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弟子(でし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:32:34  点击:  切换到繁體中文


     九

 えいの霊公は極めて意志の弱い君主である。賢と不才とを識別し得ないほど愚かではないのだが、結局は苦い諫言かんげんよりも甘い諂諛てんゆよろこばされてしまう。衛の国政を左右するものはその後宮であった。
 夫人南子なんしはつとに淫奔いんぽんの噂が高い。まだそうの公女だった頃異母兄のちょうという有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからもなお宋朝を衛に呼び大夫に任じてこれとしゅう関係を続けている。すこぶる才走った女で、政治むきの事にまで容喙ようかいするが、霊公はこの夫人の言葉ならうなずかぬことはない。霊公にかれようとする者はまず南子に取入るのが例であった。
 孔子が魯から衛に入った時、召を受けて霊公にはえっしたが、夫人の所へは別に挨拶あいさつに出なかった。南子がかんむりを曲げた。早速さっそく人をつかわして孔子に言わしめる。四方の君子、寡君かくんと兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君かしょうくん(夫人)を見る。寡小君見んことを願えり云々。
 孔子もやむをえず挨拶に出た。南子は※(「糸+希」、第3水準1-90-5)ちいうす葛布くずぬのの垂れぎぬ)の後に在って孔子を引見する。孔子の北面稽首ほくめんけいしゅの礼に対し、南子が再拝してこたえると、夫人の身に着けた環佩かんぱい※(「王へん+樛のつくり」、第3水準1-88-22)きゅうぜんとして鳴ったとある。
 孔子が公宮から帰って来ると、子路が露骨ろこつに不愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子風情ふぜいの要求などは黙殺もくさつすることを望んでいたのである。まさか孔子が妖婦ようふにたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対清浄せいじょうであるはずの夫子が汚らわしい淫女に頭を下げたというだけで既に面白くない。美玉を愛蔵する者がそのたま表面おもてに不浄なるもののかげの映るのさえ避けたいたぐいなのであろう。孔子はまた、子路の中で相当敏腕びんわんな実際家ととなり合って住んでいる大きな子供が、いつまでたっても一向老成しそうもないのを見て、可笑おかしくもあり、困りもするのである。

 一日、霊公の所から孔子へ使が来た。車で一緒いっしょに都を一巡いちじゅんしながら色々話をうけたまわろうと云う。孔子は欣んで服を改め直ちに出掛けた。
 このたけの高いぶっきらぼうじいさんを、霊公が無闇むやみに賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。自分を出し抜いて、二人同車して都をめぐるなどとはもっての外である。
 孔子が公に謁し、さて表に出て共に車に乗ろうとすると、そこには既に盛装せいそうらした南子夫人が乗込んでいた。孔子の席が無い。南子は意地の悪い微笑をふくんで霊公を見る。孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子をうかがう。霊公は面目無げに目をせ、しかし南子には何事も言えない。だまって孔子のために次の車をゆびさす。
 二乗の車が衛の都を行く。前なる四輪の豪奢ごうしゃな馬車には、霊公とならんで嬋妍せんけんたる南子夫人の姿が牡丹ぼたんの花のようにかがやく。うしろの見すぼらしい二輪の牛車には、さびしげな孔子の顔が端然たんぜんと正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがにひそやかな嘆声たんせい顰蹙ひんしゅくとが起る。
 群集の間に交って子路もこの様子を見た。公からの使を受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、はらわたえ返る思いがするのだ。何事か嬌声きょうせいろうしながら南子が目の前を進んで行く。思わずかっとなって、彼は拳を固め人々を押分けて飛出そうとする。背後うしろから引留める者がある。振切ふりきろうと眼をいからせて後を向く。子若しじゃく子正しせいの二人である。必死に子路のそでひかえている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振上げた拳を下す。

