従ってローマン主義の文学は永久に生存の権利を有しております。人心のこの響きに触れている限り、ローマン主義の思想は永久に伝わるものであります。これに反してナチュラリズムの道徳は前述の如く、寛容的精神に富んでいる。事実を事実としてありのままを描いたものが、真のナチュラリズムの文学である。自己解剖、自己批判、の傾向が段々と人心の間に広まりつつあり、精神が極めて平民的に、換言すれば平凡的になって来たのであります。人間の人間らしい所の写実をするのが自然主義の特徴で、ローマン主義の人間以上自己以上、殆んど望んで得べからざるほどの人物理想を描いたのに対して極めて通常のものをそのまま、そのままという所に重きを置いて世態せたいをありのままに欠点も、弱点も、表裏ひょうりともに、一元にあらぬ二元以上にわたって実際を描き出すのであります。従ってカーライルの英雄崇拝的傾向の欲求が永久に存在する事は前述の通りであるが今はこれに多少の変化をたしたという訳であります。
 さてかく自然主義の道徳文学のために、自己改良の念が浅く向上渇仰の動機が薄くなるということは必ずあるに相違ない。これはたしかに欠点であります。
 従って現代の教育の傾向、文学の潮流が、自然主義的であるためにボツボツその弊害が表われて、日本の自然主義という言辞は甚だしくいやしむべきものになって来た。けれどもこれは間違である。自然主義はそんな非倫理的なものではない、自然主義そのものは日本の文学の一部に表われたようなものではなく、単に彼らはその欠点のみを示したのである。前にも言った通り如何に文学といえども決して倫理範囲を脱しているものではなく、少くも、倫理的渇仰の念を何所いずこにかきざさしめなければならぬものであります。
 人間の心の底に永久に、ローマン主義の英雄崇拝的情緒的の傾向の存する限り、この心は永存するものであるが、それを全く無視して、人間の弱点ばかりを示すのは、文学としての真価を有するものでない、片輪かたわ出来損できそこないの芸術であります。如何に人間の弱点を書いたものでも、その弱点の全体を読む内に何処いずこにかこれに対する悪感おかんとか、あるいは別に倫理的の要求とかが読者の心にづるような文学でなければならぬ。これが人心の自然の要求で、芸術もまたこの範囲にある。今の一部の小説が人にきらわれるは、自然主義そのものの欠点でなく取扱う同派の文学者の失敗で、畢竟ひっきょう過去の極端なるローマン主義の反動であります。反動は正動よりも常規じょうきを逸する。故にわれわれは反動として多少このかんの消息をりょうとせねばならぬ。
 さて自然主義は遠慮なく事実そのままを人の前に暴露し、または描き出すため種々なる欠点を生ずるに至りましたが、これを救うは過去のローマン主義を復興するにあらずして、新ローマン主義ともいうべきものをおこすにあろうかと思う。新ローマン主義というも、全く以前のローマン主義とは別物である。およそ歴史は繰返すものなりというけれども、歴史は決して繰返さぬのである、繰返すというのは間違である。如何なる場合にも後戻りをすることなく前へ前へと走っている。
 教育及び文芸とても、自然主義に弊害があるからとて、昔には戻らぬ。もし戻ってもそれは全く新なる形式内容を有するもので、浅薄せんぱくなる観察者には昔時せきじに戻りたる感じを起させるけれども、実はそうではないのであります。しこうして自然主義に反動したものとするならば、新ローマン主義ともいうべきものは、自然主義対ローマン主義の最後に生ずるはずである。新ローマン主義というとも決して、昔のローマン主義に返ったのではない、全く別物なのであります。
 即ち新ローマン主義は、昔時のローマン主義のように空想に近い理想を立てずに、程度の低い実際に近い達成しらるる目的を立てて、やって行くのである。社会は常に、二元である。ローマン主義の調和は時と場所に依り、その要求に応じて二者が適宜に調諧ちょうかいして、甲の場合には自然主義六分ローマン主義四分というように時代及び場所の要求にとものうて、両者の完全なる調和を保つ所に、新ローマン主義を認める。将来はこうなる事であろうと思う。
 昔の感激的の教育と、当時の情緒的なローマン主義の文芸と今の科学上のしんを重んずる教育主義と、空想的ならざる自然主義の文芸と、相連あいつらなって両者の変遷及び関係が明瞭になるのであります。かくして人心に向上の念がある以上、永久にローマン主義の存続を認むると共に、すべての真に価値を発見する自然主義もまた充分なる生命を存して、この二者の調和が今後のおもなる傾向となるべきものと思うのであります。
 近頃教育者には文学はいらぬというものもあるが、自分の今までのお話は全く教育に関係がないという事が出来ぬ。現時の教育において小学校中等学校はローマン主義で大学などに至っては、ナチュラル主義のものとなる。この二者は密接なる関係を有して、二つであるけれどもつまりは一つにかさなるものと見てよろしいのであります。故にぜん申した通り文学と教育とは決して離れないものであるのであります。(文責記者にあり)

――明治四四、七、一『信濃教育』――





底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   1998(平成10)年7月24日第26刷発行
入力:柴田卓治
校正:福地博文
1999年8月4日公開
2003年10月9日修正
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