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スポーツの美的要素(スポーツのびてきようそ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-16 11:23:54  点击:  切换到繁體中文

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 スポーツが人々によって研究され始めたのは、それを遊戯の一部としてであった。遊戯論については多くの人々が関心をもっている。それを今類別するならば大体五つに分れるかと思う。まず第一は剰余エネルギー論というべきものである。シラーが『人間の美的教育論』にのべており、スペンサーがその『心理学原論』にのべ、ジャン・パウル、ベネケ、シェリー、グラント・アレン、カール・ミュラー、ハドソン、パウル・スーリアン等が支持するところのものである。それは余れるエネルギーの放散のために、有用ならざる行為を人間がする。それが遊戯であるという考え方である。シラーの考え方はこれを浪漫派の愛好する甘き無為にまで関連せしめる。
 第二は生活準備説ともいわるべきカール・グロース、チーグラー、ワイズマン等によって支持さるるものである。それは第三の自然的遺伝的本能説(ウォール、ヴント)と関連して、動物の生存本能としての猟、戦、育児、模倣等の一つの表現であると考える。
 第四はラツァルス、スタンダール等の気晴らしのためという考え方、すなわち一方の機能の過度の使用によって来る疲労を他の用いざる機能の使用によって回復せしめるために遊戯があるという考え方である。
 第五はパトリック等によって支持さるる精神分析的に「抑圧の開放」の意味における遊戯の解釈である。
 私は今スポーツの美的要素を分析するにあたって、これらの遊戯論の一々に深入りすることをむしろ避けよう。ただそれらのものが一つの本能であるとして記述され、そのもたらす快感は本能の満足にあると解釈されていることを注意しておきたい。本能の概念は、リップスが自らそれを学問の屑籠といったがごとく、それに投ずることであたかもすべての問は掃蕩されつくしたるごとくその進行を停止している。むしろそこから私達はバトンを受取り彼等のゴールラインを私達のスタートラインにすべきではないかと思われる。

 2

 フッサールはその『論理的研究』において遊戯をもって「記号の位置転換的構成」の例としている。あるいは数学的意味の代入における「象徴的運用」として将棋の例を用いている。それは彼が遊戯の研究を目的とせずに、いわば偶然的にその思惟過程に現われしものにかかわらず、大きな暗示の影を遊戯の研究の上に投げるものである。
 すなわちそれは、遊戯の現象が我々の人間的構造、すなわちその機構的フンクチオンの深い象徴的運用として存在するのではないかということに対する問題の呈出である。ソッシュールは将棋の運用構造を言語哲学的構造に適用して、相似的代入に成功している。スポーツが存在の内面的組織構造の象徴的運用ではあるまいか? という問はスポーツの上に投げかけるべき親しき問であると私は考える。ことにスポーツが芸術の領域より寂しく放逐されている時においてなおさらである。またさらに近代性の一つの流れが肉体蔑視の過去の理想論に、正しき抗議を提出し始めている時においてまたなおさらである。

 3

 スポーツの解釈にあたって、私はその中に二つの要素を認める。その上に複合体としてスポーツの意味が構成される。すなわちそれは競争性筋肉操作の二作用である。
 それがたとえ肉体的運動であっても散歩ではスポーツの意味を構成しない。それはウォーキングレース、登山のごとく、距離あるいは高さにおける量的比較の可能をもってのみスポーツの意味をもつ。また競争性も単に麻雀のごとく知的の場合もスポーツの意味の外にある。この二つの要素の複合的構造の上にスポーツの意味が構成される。もしそれが許さるるならば、従って各々二つの要素の上にスポーツのもつ快感の構造が依拠することとなる。

 4

 競争性の快感。
 競争性の意味は本質的に量的比較でなければならない。従ってそれは同質的でなければならない。換言すれば、二個以上の異質的実体がその共通なる属性の領域内で、すなわち同質的属性の上にその量的比較を行うことを指す。
 そこに異質的なるものの量的転換が行われること、あたかも現象の数量化においてなされるところのごときものがそこに在る。
 しかも、この場合現象とは人間の神経、筋肉あるいは肉体的諸機能の上に限られる。一言にしていえば数量化されたる血液構成である。The better won! たとえ一インチであれ一秒であれ、いやしくも「差」あるならばそれは誇りか諦めかを意味する。この数の厳粛とその運用性、そこにスポーツの深い組織がある。ホイッスルが鳴って、一斉にラガーが動き始むるとき、球がそのいずれかの一人に落ちた瞬間、味方の十四人は勿論、敵の十五人の一々があたかも深い数学のごとく黙々とそのあるべきプレイの位置に動いているのを見入る時、球を中心として、見えざる力の波紋が次から次へと二方向的に作用するのを見る。そして、得点はともあれ瞬間息もつかせざる関係の構成、一人のTBに渡すハーフの一擲は十四のラガーに呼懸ける「見えざる関係の構成」でなくてはならない。もし「構成の感覚」が今新しき芸術の要素であるならば、タッチラインをカンヴァスとし、スパイクをピンゼルとするかのラグビーは瞬間崩れゆくうつつの夢ではあれ、しかも常に永遠を背負わないと誰がいい得よう。
 かかる意味で、ライプニッツがいえるように音楽が「音の数学マテマティク」であり、また建築が「凍れる音楽ミュジィック」であるならば、スポーツはまさに「燃ゆる力学デイナミィク」であるであろう。
 そして我々はその深き叡知的の計量性の中に瞬間崩れゆく美しさを把掴するとも考え得るであろう。観る者においてもしそうであるとするならば、一々のラガー自身においては、自らが深い数の要素として、構成の内面に身をもって沈みゆくのである。その悦楽はあらゆるスポーツで一般にユニフォーミティーと呼ばるる喜びである。激しき情熱、情熱の内面の秩序、いわば情熱の数学でもある。