 翌日、孔子等の一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。

     十

 葉公しょうこう子高しこうりゅうを好むこと甚だしい。居室にも竜を繍帳しゅうちょうにも竜を画き、日常竜の中に起臥きがしていた。これを聞いたほんものの天竜が大きに欣んで一日葉公の家にくだおのれの愛好者をのぞき見た。頭は※(「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1-87-69)まどうかがは堂に※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)くという素晴らしい大きさである。葉公はこれを見るやおそれわなないてげ走った。その魂魄こんぱくを失い五色主無ごしきしゅなし、という意気地無さであった。
 諸侯は孔子の賢の名を好んで、その実を欣ばぬ。いずれも葉公の竜における類である。実際の孔子は余りに彼等には大き過ぎるもののように見えた。孔子を国賓こくひんとしてぐうしようという国はある。孔子の弟子の幾人いくにんかを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにも無い。きょうでは暴民の凌辱りょうじょくを受けようとし、宋では姦臣かんしん迫害はくがいい、ではまた兇漢きょうかん襲撃しゅうげきを受ける。諸侯の敬遠と御用ごよう学者の嫉視と政治家連の排斥はいせきとが、孔子を待ち受けていたもののすべてである。
 それでもなお、講誦を止めず切磋せっさおこたらず、孔子と弟子達とはまずに国々への旅を続けた。「鳥よく木をえらぶ。木に鳥を択ばんや。」などと至って気位は高いが、決して世をねたのではなく、あくまで用いられんことを求めている。そして、己等おのれらの用いられようとするのは己がために非ずして天下のため、道のためなのだと本気で――全くあきれたことに本気でそう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望を捨てない。誠に不思議な一行であった。
 一行が招かれての昭王のもとへ行こうとした時、ちんさいの大夫共が相計り秘かに暴徒を集めて孔子等を途に囲ましめた。孔子の楚に用いられることをおそれこれを妨げようとしたのである。暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮におちいった。糧道りょうどうが絶たれ、一同火食せざること七日におよんだ。さすがに、え、つかれ、病者も続出する。弟子達の困憊こんぱい恐惶きょうこうとの間に在って孔子は独り気力少しもおとろえず、平生通り絃歌してまない。従者等の疲憊ひはいを見るに見かねた子路が、いささか色をして、絃歌する孔子のそばに行った。そうして訊ねた。夫子の歌うは礼かと。孔子は答えない。絃を操る手も休めない。さて曲が終ってからようやく言った。
ゆうよ。われ汝に告げん。君子がくを好むはおごるなきがためなり。小人楽を好むはおそるるなきがためなり。それだれの子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」
 子路は一瞬いっしゅん耳を疑った。この窮境に在ってなお驕るなきがために楽をなすとや? しかし、すぐにその心に思いいたると、途端とたんに彼は嬉しくなり、覚えずほこを執ってうた。孔子がこれに和して弾じ、曲、三度みたびめぐった。傍にある者またしばらくはうえを忘れ疲を忘れて、この武骨な即興そっきょうまいに興じ入るのであった。

 同じ陳蔡のやくの時、いまだ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。君子も窮することあるか? と。師の平生の説によれば、君子は窮することが無いはずだと思ったからである。孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するのいいに非ずや。今、きゅう、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体つかるるをもって窮すとなさば、君子ももとより窮す。ただ、小人は窮すればここにみだる。」と。そこが違うだけだというのである。子路は思わず顔をあからめた。己の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色も無い孔子のすがたを見ては、大勇なるかなと嘆ぜざるを得ない。かつての自分のほこりであった・白刃はくじんまえまじわるも目まじろがざるていの勇が、何とみじめにちっぽけなことかと思うのである。

     十一

 きょからしょうへと出る途すがら、子路が独り孔子の一行におくれて畑中のみちを歩いて行くと、※(「くさかんむり/條」、第4水準2-86-62)あじかになうた一人の老人に会った。子路が気軽に会釈えしゃくして、夫子を見ざりしや、と問う。老人は立止って、「夫子夫子と言ったとて、どれが一体汝のいう夫子やらおれわかる訳がないではないか」と突堅貪つっけんどんに答え、子路の人態にんていをじろりと眺めてから、「見受けたところ、四体を労せず実事に従わず空理空論に日をらしている人らしいな。」とさげすむように笑う。それから傍の畑に入りこちらを見返りもせずにせっせと草を取り始めた。隠者いんじゃの一人に違いないと子路は思って一揖いちゆうし、道に立って次の言葉を待った。老人は黙って一仕事してから道に出て来、子路を伴って己が家に導いた。既に日が暮れかかっていたのである。老人は※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)をつぶしきびかしいで、もてなし、二人の子にも子路を引合せた。食後、いささかの濁酒にごりざけよいまわった老人は傍なる琴を執って弾じた。二人の子がそれに和してうたう。

