一
雲海蒼茫 佐渡ノ洲
郎ヲ思ウテ 一日三秋ノ愁
四十九里 風波悪シ
渡ラント欲スレド 妾ガ身自由ナラズ
ははあ、
来いとゆたとて行かりょか佐渡へだな、と思った。題を見ると、戯翻竹枝とある。
それは彼の伯父の詩文集であった。伯父は一昨年(昭和五年)の夏死んだ。その遺稿が
纏められて、この春、文求堂から
上梓されたのである。清末の
碩儒で、今は満洲国にいる
羅振玉氏がその序文を書いている。その序にいう。
「予往歳
滬江(上海のこと)ニ
寓居ス。先後十年間、東邦ノ賢豪長者、道ニ
滬上ニ出ヅルモノ、
縞紵ノ歓ヲ
聯ネザルハナシ。一日
昧爽、
櫛沐ニ
方リ、打門ノ声甚ダ急ナルヲ聞キ、楼欄ニ
憑ツテ
之ヲ観ルニ、客アリ。
清鶴ノ如シ。戸ニ当リテ立ツ。スミヤカニ
倒シテ之ヲ迎フ。既ニシテ門ニ入リ名刺ヲ出ダス。日本男子中島端ト書ス。懐中ノ
楮墨ヲ探リテ予ト筆談ス。東亜ノ情勢ヲ
指陳シテ、傾刻十余紙ヲ尽ス。予
洒然トシテ之ヲ敬ス。行クニノゾンデ、継イデ見ンコトヲ約シ、ソノ館舎ヲ
詢ヘバ、豊陽館ナリトイフ。翌日往イテ之ヲ訪ヘバ、則チ
已ニ行ケリ矣。…………」
これはまた恐ろしく時代離れのした世界である。が、「日本男子云々」の名刺といい、「打門ノ声甚ダ急」といい、「清
鶴ノ如シ」といい、「翌日訪ねると、もう
何処かへ行ってしまっていた」といい、生前の伯父を知っている者には、
如何にもその風貌を
彷彿させる描写なのだ。三造はこれを読みながら、微笑せずにはいられなかった。彼は、この書物を、大学と高等学校の図書館へ納めに行くように、家人から頼まれていた。けれども、自分の伯父の著書を――それも全然無名の一漢詩客に過ぎなかった伯父の詩文集を、堂々と図書館へ持込むことについて、多分の恥ずかしさを覚えないわけに行かなかった。三造は
躊躇を重ねて、容易に持って行かなかった。そして、毎日机の上でひろげては繰返して眺めていた。読んで行く
中に、
狷介にして善く
罵り、人をゆるすことを知らなかった伯父の姿が鮮やかに浮かんで来るのである。羅振玉氏の序文にはまたいう。
「聞ク、君潔癖アリ。終身婦人ヲ近ヅケズ。遺命ニ、吾レ死スルノ後、速ヤカニ火化ヲ行ヒ骨灰ヲ太平洋ニ散ゼヨ。マサニ鬼雄トナツテ、異日兵ヲ以テ吾ガ国ニ臨ムモノアラバ、神風トナツテ之ヲ禦グベシト。家人謹シンデ、ソノ言ニ遵フ。…………」
これは凡て事実であった。伯父の骨は、親戚の一人が汽船の上から、遺命通り、熊野灘に投じたのである。伯父は、そうして鯱か何かになってアメリカの軍艦を喰べてしまうつもりであったのである。
他人に在っては気障や滑稽に見えるこのような事が、(このような遺言や、その他、数々の奇行奇言などが)あとで考えて見れば滑稽ではあっても、伯父と面接している場合には、極めて似付かわしくさえ見えるような、そのような老人で伯父はあった。それでも、高等学校の時分、三造には、この伯父のこうした時代離れのした厳格さが、甚だ気障な厭味なものに見えた。伯父が、自分の魂の底から、少しも己を欺くことなしに、それを正しいと信じてそのような言行をしているとは、到底彼には信じられなかったのである。其処に、彼と伯父との間に、どうにもならない溝があった。事実彼と伯父との間にはちょうど半世紀の年齢の隔たりがあった。死んだ時、伯父は七十二で、三造はその時二十二であった。
