一 漢(かん)の武帝(ぶてい)の天漢(てんかん)二年秋九月、騎都尉(きとい)・李陵(りりょう)は歩卒五千を率い、辺塞遮虜(へんさいしゃりょしょう)を発して北へ向かった。阿爾泰(アルタイ)山脈の東南端が戈壁沙漠(ゴビさばく)に没せんとする辺の磽(こうかく)たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風(さくふう)は戎衣(じゅうい)を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北(ばくほく)・浚稽山(しゅんけいざん)の麓(ふもと)に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴(きょうど)の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿(うまごやし)も枯れ、楡(にれ)や柳(かわやなぎ)の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍(きんぼう)を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧(かわら)と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野(こうや)に水を求める羚羊(かもしか)ぐらいのものである。突兀(とっこつ)と秋空を劃(くぎ)る遠山の上を高く雁(かり)の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰(だれ)一人として甘い懐郷の情などに唆(そそ)られるものはない。それほどに、彼らの位置は危険極(きわ)まるものだったのである。 騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨(また)がる者は、陵とその幕僚(ばくりょう)数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極(きわ)みというほかはない。その歩兵も僅(わず)か五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山(しゅんけいざん)は、最も近い漢塞(かんさい)の居延(きょえん)からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。 毎年秋風が立ちはじめると決(きま)って漢の北辺には、胡馬(こば)に鞭(むち)うった剽悍(ひょうかん)な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠(かす)められ、家畜が奪略される。五原(ごげん)・朔方(さくほう)・雲中(うんちゅう)・上谷(じょうこく)・雁門(がんもん)などが、その例年の被害地である。大将軍衛青(えいせい)・嫖騎(ひょうき)将軍霍去病(かくきょへい)の武略によって一時漠南(ばくなん)に王庭なしといわれた元狩(げんしゅ)以後元鼎(げんてい)へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病(かくきょへい)が死んでから十八年、衛青(えいせい)が歿(ぼっ)してから七年。野侯(さくやこう)趙破奴(ちょうはど)は全軍を率いて虜(ろ)に降(くだ)り、光禄勲(こうろくくん)徐自為(じょじい)の朔北(さくほく)に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋(つな)ぐに足る将帥(しょうすい)としては、わずかに先年大宛(だいえん)を遠征して武名を挙(あ)げた弐師(じし)将軍李広利(りこうり)があるにすぎない。 その年――天漢二年夏五月、――匈奴(きょうど)の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉(しゅせん)を出た。しきりに西辺を窺(うかが)う匈奴の右賢王(うけんおう)を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重(しちょう)のことに当たらせようとした。未央宮(びおうきゅう)の武台殿(ぶだいでん)に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍(ひしょうぐん)と呼ばれた名将李広(りこう)の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射(きしゃ)の名手で、数年前から騎都尉(きとい)として西辺の酒泉(しゅせん)・張掖(ちょうえき)に在(あ)って射(しゃ)を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重(しちょう)の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚(けいそ)の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出(い)で、側面から匈奴の軍を牽制(けんせい)したいという陵の嘆願には、武帝も頷(うなず)くところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に割(さ)くべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重(しちょう)の役などに当てられるよりは、むしろ己(おのれ)のために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを冒(おか)すほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手(はで)好きな武帝は大いに欣(よろこ)んで、その願いを容(い)れた。李陵は西、張掖(ちょうえき)に戻って部下の兵を勒(ろく)するとすぐに北へ向けて進発した。当時居延(きょえん)に屯(たむろ)していた彊弩都尉(きょうどとい)路博徳(ろはくとく)が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる拙(まず)いことになってきた。元来この路博徳(ろはくとく)という男は古くから霍去病(かくきょへい)の部下として軍に従い、離侯(ふりこう)にまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波(ふくは)将軍として十万の兵を率いて南越(なんえつ)を滅ぼした老将である。その後、法に坐(ざ)して侯を失い現在の地位に堕(おと)されて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯(ほうこう)をも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵(こうじん)を拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴(きょうど)の馬は肥え、寡兵(かへい)をもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒(えいほう)には些(いささ)か当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉(しゅせん)・張掖(ちょうえき)の騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると酷(ひど)く怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気(おじけ)づくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、汝(なんじ)はこれと協力する必要はない。