三
昨夜就寢する頃から少し胸苦しかつたが、夜半果して例の發作に襲はれて、起上る。アドレナリン一本をうち、朝迄床上に坐つてゐる。呼吸困難は稍
をさまつたが、頭痛甚だし。朝になつて未だ不安なので、エフェドリン八錠服用。朝食は攝らず。息苦しきため横臥する能はず。終日椅子に掛け机に凭り、カメレオンの籠を前に、頬杖をついて眺める。
カメレオンも元氣なし。鳥の止り木にとまり、小さな眼孔からぢつとこちらを見てゐる。動かず。瞑想者の風あり。尾の捲き方が面白い。木をつかんでゐるゆびは、前三本、後二本。體色は餘り變化しないやうだ。全く異つた環境に連れ込まれたために、之に應ずる色素の準備がないのか?
眺めてゐるうちに、ものが段々と、sub specie chameleonis に見えて來さうだ。人間としては常識として通つてゐることが、一つ一つ不可思議な疑はしいことに思はれて來る。頭痛は依然止まず。おほむね鈍痛だが、時にヅキヅキと劇しくなる。
頭痛の合間にきれ/″\にうかぶ斷想。
俺といふものは、俺が考へてゐる程、俺ではない。俺の代りに習慣や環境やが行動してゐるのだ。之に、遺傳とか、人類といふ生物の一般的習性とかいふことを考へると、俺といふ特殊なものはなくなつて了ひさうだ。之は云ふ迄もないことなのだが、しかし普通沒我的に行動する場合、こんな事を意識してゐる者は無い。所が私のやうに、全力を傾注する仕事を有たない人間には、この事が何時も意識されて仕方がない。しまひには何が何やら解らなくなつて來る。
俺といふものは、俺を組立てゝゐる物質的な要素(諸道具立)と、それをあやつるあるものとで出來上つてゐる器械人形のやうに考へられて仕方がない。この間、欠伸をしかけて、ふと、この動作も、俺のあやつり手の操作のやうに感じ、ギヨツとして伸ばしかけた手を下した。
一月程前、自分の體内の諸器關の一つ一つに就いて、(身體模型圖や動物解剖の時のことなどを思ひ浮かべながら)その所在のあたりを押して見ては、其の大きさ、形、色、濕り工合、柔かさ、などを、目をつぶつて想像して見た。以前だつて斯ういふ經驗が無いわけではなかつたが、それは併し、いはゞ、内臟一般、胃一般、腸一般を自分の身體のあるべき場所に想像して見たゞけであつて、頗る抽象的な想像の仕方だつた。しかし此の時は、何といふか、直接に、私といふ個人を形成してゐる・私の胃、私の腸、私の肺(いはゞ、個性をもつた其等の器關)を、はつきりと其の色、潤ひ、觸感を以て、その働いてゐる姿のまゝに考へて見た。(灰色のぶよ/\と弛んだ袋や、醜い管や、グロテスクなポンプなど。)それも今迄になく、かなり長い間――殆ど半日――續けた。すると、私といふ人間の肉體を組立ててゐる各部分に注意が行き亙るにつれ、次第に、私といふ人間の所在が判らなくなつて來た。俺は一體何處にある? 之は何も、私が大腦の生理に詳しくないから、又、自意識に就いての考察を知らないから、こんな幼稚な疑問が出て來た譯ではなからう。もつと遙かに肉體的な(全身的な)疑惑なのだ。
その日以來こんな想像に耽るやうになり、それが癖になつて、何かに紛れてゐる時のほかは、自分の體内の器關共の存在を生々しく意識するやうになつて來た。どうも不健康な習慣だと思ふが、どうにもならない。一體、醫者は斯ういふ經驗を有つだらうか? 彼等は自分達の肉體に就いても、患者等のそれと同樣に考へてゐるだけであつて、自分の個性の形成に與る所の自分の胃、自分の肺を、何時も自分の皮膚の下に意識してゐる譯ではないのではなからうか。
身體を二つに切斷されると、直ぐに、切られた各
の部分が互ひに鬪爭を始める蟲があるさうだが、自分もそんな蟲になつたやうな氣がする。といふよりも、未だ切られない中から、身體中が幾つもに分れて爭ひを始めるのだ。外に向つて行く對象が無い時には、我と自らを噛み、さいなむより、仕方がないのだ。
