七
弥之助は、健康の転換の為に熱海の温泉へ出掛けた、弥之助の少年時代は仲々健康児の方で、手首等は自分の指で握りきれない太さを持って居たが、東京へ出て苦学と云う事をしたり家庭を背負って生活戦線に疲れたりしたものだから、甚だしく健康をそこねて二十歳前後一時は絶望とまで思われたのに、努力によって三十歳の後半からまた健康を取り直し今では二十貫の体量になっているが、いずれにしても一度きずついた体であるから自重する念が深い、そこで冬はなるべく温い土地で暮したいと思うがまだ別荘を持つまでに至らない、熱海と云う所は昔から好きな所であった、今から三十年ばかり前に逗留保養したことまである温泉だが、大震災以後土地の気分がこわれた上に鉄道が開通し自動車の世の中になってからは町全体が昔の様な潤いが欠けてしまった感じがする。
しかし避寒を兼ねての東京へ一番近い養生地と云えばこの地に越した所はないので弥之助は冬はしばしば此処へやって来る。
今日もまた海岸の中流処の宿屋に陣取って二日ばかり保養した、海岸は波の音がよもすがらやかましいけれど、此所には「河原の湯」と云う名湯がある、弥之助はこの湯が好きなので宿の内湯等は二の次にして此所であたたまる事を楽しんで居た、河原の湯は昔とは違って改造され、一浴五銭ずつ取って大きな共同風呂になって居る、その熱度と新鮮味とが他の何所の湯よりも肌に爽である。
弥之助は此所で二日ばかり保養した後、東京へ取って返した。枝付きの蜜柑を買い込んで土産とし、三等客として空席の一つを占めたが向合いに黒いとんび外套を着た相当品格のあるお爺さんが一人居た、汽車が小田原を過ぎた時分にこのお爺さんは首を伸ばして、
「小田原城はどの辺になりますか」
と弥之助に向って尋ねた。
窓の左の方をながめた弥之助が、
「あの黒い森のあたりが一帯にそうです」
老人がそれを眺めて、
「仲々広いものですな」
弥之助がまたそれに調子を合せて、
「仲々広いです、しかし北条氏時代の小田原城はまだまだ何倍も広かったでしょう、なんしろあの中へ北条氏が関八州の強者八万騎を入れて八カ月を持ちこたえ、太閤が天下の兵二十万を以てこれを囲んだと云うのですから、徳川氏になってからの小田原城とは規模がちがいましょう」
と弥之助はやや啓蒙的に説明を試みると老人は予想以上に歴史に理解があって次の様に答えた。
「そうです、小田原勢もえらかったが太閤の軍略も素晴らしい、太閤と云う人は戦も上手だったが、軍略にかけてはさすがに日本一でした、小田原城にしてもああして大軍は動かしたけれども殆ど兵は殺していないです、無理な力攻めは決してしない人でした、或る点まで戦をしてそれからは軍略で大勢を制して大局の勝を取ると云う事にかけては全く古今独歩の英雄でしたねえ」
弥之助はこの老人の理解に尊敬の念を起して彼の対話もまたはずんで来た。
「その通りです、戦をさせたら家康の方に強味があるにしてからが、やっぱり最後にはあれを包容してしまいました、なるべく兵をいためずに大局を制すると云う点はえらいものですよ、あすこが武田でも上杉でも誰でも及ばないところです、天下を取るのは力ずくだけでは駄目です、略でいかなければ」
老人もまた弥之助の言葉にぴったりと意気が合うので、
「ところが欧羅巴の大戦争をはじめ近頃の戦争と云うものは……」
老人は近代戦争の兵器と人間との全面的衝突の恐るべき事を説いて「戦争に軍略と云うものがなくなった」と云う事を非道く慨歎して居た。
それから二人の会話が何時しか西郷と勝の江戸城ゆずり渡しの事に及んで来た。
考えて見ると、西郷も勝も偉かったものだ、維新の開幕は必ずしも二人だけがうった大芝居ではない、内外の情勢殊に英国公使あたりのにらみも大分きいて居たと云う事だが、然し何と云ってもあの場は二人の舞台である、もしかりにあの二人の大芝居がうちきれないで江戸の城下が火になると云う事になれば、東北の強みはぐんと増して来る、それから所在佐幕に同情を持つ諸藩の向背ががらりと変って来る、日本がまた元亀、天正以前の状態になる、幸に新政府が成立したからと云って、その政治の奔命に疲らされて革新の精力などは消磨されてしまう、そこへ外国の勢力が割込むと云う様な事になった日には維新の事業どころではない、国そのものが半属国のような運命に落込まないとは限らない、西郷と勝の二人ばかりが千両役者ではない、明治の維新と云うものは有ゆる方面の力によって達成されたには相違ないけれども、人物が、少くともあの場合この二人の立役者が人命を救い国の運命を救った、エライ人物が出ると云うことは或意味では国の不祥と云えるかも知れない、然し人物が無い為に国を誤るの不祥はそれより以上の不幸と云わなければならない。