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菜の花(なのはな)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-18 7:23:44  点击:  切换到繁體中文

    一

 奈良や吉野とめぐつてもどつて見ると、僅か五六日の内に京は目切めつきりと淋しく成つて居た。奈良は晴天が持續した。それで此の地方に特有な白く乾燥した土と、一帶に平地を飾る菜の花とが、蒼い天を戴いた地勢と相俟つて見るから朗かで且つ快かつた。京も菜の花で郊外が彩色されて居る。然し周圍の緑が近い爲か陰鬱の氣が身に逼つて感ぜられるのである。余は直ぐに國へ歸らうかと思つた。然し余の好奇心は余を二三日引き留めた。それは太夫の道中といふことを土産噺に見物して行かうとしたからである。其間の二三日、余はそここゝと郊外をぶらついた。何處もさびしかつた。仁和寺の掛茶屋に客を呼ぶ婆さんの白い手拭も佗びしさを添へた。明日は道中のあるといふ日の夕方である。余は市中で桐油と麻繩とを買つてもどつて來た。さうして障子のもとで獨り荷造をした。外套や其の他の不用に成つたものを小包にして故郷へ送る爲めである。黄色な包が結び畢つた時一寸心持が晴々した。さうして暫く立てた膝へ兩手を組んだ儘徒然として狹い室内を見渡した。余の部屋は二階の一間で兩方から汚い唐紙で隔てられてある。飾といつては何もない。隣室はどちらも商人が泊つて居る。折々は帳合するのも聞えるが、商人は能く用達しに出掛けると見えて大抵はひつそりとして居る。今もひつそりである。火鉢の藥鑵が僅に夕方の寂寞の中へ滅入る樣に鳴り出した。ランプが點された。筍と蒲鉾の晩餐も出た。低廉な宿料に當て箝めて料理屋から仕出をとるのだといつて此宿の惣菜はいつもかうと極り切つて居る。軈て夜具も運ばれた。余は例の如くランプを持つて火鉢と一つに窓の障子のもとへ居を移す。夜具は室内を占領して畢つた。疎末な夜具の上には友禪の掛蒲團が一枚載せてある。此の一枚の蒲團が宿の余に對する特別の待遇である。余は障子に倚りかゝつて、つく/″\と佗しさを感じながら其派手な模樣を見詰めて居た。下女が慌しく階子段を昇つて來た。西陣の河井さんから電話で只今伺ひますからといつて來たといつた。此の下女といふのは近在からでも傭はれて居ると見えて、田舍臭い一寸聞きとれぬことをいふ女である。余のいふことも解り憎い所があるとかいうて、自分も解らぬことをいうて能く吹き出した。罪はないが快い女ではなかつた。余は直ぐに夜具を片付けさせた。暫くたつて下女はガラスの皿につまらぬ菓子を持つて來た。さうして此邊には何處にも碌な菓子は無いのだといつて又失笑する。河井さんが來た。河井さんは自分の宅へ連れて行くから此處は直ぐに立てといつた。余は突然なのに驚いた。然し再三の勸誘に、余は其好意に從ふことにした。さうして勘定書を命じた。河井さんは今度ふとしたことで知己に成つた人である。階子段を靜かに昇つて來たのは意外にも春さんといふ女であつた。春さんは直ぐに立つといふのを聞いて、意外な顏をして去つた。さうして暫くして勘定書を持つて來た。春さんは時々帳場に坐つて居るのを見ることがある。宿の縁者であると下女から聞いて居る。十八位な可憐の少女である。余が奈良の地方へ行く前に居たのは下の部屋で、そこは有繋にさつぱりとして居た。さうして給仕番は春さんであつた。春さんは膳を運ぶ前に必ず余の都合を聞きに來た。其時は障子をそつと開けて、一寸首をかしげて物をいふのであつた。春さんは木綿着物で袖口が幾らか擦れて居た。海老茶の疎い絞りの帶を締めて、萠黄メリンスの前垂をして居る。髮はいつもちやんとして居た。春さんが朝枕元の火鉢へ火を持つて來る時に余は屹度眠から醒めた。其時春さんは能く市中の女に見るやうな紺飛白の筒袖を上張りにして居た。余はぼんやりした眼にいつも其つやゝかな髮を見上げるのであつた。宿には盲目の男の子があつて、能く電話口で大きな聲をして居るのを見た。或晩余は帳場へ用があつて行つた時、其子が頻りに主婦さんにせがんでは春さんの手に縋つて居た。春さんと風呂にはひりたいといつて居る。忙しいからといつても聞かずにせがんで居る。春さんはまだお給仕が濟まぬといつて當惑らしかつた。余が春さんといふ名を知つたのは此の時である。奈良から戻つて見ると余の部屋には何處かの商人がはひつて居た。さうして余は此の二階の汚い一間に案内されたのである。余は變な厭な心持がした。春さんは以前の姿で働いて居た。然しもう余の部屋へは再び出なくなつた。余は更に此の宿が佗びしかつたのである。春さんは今其風情ある首のかしげやうをして勘定書を出した。春さんが去る時河井さんは合乘を一挺とつてくれといつた。又階子段に足音がする。春さんかと思つたらそれは春さんではなくて宿の主婦さんが剩錢を持つて來たのであつた。河井さんと余とは別に噺もなくて幾分かたつた。車が來た。余は河井さんの後から立つた。さうしてわびしかつた部屋を一遍ふりかへつて見た。二人は臺所を拔けて店先へ出る。帳場に居た主人が土間へおりて挨拶をする。下女も出る。春さんも襷を外して兩手の先に絡みながら時儀をする。河井さんの太つた體は車に隙間をなくした。余の風呂敷包と蝙蝠傘とを春さんが出してくれる。河井さんが一言島原といつた。車夫はへえと首肯いて梶棒をあげる。車が軋り出した時に後に三四人の挨拶の聲が聞えた。斯くして余は烏丸五條の佗びしかつた商人宿を立つた。然し自分ながら余りに突然であつたので何だか殘り惜しいやうな落付かぬ心持もした。外は闇夜である。車は威勢よく東本願寺の前へ出て、廣い通を停車場の方へと走るやうであつた。

