昼餉ののち、師父が道ばたの松の樹の下でしばらく憩うておられる間、悟空は八戒を近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。
「やってみろ!」と悟空が言う。「竜になりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」
「よし!」と八戒は眼を閉じ、印を結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将が現われた。そばで見ていた俺は思わず吹出してしまった。
「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空が叱った。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、俺は。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。
「だめだめ。てんで気持が凝らないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」
よし、もう一度と八戒は印を結ぶ。今度は前と違って奇怪なものが現われた。錦蛇には違いないが、小さな前肢が生えていて、大蜥蜴のようでもある。しかし、腹部は八戒自身に似てブヨブヨ膨れており、短い前肢で二、三歩匍うと、なんとも言えない無恰好さであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。
「もういい。もういい。止めろ!」と悟空が怒鳴る。頭を掻き掻き八戒が現われる。
悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。
八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむきに。
悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。
八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。
悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。
悟空によれば、
変化の法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。法術の修行とは、かくのごとく
己の気持を純一
無垢、かつ強烈なものに統一する法を学ぶに
在る。この修行は、かなりむずかしいものには違いないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前のような大努力を必要とせず、ただ心をその形に置くことによって容易に目的を達しうる。これは、他の諸芸におけると同様である。
変化の術が人間にできずして
狐狸にできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くの
瑣事を
有たず、したがってこの統一が容易だからである、
云々。
悟空は確かに天才だ。これは疑いない。それははじめてこの
猿を見た瞬間にすぐ感じ取られたことである。初め、
赭顔・
鬚面のその
容貌を醜いと感じた
俺も、次の瞬間には、彼の内から
溢れ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくともりっぱだ)とさえ感じるくらいだ。その
面魂にもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きと
溢れている。この男は
嘘のつけない男だ。誰に対してよりも、まず自分に対して。この男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼の言葉を聞いているうちに、自然にこちらも彼の信ずるとおりに信じないではいられなくなってくる。彼のかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊かな自信に
充ちてくる。彼は
火種。世界は彼のために用意された
薪。世界は彼によって燃されるために在る。
我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動を
促す機縁だったりする。もともと意味を
有った
外の世界が彼の注意を
惹くというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。彼の内なる火が、外の世界に
空しく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって(恐ろしく荒っぽい詩人だが)彼に触れるすべてを
温め、(ときに
焦がす
惧れもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。だから、
渠・
悟空の眼にとって平凡
陳腐なものは何一つない。毎日早朝に起きると決まって彼は日の出を拝み、そして、はじめてそれを見る者のような驚嘆をもってその美に感じ入っている。心の底から、
溜息をついて、
讃嘆するのである。これがほとんど毎朝のことだ。松の種子から松の芽の出かかっているのを見て、なんたる不思議さよと眼を
瞠るのも、この男である。
この無邪気な悟空の姿と比べて、一方、強敵と闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全な姿であろう! 全身
些かの
隙もない
逞しい緊張。律動的で、しかも一
分のむだもない棒の使い方。疲れを知らぬ肉体が
歓び・たけり・汗ばみ・
跳ねている・その圧倒的な力量感。いかなる困難をも
欣んで迎える
強靱な精神力の
横溢。それは、輝く太陽よりも、咲誇る
向日葵よりも、
鳴盛る
蝉よりも、もっと打込んだ・裸身の・
壮んな・没我的な・
灼熱した美しさだ。あの
みっともない猿の闘っている姿は。
一月ほど前、彼が
翠雲山中で大いに
牛魔大王と戦ったときの姿は、いまだに
はっきり眼底に残っている。感嘆のあまり、
