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環礁(かんしょう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:25:51  点击:  切换到繁體中文



  風物抄

          ※(ローマ数字1、1-13-21)

クサイ
 朝、目が覺めると、船は停つてゐる樣子である。直ぐに甲板に上つて見る。
 船は既に二つの島の間にはひり込んでゐた。細かい雨が降つてゐる。今迄見て來た南洋群島の島々とは凡そ變つた風景である。少くとも、今甲板から眺めるクサイの島は、どう見ても、ゴーガンの畫題ではない。細雨に烟る長汀や、模糊として隱見する翠の山々などは、確かに東洋の繪だ。一汀煙雨杏花寒とか、暮雲卷雨山娟娟とか、そんな讚がついてゐても一向に不自然に思はれない・純然たる水墨的な風景である。

 食堂で朝食を濟ませてから、又甲板へ出て見ると、もう雨はあがつてゐたが、まだ、煙のやうな雲が山々の峽を去來してゐる。
 八時、ランチでレロ島に上陸、直ぐに警部補派出所に行く。此の島には支廳が無く、この派出所で一切を扱つてゐるのである。昔見た映畫の「罪と罰」の中の刑事のやうな・顏も身體も共に横幅の廣い警部補が一人、三人の島民巡警を使つて事務をとつてゐた。公學校視察の爲に來たのだと言ふと、直ぐに巡警を案内につけて呉れた。
 公學校に着くと、背の低い・小肥こぶとりに肥つた・眼鏡の奧から商人風の拔目の無ささうな(絶えず相手の表情を觀察してゐる)目を光らせた・短い口髭のある・中年の校長が、何か不埒なものでも見るやうな態度で、私を迎へた。
 教室は一棟三室、その中の一室は職員室にあててある。此處は初等課だけだから三年までである。門をはひるや否や、色の淺黒い(といつても、カロリン諸島は東へ行くにつれて色の黒さが薄らいでくるやうに思はれる)子供等が爭つて前に出て來ては、オハヨウゴザイマスと叮嚀に頭を下げる。
 教員は校長に訓導一人と島民の教員補一人。但し、一人の訓導とは女で、しかも校長の奧さんである。
 校長は授業を見られたくない樣子だ。殊に己が妻の授業を。私も亦、それを強要して、心理的な機微を觀察しようとする程、意地が惡くはない。たゞ、校長から、此處の島民兒童の特徴や、永年の公學校教育の經驗談でも聽くにとゞめようと思つた。所が、私は、何を聞かねばならなかつたか? 徹頭徹尾、私が先程會つて來た・あの警部補の惡口ばかりを聞かされたのである。
 此處ばかりには限らない。離島りたうで、巡査派出所と公學校と兩方のある島では、必ず兩者の軋轢がある。さういふ島では、巡査と公學校長(校長ばかりで下に訓導のゐない學校が甚だ多いので)と、島中でこの二人だけが日本人であり、且つ官吏であるので、自然勢力爭ひが起るのである。どちらか一方だけだと、小獨裁者の專制になつて却つて結果は良いのだが。
 私は今迄にも何囘となくそれを見ては來たが、ここの校長のやうに初對面の者に向つて、いきなり斯う猛烈にやり出すのは、初めてであつた。何の惡口といふことはない。何から何まで其の警部補のする事はみんな惡いのである。魚釣(此の灣内ではもろ鰺が良く釣れるさうだが)の下手なの迄が讒謗の種子にならうとは、私も考へなかつた。魚釣の話が一番あとに出たものだから、少し慌てて聞いてゐると、警部補は魚釣が下手故此の島の行政事務を任せては置けないといふ風な論旨に取られかねないのである。聞いてゐる中に、先程は何とも感じなかつた・あの横幅の廣い警部補に何だか好感が持てさうな氣がして來た。

