二 鏡 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台(うてな)の中に只一人住む。活(い)ける世を鏡の裡(うち)にのみ知る者に、面(おもて)を合わす友のあるべき由なし。 春恋し、春恋しと囀(さえ)ずる鳥の数々に、耳側(そばだ)てて木(こ)の葉(は)隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。鮮(あざ)やかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。 シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、幽(かす)かなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を掩(おお)うてまた鏡に向う。河のあなたに烟(けぶ)る柳の、果ては空とも野とも覚束(おぼつか)なき間より洩(も)れ出(い)づる悲しき調(しらべ)と思えばなるべし。 シャロットの路(みち)行く人もまた悉(ことごと)くシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯(ひげ)の寛(ゆる)き衣を纏(まと)いて、長き杖(つえ)の先に小さき瓢(ひさご)を括(くく)しつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときは頭(かしら)よりただ一枚と思わるる真白の上衣(うわぎ)被(かぶ)りて、眼口も手足も確(しか)と分ちかねたるが、けたたましげに鉦(かね)打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは癩(らい)をやむ人の前世の業(ごう)を自(みずか)ら世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。 旅商人(たびあきゅうど)の脊(せ)に負える包(つつみ)の中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女の眸(ひとみ)には映ぜぬ。 古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして択(えら)ぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに永(なが)く停(とど)まる事は天に懸(かか)る日といえども難(かた)い。活(い)ける世の影なればかく果(は)敢(か)なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳(か)けよりて思うさま鏡の外(ほか)なる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪(のろ)いのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐(きょくせき)せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦(う)めば山に遯(のが)るる心安さもあるべし。鏡の裏(うち)なる狭き宇宙の小さければとて、憂(う)き事の降りかかる十字の街(ちまた)に立ちて、行き交(か)う人に気を配る辛(つ)らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃(ばんけい)の乱れは永劫(えいごう)を極めて尽きざるを、渦捲(ま)く中に頭(かしら)をも、手をも、足をも攫(さら)われて、行くわれの果(はて)は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台(うてな)に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆(あほう)の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の助(たすけ)にて、よそながら窺(うかが)う世なり。活殺生死(かっさつしょうじ)の乾坤(けんこん)を定裏(じょうり)に拈出(ねんしゅつ)して、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁(さわ)がして窓の外(そと)なる下界を見んとする。 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄(くろがね)の黒きを磨(みが)いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑(かがみ)の霧を含みて、芙蓉(ふよう)に滴(した)たる音を聴(き)くとき、対(むか)える人の身の上に危うき事あり。然(けきぜん)と故(ゆえ)なきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期(まつご)の覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月(いくとしつき)の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝(あした)に向い夕(ゆうべ)に向い、日に向い月に向いて、厭(あ)くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞(おそれ)ありとは夢にだも知らず。湛然(たんぜん)として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗(えいろう)たる面(おもて)を過ぐる森羅(しんら)の影の、繽紛(ひんぷん)として去るあとは、太古の色なき境(さかい)をまのあたりに現わす。無限上に徹する大空(たいくう)を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏(うち)に圧(お)し集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。 夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍(そば)に坐りて、夜ごと日ごとの(はた)を織る。ある時は明るき(はた)を織り、ある時は暗き(はた)を織る。 シャロットの女の投ぐる梭(ひ)の音を聴く者は、淋(さび)しき皐(おか)の上に立つ、高き台(うてな)の窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代(よ)にただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居(すまい)である。蔦(つた)鎖(とざ)す古き窓より洩(も)るる梭の音の、絶間(たえま)なき振子(しんし)の如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静(しずか)なるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝(まさ)る。恐る恐る高き台を見上げたる行人(こうじん)は耳を掩(おお)うて走る。 シャロットの女の織るは不断の(はた)である。草むらの萌草(もえぐさ)の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪(なみ)の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地(じ)に、燃ゆる焔(ほのお)の色にて十字架を描く。