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弟子(でし)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:32:34  点击:  切换到繁體中文


     六

 しん魏楡きゆの地で石がものを言ったという。民の怨嗟えんさの声が石を仮りて発したのであろうと、ある賢者が解した。すで衰微すいびした周室は更に二つに分れて争っている。十に余る大国はそれぞれ相結び相闘って干戈かんかの止む時が無い。斉侯せいこうの一人は臣下の妻に通じて夜ごとそのやしきしのんで来る中についにその夫にしいせられてしまう。では王族の一人が病臥びょうが中の王のくびをしめて位をうばう。では足頸を斬取きりとられた罪人共が王をおそい、晋では二人の臣がたがいに妻を交換こうかんし合う。このような世の中であった。
 魯の昭公は上卿じょうけい季平子きへいしを討とうとしてかえって国をわれ、亡命七年にして他国で窮死きゅうしする。亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下共が帰国後のおのれの運命を案じ公を引留めて帰らせない。魯の国は季孫・叔孫しゅくそん孟孫もうそん三氏の天下から、更に季氏のさい・陽虎のほしいままな手に操られて行く。
 ところが、その策士陽虎が結局己の策に倒れて失脚しっきゃくしてから、急にこの国の政界の風向きが変った。思いがけなく孔子が中都の宰として用いられることになる。公平無私な官吏かんり苛斂誅求かれんちゅうきゅうを事とせぬ政治家の皆無かいむだった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とはごく短い期間に驚異的きょういてきな治績を挙げた。すっかり驚嘆きょうたんした主君の定公が問うた。汝の中都を治めし所の法をもって魯国を治むればすなわちいかん? 孔子が答えて言う。何ぞただ魯国のみならんや。天下を治むるといえども可ならんか。およそ法螺ほらとはえんの遠い孔子がすこぶるうやうやしい調子でましてこうした壮語をろうしたので、定公はますます驚いた。彼は直ちに孔子を司空に挙げ、続いて大司寇だいしこうに進めて宰相さいしょうの事をもらせた。孔子の推挙で子路は魯国の内閣書記官長とも言うべき季氏の宰となる。孔子の内政改革案の実行者として真先まっさきに活動したことは言うまでもない。
 孔子の政策の第一は中央集権すなわち魯侯の権力強化である。このためには、現在魯侯よりも勢力をつ季・叔・孟・三かんの力をがねばならぬ。三氏の私城にして百雉ひゃくち(厚さ三じょう、高さ一丈)をえるものに※(「后+おおざと」、第4水準2-90-11)こうせいの三地がある。まずこれ等をこぼつことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。
 自分の仕事の結果がすぐにはっきりと現れて来る、しかも今までの経験には無かったほどの大きい規模で現れて来ることは、子路のような人間にとって確かに愉快ゆかいに違いなかった。ことに、既成きせい政治家の張りめぐらした奸悪かんあくな組織や習慣を一つ一つ破砕はさいして行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生甲斐いきがいを感じさせる。多年の抱負ほうふの実現に生々いきいきいそがしげな孔子の顔を見るのも、さすがにうれしい。孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿がたのもしいものに映った。
 費の城をこわしに掛かった時、それに反抗して公山不狃こうざんふちゅうという者が費人を率い魯の都を襲うた。武子台に難を避けた定公の身辺にまで叛軍はんぐんの矢がおよぶほど、一時は危かったが、孔子の適切な判断と指揮とによってわずかに事無きを得た。子路はまた改めて師の実際家的手腕しゅわんに敬服する。孔子の政治家としての手腕は良く知っているし、またその個人的な膂力の強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれほどのあざやかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。もちろん、子路自身もこの時は真先に立って奮い戦った。久しぶりにふるう長剣の味も、まんざらてたものではない。とにかく、経書の字句をほじくったり古礼を習うたりするよりも、あらい現実の面と取組み合って生きて行く方が、この男の性に合っているようである。

