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生前身後の事(せいぜんしんごのこと)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-17 11:16:45  点击:  切换到繁體中文

 

冠省
御無沙汰に打過ぎて居りまするがお変なき事と大慶に存じます。
扨て
いろ/\御無理を申して御煩せしてからもう三年に近くなります、小生が御音信をしたり、御訪ねをすると屹度きつと大人のお煩ひになることを恐れますが、でも小生の止むに止まれぬ願を更めてお胸にお止め下さいまし、あれからとても諦めねばならぬ事と押へ忘れ様とつとめて長い月日が立ちました、でも絶えず私の頭の中に往来するのをどうする事も出来ずに歯を喰ひしばつて我慢をして来ましたが、今年は私共新国劇も愈々満十周年を数へますので、いさゝか其(ママ)念を致したいのでございます。
で其紀念興行(六月)を催すに何よりも(ママ)胸を突いて来るものはお作大菩薩峠の事でございます。
私は過去の一切に就いてお心にそまなかつた事を更めて陳謝いたします。
どうぞ私共の苦闘十年にめでゝお作上演をお許容下さいまし。
只管ひたすらに願上ます。
これまでの行がかり上いろ/\な方面への責任等は総べてを私が背負ひまして御迷惑はかけますまひ、一度拝眉心からお願したいと存じて居ります。
頓首
  三月十一日早朝
沢田正二郎


 この手紙の表書きには本所区向島須崎町八九番地とあって日附は三月十一日になっているが、年号はちょっとわからない、兎に角我輩が早稲田鶴巻町にいる時分使に持たせてよこしたので郵便ではなかったからスタンプもない、これを今T君に筆記をして貰っている今日、即ち昭和九年の六月十八日にはじめて封を切って読み下して見ると感慨無量なるものがある。
 我輩はこれほどに切なる沢田君の手紙をも封を切らずに十年間も放り出して置くような人間である、如何に自分が無情漢であるかということの証拠になるかもしれないが、この無情は持って生れた我輩の一つの特質なるを如何ともすることが出来ない、およそ好かれたり、よろこばれたりするような親切は本当の親切ではない、本当の親切は大いに憎まれなければならない、大いにうらまれて憎まれるほどの親切でなければ骨にも身にもなるものではないという片意地が我輩には今日でもあるのである、彼の心の中の或ものを微塵に砕いてその後に来るものでなければ本当のものではない、然るにとうとうこの機会が到来しないで沢田は死んでしまった。
 彼の病気が愈々危篤の時余は東京にいなかったと思うが、余の家族のものは余に代って見舞の電報を打ったということだが、こちらは何の見舞もせず、また先方からも何とも挨拶はなかった。
 沢田が死ぬと新聞雑誌は非常なる報道をしたり記事で埋まったりしたけれども誰も一人も我輩のところへ沢田正二郎を聞きに来た新聞雑誌記者もなし、また聞きに来られても会って話をする時間があったかどうかわからない。
 何にしても好漢沢田、我輩と握手をする為に東を志して西を向いて歩いていた、好会のようでそうして生涯遂に相合わなかったが、今や間違っても間違わなくても彼ほどに強い憧れをこの作に持っていた俳優は無かったのだ、それを思うとさすがの無情漢も暗然として涙を呑むばかりだ。
 それから大震災の後、本郷座の復興第一興行に当って市川左団次君の一座でこの大菩薩峠を興行したことがある。