濁世(じょくせ)にはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯(たてよこ)の目にも入ると覚しく、焔のみは(はた)を離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋は焚(や)け落つるかと怪しまれて明るい。 恋の糸と誠(まこと)の糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いを経(たて)に怒りを緯(よこ)に、霰(あられ)ふる木枯(こがらし)の夜を織り明せば、荒野の中に白き髯(ひげ)飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき紅(くれない)と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和(おとな)しき黄と思い上がれる紫を交(かわ)る交(がわ)るに畳めば、魔に誘われし乙女(おとめ)の、我(われ)は顔(がお)に高ぶれる態(さま)を写す。長き袂(たもと)に雲の如くにまつわるは人に言えぬ願(ねがい)の糸の乱れなるべし。 シャロットの女は眼(まなこ)深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日の上(のぼ)りてより、刻を盛る砂時計の九(ここの)たび落ち尽したれば、今ははや午(ひる)過ぎなるべし。窓を射る日の眩(まば)ゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟(どうくつ)の如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手(めて)より投げたる梭(ひ)を左手(ゆんで)に受けて、女はふと鏡の裡(うち)を見る。研(と)ぎ澄したる剣(つるぎ)よりも寒き光の、例(いつも)ながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事(なにごと)ぞ!音なくて颯(さ)と曇るは霧か、鏡の面(おもて)は巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うて往(ゆ)きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼(まぶた)は黒き睫(まつげ)と共に微(かす)かに顫(ふる)えた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷(いっさつ)に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見(あら)われる。梭は再び動き出す。 女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。 うつせみの世を、 うつつに住めば、 住みうからまし、 むかしも今も。」 うつくしき恋、 うつす鏡に、 色やうつろう、 朝な夕なに。」 鏡の中なる遠柳(とおやなぎ)の枝が風に靡(なび)いて動く間(あいだ)に、忽(たちま)ち銀(しろがね)の光がさして、熱き埃(ほこ)りを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊を覘(ねら)う鷲(わし)の如くに、影とは知りながら瞬(またた)きもせず鏡の裏(うち)を見(み)詰(つむ)る。十丁(ちょう)にして尽きた柳の木立(こだち)を風の如くに駈(か)け抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼(はがね)の鎧(よろい)に満身の日光を浴びて、同じ兜(かぶと)の鉢金(はちがね)よりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ々(さんさん)と靡かしている。栗毛(くりげ)の駒(こま)の逞(たくま)しきを、頭(かしら)も胸も革(かわ)に裹(つつ)みて飾れる鋲(びょう)の数は篩(ふる)い落せし秋の夜の星宿(せいしゅく)を一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼を据(す)える。 曲がれる堤(どて)に沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩に盾(たて)を懸けたり。女は領(えり)を延ばして盾に描ける模様を確(しか)と見分けようとする体(てい)であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢(いきおい)で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭(ひ)を抛(な)げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜(かぶと)の廂(ひさし)の下より耀(かがや)く眼を放って、シャロットの高き台(うてな)を見上げる。爛々(らんらん)たる騎士の眼と、針を束(つか)ねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の裡(うち)にてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の傍(そば)に馳(か)け寄って蒼(あお)き顔を半ば世の中に突き出(いだ)す。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。 ぴちりと音がして皓々(こうこう)たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面(おもて)は再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉(こな)微塵(みじん)になって室(しつ)の中に飛ぶ。七巻(ななまき)八巻(やまき)織りかけたる布帛(きぬ)はふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切(ちぎ)れ、解け、もつれて土(つち)蜘蛛(ぐも)の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期(まつご)の呪(のろい)を負うて北の方(かた)へ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分(のわき)を受けたる如く、五色の糸と氷を欺(あざむ)く砕片の乱るる中に(どう)と仆(たお)れる。 三 袖 可憐(かれん)なるエレーンは人知らぬ菫(すみれ)の如くアストラットの古城を照らして、ひそかに墜(お)ちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。訪(と)う人は固(もと)よりあらず。共に住むは二人の兄と眉(まゆ)さえ白き父親のみ。「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。「北の方(かた)なる仕合に参らんと、これまでは鞭(むちう)って追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえ岐(わか)れたるを。――乗り捨てし馬も恩に嘶(いなな)かん。