今匈奴が西河(せいが)に侵入したとあれば、汝(なんじ)はさっそく陵を残して西河に馳(は)せつけ敵の道を遮(さえぎ)れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北(ばくほく)に至り東は浚稽山(しゅんけいざん)から南は竜勒水(りょうろくすい)の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、野侯(さくやこう)の故道に従って受降城(じゅこうじょう)に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈(はげ)しい詰問(きつもん)のあったことは言うまでもない。寡兵(かへい)をもって敵地に徘徊(はいかい)することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引(けんいん)力と、冬へかけての胡地(こち)の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王(ようおう)ではなかったが、同じく庸王ではなかった隋(ずい)の煬帝(ようだい)や始皇帝(しこうてい)などと共通した長所と短所とを有(も)っていた。愛寵(あいちょう)比なき李(り)夫人の兄たる弐師(じし)将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛(だいえん)から引揚げようとして帝の逆鱗(げきりん)にふれ、玉門関(ぎょくもんかん)をとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘(わがまま)でも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと自(みずか)ら乞(こ)うた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇(ちゅうちょ)すべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。 浚稽山(しゅんけいざん)の山間には十日余留(とど)まった。その間、日ごとに斥候(せっこう)を遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を剰(あま)すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下(きか)の陳歩楽(ちんほらく)という者が身に帯びて、単身都へ馳(は)せるのである。選ばれた使者は、李陵(りりょう)に一揖(いちゆう)してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨(うちまたが)ると、一鞭(ひとむち)あてて丘を駈下(かけお)りた。灰色に乾いた漠々(ばくばく)たる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。 十日の間、浚稽山(しゅんけいざん)の東西三十里の中には一人の胡兵(こへい)をも見なかった。 彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師(じし)将軍はいったん右賢王(うけんおう)を破りながら、その帰途別の匈奴(きょうど)の大軍に囲まれて惨敗(ざんぱい)した。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その噂(うわさ)は彼らの耳にも届いている。李広利(りこうり)を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、因※(いんう)[#「木+于」、10-7]将軍公孫敖(こうそんごう)が西河(せいが)・朔方(さくほう)の辺で禦(ふせ)いでいる(陵(りょう)と手を分かった路博徳(ろはくとく)はその応援に馳(は)せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南(かなん)(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴(きょうど)の主力は現在、陵の軍の止営地から北方居水(しっきょすい)までの間あたりに屯(たむろ)していなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺(なが)めるのだが、東方から南へかけてはただ漠々(ばくばく)たる一面の平沙(へいさ)、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして鷹(たか)か隼(はやぶさ)かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵(こへい)をも見ないのである。 山峡の疎林の外(はず)れに兵車を並べて囲い、その中に帷幕(いばく)を連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って焚(た)いては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星(ろうせい)が、青白い光芒(こうぼう)を斜めに曳(ひ)いて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退(たちの)いて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨(ほしょう)が見るともなくこの爛々(らんらん)たる狼星(ろうせい)を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨(おお)きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨(ほしょう)が声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯(ひ)はフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。 歩哨(ほしょう)の報告に接した李陵(りりょう)は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷(らい)のごとき鼾声(かんせい)を立てて熟睡した。 翌朝李陵が目を醒(さ)まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、戟(ほこ)と盾(たて)とを持った者が前列に、弓弩(きゅうど)を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挾(はさ)んだ二つの山はまだ暁暗(ぎょうあん)の中に森閑(しんかん)とはしているが、そこここの巌蔭(いわかげ)に何かのひそんでいるらしい気配(けはい)がなんとなく感じられる。 朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴(きょうど)は、単于(ぜんう)がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧(わ)いた。天地を撼(ゆる)がす喊声(かんせい)とともに胡兵(こへい)は山下に殺到した。胡兵の先登(せんとう)が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声(こせい)が響く。たちまち千弩(せんど)ともに発し、弦に応じて数百の胡兵(こへい)はいっせいに倒れた。間髪(かんはつ)を入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者(じげきしゃ)らが襲いかかる。匈奴(きょうど)の軍は完全に潰(つい)えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首(りょしゅ)を挙げること数千。 鮮(あざ)やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に靡(なび)いていた旗印から見れば、紛れもなく単于(ぜんう)の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰(ごづ)めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城(じゅこうじょう)へという前日までの予定を変えて、半月前に辿(たど)って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞(きょえんさい)(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。 