 その時余輩は高尾山に住んでいたのだが、そこへ松竹から川尻清譚君だの植木君だのという人が見えて左団次一座があれをりたいからとの申出であった、そうして脚色者としては菊池寛君に依頼したいとの先方からの希望つきで、菊池君もぼ承知らしい口振りであった、それからもう一つ、こんどの本郷座復興は帝都に於ける大震災後の大劇場の復興としては最初のものである、本郷座といえば松竹が高野の義人を演って初めて当りをとった記念の意味もあるというようなわけで、この興行にはかなり松竹大谷君の意志も動いているのであった、第一左団次自身が果してあれを進んで演りたい意気込みがどの程度まであったか知れないが、それをともかく動かしたのは大谷君の力と看なければなるまい、然し、大谷君がそれほどあの作に傾倒しているかどうかということは余程考えものである、兎も角も当時の歌舞伎劇団の中心勢力と見るべき左団次一党を動かして、こちらに花を持たせて置き、その次には著者を説いて活動写真に撮って大いにもうけたい、儲けてそうしてこの天災非常時の穴埋めにしたいというそろばんから割り出したものと見ることも一つの看方みかたである。
 併し余輩も考えた、今や大震災直後の人心を見るとすさび切っている、そうして市民が慰安を求むるの念は渇者の水を求めるようなものである、演劇というものは市民にとって娯楽物でも贅沢物でもない、全く必須の精神的食糧であるということがこの際最もよく分った、そういう必要があってわざわざこの山の中まで要求がある以上は辞退すべきではない、それではそういう意味でわたしも奉仕的に出馬をしよう、併しながらあの作はいろいろ嫌な問題をき起し、興行禁止を声明しているのだ、それを許す以上には立派にその意義と名分とを鮮明しなければならぬ、それにはまず都下の新聞関係者を招待して小生の意志を表明したい、それからまた左団次君その他とも会見したい、菊池君が脚色してくれるのは結構だがしかしこれもあらかじめ会見して意志を疎通して置く必要がある、その辺のこと宜敷よろしく頼むということを伝えた、そのお膳立もすっかり出来たということで余輩は東京へ出かけて行った。
 松竹では芝の紅葉館へ東京の各新聞社の劇評家連を殆んど全部集めてくれた、城戸四郎君や川尻君も出席して席を斡旋あっせんして呉れた、然し余は実は斯ういうつもりではなかったのである、震災非常時の際ではあり、新聞記者諸君にもバラック建へ集って貰い、そうして小生は一通り興行承諾に対する意志を聞いて貰い謄写版刷でも出して直截簡明に震災非常時気分でやって貰うつもりであったのだ、然るに松竹ではやはり従来の例をとって記者諸君を招待したのだ、これは自分としては多少案外であったが、まあ松竹のして呉れるようにして置いてその翌日であったかまた同じ紅葉館の別室で城戸、川尻両君の立会いで菊池寛君と会見した。
 一体、菊池寛君に脚色させるということは誰れの名指しであったか希望であったか知らないが、誰れにしても小生は自分の作物を脚色して貰う以上は予め意志を疎通させて置くと共に、出来上った脚色に就ては一応見せて貰わなければならない、そうして如何なる名家名手がやってくれるにしろ、原著者の作意精神に添わぬ時は御免をこうむるより外はない、菊池君とはその時が初対面であったが、文壇大御所というアダ名はその時分附いていたかどうかは知らないが、いろいろの文士連がいやに菊池君をかつぎ廻っていることだけは認めた、その以前にも菊池君が大菩薩峠をめたから、以て如何にその価値が分るなんぞというようなことを云い触らしていやに菊池を担ぐ者共が文壇や出版界にいるのが随分おかしいことだと思っていた、余輩の目から見れば、年齢にしては幾つも違うまいが、菊池君などは学校を出たての青年文士としか思っていなかったのである、その菊池君が大いに推薦するとか何とか云って取沙汰するのはおかしいと思った、一体あの文筆の仲間には皆んなそれぞれチェーンストーアーが出来ていてうっかりひさしを貸そうものなら母屋をも取ろうとする仕組みになっていることを我輩も経験上よく見抜いていた。
 それに菊池君に脚色させては新聞、雑誌、出版界、劇作家連の間に設けて置く彼等文壇一味の伏兵が一時に起ってそれこそいいように母屋をまるめて了う魂胆は眼に見えるようでもある。
