夾竹桃の家の女
午後。風がすつかり呼吸を停めた。
薄く空一面を蔽うた雲の下で、空氣は水分に飽和して重く淀んでゐる。暑い。全く、どう逃れようもなく暑い。
蒸風呂にはひり過ぎた樣なけだるさに、一歩一歩重い足を引摺るやうにして、私は歩いて行く。足が重いのは、一週間ばかり寢付いたデング熱がまだ治り切らないせゐでもある。疲れる。呼吸が詰まるやうだ。
眩暈を感じて足をとゞめる。道傍のウカル樹の幹に手を突いて身體を支へ、目を閉ぢた。デングの四十度の熱に浮かされた時の・數日前の幻覺が、再び瞼の裏に現れさうな氣がする。其の時と同じ樣に、目を閉ぢた闇の中を眩い光を放つ灼熱の白金の渦卷がぐるぐるとり出す。いけない! と思つて直ぐに目を開く。
ウカル樹の細かい葉一つそよがない。肩甲骨の下の所に汗が湧き、それが一つの玉となつて背中をツーツと傳はつて行くのがはつきり判る。何といふ靜けさだらう! 村中眠つてゐるのだらうか。人も豚もも蜥蜴も、海も樹々も、咳き一つしない。
少し疲れが休まると、又歩き出す。パラオ特有の滑らかな敷石路である。今日のやうな日では、島民達のやうに跣足で此の石の上を歩いて見ても、大して冷たくはなささうだ。五六十歩下りて、巨人の頬髯のやうに攀援類の纏ひついた鬱蒼たる大榕樹の下迄來た時、始めて私は物音を聞いた。ピチヤ/\と水を撥ね返す音である。洗身場だなと思つて傍を見ると、敷石路から少し下へ外れる小徑がついてゐる。巨大な芋葉と羊齒とを透かしてチラと裸體の影を見たやうに思つた時、鋭い嬌聲が響いた。つづいて、水を撥ね返して逃出す音が、忍び笑ひの聲と交つて聞え、それが靜まると、又元の靜寂に返つた。疲れてゐるので、午後の水浴をしてゐる娘共にからかふ氣も起らない。又、緩やかな石の坂道を下り續ける。
夾竹桃が紅い花を簇らせてゐる家の前まで來た時、私の疲れ(といふか、だるさといふか)は堪へ難いものになつて來た。私は其の島民の家に休ませて貰はうと思つた。家の前に一尺餘りの高さに築いた六疊敷ほどの大石疊がある。それが此の家の先祖代々の墓なのだが、其の横を通つて、薄暗い家の中を覗き込むと、誰もゐない。太い丸竹を竝べた床の上に、白い猫が一匹ねそべつてゐるだけである。猫は眼をさまして此方を見たが、一寸咎めるやうに鼻の上を顰めたきりで、又目を細くして寢て了つた。島民の家故、別に遠慮することもないので、勝手に上り端に腰掛けて休むことにした。
煙草に火をつけながら、家の前の大きな平たい墓と、その周圍に立つ六七本の檳榔の細い高い幹を眺める。パラオ人は――パラオ人ばかりではない。ポナペ人を除いた凡てのカロリン群島人は――檳榔の實を石灰に和して常に噛み嗜むので、家の前には必ず數本の此の樹を植ゑることにしてゐる。椰子よりも遙かに細くすらりとした檳榔の木立が矗として立つてゐる姿は仲々に風情がある。檳榔と竝んで、ずつと丈の低い夾竹桃が三四本、一杯に花をつけてゐる。墓の石疊の上にも點々と桃色の花が落ちてゐた。何處からか強い甘い匂の漂つて來るのは、多分この裏にでも印度素馨が植わつてゐるのだらう。其の匂は今日のやうな日には却つて頭を痛くさせる位に強烈である。
風は依然として無い。空氣が濃く重くドロリと液體化して、生温い糊のやうにねば/\と皮膚にまとひつく。生温い糊のやうなものは頭にも浸透して來て、そこに灰色の靄をかける。關節の一つ一つがほごれた樣にだるい。
煙草を一本吸ひ終つて殼を捨てた拍子に、一寸後を向いて家の中を見ると、驚いた。人がゐる。一人の女が。何處から何時の間に、はひつて來たのだらう? 先刻迄は誰もゐなかつたのに。白い猫しかゐなかつたのに。さういへば今は白猫がゐなくなつてゐる。ひよつとすると、先刻の猫が此の女に化けたんぢやないかと(確かに頭がどうかしてゐた)本當に、極く一瞬間だが、そんな氣がした。
驚いた私の顏を、女はまじろぎもせずに見てゐる。それは驚いた目ではない。先刻から私が外を眺めてゐた間中ずつと此方を見てゐたといふ樣な感じがした。
女は上半身すつかり裸體で、鳶足に坐つた膝の上に赤ん坊を抱いてゐる。赤ん坊はひどく小さい。生れて二月にもなるまい。睡りながら乳首をくはへてゐる。吸つてゐる樣子は無い。びつくりしたのと、言葉が不自由なのとで、私は、勝手に留守宅に休ませて貰つた斷りを言ひそびれ、默つて女の顏を見てゐた。こんなに眼を外らさない女は無い。殆ど目を据ゑてゐると言つても宜い。熱病めいた異常なもの迄が、其の眼の光の中に漂つてゐるやうである。少々氣味が惡くなつて來た。