ドイツにヒットラーが出たりイタリーにムッソリーニが出たりして乱れた国家を統制しこれを活躍せしむる外観はすばらしいが、ああ云う人物を生み、ああまでしなければ立ち行かなくしたヨーロッパ大戦以来の惨憺たる不幸を見れば、いたずらに英雄待望ばかりをして居られない、今の日本に西郷隆盛が居ない、支那に勝海舟が居ない――と云う事が二つの国民の為に幸か不幸か。
と云う様な事を弥之助は老人と共に語りあった、弥之助だけがそう云う考えを説いて聞かせたのではない、この老人も立派に弥之助とバツを合せるだけの見識を持って居た。
老人は品川で山の手線に乗り替えて新宿の方へ別れた、弥之助は東京駅まで乗った。
八
それから植民地に帰って数日して弥之助はまた東京へ出かけて来た。
それは午後の四時頃であった、中央線の電車は満員鮨詰であってその大部分は学生であった。この頃はたまにしか電車に乗る事のない弥之助はこの箱の中に積み込まれて見ると、
「人が多いなあ」と云う感じにせまられる、人間が多過ぎるなあ、一たいこんなに多くの人間が必要なのかしら――とやけの様に考えさせられる事がある。殊に東京市内から中央沿線に多くの学校が移されたところから、或る時刻になるとここの列車が学生であふれる。ここの沿線ばかりではない、弥之助の植民地の方へ行く私設の沿線でさえも学生であふれかえる。日本には人間の数も多いが学生の数も多いなあとあきれ返るばかりである。
弥之助の植民地の本村などでも昔は、小学校以上の学校へ通うものが一村のうちで一人か二人位のものであった。まして女の子に至っては尋常科四年生を卒業すれば充分だと云われたものであるが、今はもうちょっとしたところの農家でも女学校を出さなければ嫁入資格に欠けると云う様な事になっている。
どちらから見ても日本は人間がどしどしふえて行く、教育がずんずんはびこって行く、建築でも道路でもどしどし強化拡張されて行く、非常時の、農村疲弊のと云うけれども、そう云う都会中心の景気を表面から見ただけでは、すばらしい発展である。
そのうちに席が一つ空いたから弥之助は其処へ割り込むと、ひょっこりその前へ現われた背広服の青年が、うやうやしくあいさつした。
「先生どちらへお出でですか」
「やあ小山君か」
と云うのをきっかけに二人はそこで立話をした、この青年は去年上野の美術学校を出た秀才でかっぷくのいい形をして居た。
「どうです、君なんぞは兵隊の方は」
と尋ねると、青年は答えた。
「覚悟はして居ますけれどもまだ召集がありません、私達の同窓にはすでに召集されて出征した人もあり戦死者もあります、美術出身でもう十五名は召集されて居りますが、その内五名は戦死と云うことが解りました。僕の親友であったSと云う青年が、校中の人望家でもあったし人物も立派で気象も秀れて居て柔道も三段でありましたが、上海でとうとうやられてしまいました、しかもその男は同郷の資産家の一ツブ種です、僕の様な次男坊でどうでもいい人間は無事健在でああ云う人間がやられるのだから感慨に堪えません」
と小山青年が云った。弥之助はそれを聞いて、
「うーん」
と口を結んだ、いま、日本の内地へは爆弾一つ落っこちて来るのではない、実感的に何等驚破される非常時現象が眼の前に展開されている訳ではない、こうして平和そのものの秋の夕ぐれの武蔵野の中を走る電車は明朗な青年たちで張り切って居る、然し彼等とても全く米の価を知らずに、ただ食いただ肥って居るだけではない、美校出身だけでも十五、六、七名の出征者のうちに死者五名と云う事であれば少なくとも三分の一が死んで居るのである。
肉弾、肉弾、全国を通じての肉弾の貴重すべき犠牲は外で戦われて居るから内なる人の日本人の実感にこたえる事が甚だすくないのではないか。日本現在を斯くも安らかにしているのは、皆、外に戦っている肉弾のお蔭である。
九
弥之助は植民地から東京へ往復するに国産小型自動車を用いて居る。