 兎に角我輩はその席上では菊池君をおひゃらかしてしまったというわけではないが、肝胆を照らして頼むわけには行かないで、余計な事ばかり喋べり散らしたので城戸四郎君などはイライラしていたようであった、その席はそれで済んだが、後で菊池君が脚色を辞退して来てしまった、興行者側では当惑したろうが自分の方では一向当惑しなかった、気に入った脚色が出来なければ上演しないまでの事だ、先方には幾らも好脚本はある筈、こちらはいて上演して貰う必要もないのである、然し興行者側としては折角ここまで来たものを脚色問題で頓挫せしむるのは忍びないことであると見えて、菊池君に代るべき脚色者をという話であったが生じいの脚色者では原著者が承知する筈はなし、そうかと云って岡本綺堂老おかもときどうろうあたりがやってくれれば申分はあるまいがあの人は絶対に他のものを脚色しない、そこで、興行者側も困り抜いて左団次一座の座附の狂言作者に切り張りをさせて誤魔化そうとする浅はかな魂胆を巡らそうとした策士もあったようだが、そんなことは問題にならず、そこでとうとう原著者自身に脚色して貰うより外はないということになって原著者自身が筆を取って脚色したのが白揚社から出版になった小冊子脚本全四幕のものであった。
 ところが、その時は昼夜二回の非常時興行で、時間の組合せの上から二幕しか出せないということになった、しかもその二幕もあいやまだの大湊おおみなとの船小屋だのいい処は除いて久能山と徳間峠しか出せないことになったから、ほんのお景物という程度に過ぎなかった。
 左団次君とは紅葉館の前後、小生が左団次君の招待ということで、麻布の大和田でうなぎの御馳走になりながら木村錦花君川尻君あたりと話をした、そうしてどうやら斯うやら本郷座のタッタ二幕の上演を見るに至ったが、右のように間の山や船小屋のいい処が出ないで、比較的見すぼらしい二場所が出たのだが、あの時に松蔦君あたりに間の山のお君をさせ、左団次君に大湊船小屋の場を出させでもすれば同じ二幕でもずっと勝れた効果があったであろうが、余り効果が出ては困る人があったに相違ない、然し、左団次君の竜之助はたったあれだけでもなかなかの貫禄を見せ、その後病気で亡くなったが中村鶴蔵君のがんりきなども素敵な出来であって、昼夜二回興行のうち昼の部分はこの大菩薩峠と他に従来の歌舞伎劇が三幕ばかり、夜は菊池寛君のエノクアーデンを焼き直したようなものと、その以前に余輩が書いた黒谷夜話の中味によく似たところがあるという谷崎潤一郎君の「無明と愛染」というような新作を並べたものであったが、昼の方が興行的に断然優勢を示していたのは矢張り大菩薩峠の贔負ひいきが相当力をなしていたものと思われる。
 震災当時はそんなようなわけで、劇場らしい劇場は全部焼失してしまったのだから、随分異例のことが多く、麻布の十番あたりの或る小屋へ少々手入れをしてそこを仮りに明治座と名付けて左団次一座を出演させたようなこともあったが、然し本格的にはこの本郷座が東京震災復活の第一の大劇場であったが、その後今日では本郷座も活動小屋に変化してしまって歴史ある名残なごりはもうすっかり見られなくなってしまった。
 さあ、劇と我とに就ては、まだ細かい事は幾らもあるし、これより田中智学翁斡旋の帝劇興行をはじめ、歌舞伎、東劇、明治座の最近にまで及ぶのだが、それは追って稿を改めて述べる事とし、次号には全く別の方面の人物論から着手しようと思う。

     同時代の人と我

 余輩と同時代の人物のうち、今年即ち余輩の五十歳を標準として少くとも同時代の空気を呼吸した人で、今日は歴史的になっている人だけを挙げて、将来歴史的になるべき人でも現存して居られる分ははぶき度いと思う。
 右の意味に於て私と同時代の世界の最大の偉人はトルストイであったと云って宜かろう、これは特に自分が文学に多少縁故のあるところから見た、ひが目ではなく、有ゆる方面を通じて、これを歴史に照してトルストイの偉大さは卓絶している、全世界の全人類史を通じて仮りに五人十人の偉人を挙げて見たところでトルストイの偉大さは矢張りそのうちから外れることのない程の大きさを持っている、十九世紀から二十世紀へかけて世界がこの偉人を持っていたということに大きな光彩を有している、この人は千八百二十八年に生れて千九百十年余が二十六歳の時にこの世を去った。
