第七章 探偵小説
「探偵小説」の歴史については、総論のところで充分に触れておいたし、又、その存在理由――何うして発展して来、そして現在の流行をみたか。又、将来如何なる方向へ進んでいくであろうか。換言するなら、「探偵小説」は過去から未来へつづく文学史の如何なる役目をする一鎖りであるだろうか、――は、前章で詳細に講じたのである。
そこで、それらに関しては、再び貴重な頁を浪費すまい。ただちに、「探偵小説」はその特徴としてどんなものを含んでいなくてはならないか、に進もう。
第一に、その物語が自然でなくてはならない。「探偵小説」に於て自然であるということは、その不自然さ、誇張が極めて現実性に富んでいなくてはならない。即ち自然に、もっともらしく読者に感じられねばならない、ということである。そのことは、勿論、科学的でなくてはならない、という意味も含んでいる訳である。即ち、「探偵小説」の第一特徴は、「現実性の豊富」ということである。犯罪の動機、探索の手懸りが、如何に些細な、又空想的なものであろうと、それが現実性をもって読者にせまらねばならない。
第二に、サスペンスということが、その特徴であろう。どうなるだろうか、犯人は誰だろうか、といった期待と不安を次から次へと読者にもたすように仕組まれていなくてはならない。犯人を意外な処に発見さすのもいい――ドウゼの「スミルノ博士の日記」、すべての登場人物を犯人らしく見せて五里霧中に彷徨わせるのもいい――ヴァン・ダインの「グリース家の惨劇」、次から次へと糸をたぐるように無限に思われるほどの人物を点出して、なお彼方に犯人をかくすのもいい――ルブランの「虎の牙」、兎に角、要は読者にサスペンスをもたしていくことが必要である。
その為には、トリックが必要となって来る。伏線に伏線が重なりもつれ合う、そして読者が五里霧中になる。一つがもつれると、他が少しほぐれ、そして又その上に伏線が重なる、といった具合に、常にある部分の期待と期待につらなる不安――サスペンスを持たせるためには、トリックが重要な役割をする。ルブランの探偵小説など御覧になるとすぐわかる。いうまでもなく、そのトリックは充分現実性を備えていなくてはならない。だから、第三の特徴として「暴露されないトリック」が挙げられるのである。
以上のようなものが「探偵小説」の特徴として数えられる。「探偵小説」は、大衆文芸の一分野としても考えられるのであるが、それ自身又独立して「探偵小説」としての分野を展開している。即ち、次の三つの種類にわけて考えていいと思う。
本格的「探偵小説」、文学的或は芸術的「探偵小説」及び大衆文芸的「探偵小説」――
本格的「探偵小説」の中に含まれるのは、古い所では、コナン・ドイルの探偵作品、新らしい所では、現在人気の頂点にあるといわれている、かのヴァン・ダイン、又はウォーレスのごとき人の作品が挙げられるであろう。
文学的なものとしては、チェスタートンの「ブラウン物語」のごときが挙げられるべきであり、大衆文芸的「探偵小説」としては、ルブランの作品が代表的なものであろうと思われるのである。
だが、概して「探偵小説」の進み行くべき道をいうなら幾度も述べたごとく、将来は益々科学的になっていくであろう。科学の進歩のみが、新らしい現実性を将来の世界に生みだして行くであろうし、従って、トリックにも愈々科学が応用されるであろうことは当然である。科学の絶えざる進歩のみが、「探偵小説」を常に新らしいものたらしめ得るのである。例えば、殺人光線、小周波電波の利用、テレビジョン、テレボックスの如き新らしい科学的発明が、将来の「探偵小説」に使用されるであろう。そして、「探偵小説」はそれによってのみ、愈々多幸なる未来を有しているといっていいと思う。
最後に、「探偵小説」に於ける日本と諸外国との相違について一言しよう。
即ち、日本の作家は「探偵小説」を書くに当って種々の困難がともなうのである。
それは、第一に、日本の家屋の構造が外国と異り、開放的であることである。このことは犯罪遂行その他に非常に困難なのである。