親戚の多くが、三造の気質を伯父に似ているといった。殊に年上の従姉の一人は、彼が年をとって伯父のようにならなければいいが、と、口癖のようにいっていた。その言葉が部分的には当っていることを、三造も認めないわけには行かなかった。そして、それだけ、彼には、伯父の落著のない性行が――それが自分に最も多く伝わっているらしい所の――苦々しく思われるのであった。その伯父のすぐ下の弟――つまり三造にとっては斉しく伯父であるが――の、極端に何も求むる所のない、落著いた学究的態度の方が、彼には遥かに好もしくうつった。その二番目の伯父は、そのようにして古代文字などを研究しながら、別にその研究の結果を世に問おうとするでもなく、東京の真中にいながら、髪を牛若丸のように結い、二尺近くも白髯を貯えて隠者のように暮していた。その「お髯の伯父」(甥たちはそう呼んでいた。)の物静かさに対して、上の伯父の狂躁性を帯びた峻厳が、彼には、大人げなく見えたのである。似ているといわれるたびに彼は、いつも、いやな思いをしていた。伯父は幼時から非常な秀才であったという。六歳にして書を読み、十三歳にして漢詩漢文を能くしたというから儒学的な俊才であったには違いない。にもかかわらず、一生、何らのまとまった仕事もせず、志を得ないで、世を罵り人を罵りながら死んで行ったのである。前の遺稿の序文にもあったように、伯父は妻をめとらなかった。それが何に原因するものであるかを三造は知らない。伯父はまた常に、三造には無目的としか思えないような旅行を繰返していた。支那には長く渡っていた。それは伯父自身がいう如く、国事を憂えて、というよりも、単に、そのロマンティシズムにエグゾティシズムにそそられたためといった方がいいのではないかと、高等学校時代の三造は考えていた。この彷浪者魂は彼の一生に絶えずつきまとっていたように見える。三造の知っているかぎり伯父は常に居をかえたり旅行したりしていたようであった。この彷徨を好む気質が自分にも甚だ多く伝わっていることを、三造は時々強く感じなければならなかった。ただ、伯父の生活の経済的方面は久しく彼の謎であった。伯父はかつて、『支那分割の運命』なる本を出したことがあった。が、そんな売れない本から印税がはいるはずはなかった。大分後になって、(それは伯父の晩年になってからのことであるが、)伯父は経済的にはほとんど全部他人の――友人や弟たちや弟子たちの――援助を受けていることが分った時、三造は、まず、この点に向って、心の中で伯父を非難した。自分で一人前の生活もできないのに、徒らに人を罵るなぞは、あまり感心できないと、彼は考えたのである。あとから考えると、これらの非難は多く、自己に類似した精神の型に対する彼自身の反射的反撥から生れたもののようでもあった。とにかく、彼は、自分がそれに似ているといわれるこの伯父の精神的特徴の一つ一つに向って、一々意地の悪い批判の眼を向けようとしていた。それは確かに一種の自己嫌悪であった。高等学校時代の或る時期の彼の努力は、この伯父の精神と彼自身の精神とに共通するいくつかの厭うべき特質を克服することに注がれていた。その彼の意図は不当ではなかったにもかかわらず、なお、当時の彼の、伯父に対する見方は、不充分でもあり、また、誤ってもいたようである。即ち、伯父の奇矯な言動は、それが青年の三造にとって滑稽であり、いやみであると同じ程度に、彼よりも半世紀前に生れた伯父自身にとっては、極めて自然であり、純粋なものであるということが、彼には全身的に理解できなかったのである。伯父は、いってみれば、昔風の漢学者気質と、狂熱的な国士気質との混淆した精神――東洋からも次第にその影を消して行こうとするこういう型の、彼の知る限りではその最も純粋な最後の人たちの一人なのであった。このことが、その頃の彼には、概念的にしか、つまり半分しか呑みこめなかったのである。
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