 島を案内しようといふのをことわつて公學校を退却すると、私は獨りで、島民に道を聞きながら、「レロの遺跡」といふ名で知られてゐる古代城郭の址を見に行つた。今迄曇つてゐた空から陽が洩れ始め、島は急に熱帶的な相貌を帶びて來た。
 海岸から折れて一丁も行かない中に、目指す石の壘壁にぶつかる。鬱蒼たる熱帶樹に蔽はれ苔に埋もれてはゐるが、素晴らしく大きな玄武岩の構築物だ。
 入口をはひつてからが仲々廣い。苔で滑り易い石疊路が紆餘曲折して續く。室の跡らしいもの、井戸の形をしたものなどが、密生した羊齒類の間に見え隱れする。壘壁の崩れか、所々に※(「「壘」の「土」に代えて「糸」」、第3水準1-90-24)々たる石塊の山が積まれてゐる。到る所に椰子の實が落ち、或るものは腐り、或るものは三尺も芽を出してゐる。道傍の水溜には鰕の泳いでゐるのが見える。
 ミクロネシヤにはもう一つ、ポナペ島に之と同樣な(更に大規模な)遺址があるが、共に之を築いた人間も年代も判つてゐない。とにかく、その構築者が現住民族とは何の關係も無いものだといふことだけは通説となつてゐるやうだ。此の石壘に就いては何等まとまつた傳説が無い上に、現住民族は石造建築について何等の興味も知識も持たぬのだし、又之等巨大な岩石を何處いづこよりか(此の島に斯ういふ石は無い)海上遠く持ち運ぶなどといふ技術は、彼等よりも遙かに比較を絶して高級な文明を有つ人種でなければ不可能だからである。さういふ文明をもつた先住民族が何時頃榮え、何時頃亡び去つたか。或る人類學者は渺茫たる太平洋上に點在する之等の遺址(ミクロネシヤのみならずポリネシヤにも相當に存在する。イースター島の如きは最も有名だが)を比較研究した後、遙かなる過去の一時期に西は埃及から東は米大陸に至る迄の廣汎な地域を蔽うた共通の「古代文明の存在」を假定する。さうして、其の文明の特徴として、太陽崇拜、構築の爲の巨石使用、農耕灌漑その他を擧げる。斯うした壯大な假説は、私に、大變樂しい空想の翼を與へる。私は、太古埃及から東漸した高度の文明を身につけた・勇敢な古代人の群を想像することが出來る。彼等は、眞珠や黒耀石を追ひ求めては、果てしない太平洋の眞蒼な潮の上を、眞紅な帆でも掛けて、恐らくは葦の莖の海圖を使用しながら、或ひは、今でも我々の仰ぐオリオン星やシリウス星を頼りに、東へ東へと渡つて行つたに違ひない。さうして、愚昧な原住民の驚嘆を前に、到る處に小ピラミッドやドルメンや環状石籬を築き、瘴※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)な自然の中に己が強い意志と慾望との印を打建てたのであらう。……勿論、この假説の當否は、門外漢たる私に判る譯が無い。たゞ私は今、眼前に、炎熱と颱風と地震との幾世紀の後、尚熱帶植物の繁茂の下に埋め盡されもせずに其の謎の樣な存在を主張してゐる巨石の堆積を見、又一方、巨石の運搬どころか極く簡單な農耕技術さへ知らぬ・低級な現住民の存在を知つてゐるだけである。
 巨大な榕樹が二本、頭上を蔽ひ、その枝といはず幹といはず、蔦葛の類が一面にぶらさがつてゐる。
 蜥蜴が時々石垣の蔭から出て來ては、私の樣子を窺ふ。ゴトリと足許の石が動いたのでギヨツとすると、その蔭から、甲羅のさしわたし一尺位の大蟹が匍ひ出した。私の存在に氣が付くと、大急ぎで榕樹の根本の洞穴に逃げ入つた。
 近くの・名も判らない・低い木に、燕の倍ぐらゐある眞黒な鳥がとまつて、茱萸ぐみのやうな紫色の果を啄んでゐる。私を見ても逃げようとしない。葉洩陽はもれびが石垣の上に點々と落ちて、四邊あたりは恐ろしく靜かである。
 私の其の日の日記を見ると、斯う書いてある。「忽ち鳥の奇聲を聞く。再びげきとして聲無し。熱帶の白晝、却つて妖氣あり。佇立久しうして覺えず肌に粟を生ず。その故を知らず」云々。

 船に歸つてから聞いた所によると、クサイの人間は鼠を喰ふといふことである。

          ※(ローマ数字2、1-13-22)
ヤルート

 とろりと白い脂を流したやうな朝凪の海の彼方、水平線上に一本の線が横たはる。之がヤルート環礁の最初の瞥見である。
 やがて、船が近づくにつれて、帶と見えた一線の上に、先づ椰子樹が、次いで家々や倉庫などが見分けられて來る。赤い屋根の家々や白く光る壁や、果ては眞白な濱邊を船の出迎へにと出てくる人々の小さな姿までが。

 全くジャボールは小綺麗な島だ。砂の上に椰子と蛸樹たこのきと家々とを程良くあしらつた小さな箱庭のやうな。
 海岸を歩くと、ミレ村共同宿泊所、エボン村共同宿泊所等と書かれた家屋があり、其の傍で各島民が炊事をしてゐる。此處は全マーシャル群島の中心地とて遠い島々の住民が隨時集まつてくるので、其等の爲に各島でそれ/″\共同宿泊所を設けてゐる譯だ。