自動車では相当に苦労したものである、あえて贅沢のために自動車を欲しがるものではない、自分の健康上と業務の上との両方面から経済的にこれを利用し度いとの希望の為に、二台まで中古自動車を買ったが、皆失敗した。
その一つはダッチブラザーの古物であったがこれは旧式ではあるが中々機械の質がよく少々利用して東海道、東山道など突破した事もあるが、長く続かなかった、部分品や修繕に中々金がかかるのと正式運転手を一人やとい入れるのとではかなりの大負担になる、そこで世話をした自動車屋が、営業上に籍を置いて呉れて必要の時だけ乗りまわす事にしたが、万事につけて出費が多くてものにならなかった。
そのうちに一人の青年が来て私立大学に通う学資を得る為に運転手をし度い、幸い、自分は免許状を持って居ると云う事を申出て来たからその話に乗り込んで中古のシボレー一台を買い込み、営業用に登録し必要の時はこちらが乗ると云う事に約束をきめてかかったが、営業用にかせがせれば車体が甚だしく痛むと云う事を頭に置かなかったものだから修繕費修繕費に追われてしまう、遂には腹が立って捨値に売り飛ばしてしまった。
自家用専門に本式自動車を持つとすれば税金だけでも年額五百円はかかる、それに運転手の給料その他を加えると容易なものではない。そこで一先ず自動車とは縁を絶ったが何分不便でたまらない、然るべき専用乗物が欲しいと考えて居るうち、或る朝日本橋の昭和通りを歩くと店にマツダ号という三輪自動車が一台かざられてあった、割合安いからそれを買い取って小型運転手を一人やとって、これは可なり乗り廻したが、発火が容易でなく、ガソリンも食う、不便不満を忍んでそれを乗り廻して居るうちに、日産のダットサンが出現して来た、これは今の処自分の自家用としては丁度手頃のものであると云うところから早速これを買い入れたのであるが、前の三輪車からくらべるとこれでも殿様で、ただ形が小さいだけで万事本式の自動車とかわる事はない、それに運転証はだれでも簡単にとれる小型運転手の免許状でいいし道路は自転車の入り得るところならどこへでも行けるし、そうしておまけに税金も自転車なみと云うような訳で、すべてが現在の自分にはぴったりして居るからこれは引きつづいて愛用し、一年余にして新車と買い替えて引続き今日に及んで居る、これに依って非常な遠乗もやるし植民地から自分を乗せて東京に運ぶばかりではない、出版物や活字、組版等を乗せて往復する、その功労たるや至大なものである、これがあればこそ弥之助は東京を仕事場として植民地に引込んで居られるのである、弥之助の現在の仕事は、小型自動車の足を別にしては考えられない程密接な働きをして居る。
弥之助としてはダットサンに金鵄勲章を授けて然る可き関係になっては居るが、然しこの車にも不足を云えば不足がある、英国の小型オースチンはまだ使用した事はないが、あれ等にくらべるとその耐久性に於て大いに劣るところがある様に思われる、この小型自動車が大いに発展して一台千円位で買えるようになれば実用流行共に期して待つ可きである。
百姓弥之助は昔から自動車を贅沢品とは考えて居ない、行く行く実用品として各戸一台は備えねばならぬ様な時代が来るものだと思って居る。
十
百姓弥之助は十二月初めの或る一日、用事を兼ねて、東京の市中を少々ばかり歩いて見た。
日本橋の三越のところから地下鉄に乗って、上野の広小路松坂屋へ行って、「非常時国産愛用廃品更生展覧会」という素晴らしく大げさな催しを見に行った。これは日本商工会議所というところの主催であるそうだが、題名のいかめしい割合に内容はお粗末なといっていいものである。一旦使用した廃物を再生したと称する日用品の陳列が相当ある、係員が不親切な為にどうも会の趣意が徹底しない、例えば、出来上った製作品をなぜ即売しないかと問えば、これはただ斯ういうものが出来るという見本だけだという、それでは廃品更生の宣伝にならないではないか、希望者に分けてやって、斯ういう廃物で斯ういうものが出来るということを見直させ、流行させるようにしなければ徹底しないではないか、というと、事務員が、
「これは素人には出来ません、素人がこれだけやるには七八年も年期を入れなければ出来ません」という。