俺はそのときの戦闘経過を詳しく記録に取っておいたくらいだ。
……牛魔王一匹の
香
と変じ
悠然として草を
喰いいたり。
悟空これを悟り
虎に変じ
駈け来たりて香

を喰わんとす。牛魔王急に
大豹と化して虎を撃たんと飛びかかる。悟空これを見て
猊となり大豹目がけて襲いかかれば、牛魔王、さらばと
黄獅に変じ
霹靂のごとくに
哮って
猊を引裂かんとす。悟空このとき地上に転倒すと見えしが、ついに一匹の大象となる。鼻は
長蛇のごとく
牙は
筍に似たり。牛魔王堪えかねて本相を
顕わし、たちまち一匹の大
白牛たり。頭は
高峯のごとく眼は電光のごとく双角は両座の鉄塔に似たり。頭より尾に至る長さ千余丈、
蹄より背上に至る高さ八百丈。大音に呼ばわって
曰く、
悪猴今我をいかんとするや。悟空また同じく本相を
顕わし、
大喝一声するよと見るまに、身の高さ一万丈、
頭は
泰山に似て眼は日月のごとく、口はあたかも血池にひとし。奮然鉄棒を
揮って牛魔王を打つ。牛魔王
角をもってこれを受止め、両人半山の中にあってさんざんに戦いければ、まことに山も崩れ海も
湧返り、天地もこれがために
反覆するかと、すさまじかり。……
なんという壮観だったろう! 俺はホッと溜息を吐いた。そばから助太刀に出ようという気も起こらない。孫行者の負ける心配がないからというのではなく、一幅の完全な名画の上にさらに拙い筆を加えるのを愧じる気持からである。
災厄は、悟空の火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々と燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽のように、彼は、いつも全速力で廻っていなければ、倒れてしまうのだ。困難な現実も、悟空にとっては、一つの地図――目的地への最短の路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図として映るらしい。現実の事態の認識と同時に、その中にあって自己の目的に到達すべき道が、実に明瞭に、彼には見えるのだ。あるいは、その途以外の一切が見えない、といったほうがほんとうかもしれぬ。闇夜の発光文字のごとくに、必要な途だけがハッキリ浮かび上がり、他は一切見えないのだ。我々鈍根のものがいまだ茫然として考えも纏まらないうちに、悟空はもう行動を始める。目的への最短の道に向かって歩き出しているのだ。人は、彼の武勇や腕力を云々する。しかし、その驚くべき天才的な智慧については案外知らないようである。彼の場合には、その思慮や判断があまりにも渾然と、腕力行為の中に溶け込んでいるのだ。
俺は、悟空の文盲なことを知っている。かつて天上で弼馬温なる馬方の役に任ぜられながら、弼馬温の字も知らなければ、役目の内容も知らないでいたほど、無学なことをよく知っている。しかし、俺は、悟空の(力と調和された)智慧と判断の高さとを何ものにも優して高く買う。悟空は教養が高いとさえ思うこともある。少なくとも、動物・植物・天文に関するかぎり、彼の知識は相当なものだ。彼は、たいていの動物なら一見してその性質、強さの程度、その主要な武器の特徴などを見抜いてしまう。雑草についても、どれが薬草で、どれが毒草かを、実によく心得ている。そのくせ、その動物や植物の名称(世間一般に通用している名前)は、まるで知らないのだ。彼はまた、星によって方角や時刻や季節を知るのを得意としているが、角宿という名も心宿という名も知りはしない。二十八宿の名をことごとくそらんじていながら実物を見分けることのできぬ俺と比べて、なんという相異だろう! 目に一丁字のないこの猴の前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない。
悟空の身体の部分部分は――目も耳も口も脚も手も――みんないつも嬉しくて堪らないらしい。生き生きとし、ピチピチしている。ことに戦う段になると、それらの各部分は歓喜のあまり、花にむらがる夏の蜂のようにいっせいにワァーッと歓声を挙げるのだ。悟空の戦いぶりが、その真剣な気魄にもかかわらず、どこか遊戯の趣を備えているのは、このためであろうか。人はよく「死ぬ覚悟で」などというが、悟空という男はけっして死ぬ覚悟なんかしない。どんな危険に陥った場合でも、彼はただ、今自分のしている仕事(妖怪を退治するなり、三蔵法師を救い出すなり)の成否を憂えるだけで、自分の生命のことなどは、てんで考えの中に浮かんでこないのである。太上老君の八卦炉中に焼殺されかかったときも、銀角大王の泰山圧頂の法に遭うて、泰山・須弥山・峨眉山の三山の下に圧し潰されそうになったときも、彼はけっして自己の生命のために悲鳴を上げはしなかった。最も苦しんだのは、小雷音寺の黄眉老仏のために不思議な金鐃の下に閉じ込められたときである。推せども突けども金鐃は破れず、身を大きく変化させて突破ろうとしても、悟空の身が大きくなれば金鐃も伸びて大きくなり、身を縮めれば金鐃もまた縮まる始末で、どうにもしようがない。身の毛を抜いて錐と変じ、これで穴を穿とうとしても、金鐃には傷一つつかない。そのうちに、ものを蕩かして水と化するこの器の力で、悟空の臀部のほうがそろそろ柔らかくなりはじめたが、それでも彼はただ妖怪に捕えられた師父の身の上ばかりを気遣っていたらしい。悟空には自分の運命に対する無限の自信があるのだ(自分ではその自信を意識していないらしいが。)やがて、天界から加勢に来た亢金竜がその鉄のごとき角をもって満身の力をこめ、外から金鐃を突通した。角はみごとに内まで突通ったが、この金鐃はあたかも人の肉のごとくに角に纏いついて、少しの隙もない。風の洩るほどの隙間でもあれば、悟空は身をけし粒と化して脱れ出るのだが、それもできない。半ば臀部は溶けかかりながら、苦心惨憺の末、ついに耳の中から金箍棒を取出して鋼鑚に変え、金竜の角の上に孔を穿ち、身を芥子粒に変じてその孔に潜み、金竜に角を引抜かせたのである。ようやく助かったのちは、柔らかくなった己の尻のことを忘れ、すぐさま師父の救い出しにかかるのだ。あとになっても、あのときは危なかったなどとけっして言ったことがない。「危ない」とか「もうだめだ」とか、感じたことがないのだろう。この男は、自分の寿命とか生命とかについて考えたこともないに違いない。彼の死ぬときは、ポクンと、自分でも知らずに死んでいるだろう。その一瞬前までは溌剌と暴れ廻っているに違いない。まったく、この男の事業は、壮大という感じはしても、けっして悲壮な感じはしないのである。