 マーシャルの島民は、殊に其の女は、非常にお洒落である。日曜の朝は、てんでに色鮮かに着飾つて教會へと出掛ける。それも、恐らくは前世紀末に宣教師や尼さんが傳へたに違ひない・舊式の・頗る襞の多いスカートの長い・贅澤な洋裝である。傍から見てゐても隨分暑さうに思はれる。男でも日曜は新しい青いワイシャツの胸に眞白な手巾を覗かせてゐる。教會は彼等にとつて誠に樂しい倶樂部、乃至演藝場である。
 衣服の法外な贅澤さに引換へて、住宅となると、之は亦、ミクロネシヤの中で最も貧弱だ。第一、ゆかのある家が少い。砂、或ひは珊瑚屑を少し高く積上げ、そこへ蛸樹の葉で編んだ筵を敷いて寢るのである。周圍に四本の柱を立て、蛸樹の葉と椰子の葉とで以てそれを覆へば、それで屋根と壁とは出來上つたことになる。こんな簡單な家は無い。窓も作ることは作るが、至つて低い所に付いてゐるので、丁度便所の汲取口のやうである。この樣な酷い住居にも、尚必ずミシンとアイロンとだけは備へてあるのだ。彼等の衣裳道樂に呆れるよりも、宣教師と結托したミシン會社の辣腕に呆れる方が本當なのかも知れないが、とにかく、驚くべきことである。勿論、ジャボールの町にだけは、ゆかを張つた・木造の家も相當にあるが、さうした床のある家には必ず縁の下に筵を敷いて住んでゐる住民がゐるのだ。マーシャル特産の蛸葉の纖維で編んだ團扇、手提籠の類は、概ね斯うした縁の下の住民の手内職である。

 同じヤルート環礁の内のA島へ小さなポンポン蒸汽で渡つた時、海豚の群に取圍まれて面白かつたが、少々危いやうな氣もした。といふのは、おどけた海豚共が調子に乘つてはしやぎ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り、小艇の底を潛つては右に左に現れ、うつかりすると船が持上りさうに思はれたからである。時々二三尾揃つて空中に飛躍する。口の長く細く突出た・目の小さい・ふざけた顏の奴共だ。船と競爭して、到頭島の極く近く迄ついて來た。
 島へ上つて見ると、丁度、ジャボール公學絞の補習科の生徒がコプラの採取作業をやつてゐる。増産運動の一つなのだ。島内を一巡して見たが、島中、椰子と蛸樹と麺麭樹とがギツシリ密生してゐる。熟した麺麭の果が澤山地上に落ち、その腐つてゐるのへ蠅が眞黒にたかつてゐる。側を通る我々の顏にも手にも忽ちたかつてくる。とても堪らない。途で一人の老婆が麺麭の實の頭に穴を穿ち、八つ手に似た麺麭の葉を漏斗代りに其處へ突込み、上からコプラの白い汁を絞つて流し込んでゐた。斯うして石燒にすると、全體に甘味が浸みこんでゐて大變旨いのださうである。

 支廳の人の案内でマーシャルきつての大酋長カブアを訪ねた。カブア家はヤルートとアイリンラプラプとの兩地方に跨がる古い豪家で、マーシャル古譚詩の中には屡※(二の字点、1-2-22)出て來る名前ださうである。
 瀟洒たるバンガロー風の家だ。入口に、八島嘉坊と漢字で書いた表札が掛かつてゐて、ヤシマカブアと振り假名が附けてある。此の地方の風と見えて、廚房だけは別棟になつてゐるが、それが四面皆竪格子で圍んだ妙な作りである。
 初め主人が不在とて、若い女が二人出て來て接待した。一見日本人との混血と分る顏立だが、二人とも内地人の標準から見ても確かに美人である。二人が姉妹だといふことも直ぐに判つた。姉の方がカブアの細君なのだといふ。
 程なく主人のカブアが呼ばれて歸つて來た。色は黒いが一寸インテリ風の・三十前後の青年で、何處か絶えずおど/\してゐる樣な所が見える。日本語は此方の言葉が辛うじて理解できる程度らしく、自分からは何一つ言出さずに、たゞ此方の言ふことに一々大人しく相槌を打つだけである。これが年收五萬乃至七萬に上るといふ(椰子の密生した島をつてゐるといふだけで、コプラ採取による收入が年にその位あるのだ)大酋長とは一寸思はれなかつた。椰子水とサイダーと蛸樹の果とをよばれて、殆ど話らしい話もせずに(何しろ向ふは何一つしやべらないのだから)家を辭した。
 歸途、案内の支廳の人に聞く所によれば、カブア青年は最近(私が先刻見た)妻の妹に赤ん坊を生ませて大騷ぎを引起したばかりだとのことである。

