您现在的位置: 贯通日本 >> 作家 >> 中島 敦 >> 正文

狼疾記(ろうしつき)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:41:00  点击:  切换到繁體中文


 誰もがこの男を馬鹿にしているけれども、我々が、もしこの男ののろまな表現を理解してやるだけの忍耐をつならば、今この男が吐いた感想位の思想は、常に彼の言葉の随所に見出せるのではなかろうか。ただ我々の方にそれを見出すだけの能力ちからと根気とが無いだけのことではないのだろうか。更に、その鈍重・難解な言葉をよくよく噛分けている中には、我々にも、この男の愚昧ぐまいさの必然性が――「何故に彼が常にかくも、他人の目からは愚かと見えるような行動に出ねばならないのか、」の心理的必然性がはっきりのみ込めて来るのではないだろうか。そうなって来れば、やがて、M氏がM氏でなければならぬ必然さと、我々が我々であらねばならぬ必然さとの間に――あるいは、ゲーテがゲーテであらねばならなかった必然さとの間に――価値の上下をつけることが、(少くとも主観的には)不可能と感じられてくるだろう。現に、M氏は先刻の感想の中で、明らかに、自分を上の階段まで達しているものとし、彼を嘲弄する我々を、「下の階段にいながら上段にいる者をわらおうとする身の程知らず」としているに違いない。我々の価値判断の標準を絶対だと考えるのは、我々の自惚うぬぼれに過ぎないのではないか。(このM氏の例を、類推の線に沿うて少し移動させて考えれば)同様に、我々がもし犬だの猫だの、そうした獣の・言葉やその他の表現法を理解する能力を有つならば、我々にも、彼ら動物どもの生活形態の必然さを、身を以て、理解することが出来、また、彼らが我々よりも遥かに優れた叡智や思想を有っていることを見出さないとは限らないであろう。我々は、我々が人間だから、という簡単な理由で、人間の智慧を最高のものと自惚れているだけのことではないのか。……
 酔のまわった頭に、ものを考えるのが億劫おっくうになって来ると、結局落着く先は、いつもの「イグノラムス・イグノラビムス」である。三造は何かに追掛けられたように、あわてて、ぐいぐいと三、四杯立てつづけにあおった。すいっちょうに何処かへいなくなっている。M氏も大分酔ったらしく、眼を閉じて、しかし、まだ口の中で何かもごもごいいながら、うしろの柱にりかかっている。