 斉との間の屈辱的くつじょくてき媾和こうわのために、定公が孔子をしたがえて斉の景公と夾谷きょうこくの地に会したことがある。その時孔子は斉の無礼をとがめて、景公始め群卿諸大夫を頭ごなしに叱咤しったした。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとくふるえ上ったとある。子路をして心からの快哉かいさいを叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国りんこくの宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政しせいもとに充実して行く魯の国力に、おそれいだき始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代支那しな式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へおくるに、歌舞かぶに長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心をとろかし定公と孔子との間を離間りかんしようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動とあいって、余りにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽にふけってもはやちょうに出なくなった。季桓子きかんし以下の大官連もこれにならい出す。子路は真先に憤慨ふんがいして衝突しょうとつし、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切をつけず、なおくせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早くめてもらいたくて仕方が無い。師が臣節をけがすのを懼れるのではなく、ただこのみだらな雰囲気ふんいきの中に師を置いてながめるのがたまらないのである。
 孔子のねばり強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっとした。そうして、師に従ってよろこんで魯の国を立退たちのいた。
 作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離とおざかり行く都城をかえりみながら、歌う。
 かの美婦の口には君子ももって出走すべし。かの美婦のえつには君子ももって死敗すべし。…………
 かくて、爾後じご永年にわたる孔子の遍歴へんれきが始まる。

     七

 大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向にあやしもうとしない事柄ことがらだ。じゃが栄えて正がしいたげられるという・ありきたりの事実についてである。
 この事実にぶつかるごとに、子路は心からの悲憤ひふんを発しないではいられない。なぜだ? なぜそうなのだ? 悪は一時栄えても結局はそのむくいを受けると人は云う。なるほどそういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅はめつに終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が究極の勝利を得たなどというためしは、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえ無い。なぜだ? なぜだ? 大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。彼は地団駄じだんだむ思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗はんこうしないではいられない。天は人間とけものとの間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟ひっきょう人間の間だけの仮の取決とりきめに過ぎないのか? 子路がこの問題で孔子の所へ聞きに行くと、いつも決って、人間の幸福というものの真の在り方について説き聞かせられるだけだ。善をなすことのむくいは、では結局、善をなしたという満足の外には無いのか? 師の前では一応納得したような気になるのだが、さて退いて独りになって考えてみると、やはりどうしても釈然としない所が残る。そんな無理に解釈してみたあげくの幸福なんかでは承知出来ない。誰が見ても文句の無い・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白くないのである。
 天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が、なぜこうした不遇ふぐうに甘んじなければならぬのか。家庭的にもめぐまれず、年老いてから放浪の旅に出なければならぬような不運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。一夜、「鳳鳥ほうちょう至らず。河、を出さず。んぬるかな。」と独言に孔子がつぶやくのを聞いた時、子路は思わずなみだあふれて来るのを禁じ得なかった。孔子が嘆じたのは天下蒼生そうせいのためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。
 この人と、この人をつ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決っている。濁世だくせのあるゆる侵害しんがいからこの人を守るたてとなること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労はんろう汚辱おじょくを一切おのが身に引受けること。僭越せんえつながらこれが自分のつとめだと思う。学も才も自分は後学の諸才人におとるかも知れぬ。しかし、いったん事ある場合真先に夫子のために生命をなげうって顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。

     八

「ここに美玉あり。ひつ※(「韋+榲のつくり」、第3水準1-93-83)おさめてかくさんか。善賈ぜんかを求めてらんか。」と子貢が言った時、孔子は即座そくざに、「これを沽らんかな。これを沽らん哉。我はあたいを待つものなり。」と答えた。
 そういうつもりで孔子は天下周遊の旅に出たのである。随った弟子達も大部分はもちろん沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。権力の地位に在って所信を断行する快さは既に先頃の経験で知ってはいるが、それには孔子を上にいただくといった風な特別な条件が絶対に必要である。それが出来ないなら、むしろ、「かつ粗衣そい)をて玉をいだく」という生き方が好ましい。生涯しょうがい孔子の番犬に終ろうとも、いささかのくいも無い。世俗的な虚栄心きょえいしんが無い訳ではないが、なまじいの仕官はかえっておのれの本領たる磊落らいらく闊達を害するものだと思っている。