第二に、日本の警察制度が世界無比に完全していることである。だから、あまり出鱈目が書けない。真実味がなくなって了うのである。例えば、アメリカのシカゴとかニューヨークなどの大都市の暗黒街は殆んど官憲の手がつけられない程である。諸君は、外国映画のクルップ・プレイで優れた映画が多いのを知っているだろう。官憲と無頼漢が機関銃で対抗しあったりすることは、我国では想像だも出来ないことである。こんなのを、直ちに日本に移植したりして、映画を造った処でそれが馬鹿馬鹿しいものになるであろうのと同様である。
第三に、外国の「探偵小説」に私立探偵が活躍するのは警察制度が不完全であることに基いている。だから外国であれば、実際にあり得る現象であるが、日本では私立探偵などは社会的に認められるには到っていない。警察制度が完備していて、その余地がないからである。例えば、外国では、警部も、探偵も、刑事も、デテクチーブという言葉で代表される。その点、我国とは甚だ事情が違っているといわねばならない。
こう云った種々の条件で、我国では「探偵小説」が非常に書きにくい状態におかれているのである。我国に、本格的ないい「探偵小説」が少いのも、以上のような理由のためであろう。
序に、この章で、今日流行している「実話物」に触れて置こう。
一体、「実話」は、アンチ文学要求の一つなのであるが、これも亦、外国での流行から影響された結果なのである。我々は、ここでも外国と日本との差違を考慮に入れなければならない。
「実話」は外国に流行しはじめているのであるが、特にアメリカに於て最も盛んである。それは、如何なる理由によるかというと、アメリカの生活――社会生活、従って個人生活は実に、小説以上のものなのである。その多種多様であり、凡ゆる点でセンセショナルなことは驚くべきものがある。
一例をとるならば、アプトン・シンクレアの小説を読んだなら、アメリカ大都市市政の腐敗が東京市政の腐敗などとは比較にならぬほど驚くべきものであり、又、タマニホールなどの策動の如何に深刻で計画的であるかは、我、田中首相の、政友会の出鱈目な、すぐ尻尾を出すような馬鹿げさ加減とは問題にならないほど凄いものであることを読者諸君は知るだろう。
以上のように、外国の「実話」と我国の「実話」とは、従って、亦天地雲泥の差があるのである。日本の「実話」は、だから外国の「実話」ほどの興味を読者にあたえることが出来ない。それ故、「実話」の流行は、殊に我国では一時的なもので、決して永続性を持たないものといわねばなるまい。
「怪奇小説」については、前章「科学小説」の中へ含めてその第一の種類として説明したから、この章でははぶいたことを断って置く。
第八章 少年小説と家庭小説
総論のところで述べておいたごとく、「少年小説」は、大人物の分類の一切を包含しているのであって、夫れに英雄と、空想と、驚異との織込まれたものである。だから、それは探偵小説でもあるだろうし、冒険小説であるときもあるだろうし、又英雄的でもあるだろう。ただ作者はあくまでも、少年少女の読物であることを考えねばならない。大人の読んでいい「少年、少女小説」というようなものを考えてはならないのである。何故なら、少年、少女の読物であってこそそれが存在価値をもって来るのであるから。かの「赤い鳥」の鈴木三重吉君の童話が失敗したのも、以上の点に心得違いがあったからで、結果は大人の読むための童話――「少年、少女文学」というディレンマに墜ったのであった。
だから、「少年、少女小説」の文章に付いていえば、
一、理屈を抜くこと。
二、テンポを早くすること。
三、地の文の少いこと。
という、この三つの原則を遵守しなくてはいけない。「少年、少女小説」は絶対に少年、少女が読むために書かれねばならないのだ。
例えば、立志小説として「ジョン・ハリファックス・ゼントルマン」なぞは代表的なものであろう。
処が、ここに「家庭小説」とよばれる一つの文芸の一範疇がある。然も「家庭小説」の意味は、我国と外国とは必ずしも同じではないのである。外国では、立派に「家庭小説」が存在する。「黒い馬」「家なき児」「クオレ」「三家庭」なぞは、この範疇に属するものである。