一夜の宿の情け深きに酬(むく)いまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なる袍(ほう)に姿を改めたる騎士なり。シャロットを馳(は)せる時何事とは知らず、岩の凹(くぼ)みの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るまで、頬(ほお)の蒼(あお)きが特更(ことさら)の如くに目に立つ。 エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何(いか)なる風の誘いてか、かく凛々(りり)しき壮夫(ますらお)を吹き寄せたると、折々は鶴(つる)と瘠(や)せたる老人の肩をすかして、恥かしの睫(まつげ)の下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るる術(すべ)もあろう。偃蹇(えんけん)として澗底(かんてい)に嘯(うそぶ)く松が枝(え)には舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶(こちょう)は薄き翼を収めて身動きもせぬ。「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日(あす)と定まる仕合の催しに、後(おく)れて乗り込む我の、何の誰(たれ)よと人に知らるるは興なし。新しきを嫌(きら)わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾(たて)あらば貸し玉え」 老人ははたと手を拍(う)つ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーは去(さん)ぬる騎士の闘技に足を痛めて今なお蓐(じょく)を離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合に傷(きずつ)きて、その創口(きずぐち)はまだ癒(い)えざれば、赤き血架は空(むな)しく壁に古りたり。これを翳(かざ)して思う如く人々を驚かし給え」 ランスロットは腕を扼(やく)して「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。「次男ラヴェンは健気(けなげ)に見ゆる若者にてあるを、アーサー王の催(もよおし)にかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛の蹄(ひづめ)のあとに倶(ぐ)し連れよ。翌日(あす)を急げと彼に申し聞かせんほどに」 ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人の頬(ほお)に畳める皺(しわ)のうちには、嬉(うれ)しき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。 木に倚(よ)るは蔦(つた)、まつわりて幾世を離れず、宵(よい)に逢(あ)いて朝(あした)に分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。繊(ほそ)き身の寄り添わば、幹吹く嵐(あらし)に、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかに括(くく)る恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けて瞼(まぶた)に余る、露の底なる光りを見ずや。わが住める館(やかた)こそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物の憐(あわ)れの胸に漲(みなぎ)るは、鎖(とざ)せる雲の自(おのずか)ら晴れて、麗(うらら)かなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷を埋(うず)めて千里の外(ほか)に暖かき光りをひく。明かなる君が眉目(びもく)にはたと行き逢える今の思(おもい)は、坑(あな)を出でて天下の春風(はるかぜ)に吹かれたるが如きを――言葉さえ交(か)わさず、あすの別れとはつれなし。 燭(しょく)尽きて更(こう)を惜(おし)めども、更尽きて客は寝(い)ねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理に瞳(ひとみ)の奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんと力(つと)めたれど詮(せん)なし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼の裏(うち)に潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。魂(たま)消(ぎ)える物(もの)の怪(け)の話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛(かわゆ)き者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟(たた)りを据えての恐(おそれ)と苦しみである。今宵(こよい)の悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消え失(う)せて、求むれども遂(つい)に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司(つかさ)どるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇(く)しく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪(うしな)える。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、廂(ひさし)深き兜(かぶと)の奥より、高き櫓(やぐら)を見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンは亡(う)せてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンは微(かす)かなる毛孔(けあな)の末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千壺(こ)の香油を注いで、日にその膚(はだえ)を滑(なめら)かにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来(きた)る期(ご)はなかろう。 やがてわが部屋の戸帳(とばり)を開きて、エレーンは壁に釣(つ)る長き衣(きぬ)を取り出(いだ)す。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこる夜(よる)を呑(の)んで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮(あざや)かである。エレーンは衣の領(えり)を右手(めて)につるして、暫(しば)らくは眩(まば)ゆきものと眺(なが)めたるが、やがて左に握る短刀を鞘(さや)ながら二、三度振る。からからと床(ゆか)に音さして、すわという間(ま)に閃(ひらめ)きは目を掠(かす)めて紅(くれない)深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭(てしょく)は、風に打たれて颯(さ)と消えた。