猿は人真似をするというのに、これはまた、なんと人真似をしない猴だろう! 真似どころか、他人から押付けられた考えは、たといそれが何千年の昔から万人に認められている考え方であっても、絶対に受付けないのだ。自分で充分に納得できないかぎりは。
因襲も世間的名声もこの男の前にはなんの権威もない。
悟空の今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、過去ったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその都度、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これは判る。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこの猴は有っているのだ。
ただし、彼にもけっして忘れることのできぬ怖ろしい体験がたった一つあった。あるとき彼はそのときの恐ろしさを俺に向かってしみじみと語ったことがある。それは、彼が始めて釈迦如来に知遇し奉ったときのことだ。
そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼が藕糸歩雲の履を穿き鎖子黄金の甲を着け、東海竜王から奪った一万三千五百斤の如意金箍棒を揮って闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。列仙の集まる蟠桃会を擾がし、その罰として閉じ込められた八卦炉をも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒し薙ぎ倒し、三十六員の雷将を率いた討手の大将祐聖真君を相手に、霊霄殿の前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、迦葉・阿難の二尊者を連れた釈迦牟尼如来がそこを通りかかり、悟空の前に立ち塞がって闘いを停めたもうた。悟空が怫然として喰ってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそう威張っているようだが、いったい、お前はいかなる道を修しえたというのか?」悟空曰く「東勝神州傲来国華果山に石卵より生まれたるこの俺の力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでに不老長生の法を修し畢り、雲に乗り風に御し一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来曰く、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわが掌に上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てた悟空は、いきなり如来の掌の上に跳り上がった。「俺は通力によって八十万里を飛行するのに、
の掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらず
斗雲に打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。渠はこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、斉天大聖到此一遊と墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、得々として言った。「掌どころか、すでに三十万里の遠くに飛行して、柱にしるしを留めてきたぞ!」「愚かな山猿よ!」と如来は笑った。「汝の通力がそもそも何事を成しうるというのか? 汝は先刻からわが掌の内を往返したにすぎぬではないか。嘘と思わば、この指を見るがよい。」悟空が異しんで、よくよく見れば、如来の右手の中指に、まだ墨痕も新しく、斉天大聖到此一遊と己の筆跡で書き付けてある。「これは?」と驚いて振仰ぐ如来の顔から、今までの微笑が消えた。急に厳粛に変わった如来の目が悟空をキッと見据えたまま、たちまち天をも隠すかと思われるほどの大きさに拡がって、悟空の上にのしかかってきた。悟空は総身の血が凍るような怖ろしさを覚え、慌てて掌の外へ跳び出そうとしたとたんに、如来が手を翻して彼を取抑え、そのまま五指を化して五行山とし、悟空をその山の下に押込め、
嘛
叭※吽[#「口+迷」、174-17]の六字を金書して山頂に貼りたもうた。世界が根柢から覆り、今までの自分が自分でなくなったような昏迷に、悟空はなおしばらく顫えていた。事実、世界は彼にとってそのとき以来一変したのである。爾後、餓うるときは鉄丸を喰い、渇するときは銅汁を飲んで、岩窟の中に封じられたまま、贖罪の期の充ちるのを待たねばならなかった。悟空は、今までの極度の増上慢から、一転して極度の自信のなさに堕ちた。彼は気が弱くなり、ときには苦しさのあまり、恥も外聞も構わずワアワアと大声で哭いた。五百年経って、天竺への旅の途中にたまたま通りかかった三蔵法師が五行山頂の呪符を剥がして悟空を解き放ってくれたとき、彼はまたワアワアと哭いた。今度のは嬉し涙であった。悟空が三蔵に随ってはるばる天竺までついて行こうというのも、ただこの嬉しさありがたさからである。実に純粋で、かつ、最も強烈な感謝であった。
さて、今にして思えば、釈迦牟尼によって取抑えられたときの恐怖が、それまでの悟空の・途方もなく大きな(善悪以前の)存在に、一つの地上的制限を与えたもののようである。しかもなお、この猿の形をした大きな存在が地上の生活に役立つものとなるためには、五行山の重みの下に五百年間押し付けられ、小さく凝集する必要があったのである。だが、凝固して小さくなった現在の悟空が、俺たちから見ると、なんと、段違いにすばらしく大きくみごとであることか!
[1] [2] 下一页 尾页