処が、我国では、新聞小説が「家庭小説」と呼ばれていた。新聞小説でさえあれば、たとえそれが恋愛小説であろうが何であろうが、「家庭小説」だと考えられて来た。だから我国では、「家庭小説」が一定の概念を有していたのではなかった。これはあらためられねばならぬ。だから、これを外国にならって正しく認識するならば一切の「家庭小説」は将来に於て、「少年、少女小説」として最も要求せられるべきものだと思う。即ち、今まで、「家庭小説」とよばれていた種類のもの、ヂケンスの小説とか、その他前に挙げたものは、「少年、少女小説」の中に合流さるべきものである。その中には、「ユーモア小説」も「冒険小説」「探偵小説」も、一切の大人の小説の種類が含まれ、然もそれが少年、少女の読物として書かるべきことが要求されるのである。
只、今日残された問題は、それら、「家庭小説」をも含む一切の「少年、少女文学」が、十九世紀以後傑作を出さないことである。之は何を意味するのであろうか。一は、時代の進歩、変遷が亦少年少女の上にも支配し、彼らの思想情操を激変させつつあるからである。現在の少年少女は、決して一世紀昔の少年少女の感情、思想を持っていない。より科学的であり、より刺戟をもとめ、より享楽的な欲求を持っている。彼らは新らしい何物かを求める。これは、都会の少年、少女に於て愈々然りである。処が、第二に彼らに何らかの方向を与えるべき文学者自身が、すでにこの激しい世相の変転の中に彷徨している。彼らは新らしい正しい道徳を与えることが出来ない。資本主義の爛熟とともに世間はますます無方向に、無道徳に乱れいきつつある。すべての文学よりも以上に、今、「少年、少女文学」は危機に瀕していることを考えなければならない。これらは将来の文学の一つの重大な使命である。文学者は先ず自らを正しく認識しなおさねばならない。自らの位置をはっきり知らねばならない。その方向に就いては、私は「科学小説」のところで詳しく述べて置いた。
何れにもせよ、未曾有の過渡時代に当って、すべての文学と同じく、その一環として、「少年少女小説」も亦、今一大転換期に立っていることは考えねばならぬ事実である。
第九章 ユーモア小説
「ユーモア小説」の要求は、何よりも読書は娯楽である、という見地から出て来るものである。こうした見地は、近来いよいよ激しくなって来た。それ以外、何の理由もない。人生をうがっているとか、諷刺的であるとか等の何らかの人生的意味をもたす必要はないのである。大衆小説が興味だけで存在し得るのと同じ理由である。こう云うとモリエールの彼の有名な戯曲とか、セルバンテスのドン・キホーテなどは、「ユーモア文学」でないという説が出て来るのであるが、私は勿論、そういうものが「ユーモア文学」であるとは考えたくない。
人生を喜劇的に表現しただけで、それだけでいいのである。ユーモアは徹頭徹尾ユーモアでなくてはならない。例えば、モリエールの作品は、読んで了った後に人生の滓が残る。「ユーモア小説」は読後に何んにも残らなくてこそいいのである。だから「ユーモア小説」はその国独特のものでなくてはならないし、作者自身にも凡ゆる事物に対する特殊な神経、――敏感性が必要なのである。モリエールの諷刺、シエクスピアの洒落は翻訳し得るであろう。だが「浮世風呂」等は翻訳して了っては大半の味わいは抜けて了う。従って、文学的にも永久的な価値が非常に少いものしか出来ないのである。言葉のニュアンスとかその国語独特の洒落とかは、かなり「ユーモア小説」には必要であって、然も翻訳出来ないものなのである。従って一般性もないわけである。
例えば近年流行した俗語に、「いやじゃありませんか」という言葉があった。それは最も巧みに使うとき、人を失笑させることができた。と同時に、その流行のすたれた時、その言葉は無価値な、嫌味以外の何ものでもなくなる。
又、例えば今日、「竹取物語」を「ユーモア小説」だといったとて、夫れを承認する人はないであろう。だが、「竹取物語」は当時の「ユーモア小説」に違いなかったのだ。その当時のユーモアが今日ではわからなくなっているのだ。その時代の風俗や、欠点、特徴なぞを最も誇張したもの、そうした作品は風俗の変化とともに滅ぶのである。
以上のごとく、不偏普及的な「ユーモア小説」が要求されながら生命が短く、今日のごとき動揺時代には殆んど本当のユーモア作家もあらわれ難いのではないだろうか。