      二

 車は更にぐる/\と廻り/\行くやうであつた。暫くするうちに容子の變つた處へ出たやうに思はれた。それでそこもひつそりとして居た。河井さんが一寸車夫に掛聲をすると車は少し威勢が出た。さうして轍ががら/\と敷石を軋つたと思つたら直ぐに輓棒がおろされた。玄關へ上る。余は車夫が出して呉れた風呂敷包と洋傘とを手にした儘立つた。一人の婆さんが出て河井さんと何かいうた。河井さんは直ぐに左手の大きな間へはひる。余も後からはひる。荷物を入口へ置いて中腰に坐つた。其處はがらんとした大きな部屋である。一帶に煤びて居る。明りがきら/\と光るにも拘らずぼんやりとして居る程煤びた大きな部屋である。向うの隅の方には菰かぶりの酒樽が立てならべてある。中央でさうして一方の壁に近く非常に太い柱がある。余はすぐに其柱の蔭に派手な衣物のなまめかしい女が一人坐つて居るのを見た。河井さんは太夫を見たことは無いかといつた。余はないといふと河井さんはつと立つて其女の手を執つた。女は片手を執られた儘時儀をするやうにしとやかに前へ屈んだ。幾ら手を曳いても立たうとしない。柱の蔭に成つて居た髮が前へ屈む度にともし灯の光に觸れる。さうしてきら/\と白く光る。一杯に花簪を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して居たのである。簪はひら/\と搖れながらきら/\と光る。能く見ると女の衣物は赤と青との思ひ切つた大きなだんだらの絞りである。さうして臀から包んだ扱帶の端がふさ/\と餘してある。河井さんが立つてこちらへ戻つた時、女は扱帶と袂とを膝へ乘せてもとの如く柱の蔭にしやんとして畢つた。余は女が太夫であることを悟つた。それと共に余は遊女といふものゝ女らしいしとやかさを意外に感じた。暫くして二階へ案内された。先刻の婆さんが余の荷物と洋傘とを持つて踉いて來る。大廣間である。表の窓の障子に近く燭臺が二つ置かれて蝋燭がともされてある。手焙が一つ傍にある。燭臺も手焙も古い朱塗である。婆さんは余の荷物を部屋に相應した其大きな違棚へ乘せた。蝙蝠傘も棚へ立て挂けた。汚い風呂敷包の荷物が不調和に感ぜられた。室内はうつすらと煤びて居る。蝋燭の烟が僅に立つて居るのを見ると其烟の爲めに煤けたのに相違ない。それにしても蝋燭がどれ程こゝにともされたことであらうかと驚かれる。河井さんは此所は緞子の間であるといつた。建具には皆緞子が張つてある。さうして此も皆ほんのりと時代を帶びて居る。地味な支度の卅恰好の女が出て挨拶をした。河井さんは此がおゑんさんというて別嬪の仲居だといつた。女は仄かに嫣然として打ち消すやうに輕く手を擧げた。鼻筋の透つたきりゝとした女である。酒が運ばれた。小さな手提げのやうな器が共に運ばれた。女は其器から小皿を出した。河井さんは此の人が明日道中を見物に來るから能く注意してくれと余を紹介した。女はさうどつかというて小皿を出した手を止めもせず、丼のかき餠をさらりと十ばかりづゝ盛つて河井さんと余との前へ置いた。