 5

 しかし、かくのごとき喜びは競争性自体のもつ組織性、数学性、力学性に関連する対象的美感にしかすぎない。ここにさらに勝敗そのものに関する感情構成がある。
 競争者ABにおいて「Aが勝つ」の判断と、「Bが勝つ」の判断が相互否定的であるにもかかわらず、同一主観の判断構造の中に共在する場合、論理的判断としてはウィンデルバンドのいわゆる無関心的零点としての判断型態であるにもかかわらず、その二つの判断構造は一つの力の緊張シュパヌングとして相干渉して他の類型の判断構造となる。換言すれば判断構造は一つの「力」の場として収斂型態を取る。この判断構造は一般に「賭」の判断構造のもの、蓋然的期待感情の内面的構造である。この力の場としての期待感、これこそ近代人のいわゆる戦慄 thrill なのである。
 力の均等したる二つのチームのシーソーゲームにおける肉薄と追撃は、まさしくこの二つの判断の力学的構造を、外的現象の上に具象化するものである。野球において同点、終回、満塁、二死、2ストライク3ボールを想像して見るがよい。天はよくかかる悪戯をする。かかる場合観衆はむしろ面を伏せて涙ぐんでしまう。そして数年間そのシーンを回想して朗らかに微笑むのである。
 ドストエフスキーの『賭博者』を読んだものは、この最も純粋なるものを見るであろう。判断のシュパヌングのもつ愉悦の中には人間の永遠なる謎への限りなき問、その「問の構造」が本質的に関連している。パスカルの賭はその意味で深い感情を存在関連の上に投げている。ユーゴーのミゼラブルの中の一節、パリの防塞の中の戦士達が全市中に響く鐘の音に耳を澄している、その鐘声が弱ることは誓えるものの裏切りのしるしである。それは全時代が転回できるかどうかその大きな戦闘の勝敗への期待である。あたかも「時代」、あたかも「時」自体が常にこの「問の構造」の上に在り、パンドラの箱の秘密の中に閉じらるる以上、この期待の感に漂う愉悦の内には深い存在関連の認識、存在肉薄の欣恃が漂うというべきであろう。「未知」の中に在る喜悦の涙、そこにいわば裸わなる存在の原型の把握といわるべきものがあるのではあるまいか。
 しかしそれは観覧者のもつ勝敗の期待感である。これが競技者においては、チームAB……の闘争において「Aが勝つ」「Bが勝つ」の相反的判断が共在して緊張的構成を形成するにしても、自らが属するチームがAあるいはBである。もし仮にAであるとすれば「Aが勝つ」の判断は可能性であるよりもむしろ必然的である。すなわち可能的なるものを必然的ならしむるところに意志の構造がある。
 クリューが迫り来る敵艇のスパートをより鋭いスパートをもって引離す心持「これでもか」「これでもか」と重い敵艇の接近を一櫂一櫂とのがれゆく心境は、その進行する一艇に自分が乗れる意味で、蓋然より必然へと自らの艇を引きずる意味において、この外的現象は彼等クリューの内面判断構造を具象化する。内なるものを外に見出す意味で深い象徴である。蓋然判断の判断自体の中にも身をもって拶入することで、判断は即意志の構造をもって可能を必然にまで止揚する。そこに観覧者の境地はこの中間領域にあるというべきであろう。
 これまでのべたのは競争性の美的要素である。次に筋肉操作の美的要素についてのべよう。

 6

 筋肉操作の美感。
「健康状態に在ってわれわれが自己の奥底の声に耳をすますとき、秘めやかな、甘美な歌というべきものが聞える。生きていることを感ずること、そこにこそ、すべての快感の根底と同じく、すべての芸術の根底があるのではあるまいか」とギュヨウはのべている。「生きていることを感ずること」すなわち生を urteilen する意味での反省に対立して beurteilen 評価する意味で感ずることは、たしかに美学の最も深い根底を構成する。ただ問題はその評価のメルクマールが何であるかにある。近代美学においてカントおよびその発展者であるコーヘン等の立場がその哲学的体系に関連して「合法則的であること」をもって規準としたに対して、スペンサー、リップス、フォルケルト等の心理学派ならびにむしろ批評家というべきギュヨウ等が、「生命的(人間的、自然的)であること」をもって規準とせること、ならびにその各々の立場で過去の美学を解決せんとすることは注目すべき現象であると共に、現代の美学にとって、ことに新しき美の感覚に当面せる現代の美学にとって止揚さるべき深い課題でもなければならない。
「合法則的であること」と「生命的であること」との間には何等関連がないであろうか。この問題はスポーツの美学的考察においてその「フォーム」と「感じ」あるいは、「イキ」との相関性において深い興味を引くところのものがある。

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