私が何事かに就いて豫想をする時には、何時も最惡の場合を考へる。それには、實際の結果が豫想より良かつた時にホツとして卑小な嬉しさを感じようといふ、極めて小心な策略もあるにはあるやうだ。私が人を訪ねようとすると、私は先づ彼が留守である場合を考へ、留守でも落膽しないやうにと自分に言ひきかせる。それから、在宅であつても、何か取込中だとか他に來客がある場合のこと、又、彼が何かの理由で(假令、どんなに考へられない理由にしろ)自分に對して好い顏を見せないであらう場合、その他色々な思はしくない場合を想定して、さういふ場合の方が好都合な場合よりもより多くあり得ることに思ひ込み、さうして、さういふ場合でも決して落膽せぬやうに自分を納得させてから、出掛けるのである。
何事に就いても之と同樣で、竟には、失望しないために、初めから希望を有つまいと決心するやうになつた。落膽しないために初めから慾望をもたず、成功しないであらうとの豫見から、てんで努力をしようとせず、辱しめを受けたり氣まづい思ひをし度くないために人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなつて了つた。外へ向つて展かれた器關を凡て閉ぢ、まるで掘上げられた冬の球根類のやうにならうとした。それに觸れると、どのやうな外からの愛情も、途端に冷たい氷滴となつて凍りつくやうな・石とならうと私は思つた。
我はもや石とならむず 石となりて つめたき海を沈み行かばや
氷雨降り狐火燃えむ 冬の夜に われ石となる黒き小石に
眼瞑づれば 氷の上を風が吹く われ石となりて轉びて行くを
腐れたる魚のまなこは 光なし 石となる日を待ちて吾がゐる
たまきはる いのち寂しく見つめけり つめたき星の上に獨りゐて
今迄和歌を作つたことのない私が、こんな妙なものを書散らしては、自ら球根の
うたと哂ふのである。
金魚鉢の中の金魚。自分の位置を知り、自己及び自己の世界の下らなさ・狹さを知悉してゐる絶望的な金魚。
絶望しながらも、自己及び狹い自己の世界を愛せずにはゐられない金魚。
幼い頃、私は、世界は自分を除く外みんな狐が化けてゐるのではないかと疑つたことがある。父も母も含めて、世界凡てが自分を欺すために出來てゐるのではないかと。そして何時かは何かの途端に此の魔術の解かれる瞬間が來るのではないかと。
今でもさう考へられないことはない。それを常にさうは考へさせないものが、つまり常識とか慣習とかいふものだらう。が、其等も私のやうな世間から引込んでゐる者には、もはや、さう強い力をもつてゐない。照明の變化と共に舞臺の感じがまるで一變するやうに、世界は、ほんのスヰッチの一ひねりで、さういふ幸福な(?)世界ともなり得るし、又同じ一ひねりで、荒冷たる救ひのないものともなる。私にとつて其のスヰッチが往々にして、呼吸困難の有無であり、鹽酸コカインやヂウレチンのきゝめ加減、天候の晴雨、昔の友人からの來信の有無等である。
大きな――時に不可解な――ものの中に(組織、慣習、秩序)晏如と身を置いてゐる氣易さ。
さういふものから、すつかり離れてゐる自由な人間の苦しさ。
さういふ自由人は、自己の中で人類發展の歴史をもう一度繰返して見なければならぬ。普通人は慣習に無反省に從ふ。特殊な自由人は、慣習を點檢して見て、それが成立するに至つた必然性を實感しない限り、それに從はうとしない。いはゞ、彼は、人間が其の慣習を形作るに至つた何百年かの過程を、一應自己の中に心理的に經驗して見ないことには氣が濟まないのである。
私自身の性情も、傾向としては、それに似たものを
有つてゐるやうだ。さういふ特殊の人達に往々見られる優れた獨創的な思考力だけは缺いて。
友人の一人が「遠交近攻の策」と評した一つの傾向。一生懸命になつて巴里の地圖をこしらへたりして頭の中では未知の巴里の地理に一かど精通してゐるくせに、もう二年も住んでゐる此の港町の著名な競馬場へも、ひとりでは行けない。博物の教師のくせに博物のことは
ろくに知らず、古い語學を噛つて見たり、哲學に近いものを
漁つて見たりする。それでゐて、何一つ本當には自分のものにしてゐないだらしなさ。全くの所、私の
ものの見方といつたつて、どれだけ自分の
ほんものがあらうか。
いそっぷの話に出て來るお洒落鴉。レヲパルディの羽を少し。ショペンハウエルの羽を少し。ルクレティウスの羽を少し。莊子や列子の羽を少し。モンテエニュの羽を少し。何といふ醜怪な鳥だ。