此が肴であるとすると其あつさりしたのに驚かれる。河井さんは一二杯より外は傾けぬ。余も一杯を過す事は出來ない。河井さんは意外に無言の人である。大廣間は只しんとしすぎて居る。其の上周圍のどこにも爪彈の聲だに聞えぬ。拍子拔のやうな心持で居ると、窓のすぐ下でバタ/\と戸板を手の平で叩くやうな音がした。余は耳を峙てた。今太夫が此の家へ來るのだと河井さんがいつた。さうして太夫の長持を舁ぎ込む時にあゝいふ音をさせるのだといつた。どうしてさういふ音がするのか其説明は余には十分には了解されなかつた。余は後の障子を開けて外を見た。往來を隔てゝ高くアーク燈が立つて居る。其丸いホヤから四方へ投げ出す強い光であたりが煌々として居る。アーク燈の傍に大きな柳が一株すつと立つて枝を垂れて居る。樹は嫩葉を以てふつくりと包まれて居る。ホヤに觸れるばかり近い枝は強い光の爲に少し白つぽく見える。陰翳をなして居る所が却て青い。さうして總てが刺繍の如き光を有して居る。アーク燈の光を翳して見る闇い空は天鵞絨の如く滑かに見える。余は其形容し難い空の色彩に見惚れた。河井さんは此の空の色を葡萄紫だといつた。蛙の聲が錯雜して遠いやうに且つ近いやうに響いて空に浮んで聞えて居る。仲居のおゑんさんが階子段から呼ばれて去つた後に別な仲居が代つた。おゑんさんよりも年は少いが痘痕のある品下つた女である。おせいさんといつた。おせいさんは騷ぐ方の女である。ふと聞くとしんとした往來から下駄を引き摺るやうな響が輕くからり/\と聞えて來る。快い響である。河井さんは太夫が來たのだといつた。余は表を見下した。格子に遮られて能くは見おろせなかつた。きら/\と光るのは花簪である。アーク燈の光を一杯に下から反射する花簪は柱の蔭に居た太夫のよりも立派に見えた。からり/\といふ輕い響と共に花簪が移り行く。さうしてすぐに廂に隱れてしまつた。其時衣物のだんだらであるのがちらりと目に着いた。河井さんは太夫の下駄はこんなに大きなのだと手で形を造つた。此の位はありますと仲居のおせいさんも手で形を造つて見せた。太夫が客の前へ坐つて裲襠をすつと脱ぐ處は風情のあるものだと河井さんはいつた。それから先刻の太夫のはあれは略裝だといつた。春の夜はまだふけなかつた。然し其夜はそれで歸つて來た。おせいさんが余の荷物を持つてくれた。車は二臺であつた。下駄が爪先を揃へてある。荷物を蹴込へ入れた時はじめて荷物が自分へ返つたやうな心持がした。車は又闇夜を走つた。余は今夜の家が揚屋といふものであつたことや夜の淺いにも拘らず土地柄にも似合はずしんとして居たことの不審なことや、ちらりと見た二人の遊女のことや思ひ挂けなかつたことを心に描きながら闇夜の間を運ばれた。二條の城であらうと思はれる白壁が見えて軈て車は何處も同じ樣な町の或軒下へ着いた。

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