南行三日めの午(ひる)、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵(こうじん)の揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙(すき)もなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲(こ)りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停(と)めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦(はくせん)を避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖(ふ)えていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野(こうや)の狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句(あげく)、いつかは最後の止(とど)めを刺そうとその機会を窺(うかが)っているのである。 かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵(りりょう)は全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を執(と)って闘わしめ、両創を蒙(こうむ)る者にもなお兵車を助け推(お)さしめ、三創にしてはじめて輦(れん)に乗せて扶(たす)け運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体(したい)はすべて曠野(こうや)に遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある輜重車(しちょうしゃ)中に男の服を纏(まと)うた女を発見した。全軍の車輛(しゃりょう)について一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮(りく)に遇(あ)ったとき、その妻子等が逐(お)われて西辺に遷(うつ)り住んだ。それら寡婦(かふ)のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客(とくい)とする娼婦(しょうふ)となり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北(ばくほく)まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを斬(き)るべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間(たにま)の凹地(おうち)に引出された女どもの疳高(かんだか)い号泣(ごうきゅう)がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑(の)まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然(しゅくぜん)たる思いで聞いた。 翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体(したい)三千余。連日の執拗(しつよう)なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄(にわ)かに奮(ふる)い立った形である。次の日からまた、もとの竜城(りゅうじょう)の道に循(したが)って、南方への退行が始まる。匈奴(きょうど)はまたしても、元の遠巻き戦術に還(かえ)った。五日め、漢軍は、平沙(へいさ)の中にときに見出(みいだ)される沼沢地(しょうたくち)の一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘(でいねい)も脛(はぎ)を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原(かれあしはら)が続く。風上(かざかみ)に廻(まわ)った匈奴の一隊が火を放った。朔風(さくふう)は焔(ほのお)を煽(あお)り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の葦(あし)に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地(そじょち)の車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜泥濘(でいねい)の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿(たど)りついたとたんに、先廻(さきまわ)りして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭(あ)った。人馬入乱れての搏兵(はくへい)戦である。騎馬隊の烈(はげ)しい突撃を避けるため、李陵は車を棄(す)てて、山麓(さんろく)の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于(ぜんう)とその親衛隊とに向かって、一時に連弩(れんど)を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍(せいほう)をまとった胡主(こしゅ)はたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬(すく)い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗(しつよう)な敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体(したい)はまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。 この日捕えた胡虜(こりょ)の口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于(ぜんう)は漢兵の手強(てごわ)さに驚嘆し、己(おのれ)に二十倍する大軍をも怯(おそ)れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを恃(たの)んでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に洩(も)らして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢(かぜい)を滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に還(かえ)そうということに決まったという。これを聞いて、校尉(こうい)韓延年(かんえんねん)以下漢軍の幕僚(ばくりょう)たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが微(かす)かに湧(わ)いた。 翌日からの胡軍(こぐん)の攻撃は猛烈を極めた。捕虜(ほりょ)の言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳(てきび)しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日経(た)つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴(きょうど)らは遮二無二(しゃにむに)漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体(したい)を遺(のこ)して退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚(ばくりょう)一同些(いささ)かホッとしたことは争えなかった。 