人々が自然の美しさの中に見とれるということは、その中に定かではないが、漲っている深い秩序にあっと驚き、その中に、溶け入り、ともに秩序に諧和し、それと一つになり、力がぬけ、それに打ち委す心持ちのことである。
この宇宙に対決するものにとって、一つの、そして、唯一つの驚きは、その中に、測ることのできぬ秩序が、厳しく、その道を辿っていることである。
ときには、それが、混沌と偶然とに見えるときがある。しかし、それは、常に、ポアンカレーがいうごとく「予期しなかった秩序」であることに、人々はさらに驚いたのである。
一片の雪にも、一本の草にも、一匹の虫の眼の組織の中にも、驚くにたえた秩序がひそんでいる。
「文」という字、「圖」(図)という字の成立も、この現実の中にひそんでいるアヤ、線、機構のもつ、くしきまでの秩序への驚きの記録である。
言語ができ、文字ができ、機構ができあがってくることは、この宇宙のもつ秩序と法則を、意識の中に再確認し、その驚きを沈め、この法則の中に、生活そのものを溶かし込むことである。水の落差は、その法則の線を辿って、電気となり、光となって、都会をつくり、千里の道を運ぶ速度ともなってくるのである。
河があやをつくり、それが図となり、文字となった歴史の涯は、水の文がそのまま光となりて眼前に輝くことと成ってきたのである。人間という動物は、ある意味においては大変な動物である。文字と言葉で、宇宙の秩序を、自分の中に鏡のごとく写すことのできる動物である。一人一人が小宇宙となること、ミクロコスモスとなることができる動物に自分自身を仕立てあげ、創りあげることができることとなったのである。
この驚くべき動物を包んで大きく、大きく宇宙の秩序は、拡がっている。この巨大さに打たれ身をゆだねるこころが、美への帰依、「美しい魂」のすがたなのである。
そこにすでに存在する秩序が、自分の周囲にも、自分の中にも、自分のこころのすみずみにも(むしろ、その「こころ」ということが、その秩序のうつし合うはたらきそのものであるのだが)あることに、驚き、力を放下して、見とれ、打ちまかせ、根性を翻えすところに、「美しき魂」の意味がある。
私たちが動きながら、ある静けさに邂逅したしるしである。
スポーツで例えば、泳いでいて、楽に泳げるようになったとき、それは、そのフォームにはまったときである。
「形」をとらえた動き、一つの文と図式をとらえた行動のことである。
かかる行動は、絶望に似た限界にまで訓練されたときのみ、到達する行動で、日常の行動に比べれば、巨大なる行動である。
その「形」は常に破られて新たになる成長する形であるが、そのときには、そのときの「のりとられる」べき形である。それを証するものは、行動にともなう「楽になること」であり、爽かなる愉悦である。
私たちが本をあつめ、その整理をし、それが、何人の求めにも応じて、とり出せるように準備することは、すなわち図書館の活動は、その文字をつらぬいて、文字の始源である生活の「文」、すなわち形を行動をもって捉え、より高い形にまで、それを高めることを本質とするのではあるまいか。
私たちは書架に並ぶ本を見ているとき、その文字の背後に、無限に発展し、乗り越えてきた「形」の集積、今、まさに乗り越えようとして前のめっている、崩れたら、形成しなおそうとしている、成長の生きている形の展望を感ぜずにはいられない。
図書館の中に生きることは、この「形」の発展の形成を、生き身をもって生きることにほかならない。
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