カントにおいては、「自然の技巧」Technik der Natr の概念は彼の第三批判の出現に対するかなり重要な史的要素となっている。彼において「自然の技巧」とは、主観の認識すべき現象自身の中にすでに理性的合法則性が内在することを意味し、すなわち客観の中にある自由性を意味するのである。そして、それへの端的なる反省が美的感情を構成するのである。かかる意味で「自然の技巧」は「理論的」と「実践的」の中間者として、換言すれば素材の理性的合法則性への信頼と直観において重要性をもつ。この場合、私達はその「自然」の意味を「人間的身体機関構成」すなわち内なる自然にまで、その内包を延長するならば、そこにいわゆるカントが余りにもプロテスタント的に捨去りすぎたる有機感覚としての地上的喜びへの合法則的顧みができたのではないかと思わしめるものがある。
筋肉が、筋肉自らの行為をその内面の神経をもって評価し、そこに深い快適性をもって端的なる反省を為すこと、ここに「自然の技巧」への真に純粋なる直感があるというべきであろう。いずれの芸術もが、いわゆる「技巧」というところのもの、「腕」の内面の構造には、常にこの「内なる自然の技巧」すなわち筋肉操作の洗練性への深い信頼があらねばならない。そこにはじめて、訓練、練習、慣れ、老、大、熟、寂びの意味があるといえよう。あるいはむしろすべての「創作」の内面にはあらゆる外なる「自然の技巧」が、内なる「自然の技巧」を通って、そこに新しき美の現象が生ずるのである。自然美と芸術美の区別は、一度この「血によって構成せる自然の技巧」「呼吸によって構成せる自然の技巧」を、それが通過したか否かにある。すなわち全自然が人間の中に息づいたか否かにある。
ニイチェがカントを批評したように、「カントが創作の態度における美に余りに関心を持たなかった」ことはまさしくカント美学の大なる欠点であると同時に、その最大なる看過は、この「内なる自然の技巧」への性格的無関心にあったかと思われる。
あらゆるスポーツのもつ技術への興味、この単なる技巧の評価的判断は、かかる意味で自然美と芸術美の中間体としての特殊なる美的構造をもつと共に常に瞬間に消えゆく純粋に行為的美感ともいわるべきであろう。主観も筋肉であり、客観も筋肉である。自分自らの中にその合理性を直感をもって把握するのである。一般にそれを「イキ」、「呼吸」、「コツ」、「気合」に見るごとく、多くそれは呼吸作用に関連しているが、これは、やはり、すべてのスポーツにおいてあたかも緊張する場合、注意をする場合、力を要する場合、腹八分目に息を吸って生理的怒責作用を惹起するに因由するであろう。あらゆるスポーツの緊張の一瞬は、この張りつめたる腹より吐く寂かな吐息の乱れざる一念の極限にあるともいい得るであろう。
水なれば水に、雪なれば雪に、土なれば土に、その各々の構成機能に身体構成のフンクチオンが適用して、新しき型を構成するその構成の効果を常に感覚が測定しながら遂に極わまれる一点にまで導いてゆくその過程、そこにいわゆる「技術美」の特徴がある。そして、一つの「呼吸」の把握はいかなる愉悦にもまして甘美なる悦楽である。私はその悦楽の根拠を「内的自然の技巧」の美的反省的判断の上に求めたいと思う。その理論的根拠づけにまで溯ることは、ここではむしろ避けられるべきであろう。
7
私のこれまで解釈し来りしものは、スポーツマンが疲労を感ずるまでの筋肉操作の快感である。どんなフォームであれ清らかな空気の中で胸をふくらませる快さ、湧くがごとき血液の奔騰、「生きることを感ずる」意味で、それはすでに快いであろう。それは浄澄な外的自然の中に、整った身体機能、すなわち、内的自然の完き活動を可能ならしむる意味で、それ自体として快適である。人々は疲労を感じ始むるまで、それを持続し、疲れを感ずると共に道具をまとめて帰ってゆく。
しかし、そこにある筋肉操作上の快適はスポーツにとってはむしろ静力学的な快である。それが一度その疲労を通して立上り始むるとき、真のスポーツの筋肉操作上の快感がそのもう一つ奥の扉を開く時である。それはむしろ動力学的ともいわるべきであろう。なぜならそこで選手達は動坐標的に内なる敵、「疲労」と血みどろな闘を開始するからである。
リップスはすでに忍苦の快感を考察している。「忍苦」は「行為」に対立して、後者の能動的なるに反して、前者は受動的である。この苦痛を感ずる意味での受動的なこの忍苦は、その苦しみを耐え、持続し、抵抗し、さらに打破して耐切るときは、それは能動的なる行為自身の内面の、その中のさらに深い能動者、すなわち「行為の中の行為」としての忍苦 Erleiden にまで到りつくす。そしてこの忍苦は、弛緩、無気力、柔弱なるものの享受できないところの健全と弾力と興奮性のもつ特権であるという。
この疲労の痛苦、すなわち、神経組織の計量的報告を超えて、肉体があらゆる抵抗要素をあげて、これに対立するところの「血液をもってせられたる構成」は、人間の「生きていることを感ずる」意味で、最も深刻なるものといわるべきであろう。