 それから文学に於てこれに劣らぬ全世紀有数の文豪としてビクトルユーゴーがまた明治十八年まで(即ち余の生れた年)生きていた、現に日本人でもこの偉人に目のあたり面会した人がある、板垣退助伯爵の如きはたしかにその一人である、余は知人原氏の紹介をもって板垣伯に面会しユーゴーの印象に就いて聞いて置きたいつもりで電話までかけたがつい果さずいるうちに板垣伯は亡くなられた。
 余が親しく※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうを見た人物のうちでは救世軍の開祖ウイリヤムブース大将を以て最大不朽なる人物とする、日本へ来戦された当時東京座に於てブース大将の演説会が開かれた時、余も新聞記者の末席に控えて親しくその風采に接しその演説を終りまで聞いた、その時東京市長であった尾崎行雄氏が挨拶をし、島田三郎氏も何か話をしたと思うが両君共に甚だ背のひくい感じをしたが、今の山室中将その時は少佐位であったかしら、これが通訳を承ったが、これは実に両々相待って火花の散るような壮観を呈したのを覚えている、長身偉躯にして白髪白髯慈眼人を射るブース大将の飾らざる雄弁を引き受けて短躯小身なる山室軍平氏が息をもつかせずに火花を散らした通訳振りは言語に絶したる美事さであったと覚えている。
 別の方面でこれ等のレベルに立つ偉人はまずトーマスエディソンであろう、この人は昭和五年余が四十六歳の時にこの世を去った。
 それから政治家としてはグラドストン、ジスレリー、ルーズベルト、といったような人があり、芸術家方面ではロダンだのイブセンだのという人があるが、これは歴史的価値に於て前の人達とは大分に遜色があるようだ。
 日本に於ては不世出の聖主明治大帝には蔭ながらにも親しく御俤を仰いだことの一度もないのは明治生れの自分として甚だ残念な次第である、それだけ自分の境遇というものが恵まれなかったのである。
 それから明治の功臣としても日常写真顔で、もう別人ではない程に馴染なじんでいながら親しく風※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)を見たことも極めて乏しい、板垣伯は余輩が小学校時代自由党の総理として我が郷里へ鮎漁に来たのか招いたのか――したことがある、その時に政客や有志家達が夥しく押し寄せて来た中に板垣伯がナポレオン式のヘルメットのような帽子をかぶり、鮎漁の仮小屋に腰をかけせたからだに長いひげを動かして周囲の者を相手に頻りに話しをしていたのを覚えている、くだんの帽子を被っていたから人相はよく分らなかった。
 それから、伊藤博文公は韓国統監時代に李王世子のおともをしてであったか、なかったか三越へ馬車(自動車ではなかったと思う)を乗りつけてそこから簡単に統監服のままで馬車へ乗り降りする処だけを見た、これも細かな表情などは少しも覚えていない、哈爾賓ハルピンで亡くなったのはそれから間もないことであった、それから原敬氏はこれも馬車であったか――たぶん箱馬車と思う――白髪に和服で悠然と納まり込んで走らせるのを見たし、都新聞の幹部会の時三縁亭の別室で一方には政友会の代議士総会があり、一方の別室に原敬と高橋是清これきよと野田卯太郎の三人が額を突き合せて話をしているのを見たことがある。
 軍人として、日本歴史上の名将東郷平八郎元帥のおもかげをすら親しくは余は一度も見たことがない、乃木大将は或時士官学校の前から四谷の方へ出る処、荒木町であったか、あそこを通りかかった時にひょこひょこと質朴な老軍人が坂を上って来ると思ってよく見たらそれが乃木将軍であった、後ろに人力車を引き連れていたかと思う。