(考へて見れば、元々世界に對して甘い考へ方をしてゐた人間でなければ、厭世觀を抱くわけもないし、
自惚やか、自己を甘やかしてゐる人間でなければ、さう何時も「自己への省察」「自己苛責」を繰返す譯がない。だから、俺みたいに常にこの惡癖に耽るものは、
大甘々の
自惚やの見本なのだらう。實際それに違ひない。全く、
私、
私、と、どれだけ
私が、えらいんだ。そんなに、しよつちゆう
私のことを考へてるなんて。)
四
今日も勤めのない日。火、水、木、と三日、休みが續くのである。昨夜は稍
![※(二の字点、1-2-22)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-02/1-02-22.png)
眠れた。發作への懸念(殆ど恐怖といつてもいゝ)も先づ無くなる。持藥の
麻杏甘石湯の分量を少し増す位で濟みさうである。鈍い頭痛は依然去らない。午前中
嘔氣少々。
カメレオンは一昨日から蠅を十二三匹しか喰べてゐない。止り木から下りて、綿の上に
蹲つてゐる。寒いのであらう。之では長くもつまいと思ふ。いよ/\仕方がなければ動物園へ持つて行くことにしよう。後肢のつけねの所に小さい黒褐色の傷痕がついてゐる。學校で床へ落ちた時に傷めたのだらうか。背中のギザ/\はハンド・バッグの口に使ふチャックに似てゐる。
今日も午前中ずつと小爬蟲類を前に、ぼんやり頬杖をついてゐた。少し眠い。前の晩に全然眠れなかつた日より、なまじ一・二時間眠れた次の日の方が眠いのである。うとうとしかけてハツと氣がついた瞬間、目の前のカメレオンの顏が、ルヰ・ジュウベエ扮する所の中世の生臭坊主に見えた。カメレオンと
簑蟲との對話といふレヲパルディ風のものを書いて見度くなる。簑蟲の形而上學的疑惑、カメレオンの享樂家的逆説。……等々……。但し勿論本當に書きはしない。書くといふことは、どうも苦手だ。字を一つ一つ綴つてゐる時間の
まどろつこしさ。その間に、今浮かんだ思ひつきの大部分は消えてしまひ、頭を掠めた中の最も
くだらない殘滓が紙の上に殘るだけなのだ。
午後、不圖頁をくつた或る本の中に、自分の精神の
あり方を此の上なく適切に説明してくれる表現を見つけた。
――人間の分際といふものの不承認。そこから來る無氣力。拗ねた理想の郷愁。氣を惡くした自尊心。無限を垣間見、夢みて、それと比較するために、自分をも事物をも本氣にしない……。自己の無力の感じ。周圍の事情を打破る力も、強ひる力も、按排する力も無く、事情が自分の欲するやうになつてゐない時には、手を出すまいとする。自分で一つの目的を定め、希望をもち、鬪つて行くといふ事は、不可能な・途方もない事のやうに思はれる。――
私は本を閉ぢた。之は恐ろしい本だ。何と明確に私を説明して呉れることか!
何とかしなければならぬ。これではどうにも仕樣がない。このまゝでは、生きながらの立消だ。次第に俺は、俺といふ個人性を稀薄にして行つて、しまひには、俺といふ個人がなくなつて、人間一般に歸して了ひさうだぞ。冗談ぢやない。もつと我執をもて! 我慾を! 排他的に一つの事に迷ひ込むことが唯一の救ひだ。アミエルの乾物になるな。自分で自分のあり方を客觀的に見ようなどといふ・自然に悖つた不遜な眞似は止めろ。無反省に、づう/\しく(それが自然への恭順だ)粗野な常識を尚び、盲目的な生命の意志にだけ從へ。
夕方、吉田が訪ねて來る。大變激昂した樣子である。以前から彼との間にいざこざの絶えなかつた體操の教師が、今日「一寸顏を貸して呉れ」と、吉田を雨天體操場の控室に呼び込んで、亂暴な言葉で彼をなじり、脅迫的な態度に出たといふ。憤慨した吉田が直ぐに校長の所へ話を持つて行つた所、校長も勿論體操教師の亂暴を非難しはしたが、それでも、暗に、喧嘩兩成敗といつた考へを仄めかしたとかで、彼は非常に不滿なのだ。「辭めてもえゝのんや」と繰返していふ。たしか、以前にも二三囘、彼は斯うした事から「辭める」と騷ぎ出し、職員全部にそれをふれて