それは疲労の重力の中に立上りゆく血をもってせられたる建築である。重力が加速度のシュパヌングである意味で、すなわち自らの動きが自らの抵抗を生み出す意味において、自我は、自我の内面に受動としての自我を発見する。そして、それと永遠なる闘争をなすべく運命づけられていることを人の多くの哲学は教える。人の一つの行為が、その内面に無限なる群の(否定の否定、さらに無限なる否定としての)行為を胎むこと、その限りない集合、そこに存在の原現象がその相を露わにする。一つの「行為」とその「忍苦」、そこに存在の一角の暴露がある。引きゆがめられた微笑をもってそれを親しく嘗めるスポーツの内奥の愉悦は、その秘かな喘ぎ、喘ぎ、喘ぎの喜悦である。
一本一本のオールを流さないこと、誤魔化さないこと、それはむしろ、いわるべき言葉ではなくして筋肉によって味覚さるべきものである。疲れ切った腕がなおも一本一本引き切ってゆくその重き愉悦は、人生の深き諦視の底の澄透れる無心にも似る。
その無心性は、よき練習と行きとどいた技術の「冴え」をもたらすものである。オールあるいは水に身を委ねた心持、最も苦しいにもかかわらず、しかも楽に漕げる境、緊張し切った境に見出す弛緩ともそれはいわるべきものである。あるまま思い切り行為して、しかもあるべき則にはまってゆく心よさである。いわばそれは、「コツ」、「気合の冴え」ともいうべきものである。この境の会得は一回にして、しかも常にある種の香のごとく、湧然とゲームの始終にまつわるものであり、忘却の底に念々絶ゆることなく働きかくるところのものであり、そして働きかくることによって、その忘却の底に自ら成長し、太り、熟し、老いてゆくものとも考えられる。その成熟が、すなわち「練習」のもつ深い意味であり、訓練、寂び、甘味み、あるいは慣るることの意味でもあろう。
すなわち「忍苦」はもはやその放棄しかあり得ない極みにおいて、何物かに身を依する。その対象は、スポーツにおいてはフォームと呼ばるるところのものである。
よくコーチがどうしてもフォームを修正できない選手をして疲れ切らしめることがある。その疲労の中に、しかもオールを引いている選手に対して「そうだ、その気持を忘れないように」ということがある。未だ自らのフォームを自ら意識している中はそのフォームは真のものではない。いわば「岸が気にかかっている」。すでにいわゆる彼等の「天地晦冥」ただ水とオールとになるとき身は自ら水にアダプトして融合して一如となる。いわば水の構成的フンクチオンと身体的構成のフンクチオンが、深い関連の中に連続して無碍なるとき、その中にこそ、成長するフォーム、生身の型がある。それはコーチの百千万の警告もただ爛葛藤にして、ついに伝え得ざる底のものであり、一度その境にはまること、すなわち、働きそのもののみが告知るところのものである。
そのことは、内的自然の技巧としての身体構成がその力学的フンクチオンにおいてあらゆる虚言 Lge を脱落した時「見てくれ」の粉飾を放擲した時である。筋肉を主観とし、筋肉を客観とする血の構成がそこにその自らのはからいをすてて、純粋なる行為の中に自らを没したる時である。そこに「技術美」の最も深き根底が横たわる。
かかる意味でのフォームは、生身の形式である。生物におけるモルフェのごとく、成長してゆく一つの形態である。その意味のカラクテールでもある。極少の疲労により、極大の効果をあげるべく、筋肉繊維の運動的構成の目的化は、動植物のモルフェにおける合目的性でもある。それは働けるヴェゲテジーレン(植物化)である。それは浪漫派とは異った意味での「目的の国の戯れ」でもある、そしてその内面的評価として、自我が、自我の内面に無限に働く自分を見出すその感情はそれは芸術的といわんよりむしろ芸術を生み出す「力の感情」ともいわるべきであろう。「技術美」の内面には「芸術美」よりももっと奥のもっと深い感情が潜まされているとも考えられよう、いわば芸術創作の感情におけるごとくもっとより力学的である。
8
かく考えることで、スポーツの筋肉操作のもたらす快適の内面には、現象の原型に対する深い関連があるかのようである。そしてその原型の把握が、感覚の先導によってなさるること、いわゆる共通感覚(ゲマイジン)があらゆる存在の隅々より、潜れたる形相 Eidos を見付けること、またそれへの信頼が、スポーツの美的要素の深い前提とならなくてはならない。
我々は、すでに過去の思惟方法が形式の名によって合法則的、すなわち「秩序」を、内容の名によって生命的、すなわち「衝動」の概念を遺していったことを知っている。そして、それは、すでに乾いたトルソであり、しかも組合ったトルソであることを知るのである。
多くの芸術論が、この二つの概念の間に苦しんでいる。この場合、スポーツのフォームの概念は深い新鮮な暗示をあたえるものである。スライディング・シェル、あるいはラグビー等の近代スポーツの内面のフォームならびに組織をもつものは、「衝動ある秩序」である。あるいは「秩序ある衝動」である。それが、今新しき時代の成長しつつあるモルフェであると共に、新しき社会ならびに芸術の形式であり組織である。
その意味で我々は単なる「秩序」であるギリシャと、単に「衝動」であるロマンティクを後に見ながらより彼方へその進路を向けている。「英雄主義より組織主義」へ、いわば「腹より腰へ」とスポーツ自身が動いてゆくその重き推移の中にすでに感覚が生長するアイドスを育み教え導きつつあるのを知るのである。
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