外は片破月(かたわれづき)の空に更(ふ)けたり。 右手(めて)に捧(ささ)ぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居(すまい)、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。 聞くならくアーサー大王のギニヴィアを娶(めと)らんとして、心惑える折、居(い)ながらに世の成行(なりゆき)を知るマーリンは、首を掉(ふ)りて慶事を肯(がえん)んぜず。この女後(のち)に思わぬ人を慕う事あり、娶る君に悔(くい)あらん。とひたすらに諫(いさ)めしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ思わぬ人の誰(たれ)なるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。思わぬ人の誰なるかを知りたる時、天(あめ)が下(した)に数多く生れたるもののうちにて、この悲しき命(さだめ)に廻(めぐ)り合せたる我を恨み、このうれしき幸(さち)を享(う)けたる己(おの)れを悦(よろこ)びて、楽みと苦みの綯(ないまじ)りたる縄を断たんともせず、この年月(としつき)を経たり。心疚(や)ましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をも醸(かも)せと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃を棄(す)てず。ただ疑の積もりて証拠(あかし)と凝らん時――ギニヴィアの捕われて杭(くい)に焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。 眠られぬ戸に何物かちょと障(さわ)った気合(けわい)である。枕を離るる頭(かしら)の、音する方(かた)に、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸(なきがら)に脈も通わず。静(しずか)である。 再び障った音は、殆(ほと)んど敲(たた)いたというべくも高い。慥(たし)かに人ありと思い極(きわ)めたるランスロットは、やおら身を臥所(ふしど)に起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭(ろうそく)の火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方(かた)にまたたく。乙女の顔は翳(かざ)せる赤き袖の影に隠れている。面映(おもはゆ)きは灯火(ともしび)のみならず。「この深き夜(よ)を……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――鼠(ねずみ)だに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。 男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹(もみ)の衝立(ついたて)に、花よりも美くしき顔をかくす。常に勝(まさ)る豊頬(ほうきょう)の色は、湧(わ)く血潮の疾(と)く流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたる鬢(びん)の毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪挿(さ)したり。 白き香りの鼻を撲(う)って、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴィアの夢の話が湧き帰る。何故(なにゆえ)とは知らず、悉(ことごと)く身は痿(な)えて、手に持つ燭を取り落せるかと驚ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。「紅(くれない)に人のまことはあれ。恥ずかしの片袖を、乞(こ)われぬに参らする。兜(かぶと)に捲(ま)いて勝負せよとの願なり」とかの袖を押し遣る如く前に出(いだ)す。男は容易に答えぬ。「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔を覗(のぞ)く。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「戦(たたかい)に臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知らず。いまだ佳人の贈り物を、身に帯びたる試(ため)しなし。情(なさけ)あるあるじの子の、情深き賜物を辞(いな)むは礼なけれど……」「礼ともいえ、礼なしともいいてやみね。礼のために、夜(よ)を冒して参りたるにはあらず。思の籠(こも)るこの片袖を天が下の勇士に贈らんために参りたり。切に受けさせ給え」とここまで踏み込みたる上は、かよわき乙女の、かえって一徹に動かすべくもあらず。ランスロットは惑(まど)う。 カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返しての仕業(しわざ)故である。闘技の埒(らち)に馬乗り入れてランスロットよ、後れたるランスロットよ、と謳(うた)わるるだけならばそれまでの浮名である。去れど後れたるは病のため、後れながらも参りたるはまことの病にあらざる証拠(あかし)よといわば何と答えん。今幸(さいわい)に知らざる人の盾を借りて、知らざる人の袖を纏(まと)い、二十三十の騎士を斃(たお)すまで深くわが面(おもて)を包まば、ランスロットと名乗りをあげて人驚かす夕暮に、――誰(たれ)彼(かれ)共にわざと後れたる我を肯(うけが)わん。病と臥せる我の作略(さりゃく)を面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットは漸(ようや)くに心を定める。 部屋のあなたに輝くは物の具である。鎧(よろい)の胴に立て懸けたるわが盾を軽々(かろがろ)と片手に提(さ)げて、女の前に置きたるランスロットはいう。「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士の誉(ほま)れ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。「うけてか」と片頬(かたほ)に笑(え)める様は、谷間の姫(ひめ)百合(ゆり)に朝日影さして、しげき露の痕(あと)なく晞(かわ)けるが如し。「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身(かたみ)と残す。試合果てて再びここを過(よ)ぎるまで守り給え」「守らでやは」と女は跪(ひざまず)いて両手に盾を抱(いだ)く。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。 この時櫓(やぐら)の上を烏(からす)鳴き過ぎて、夜(よ)はほのぼのと明け渡る。
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私の個人主義(わたしのこじんしゅぎ)私の経過した学生時代(わたしのけいかしたがくせいじだい)『我輩は猫である』中篇自序(『わがはいはねこである』ちゅうへんじじょ)『我輩は猫である』下篇自序(『わがはいはねこである』げへんじじょ)吾輩は猫である(わがはいはねこである)倫敦塔(ロンドンとう)倫敦消息(ロンドンしょうそく)落第(らくだい)