 明治、大正へかけての史上の大物としては余は目のあたり見たのは殆んどその位のものである、いやそれから大隈伯の演説は二三回聞いたことがある、山県公やまがたこうは無論見ない、併し、好き嫌いという感情から云えば、世間に大いに好かれ人気の盛んであった大隈侯よりは、世間から悪く云われた山県公の方が自分は遙かに好きであった、なお、ついでに云えば、山県系の嫡子として、やはり世間からビリケン呼ばわりをされて人気の乏しかった寺内元帥なども、自分は甚だ好きな人物の一人である、どうして好きかと問われると、何等の理由も事情も無いようなものだが、かつて新聞にいて、ある部面を受持っていた時分、非常に些細と思われることであっても、事軍紀に関するような事ある時は、当時、陸軍大臣であった寺内氏は、必ず副官をして、それを説明或いは訂正をなさしめたものだ、それは必ずや副官達に心ある者があってするので無く大臣自身が、いかに新聞の隅までも眼を通して、そうして、細事をも粗末にはしないという用心が働いていることを、余は認めて、寺内さんという人はエライ、世間は非立憲だの長閥軍閥の申し子だのと悪評で充ちているけれども、なかなかそんな横暴一片の人ではないと、感心して、ひそかに寺内信者の一人になっていたまでの事だ。
 同じような意味で平田東助氏(後に伯爵)の事も云える、平田氏も不人気な政治家ではあったが、余輩はその人を信じていた、平田氏の方では一向、余輩の事は知るまいが、余輩が預かっていた新聞のある部面の記事を、平田氏が内相であった時分に、激称した事があって、それが為に同僚の記者が大いに面目を施して来たというような事を帰社して話した事があった、その後、平田氏は所謂世間には不人気でけむたがられたけれども、その後、漸く堅実な人気を以て、遂には大久保卿以来の内務大臣だとまで云われるようにもなった、余輩が他事よそごとながら弁護した点に、世間は平田氏が村長格の性器であって、報徳宗を鼓吹したりすることは、一代の空気を陰化せしめてよろしくないという様な世論に反して、みだりに政客的放慢心を以て小器大善を論ずるのは宜しくない、いやしくも政治家が思想信念を以って世を導かんとするは大いに尊敬もし認識もしなければならぬという様の事を論じたのであったと思う。
 少々混線するが少し前に戻って、余輩の生れた明治十八年という年に、ビクトルユーゴーが死んだのも奇縁と云わば云える、余の生れは四月四日で、ユーゴーの死んだのは五月二十二日だから何かの因縁を結びつけるには相当の時間である、余輩を以て日本の馬琴に比するものはあるが、それは当を失している、余には作家としての系統も師匠も無いが、もし有りとすればトルストイではなくユーゴーを挙げなければならぬ、ユーゴー以来の作家ということが不遜ならば、ユーゴーがわが文学の師ということは云えるかも知れない。
 またこの年は、日本で三菱の岩崎弥太郎が死んでいる、弥太郎の弟の弥之助というのは余が本名と同じことだが、これは我輩の父の名が弥十郎という弥の名を取ったものではあるが、一つには余の父が日本一の富豪にあやからせようと思って、岩崎弥之助の名を取ったのである、そうして写真で見ると岩崎弥太郎の顔が如何にも我輩によく似ていると評する者がある、斯ういう因縁から見立てると、我輩はユーゴーほどの人物になり、同時に岩崎ほどの金持にならねば申訳の立たぬ理窟にはなるだろう。
 英国のジョンラスキンの死んだのは明治二十三年で、丁度余輩が六歳にして初めて小学校へ入学した年であって、この時日本に於ては教育勅語が降下された年である、星亨ほしとおるの殺されたのと、福沢諭吉の死んだのは明治三十四年余が十七歳の時であった、トルストイの死んだ年即ち明治四十三年、余が二十六歳の時に本郷座で「高野の義人」を上演したのである。
 三十前の時であったか、熱海の今は無くなっているが、山田屋という宿屋に暫く滞在していたが、その時隣室に八十にもなろうという色の白い小づくりなおじいさんがいて、朝から晩まで殆んど座敷へこもりきりで非常におとなしいものであったが、毎朝梯子段をのぼりおりして廊下を渡っては風呂場へ行く、女中などは、あのおじいさんはあのお年で誰も附添というては一人もなく、ああして逗留していなさるが、こちらも心配であります、というようなことを云った、余輩とはよく浴槽の中で一緒になりお互いに丁寧の挨拶をしたものだが、世間話などは少しもしなかった、或時女中にあのおじいさんはおとなしくて朝から晩まで一室に居られるが何をしているのかと訊ねると、何もしないでおとなしくしていられますが、袋の中から将棋の駒を出しては一人で並べて楽しんでいる様ですといった、その後或る機会に女中の持って来た宿帳を見ると右の老人の所に「小野五平」と記してあった、この老人は当時の将棋の名人小野五平翁であったのだ、間もなくこちらが先きであったか先方が先きであったか熱海を引き揚げてしまった。