その晩、漢の軍侯(ぐんこう)、管敢(かんかん)という者が陣を脱して匈奴の軍に亡(に)げ降(くだ)った。かつて長安(ちょうあん)都下の悪少年だった男だが、前夜斥候(せっこう)上の手抜かりについて校尉(こうい)・成安侯(せいあんこう)韓延年(かんえんねん)のために衆人の前で面罵(めんば)され、笞(むち)打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓間(たにま)で斬(ざん)に遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣(こじん)に亡(に)げて単于(ぜんう)の前に引出されるや、伏兵を懼(おそ)れて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋(なんじゅう)を極めている。漢軍の中心をなすものは、李(り)将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟(し)をもって印としているゆえ、明日胡騎(こき)の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅(かいめつ)するであろう、云々(うんぬん)。単于(ぜんう)は大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。 翌日、李陵(りりょう)韓延年(かんえんねん)速(すみや)かに降(くだ)れと疾呼(しっこ)しつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の幟(し)を目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から遙(はる)かに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注(そそ)いだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜(しゃりょしょう)を出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟(とうそうぼうげき)の類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、戟(ほこ)を失ったものは車輻(しゃふく)を斬(き)ってこれを持ち、軍吏(ぐんり)は尺刀(せきとう)を手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ狭(せま)くなる。胡卒(こそつ)は諸所の崖(がけ)の上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍(しし)と石(るいせき)とでもはや前進も不可能になった。 その夜、李陵は小袖短衣(しょうしゅうたんい)の便衣(べんい)を着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の峡(かい)から覗(のぞ)いて谷間に堆(うずたか)い屍(しかばね)を照らした。浚稽山(しゅんけいざん)の陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡(かたおか)の斜面は水に濡(ぬ)れたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺(うかが)ってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を窺(うかが)った。遠く山上の敵塁から胡笳(こか)の声が響く。かなり久しくたってから、音もなく帷(とばり)をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀(きょしょう)に腰を下(おろ)した。全軍斬死(ざんし)のほか、途(みち)はないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって軍吏(ぐんり)の一人が口を切り、先年野侯(さくやこう)趙破奴(ちょうはど)が胡軍(こぐん)のために生擒(いけど)られ、数年後に漢に亡(に)げ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡兵(かへい)をもって、かくまで匈奴(きょうど)を震駭(しんがい)させた李陵(りりょう)であってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する途(みち)を知りたもうであろうというのである。李陵はそれを遮(さえぎ)って言う。陵一個のことはしばらく措(お)け、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様(ありさま)では、明日の天明には全軍が坐(ざ)して縛(ばく)を受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞(へんさい)に辿(たど)りついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は汗山(ていかんざん)北方の山地に違いなく、居延(きょえん)まではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された途(みち)はないではないか。諸将僚もこれに頷(うなず)いた。全軍の将卒に各二升の糒(ほしいい)と一個の冰片(ひょうへん)とが頒(わか)たれ、遮二無二(しゃにむに)、遮虜(しゃりょしょう)に向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗(せいき)を倒しこれを斬(き)って地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる惧(おそ)れのあるものも皆打毀(うちこわ)した。夜半、鼓(こ)して兵を起こした。軍鼓(ぐんこ)の音も惨(さん)として響かぬ。李陵は韓校尉(かんこうい)とともに馬に跨(また)がり壮士十余人を従えて先登(せんとう)に立った。この日追い込まれた峡谷(きょうこく)の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。 早い月はすでに落ちた。胡虜(こりょ)の不意を衝(つ)いて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭(あ)った。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬(こば)に鞭(むち)うって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙(へいさ)の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵(りりょう)はまた峡谷の入口の修羅場(しゅらば)にとって返した。身には数創を帯び、自(みずか)らの血と返り血とで、戎衣(じゅうい)は重く濡(ぬ)れていた。彼と並んでいた韓延年(かんえんねん)はすでに討たれて戦死していた。麾下(きか)を失い全軍を失って、もはや天子に見(まみ)ゆべき面目はない。彼は戟(ほこ)を取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入(かけい)った。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢(ながれや)に当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈(ほこ)を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰(くら)って失神した。馬から顛落(てんらく)した彼の上に、生擒(いけど)ろうと構えた胡兵(こへい)どもが十重二十重(とえはたえ)とおり重なって、とびかかった。
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