四
九月五日
雨戸ががら/\と開くと共に余は起きた。まだしら/\明である。前夜の女がいひつけておいた辨當を持つて來て、こんな山の中で何も菜がないから生卵などではどうかと聞く。辨當の菜に生卵は少し困つたことだと思つたが、女の濁つたやうな太い訛つた聲で然かも膝をついて丁寧にいふのが氣に入つたから余は即座にそれでもいゝといつた。女はやつぱり狹い帶をしめて居る。卵はつぶれぬやうに紙へ包んでそれを手拭の端へ括つて兵兒帶へくつゝけた。
夜は全く明け放れた。時計を見るとまだ五時半にならぬ。空は晴れて淡紅色を含んだ灰色である。行手の峻嶺が頂上僅かに日光をうけてほつかりと赤くなつて居る。路傍の芒の穗はさま/″\な草の花と共にしつとりと露を宿して居る。溪流について行く。即ち此も廣瀬川の水である。溪流はずん/\狹くなつて街道が高くなるのに氣がつく。峻嶺の緑が身に迫つて來る。余は此の朝の空氣に包まれて秋の冷かさが薄い單衣を透してしみ/″\と身にしみこむやうに感じた。歩いて居るあたりまではまだ日は射さぬ。峻嶺の頂は段々下の方まで日光が射し掛けて來る。それと共にさつきの赤い光は薄らいだ。山腹をうねつて行くと所々山のはざまを漏れて日光が路傍の草村へきら/\と射してることがある。ふりかへつて見ると其草村に交つて青い細い莖の先へ白い玉を乘せたやうな星月夜の花から薄く霧が立ち騰る。霧は四五尺のぼつて日光のきらつく中へ消えてしまふ。既に深くなつた溪流の向うの岸の汀から朴の木が存分に葉を廣げて立つて居るのがある。余は小石をとつて朴の木へ投げて見た。幾つかとつて投げた小石の只一つが梢に落ちたと見えて葉が五六枚上の枝から下の枝へひら/\と動いたやうであつた。すぐ近くだと思つた朴の木は余が腕の力では容易に小石が屆かぬのに驚いた。坂路は此の如くにしていつ登るとも知れぬうちに嶺の頂が非常に短くなつて居た。顧ると谿が深く且つ遠くなつてしまつた。稍伏見に見渡す山々は此の谿の底まで一帶に密樹の梢を以て掩はれてある。さうして谿は藥研の底のやうな形をして或度の傾斜を保ちながら遙かに向へ走つて居る。朴の木のもとを洗つて作並の浴槽の側を過ぎ行く水はこゝから見える密樹の根からしぼれ出る雫の聚りである。浴槽の側で昨日女が足を洗うた水は今頃は走り走つて青葉城のめぐりをめぐつて居るかも知れぬ。さうして海へ/\と志して居るのであらう。余は足をやすめながら暫く谿を見おろして立つて居た。幽かな水の響が聞えて來るやうで聞えぬやうで閑寂ないかにも人の心を惹くべき山の趣である。街道はこゝで一切のものを蹙めて山を穿つた洞門へ導く。洞門は闇くして且つ恐ろしく長い。洞門を出るとそこには豁然として壯大な出羽の國が展開する。うんと力を入れて踏ん込んだやうな山の脚に從つてこゝも坂路はゆるやかである。遙かなる空を遮つて聳ゆる連山の間に峰の丸い然かも雄大な山が一つ見える。花崗岩を爆裂させた趾のやうな白い所が幾つも見える。燎原の煙のやうな亂雲が朝の活動を始めたかの如くむら/\と其山から空へ吹き立つて居る。だん/\坂をおりて行くと一人の老婆が二人の若い娘を連れて峠を登つて來るのに逢うた。今朝から此の峠で逢つたものは此の三人連のみである。三人とも連尺で荷物を負うて居る。老婆はまだ峠は遠いかと聞く。余は老婆の身支度を見るのに始めて此の峠にかゝつたものではない。然し足の疲れた時には自分の知つて居る道程でも屡人に聞いて見たくなるのが余の經驗から明かなので此の老婆も屹度それだらうと思つた。余は懇に教へた。さうしてあの丸い形の山は何だと聞いたら老婆の一足先に立ち止つて杖に兩手を掛けて居た一人の娘があれは月山だといつた。さうしてあの白いのは雪だといつた。老婆も娘も決して賤しいものゝ姿ではない。然し峠といふ天然の一大障礙はこのやうな弱い人々をもかひ/″\しい草鞋穿の姿にいでたゝしむるのである。余は數日來出會うた少女が孰れも皆狹い帶を締めて居たので此時ふつと此の娘等の帶の結び目がどんなであらうかと思つたから荷物を横に搖りながらいた/\しげに登つて行く後姿を一遍見あげた。然し單衣の裾はぐるつとかゝげて帶を掩うて紐で括つてあつたから白いゆもじが目に立つのみで其帶の結び目はそれはかゝげた裾に隱されて見えなかつた。
(明治四十二年一月一日發行、アララギ 第一卷第二號所載)
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