つたが、結局辭めなかつた。あとになるとケロリとしてゐる。たゞもうカツとなると、皆の所へ行つて騷ぎ立て、繰返し/\愚痴を聞かせ、自己の正當と相手の不當とを認めて貰はなければ氣が濟まないのである。しかし、彼はいくら腹を立てた時でも、決して自分の損になること(毆り合ひをしたり、思ひ切つて辭職したり)はしない。今日とて、唯、私のアパアトが學校の近くにある爲に、歸りに立寄つて、それ程親しくもない私ではあるが、それでも一人でも多くの者に自分の正當さを認めて貰はうとしたゞけなのだ。辭める心配は絶對に無い。餘り騷ぐと後で引込がつかなくなり、てれ臭い思ひをせねばなるまい、との心配も彼にはない。てれるなどといふ事を彼は知らないからである。たゞ、どんな場合にでも、目に見えた損だけはしないやうに振舞つてゐるのは、彼の身についた本能なのであらう。
一通りの憤慨がすむと、まづ氣が濟んだといふ態で、今度は、昨日、或る先輩から紹介されて、縣の學務部長に會ひに行つた話を始めた。學務部長が非常に款待してくれて、又遊びに來給へ、と肩を叩かんばかりにして呉れたこと、だから、これからも時々伺はうと思つてゐること、この學務部長さん(彼はさんをつけ、このやうな高官に衷心からの尊敬を抱かないやうな人間の存在は、想像することも出來ない樣子である)は從×位、勳×等で、まだ若いからもつと大いに出世されるであらうこと、この人の夫人の父君が内閣の某高官であることなど、恐懼に堪へないやうな語り口で話した。全く、先刻の悲憤をまるで忘れて了つたやうな幸福げな面持である。
吉田が歸つてから、幸福といふことを一寸考へて見る。躍氣となつて騷ぎ立て他人に自分の立場を諒解して貰ふことが、彼にとつての幸福であり、役人と近づきになることが彼の最大の愉悦なのだ。それを嗤ふ資格は私には無い。嗤つたとしても、それでは、私にどんな幸福があるといふのだ。「衆人熙々トシテ大牢ヲ享クルガ如ク、春、臺ニ登ルガ如シ。我獨リ怕兮トシテ、嬰兒ノ未ダ咳ハザルガ如ク、儡レテ歸スル所ナキガ如シ。俗人昭々トシテ我獨リ昏キガ如ク、俗人察々トシテ我獨リ悶々タリ。……」學務部長に隨喜の涙を流す吉田の姿が、急に、皮肉でも反語でもなく、誠に此の上無く羨ましいものに思はれて來た。
夜、床に就いてから、先刻の吉田の、脅迫云々の言葉を思ひ出し、向ふつ氣は頗る強いが腕力の無い吉田が、其の時どんな態度をとつたか、と考へて見たら、をかしくなつて來た。自分だつたらどうするだらうと、考へて見た。
まことに意氣地の無い話だが、私は、暴力――腕力に對して、まるで對處すべき途を知らぬ。勿論、それに屈服して相手の要求を容れるなどといふ事は意地からでもしないけれども、たとへば、毆られたやうな場合、どんな態度に出ればいいのだらう。此方に腕力が無いから毆り返す譯には行かぬ。口で先方の非を鳴らす? さういふ時の自分の置かれた位置の慘めさ、その女のやうな哀れな饒舌が厭なのである。その位なら、いつそ超然と相手を默殺した方がましだ。併し其の場合にも猶、負惜しみ的な弱者の強がりが、(傍人に見えるのは差支へないとして)自分に意識されて立派とは思へない。といふよりも、私は、他人との間に暴力的な關係に陷つたといふ・その事だけで、既に、心中の大變な擾亂・動搖を免れない。暴力への恐怖は動物的本能だとか、暴力の實際の無意義さとか、暴力行使者への輕蔑とか、そんな議論は此の際三文の値打もなく、私の身體は顫へ、私の心は只もう譯もなくベソをかいて了ふのである。暴力の侵害(腕力ばかりでなく、思ひがけない野卑な惡意、誤解なども之に入れていい)に打克つだけの力を備へてゐるのは結構に違ひないが、相手に對抗し得る腕力・權力を有たないでゐて、(或ひは有つてゐても、それを用ひずに)唯精神的な力だけで悠揚と立派に對處し得る人があれば、尊敬しても宜いと思ふ。それはどんな方法によるか、私には想像もつかない。色々な有名な人物を考へて見ても、その社會的な背景を剥ぎ去つて暴力の前に曝した場合に立派に對處できさうな人は中々思ひ當らないやうだ。
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