私が逃出さなかつたのは、女の目付の中に異常なものはあつても兇暴なものが見えなかつたからである。いや、まだもう一つ、さうやつて無言で向ひ合つてゐる中に次第に微かながらエロティッシュな興味が生じて來たからでもあつた。實際、その若い細君は美人といつて良かつた。パラオ女には珍しく緊つた顏立で、恐らく内地人との混血なのではなからうか。顏の色も、例の黒光りするやつではなくて、艶を消したやうな淺黒さである。何處にも黥の見えないのは、其の女がまだ若くて、日本の公學校教育を受けて來たためであらう。右の手で膝の兒を抑へ、左の手は斜め後に竹の床に突いてゐるが、其の左手の肱と腕とが(普通の關節の曲り方とは反對に)外側に向つてくの字に折れてゐる。斯ういふ關節の曲り方は此の地方の女にしか見られないものだ。稍反り氣味な其の姿勢で、受け口の脣を半ば開いた儘、睫の長い大きな目で、放心したやうに此方を見詰めてゐる。私は其の目を外らすことをしなかつた。
辯解じみるやうだが、一つには確かに其の午後の温度と、濕氣と、それから、其の中に漂ふ強い印度素馨の匂とが、良くなかつたのである。
私には先程からの、女の凝視の意味が漸く判つて來た。何故若い島民の女が(それも産後間もないらしい女が)そんな氣持になつたか、病み上りの私の身體が女のさういふ視線に値するかどうか、又、熱帶ではこんな事が普通なのかどうか、そんな事は一切判らないながら、とにかく現在のこの女の凝視の意味だけは此の上なくハツキリ判つた。女の淺黒い顏に、ほのかに血の色が上つて來たのを私は見た。かなり朦朧とした頭の何處かで、次第に増して來る危險感を意識してはゐたのだが、勿論それを嗤ふ氣持の方に自信をもつてゐたのである。その中に、しかし、私は妙に縛られて行くやうな自分を感じ始めた。
全く莫迦々々しい話だが、其の時の泥醉したやうな變な氣持を後で考へて見ると、どうやら私は一寸熱帶の魔術にかかつてゐたやうである。其の危險から救つて呉れたものは、病後の身體の衰弱であつた。私は縁に足を垂れて腰掛けてゐたので、女の方を見るためには、身體を捩つて斜め後を向かねばならない。此の姿勢がひどく私を疲れさせた。暫くする中に、横腹と頸の筋がひどく痛くなつて來て、思はず、姿勢を元に戻すと、視線を表の景色に向けた。何故か、深い溜息がホーツと腹の底から出た。途端に呪縛が解けたのである。
一瞬前の己の状態を考へて、私は覺えず苦笑した。縁から腰を上げて立上ると、其の苦笑を浮かべた顏で、家の中の女にサヨナラと日本語で言つた。女は何も答へない。酷い侮辱を受けでもしたやうに、明らかに怒つた顏付をして、先刻と同じ姿勢のまま私を見据ゑた。私はそれに背中を向けて、入口の夾竹桃の方へ歩き出した。
アミアカとマンゴーの巨樹の下を敷石傳ひに私は漸く宿に歸つて來た。身體も神經もすつかり疲れ果てて。私の宿といふのは、此の村の村長たる島民の家だ。
私の食事の世話をして呉れる日本語の巧い島民女マダレイに、先刻の家の女のことを聞いて見た。(勿論、私の經驗をみんな話した譯ではない。)マダレイは、黒い顏に眞白な齒を見せて笑ひながら、「ああ、あのベツピンサン」と言つた。そして、付加へて言ふことに、「あの人、男の人、好き。内地の男の人なら誰でも好き。」
先刻の自分の醜態を思出して、私は又苦笑した。
濕つた空氣のそよとも動かぬ部屋の中で、板の間の呉蓙の上に疲れた身體をぐつたりと横たへ、私は晝寢の眠りに入つた。
三十分程も經つたらうか。突然、冷たい感觸が私を目醒めさせる。風が出たのか? 起上つて窓から外を見ると、近くのパンの木の葉といふ葉が殘らず白い裏を見せて翻つてゐる。有難いなと思つて、急に眞黒になつた空を見上げてゐる中に、猛烈なスコールがやつて來た。屋根を叩き、敷石を叩き、椰子の葉を叩き、夾竹桃の花を叩き落して、すさまじい音を立てながら、雨は大地を洗ふ。人も獸も草木もやつと蘇つた。遠くから新しい土の香が匂つて來る。太い白い雨脚を見ながら、私は、昔の支那人の使つた銀竹といふ言葉を爽かに思ひ浮かべてゐた。
雨が霽つてから暫くして表へ出て見たら、まだ濡れてゐる敷石路を、向ふから先刻の夾竹桃の家の女が歩いて來た。家に寢かし付けて來たのか、赤ん坊は抱いてゐない。私と擦れ違つたが、視線を向けもしなかつた。怒つてゐる顏付ではなく、全然私を認めないやうな、澄ました無表情な顏であつた。
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