湛々タンタンタルツユアリ
ニ非ザレバ
厭々エンエントシテ夜飲ス
酔ハズンバ帰ルコトナシ


 明らかに貧しい生活くらしなのにもかかわらず、まことに融々ゆうゆうたるゆたかさが家中にあふれている。なごやかに充ち足りた親子三人の顔付の中に、時としてどこか知的なものがひらめくのも、見逃みのがし難い。
 弾じ終ってから老人が子路に向って語る。陸を行くには車、水を行くにはふねと昔から決ったもの。今陸を行くに舟をもってすれば、いかん? 今の世に周の古法をほどこそうとするのは、ちょうど陸に舟をるがごときものとうべし。※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)さるに周公の服を着せれば、驚いて引裂ひきさき棄てるに決っている。云々…………子路を孔門の徒と知っての言葉であることは明らかだ。老人はまた言う。「楽しみ全くして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕けんべんの謂ではない。」と。澹然無極たんぜんむきょくとでもいうのがこの老人の理想なのであろう。子路にとってこうした遁世哲学とんせいてつがくは始めてではない。長沮ちょうそ桀溺けつできの二人にもった。楚の接与せつよという佯狂ようきょうの男にも遇ったことがある。しかしこうして彼等の生活の中に入り一夜を共に過したことは、まだ無かった。穏やかな老人の言葉と怡々いいたるその容に接している中に、子路は、これもまた一つの美しき生き方には違いないと、幾分の羨望せんぼうをさえ感じないではなかった。
 しかし、彼も黙って相手の言葉にうなずいてばかりいた訳ではない。「世とつのはもとより楽しかろうが、人の人たるゆえんは楽しみをまっとうする所にあるのではない。区々たる一身を潔うせんとして大倫をみだるのは、人間の道ではない。我々とて、今の世に道の行われない事ぐらいは、とっくに承知している。今の世に道を説くことの危険さも知っている。しかし、道無き世なればこそ、危険をおかしてもなお道を説く必要があるのではないか。」
 翌朝、子路は老人の家を辞して道を急いだ。みちみち孔子と昨夜の老人とをならべて考えてみた。孔子の明察があの老人におとる訳はない。孔子のよくがあの老人よりも多い訳はない。それでいてなおかつ己を全うする途を棄て道のために天下を周遊していることを思うと、急に、昨夜は一向に感じなかった憎悪ぞうおを、あの老人に対して覚え始めた。ひる近く、ようやく、はるか前方の真青まっさお麦畠むぎばたけの中の道に一団の人影が見えた。その中で特に際立って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然とつぜん、何か胸をめ付けられるような苦しさを感じた。

     十二

 宋から陳に出る渡船の上で、子貢と宰予とが議論をしている。「十室のゆう、必ず忠信きゅうがごとき者あり。丘の学を好むにかざるなり。」という師の言葉を中心に、子貢は、この言葉にもかかわらず孔子の偉大いだいな完成はその先天的な素質の非凡ひぼんさにるものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力の方があずかって大きいのだと言う。宰予によれば、孔子の能力と弟子達の能力との差異は量的なものであって、決して質的なそれではない。孔子のっているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変る所は無いという。それに、自己完成への努力をあれほどまでに続け得ることそれ自体が、既に先天的な非凡さの何よりの証拠しょうこではないかと。だが、何にも増して孔子の天才の核心かくしんたるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。「あの優れた中庸ちゅうようへの本能だ。いついかなる場合にも夫子の進退を美しいものにする・見事な中庸への本能だ。」と。
 何を言ってるんだと、傍で子路が苦い顔をする。口先ばかりで腹の無い奴等め! 今この舟がひっくり返りでもしたら、奴等はどんなに真蒼まっさおな顔をするだろう。何といってもいったん有事の際に、実際に夫子の役に立ち得るのはおれなのだ。才弁縦横の若い二人を前にして、巧言は徳を紊るという言葉を考え、ほこらかに我が胸中一片の氷心ひょうしんたのむのである。