「それではなんにもならない、七八年も年期を入れなければ出来ないものを拵えさせるのでは、利用更生にならない、誰にも出来るようなもの、田舎へ持って行っても、家庭でも土地の仕立屋でもやれるようなものでなければ徹底しない筈である」
ということを弥之助が鋭く言うたので、あたりの人は怒鳴りつけたかと思った、事務員も沈黙してしまったが、要するにああいうものは斯ういう廃品もやり方によっては斯ういう安い費用で、斯ういう重宝なものが出来る、希望者には実費で頒ちますから見本としてお持ち帰り下さいというようにしなければ会の性質が分らない。入場者に対しても甚だ不親切といわなければならない。
店を出て御成街道をずんずん須田町方面へと歩いて見た、町並みは少し変っているが、口入屋があったり、黒焼屋があったり、錦絵和本類屋があったりするところにまだ明治時代の御成道気分が残っている、万世橋へ来て見ると昔の柳原通り、明治以来の名残り、古着屋が相当軒を並べている、店の先へ出張って客引をつとめるやり方は以前と変らない、電車通りへ出ると、東京着物市場がある、所謂柳原通りは洋服屋だが、この市場は和服を主としている、それから小伝馬町、人形町通りを歩いて茅場町から青山行のバスに乗って東京駅で下車して丸ビルを見た、丸ビルの店がかり、いつもと変るところはない。
津軽の産物だといって、じゃがいもパンの試食をさせられ、十銭の包みを一つ買い込んだ、あとで食べて見たら相当に風味がよかった。
ジャガ芋というものは、栽培が比較的容易で収穫率も多い、栄養価としては日本人に向かないというものもあるが食糧としては豊富なものであり得る、これでうどんを作る方法もあるそうだが、いろいろ研究して副主食とするようにすることは、日本農家にとって、有益な計画と云えないことは無いと思った。
それからバスで青山方面へと帰って来たが、天気は非常によろしいけれど、風がある、久しぶりで東京見物をしてかなり町並みを歩いて見たが、なかなか物資は豊かでちっとやそっと戦争をしたからとて影響などは更に見えない、物価が高くなったとか高くなるだろうとかいうが、高いにしても知れたもので、当分そんな窮乏を訴えそうなけしきは夢にも思われない(今時それが見え出すようでは大変だが)。
改装された東京は風情というものが欠けておもしろ味のない感じはするけれども、表面見たところでは景気に変りはない、国民の一部が他国で屍山血河を越えているというような風情は少しも見えない、この点に於ては日本は幸福な国である、未だ曾て自分の領土内に侵略を受けたことがない、東京の一角へ爆弾の一つもおっこって来るという日は別だが、今時は何処に戦争がある、といったような風景である、これというのも、彼の壮烈なる肉弾の賜である。
今の日本は肉弾を以て外国の地域に堅牢無比なる防塁を築きなしている。国内は泰平だが何につけても、彼につけても日本人は肉弾に感謝をしなければならぬと思った。
十一
百姓弥之助はニュース映画を見ようと思って、新宿の追分のところまで来た。
そこで、戦地に向う野戦砲兵の一隊が粛々と進んで来るのを見て足を留めた。
百姓弥之助は植民地に居ては村人に送られる出征兵とそれを送る村人の行列を見て心を打たれたが、東京の地に来て真剣に武装した日本軍隊と云うものを眼のあたり見ると彼はまるで送り迎えの時の感情とは全く違った心の底から力強い感激の湧き出る事を禁ずる事が出来なかった。
武装した日本軍隊は身の毛のよだつほど厳粛壮烈なものである、威力が充実し精悍の気がみなぎって居る、殊にこれから戦地に向うと云う完全武装した軍気の中には触るるもの皆砕くと云う猛力が溢れ返って居る、村落駅々から送られて出る光景には慥かに一抹の哀々たる人間的離愁がただよっていないという事はない。すでに斯うして武装した軍隊を見ると秋霜凜冽、矢も楯もたまらぬ、戦わざるにすでに一触即発の肉弾になりきっている。
だから出征の勇士は全く本望を以て死ぬ事が出来る――ただたまらないのは戦終って後その士卒を失った隊長、昨日迄の戦友と生別死別の同輩、それから残された遺族等のしのばんとしてしのぶあたわざる人情の発露である、戦争にはそれがつらい、ただそれだけがつらい、この悲痛をしのぶ心境に向っては無限の同情を寄せなければならぬ。
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