 様々な連中が孔子に従って歩いた。てきぱきした実務家の冉有ぜんゆう。温厚の長者閔子騫びんしけん穿鑿せんさく好きな故実家の子夏しか。いささか詭弁派的きべんはてき享受家きょうじゅか宰予さいよ気骨きこつ稜々りょうりょうたる慷慨家こうがいか公良孺こうりょうじゅ身長みのたけ九尺六寸といわれる長人孔子の半分位しかない短矮たんわい愚直者ぐちょくしゃ子羔しこう。年齢から云っても貫禄かんろくから云っても、もちろん子路が彼等の宰領格さいりょうかくである。
 子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。孔子がいつも口を極めてめる顔回がんかいよりも、むしろ子貢の方を子路は推したい気持であった。孔子からその強靱きょうじんな生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路は余り好まない。それは決して嫉妬しっとではない。(子貢しこう子張輩しちょうはいは、顔淵がんえんに対する・師の桁外けたはずれの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)子路は年齢が違い過ぎてもいるし、それに元来そんな事にこだわらぬたちでもあったから。ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟じゅうなんな才能の良さが全然み込めないのである。第一、どこかヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。そこへ行くと、多少軽薄けいはくではあっても常に才気と活力とに充ちている子貢の方が、子路の性質には合うのであろう。この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べてまだ人間の出来ていないことは誰にも気付かれる所だが、しかし、それは年齢というものだ。余りの軽薄さに腹を立てて一喝いっかつを喰わせることもあるが、大体において、後世おそるべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている。
 ある時、子貢が二三の朋輩ほうばいに向って次のような意味のことを述べた。――夫子は巧弁をむといわれるが、しかし夫子自身弁が巧過うますぎると思う。これは警戒けいかいを要する。宰予などの巧さとは、まるで違う。宰予の弁のごときは、巧さが目に立ち過ぎる故、聴者に楽しみは与え得ても、信頼しんらいは与え得ない。それだけにかえって安全といえる。夫子のは全く違う。流暢りゅうちょうさの代りに、絶対に人に疑をいだかせぬ重厚さを備え、諧謔かいぎゃくの代りに、含蓄がんちくに富む譬喩ひゆつその弁は、何人なんぴとといえども逆らうことの出来ぬものだ。もちろん、夫子の云われる所は九りんまで常にあやまり無き真理だと思う。また夫子の行われる所は九分九厘まで我々の誰もが取ってもってはんとすべきものだ。にもかかわらず、残りの一厘――絶対に人に信頼を起させる夫子の弁舌の中の・わずか百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的ふへんてきな真理と必ずしも一致いっちしない極少部分の)弁明に用いられるおそれがある。警戒を要するのはここだ。これはあるいは、余り夫子に親しみ過ぎれ過ぎたためのよくの云わせることかも知れぬ。実際、後世の者が夫子をもって聖人とあがめた所で、それは当然過ぎる位当然なことだ。夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、また将来もこういう人はそう現れるものではなかろうから。ただ自分の言いたいのは、その夫子にしてなおかつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだという事だ。顔回のような夫子と似通った肌合はだあいの男にとっては、自分の感じるような不満は少しも感じられないに違いない。夫子がしばしば顔回をめられるのも、結局はこの肌合のせいではないのか。…………
 青二才あおにさいの分際で師の批評などおこがましいと腹が立ち、また、これを言わせているのは畢竟ひっきょう顔淵への嫉妬だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦ばかにしきれないものを感じた。肌合の相違ということについては、確かに子路も思い当ることがあったからである。
 おれ達には漠然ばくぜんとしか気付かれないものをハッキリ形に表す・みょうな才能が、この生意気な若僧わかぞうにはあるらしいと、子路は感心と軽蔑とを同時に感じる。

 子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや? た知ることなきや?」死後の知覚の有無、あるいは霊魂れいこんの滅不滅についての疑問である。孔子がまた妙な返辞をした。「死者知るありと言わんとすれば、まさに孝子順孫、生をさまたげてもって死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、まさに不孝の子その親をててほうむらざらんとすることを恐る。」およそ見当違いの返辞なので子貢ははなはだ不服だった。もちろん、子貢の質問の意味は良くわかっているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向をえようとしたのである。
 子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味は無かったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、ある時死についてたずねてみた。
「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。」これが孔子の答であった。
 全くだ! と子路はすっかり感心した。しかし、子貢はまたしてもあざやかに肩透かたすかしを喰ったような気がした。それはそうです。しかし私の言っているのはそんな事ではない。明らかにそう言っている子貢の表情である。

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