 早朝、深く水を湛へた或る巖蔭で、私は、世にも鮮やかな景觀ながめを見た。水が澄明で、群魚游泳のさまの手に取る如く見えるのは、南洋の海では別に珍しいことはないのだが、此の時程、萬華鏡の樣な華やかさに打たれたことは無い。黒鯛ほどの大きさで、太く鮮やかな數本の竪縞をつた魚が一番多く、岩蔭のあならしい所から頻りに出沒するのを見れば、此處が彼等の巣なのかも知れない。此の外に、透きとほらんばかりの淡い色をした・鮎に似た細長い魚や、濃緑色のリーフ魚や、ひらめの如き巾の廣い黒いやつや、淡水産のエンヂェル・フィッシュそつくりの派手な小魚や、全體が刷毛の一刷ひとはきの樣に殆ど鰭と尾ばかりに見える褐色の小怪魚、鰺に似たもの、鰯に似たもの、更に水底を匍ふ鼠色の太い海蛇に至る迄、其等目もあやな熱帶の色彩をした生物どもが、透明な薄翡翠色の夢の樣な世界の中で、細鱗を閃かせつゝ無心に游優嬉戲してゐるのである。殊に驚くべきは、あを珊瑚礁リーフ魚よりも更に幾倍か碧い・想像し得る限りの最も明るい瑠璃色をした・長さ二寸許りの小魚の群であつた。丁度朝日の射して來た水の中に彼等の群がヒラ/\と搖れ動けば、其の鮮やかな瑠璃色は、忽ちにして濃紺となり、紫藍となり、緑金となり、玉蟲色と輝いて、全く目も眩むばかり。斯うした珍魚共が、種類にして二十、數にしては千をも超えたであらう。
 一時間餘りといふもの、私は唯呆れて、茫然と見惚れてゐた。
 内地へ歸つてからも、私は此の瑠璃と金色の夢の樣な眺めのことを誰にも話さない。私が熱心を以て詳しく話せば話す程、恐らく私は「百萬のマルコマルコ・ミリオネ」と嗤はれた昔の東邦旅行者の口惜しさを味ははねばならぬだらうし、又、自分の言葉の描寫力が實際の美の十分の一をも傳へ得ないことが自ら腹立たしく思はれるであらうからでもある。

 ヘルメット帽は、委任統治領では官吏だけのかぶるものになつてゐるらしい。不思議に會社關係の人は之を用ひないやうである。
 所で、私は、餘り上等でないパナマ帽をかぶつて群島中ぐんたうぢゆうを歩いた。道で出會ふ島民は誰一人頭を下げない。私を案内して呉れる役所の人がヘルメットをかぶつて道を行くと、島民共は鞠躬如として道を讓り、恭しく頭を下げる。夏島でも秋島でも水曜島でもポナペでも、何處ででもみんなさうであつた。
 ジャボールを立つ前の日、M技師と私は、土産物の島民の編物を漁るために、低い島民の家々を――もつと正確にいへば、家々の縁の下を覗き歩いた。前に一寸言つたが、ヤルートでは、家々の縁の下に筵を敷いて女共がごろ/\してをり、さういふ連中が多く蛸樹の葉の纖維で編物をやつてゐるのである。M氏より十歩ばかり先へ歩いてゐた私は、或る家の縁の下に一人の痩せた女がバンドを編んでゐる所を見付けた。バンドは中々出來上りさうもないが、傍には既に出來上つたバスケットが一つ置いてある。私は、案内役の島民少年にバスケットの値段を聞かせる。三圓だといふ。もう少し安くならないかと言はせたが、中々承知しさうもない。そこへM氏が現れた。M氏も少年に値段を聞かせる。女はチラと私と見比べるやうにして、M技師を――いや、M技師の帽子を、そのヘルメットを見上げる。「二圓」と即座に女は答へる。オヤツと私は思つた。女はまだ自信の無いやうな態度で何かモゴ/\と口の中で言つてゐる。少年に通譯させると、「二圓だけれど、何なら一圓五十錢でもいい」と言つてゐるのださうだ。私が呆氣あつけに取られてゐる中に、M氏はさつさと一圓五十錢で其のバスケットを買上げて了ふ。
 宿へ歸つてから、私はM氏の帽子を手に取つて、しげ/\と眺めた。相當に古い・既に形の崩れた・所々に汚點しみの付いた・おまけに厭な匂のする・何の變哲も無いヘルメット帽である。しかし、私にはそれがアラディンのランプの如くに靈妙不可思議なものと思はれた。

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