 後藤新平子を見たのも熱海であった、或晩散歩をしていると、書生に提灯ちょうちんを持たせて黒い長いマントを着た長身の男が一人坂の途中に立って海の方を眺めていたが、通りかかってよく見ると、それは新聞の写真顔で見覚えのある後藤――その時は子爵であった、またこの人は東京の帝劇の食堂などでも見かけたことがある、非常な政界の人気男であったが、晩年は振わなかった、しかし余輩ははじめからこの人は余り好きではなかった。
 犬養木堂は議会で見ただけであった、右掌をあごに、ひじを卓上に左の手をズボンのかくしに突込んで、せこけたからだに眼を光らせて、馬鹿にしきった形で議会を見おろしていた処がなかなかよかった。
 それから全く風采を見ない人であるけれども、同時代在野の政治家として、星亨ほどの人物は無いと思う、しかし余は星が殺された時分には島田三郎の信者であって、島田の攻撃ぶりと伊庭いばの非常手段に非常なる共鳴をもっていたので、星の偉さが分ったのはずっと後のこと、実際政党人として一人をもって全藩閥を敵に廻して戦える度胸を備えた大物であったと思わずにはいられない、殊に政党の振わざる今日に於て星を思うこと痛切なるものがある、余の生れた三多摩地方は皆殆んど星の党であるのに、余は幼少より少しもそんな感化も影響も受けず、東京へ飛び出しても島田三郎等の説に共鳴して星を憎んだものだが、今日に至ると全く一変している。
 それから、学術界の方で出京早々十四五歳の時、加藤弘之博士の講演を聞いたことがある、所は帝国教育会の講堂、加藤博士は監獄教誨師問題について当時各宗教家間に軋轢あつれきがあったことからこの際何の宗教にも属していない儒教の人を用いたらよかろうというような説であったと覚えている、その前席であったか後席であったか、片山潜氏の演説があったことを覚えている、片山氏の演説ではじめて自分は「ツラスト」という言葉を覚えた。
 さて、宗教界に於ては仏教の釈宗演しゃくそうえん、南天棒あたりの提唱は聞いた、キリスト教会では植村正久、内村鑑三あたりの先生とは親しく座談もし、数回教えも受けた。
 次は、文学界の方面だが、自分は尾崎紅葉も知らない、正岡子規も知らない、夏目漱石も知らない、樋口一葉も知らない、二葉亭四迷も知らない、国木田独歩も知らない、人間としては何等の親しみも無かったけれどもこれ等の人の作物は皆相当に読ませられ感化もこうむっている、師事したり崇拝したりするという事はないが明治では右等の数名が最も傑出した文学者であると自分は認めている、そう/\徳富蘆花氏には二度ばかりお目にかかったことがある、俳句の方で内藤鳴雪翁は何かの折によく見かけたものだ、俳優で市川団十郎は見たといい切れないほどの印象であることを遺憾とする、先代菊五郎は見なかったが先代左団次は見た、新派では高田実が大いに傑出すると思っている、川上音次郎も見た――筈である。
 落語家で聞いたもののうちでは橘家円喬が断然優れていた。
 浪花節で桃中軒雲右衛門も芸風の大きいことに於てずば抜けていた、剣道で旧幕生残りの人で僅かに心貝忠篤氏の硬骨振りが目に止まっているばかり。画家では芳崖も雅邦も玉章も見知らない、危険人物としては、幸徳秋水と大いに議論をしたことがある、まあそういったようなもので、他にも随分偉い人も多かったけれども親しく見ることの機会も与えられず、また特に何等の縁故もなかった、人を知ることに於ても人に知られる事に於ても不相変あいかわらず自分は貧弱極まるものである、現在生きて居られる諸名士のうちにも随分不朽の人物がおいでになるに相違あるまいと思うが、これとても一度も親しくお目にかかったことのない方が多い。

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