       五

 ふん、まだ三十になりもしないのに、その取澄ました落著おちつき方はどうだ。今から何もムッシュウ・ベルジュレやジェロオム・コワニァル師を気取るにも当るまいではないか。世俗を超越した孤高の、精神的享受生活の、なんどと自惚うぬぼれているんだったら、とんだお笑い草だ。行動能力が無いために、世の中から取残されているだけのことじゃないか。世俗的な活動力が無いということは、それに、決して世俗的な慾望までが無いということではないんだからな。卑俗な慾望で一杯のくせに、それを獲得するだけの実行力が無いからとて、いやに上品がるなんざあ、悪い趣味だ。追いつめられた孤立なんぞは少しも悲壮でなんかありはしない。それから、もう一つ。世俗的な才能が無いということは、決して、精神的な仕事の上に才能があるということにはならないんだからな。決して。大体が、享受的生活などというものが、そもそも生活無能力者の・最後の・体裁の良い隠れ家なんだぜ。何だと? 「人生は、何もしないでいるには長過ぎるが、何かするには短か過ぎる」? 何を生意気を言ってるんだ。長過ぎるか、短か過ぎるか、とにかく、それは何かやって見てから言うことだよ。何も判りもしないくせに、何の努力もしないでおいて、イヤに悟ったようなことをいうのは、全く良くない癖だ。それが本当の生意気というものだ。お前が子供の時から抱いて来たという・「存在への疑惑」という奴も、随分おかしなものだが、よし、それに答えてやろう。いいか。人間という奴は、時間とか、空間とか、数とか、そういった観念の中でしか何事も考えられないように作られているんだ。だから、そういう形式を超えた事柄については何も解らないように出来ているんだ。神とか、超自然とか、そうしたものの存在が、(また、非存在が)理論的に証明できないのはそのためなんだ。お前の場合だって、おんなじさ。お前の精神がそういう疑惑を抱くように出来ているから、そういう疑惑を抱くんで、また、その解決が得られないように、お前の(つまり、人間の)精神が出来ているから、お前にはその解決が得られないんだ。それだけのことさ。馬鹿馬鹿しい。
 一体、「世界とは」とか「人生とは」とか、そんなおおざっぱものの言い方はした方がいいね。第一、はずかしいとは思わないのかなあ。多少でも趣味の上のデリカシイをっている男なら、恥ずかしくて、そんなものの言い方は出来るものじゃない。それに世界は、(早速こんな言葉を使うのはまずいが、お前に言って聞かせるんだから、どうも仕方がない)そういう概観によっては、決して、大きくも深くも美しくもなりはせんのだ。逆に細部ディテイルを深く観察し、それに積極的に働きかけることによって、世界は無限に拡大されるんだ。この秘密を体得しもしないで、生意気にもいっぱしのペシミストがる資格はないね。誰だって人間が出来てくれば、そう一々、世俗だとか、そのコンヴェンションだとかを軽蔑するものじゃない。むしろ、その中に、最も優れた智慧を見出すものだ。眺めたままの人生の事実だけでは何の奇もないことも、それに或る物を加工し、それを一定の方式に従って取扱う時、たちまち、意味のある面白いものとなることがあるんだ。これが、人生のコンヴェンションの必要な所以ゆえんさ。もちろんこれにばかり没頭しているのは愚の骨頂だが、一見しただけで絶望したり軽蔑したりするのは、馬鹿げた話だ。初等代数の完全平方って奴を知ってるだろう? あの方式を知らなければちょっと解けそうもない方程式が、あれ一つですぐに出来てしまう。そのように、人生の与えられた事実に対しても、一通り方程式の両辺にb/2a[#「b/2a」は分数]の二乗をして解りやすく意味のあるものとする技術を習得すべきだね。懐疑はそれからで沢山だよ。
 とにかく、繰返して言って置くけれども、あの気障きざな・悟ったような・小生意気こなまいきな・ものの言い方だけは、止してもらいたいな。全く、お前よりも此方こっちが恥ずかしくて、穴へでも這入はいりたくなる。一昨日おとといだって、見ろ。仲間の独身者たちと結婚について話をしていた時の・あのお前の言い草はどうだ? 何と言ったっけな。そう、そう。「どんな面白い作品だって、それを教室でテキストにして使えば途端に詰まらなくなっちまうのと同じで、どんないい女だって、女房にしちまえば、途端に詰まらない女になってしまうんだよ。」か。それを得意気に言った時の・お前のうすっぺらな・やにさがった顔付を思出し、お前の年齢と経験とを併せて考えると、本当におれは、恥ずかしいのを通り越して、ゾッと鳥肌が立って来るよ。全く。まだ、ある。いうことは、まだ、あるんだ。鼻持のならない気取屋のくせに、その上、お前はきたならしい助平野郎でさえあるじゃないか。知ってるぞ。いつだったか、海岸公園へ生徒を二人連れて遊びに行った時のことを。その時お前たちが芝生で腰を下して休んでいたら、やはり近くで休んでいた労働者風の男が二・三人、明らかに故意わざと聞えるような声でみだらな話を交していたろう。その時の・お前の態度や目付はどうだった! 当惑し切って、よそを向いて聞かないふりをしている――しかし、どうしてもそれを聞かない訳に行かない少女たちの方を、お前は、また、何といういやらしい目付で(おまけに横目で)ジロジロ見廻したことだ! いやはや。
 なに、己は別に人間生来の本能を軽蔑しようというんじゃない。助平、大いに結構。しかし、助平なら助平で、何故堂々と助平らしくしないんだ。気取ったポーズや、手の込んだジャスティフィケイションのかげに助平根性を隠そうとするのが、みっともないと言ってるんだ。この事ばかりではない。その他の場合でも、何故もっと率直にすなおに振舞えないんだ。悲しい時には泣き、口惜くやしい時には地団太を踏み、どんな下品なおかしさでもいいから、おかしいと思ったら、大きな口をあいて笑うんだ。世間なんぞ問題にしていないようなことを言って置きながら、結局、自分の仕草の効果をお前は一番気にしているんじゃないか。もっとも、お前自身が心配するだけで、世間ではお前のことなんか一向気をつけていないんだから、つまりは、お前は、自分に見せるために自分で色々の所作を神経質に演じている訳だ。全く、どうにも手の込んだ大馬鹿野郎・度しがたい大根役者だよ。お前という男は。…………

 気がつくと、三造は、何処かの店の飾窓ショウ・ウィンドウの前のてすりにつかまり、硝子ガラスに額を押付けて危く身体を支えながら、半分睡っていたらしい。飾窓の明るさに眼をしばだたいてよく見ると、それは頸飾や腕輪や、そういう真珠の製品ばかりを売る店である。おでん屋の前でM氏と別れ、それからぶらぶらといつの間にか、弁天通という・この港町特有の外人相手の商店街まで歩いて来ていたに違いない。振りかえって通りを見れば他の店は大抵しまって人通もなくひっそりしているのに、この店だけは、どうした訳か、まだあけているようだ。目の前の飾窓の中では、真珠たちが、黒い天鵞絨ビロードの艶やかなしとねの上に、ふかぶかと光を収めて静まっている。電燈の工合で、白い珠の一つ一つが、それぞれ乳色に鈍く艶を消したり、うす蒼く微かなかげをもったりして、並んでいる。三造は酔ざめの眼で、驚き顔にそれをぼんやり眺めた。それから窓際を離れ、しばらくの間M氏のことも先刻の自己苛責のことも忘れて、人通りの無い街を浮かれ歩いた。





底本:「山月記・李陵 他9篇」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年7月18日第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
   1976(昭和51)年3月15日
初出:「南島譚」今日の問題社
   1942(昭和17)年11月
入力:川向直樹
校正:浅原庸子
2004年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。

上一页  [1] [2] [3] [4]  尾页


 

作家录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇作家:

  • 下一篇作家: 没有了
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    没有任何图片作家

    广告

    广告