 子路にも、しかし、師への不満が必ずしも無い訳ではない。
 陳の霊公が臣下の妻と通じその女の肌着を身に着けてちょうに立ち、それを見せびらかした時、泄冶せつやという臣がいさめて、殺された。百年ばかり以前のこの事件について一人の弟子が孔子にたずねたことがある。泄冶の正諫せいかんして殺されたのは古の名臣比干ひかんの諫死と変る所が無い。仁と称して良いであろうかと。孔子が答えた。いや、比干と紂王ちゅうおうとの場合は血縁でもあり、また官から云っても少師であり、従って己の身を捨てて争諫し、殺された後に紂王の悔寤かいごするのを期待した訳だ。これは仁と謂うべきであろう。泄冶の霊公におけるは骨肉の親あるにも非ず、位も一大夫に過ぎぬ。君正しからず一国正しからずと知らば、潔く身を退くべきに、身の程をも計らず、区々たる一身をもって一国の淫婚いんこんを正そうとした。自ら無駄に生命をてたものだ。仁どころのさわぎではないと。
 その弟子はそう言われて納得して引き下ったが、傍にいた子路にはどうしてもうなずけない。早速、彼は口を出す。仁・不仁はしばらくく。しかしとにかく一身のあやうきを忘れて一国の紊乱びんらんを正そうとした事の中には、智不智を超えた立派なものが在るのではなかろうか。空しく命を捐つなどと言い切れないものが。たとえ結果はどうあろうとも。
ゆうよ。汝には、そういう小義の中にある見事さばかりが眼に付いて、それ以上はわからぬと見える。古の士は国に道あれば忠を尽くしてもってこれをたすけ、国に道無ければ身を退いてもってこれを避けた。こうした出処進退の見事さはいまだ判らぬと見える。詩にう。民よこしま多き時は自らのりを立つることなかれと。けだし、泄冶の場合にあてはまるようだな。」
「では」と大分長い間考えたあとで子路が言う。結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることに在るのか? 身を捨てて義を成すことの中にはないのであろうか? 一人の人間の出処進退の適不適の方が、天下蒼生そうせいの安危ということよりも大切なのであろうか? というのは、今の泄冶がもし眼前の乱倫に顰蹙ひんしゅくして身を退いたとすれば、なるほど彼の一身はそれで良いかも知れぬが、陳国の民にとって一体それが何になろう? まだしも、無駄とは知りつつも諫死した方が、国民の気風に与える影響から言っても遥かに意味があるのではないか。
「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒めはしないはずだ。ただ、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。それを察するに智をもってするのは、別にわたくしの利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」
 そう言われれば一応はそんな気がして来るが、やはり釈然としない所がある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしら明哲めいてつ保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子達がこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼等に本能として、くっついているからだ。それをすべての根柢こんていとした上での・仁であり義でなければ、彼等には危くて仕方が無いに違いない。
 子路が納得し難げな顔色で立去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然しゅうぜんとして言った。くにに道有る時も直きこと矢のごとし。道無き時もまた矢のごとし。あの男も衛の史魚しぎょの類だな。恐らく、尋常じんじょうな死に方はしないであろうと。

 楚がった時、工尹商陽こういんしょうようという者が呉の師を追うたが、同乗の王子棄疾きしつに「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、「子、これを射よ。」と勧められてようやく一人を射斃しゃへいした。しかしすぐにまた弓を※(「韋+長」、第4水準2-92-13)かわぶくろに収めてしまった。再びうながされてまた弓を取出し、あと二人をたおしたが、一人を射るごとに目をおおうた。さて三人を斃すと、「自分の今の身分ではこの位で充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。
 この話を孔子が伝え聞き、「人を殺すの中、また礼あり。」と感心した。子路に言わせれば、しかし、こんなとんでもない話はない。殊に、「自分としては三人斃した位で充分だ。」などという言葉の中に、彼の大嫌いな・一身の行動を国家の休戚より上に置く考え方が余りにハッキリしているので、腹が立つのである。彼は怫然ふつぜんとして孔子に喰って掛かる。「人臣の節、君の大事に当りては、ただ力の及ぶ所を尽くし、死してしこうして後にむ。夫子何ぞ彼を善しとする?」孔子もさすがにこれには一言も無い。笑いながら答える。「しかり。汝の言のごとし。われ、ただその、人を殺すにしのびざるの心あるを取るのみ。」

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