三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化の術ももとより知らぬ。途で妖怪に襲われれば、すぐに掴まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉しく惹かれているというのは、いったいどういうわけだろう? (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空も八戒もただなんとなく師父を敬愛しているだけなのだから。)私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹かれるのではないか。これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさと貴さとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師に在るものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったん己の位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際、正しく美しい生活を真面目に続けていくことができないに違いない。あの弱い師父の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。内なる貴さが外の弱さに包まれているところに、師父の魅力があるのだと、俺は考える。もっとも、あの不埒な八戒の解釈によれば、俺たちの――少なくとも悟空の師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。
まったく、悟空のあの実行的な天才に比べて、三蔵法師は、なんと実務的には鈍物であることか! だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父は、それを切抜ける途を外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。いや、そのとき慌てて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生から構えができてしまっている。いつどこで窮死してもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。だから、外に途を求める必要がないのだ。我々から見ると危なくてしかたのない肉体上の無防禦も、つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が世には存在するかもしれぬ。しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、何も打開する必要がないのだから。
悟空には、嚇怒はあっても苦悩はない。歓喜はあっても憂愁はない。彼が単純にこの生を肯定できるのになんの不思議もない。三蔵法師の場合はどうか? あの病身と、禦ぐことを知らない弱さと、常に妖怪どもの迫害を受けている日々とをもってして、なお師父は怡しげに生を肯われる。これはたいしたことではないか!
おかしいことに、悟空は、師の自分より優っているこの点を理解していない。ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。機嫌の悪いときには、自分が三蔵法師に随っているのは、ただ緊箍咒(悟空の頭に箝められている金の輪で、悟空が三蔵法師の命に従わぬときにはこの輪が肉に喰い入って彼の頭を緊め付け、堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍だと自惚れているらしいが、実は、悟空の師に対する気持の中に、生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬、美と貴さへの憧憬がたぶんに加わっていることを、彼はみずから知らぬのである。
もっとおかしいのは、師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。「お前が助けてくれなかったら、わしの生命はなかったろうに!」と。だが、実際は、どんな妖怪に喰われようと、師の生命は死にはせぬのだ。
二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。およそ対蹠的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺は気がついた。それは、二人がその生き方において、ともに、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做していることだ。金剛石と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼らが天才であることの徴でなくてなんであろうか?
悟空、八戒、俺と我々三人は、まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。悟空はかかる廃寺こそ究竟の妖怪退治の場所だとして、進んで選ぶのだ。八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫だし、早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪な妖精に満ちているのだろう。どこへ行ったって災難に遭うのだとすれば、ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考えるのだ。生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 生きものの生き方ほどおもしろいものはない。
孫行者の華やかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、猪悟能八戒もまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執しておる。あるとき八戒が俺に言ったことがある。「我々が天竺へ行くのはなんのためだ? 善業を修して来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、その極楽とはどんなところだろう。蓮の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしようがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つ羹をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり皮の焦げた香ばしい焼肉を頬張る楽しみがあるのだろうか? そうでなくて、話に聞く仙人のようにただ霞を吸って生きていくだけだったら、ああ、厭だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! たとえ、辛いことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡しさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくとも俺にはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寐。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまで経っても尽きぬもののように思われた。俺はたまげてしまった。この世にかくも多くの怡しきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、考えもしなかったからである。なるほど、楽しむにも才能の要るものだなと俺は気がつき、爾来、この豚を軽蔑することを止めた。だが、八戒と語ることが繁くなるにつれ、最近妙なことに気がついてきた。それは、八戒の享楽主義の底に、ときどき、妙に不気味なものの影がちらりと覗くことだ。「師父に対する尊敬と、孫行者への畏怖とがなかったら、俺はとっくにこんな辛い旅なんか止めてしまっていたろう。」などと口では言っている癖に、実際はその享楽家的な外貌の下に戦々兢々として薄氷を履むような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。いわば、天竺へのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、幻滅と絶望との果てに、最後に縋り付いたただ一筋の糸に違いないと思われる節が確かにあるのだ。だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察に耽っているわけにはいかぬ。とにかく、今のところ、俺は孫行者からあらゆるものを学び取らねばならぬのだ。他のことを顧みている暇はない。三蔵法師の智慧や八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。まだまだ、俺は悟空からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。流沙河の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 依然たる呉下の旧阿蒙ではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒の怠惰を戒めること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?
孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。悟空の闊達無碍の働きを見ながら俺はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の謂だ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気の持つ桁違いの大きさに、また、悟空的なるものの肌合いの粗さに、恐れをなして近づけないのだ。実際、正直なところを言えば、悟空は、どう考えてもあまり有難い朋輩とは言えない。人の気持に思い遣りがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。自己の能力を標準にして他人にもそれを要求し、それができないからとて怒りつけるのだから堪らない。彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよく解る。ただ彼には弱者の能力の程度がうまく呑み込めず、したがって、弱者の狐疑・躊躇・不安などにいっこう同情がないので、つい、あまりのじれったさに疳癪を起こすのだ。俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。八戒はいつも寐すごしたり怠けたり化け損ったりして、怒られどおしである。俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまで経っても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどん叱られ殴られ罵られ、こちらからも罵り返して、身をもってあの猿からすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。
夜。俺は独り目覚めている。
今夜は宿が見つからず、山蔭の渓谷の大樹の下に草を藉いて、四人がごろ寐をしている。一人おいて向こうに寐ているはずの悟空の鼾が山谷に谺するばかりで、そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。俺は先刻から仰向けに寐ころんだまま、木の葉の隙から覗く星どもを見上げている。寂しい。何かひどく寂しい。自分があの淋しい星の上にたった独りで立って、まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、どうも苦手だ。それでも、仰向いているものだから、いやでも星を見ないわけにいかない。青白い大きな星のそばに、紅い小さな星がある。そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。流れ星が尾を曳いて、消える。なぜか知らないが、そのときふと俺は、三蔵法師の澄んだ寂しげな眼を思い出した。常に遠くを見つめているような・何物かに対する憫れみをいつも湛えているような眼である。それが何に対する憫れみなのか、平生はいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、判ったような気がした。師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智や愛情や、そうした数々の善きものの上に、師父は絶えず凝乎と愍れみの眼差を注いでおられるのではなかろうか。星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣に寐ておられる師父の顔を覗き込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。
――「わが西遊記」の中――
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