今日、代表的なものといえば、やはりアニタ・ルースの「殿御は金髪がお好き」位であるが、それとてもアメリカの風俗特に近代女性の誇張であって、アメリカ人、アメリカを知るもののみに面白く読まれるのである。勿論、今日、日本のみならず諸国がアメリカ化されつつある点から見て、アメリカニズムは日本人のみならず世界中の人びとにもしたしみ易いであろうから、従ってある点までの普及性は有するであろうが、その翻訳に依る価値の半減はどうにも出来ない事実であろう。
その他、アメリカには、撮影所の物語を書く、オクタヴァス・ロイ・コーエンとか、近代的なユーモア作者であるドナルド・オグデン・ステワードがいるし、英吉利には有名なウオドハウスがいる。カナダのリーコックも流行作家である。読者はそれらを参照されたい。
第十章 愛欲小説
嘗て、総論の処で、私は恋愛を八種にわけて置いたが、後で見ると六つしか挙がっていない。そこで、もう少し詳しく私の考えを述べて見よう。
第一に、「思春期的恋愛」である。例えばゲエテの「エルテルの悩み」なぞはこれに属する恋愛であろう。現実の場合あのように純粋に長くは続かないだろうが、少くとも普通には二十歳位までの、盲目な、熱烈な、それでいて性欲的よりも感情的な、純情極まる恋愛である。ツルゲネフの「初恋」なぞもそうである。既に異性を知って了った男女には、もうこんな感情は再び見られないものである。
第二の、「母性的恋愛」は、古い我国の女性の恋愛道徳の唯一つの規準であった。菊池幽芳なぞの「家庭小説」の女主人公はすべて之であった。之は、日本の女性の奴隷的な生活を端的に表したものに外ならない。現在でも、尚この古い殻は尊いもののように女性及び男性の頭にこびりついている。鶴見祐輔君の「母」なぞは可成りこんな恋愛観念が含まれているようである。だが、若い女性の生活の変化は次第にこんな型から抜け出ようとしている。何よりも良人がほしい、良人が出来れば全的に服従する。そして、その後の女性としての仕事は、母として子供を育てることだけである。だが、生活難はすでに経済的に良人を信頼するに足りぬものとした。一方女性は自らの職業を見出し、自ら生活する道を男性の手から奪った。こうした結果は、新らしい恋愛と結婚の道を彼女らに指し示しているのである。「母性的恋愛」は一つの美しかりし思い出になろうとしている。
第三は、「性欲的恋愛」である。異性の体臭を知ったものは、必ずこうした恋愛感情を多少とも持つだろう。女を見ることがすでに姦淫である、という言葉はこうした意味で正しい。神さまは、性欲を掩う美しいベールとして恋愛感情を人間に与えたのであろう。だが、智慧の林檎を一たび口にした人間は、これを逆用した。人間の赤裸々な感情は一寸でも美しい異性に接すると性欲を持つのである。写実主義小説は多くこんな恋愛を解剖している。
第四には、「尊敬的、崇拝的恋愛」である。これはそれ自身では非常に淡い、はかないものである。著名な作者に憧憬的な気持を抱くもの、アメリカの映画俳優に手紙を送ったりする類いの恋愛心理である。これは、ある機会には、他の恋愛に転化する。その例は、映画なぞにもよくあるし、実際にもある。
第五は、「社交的恋愛」である。これは、又異った意味で軽い恋愛である。頗る遊戯的なものであり、皮相的なものではあるが、近代的という点では最もモダンな、新らしい恋愛の一種である。ダンスの相手、競馬見物の相手、音楽会や散歩の相手である。近代人が最も要求している恋愛関係で、殊にアメリカ映画なぞには幾らでも現れる。
第六は、これこそ真に新らしい恋愛であるが、もっと深い、思想的な点から生れる恋愛関係である。同じ思想の下に共に働き、共に生き、共に主義のために闘う、そうした異性間の同志的な、その意味で熱烈な恋愛である。他から見れば、甚だ堅苦しい、窮屈なようであるが、本人同士にはそれこそ自由であり、正しい恋愛なのだ。そして、これこそは、女性を男性とひとしく一人の完全な人間として認めるものなのだ。ソート・ロシアの法律とか、或は、コロンタイ女史の物語や、リベヂンスキイの「一週間」、ゴリキイの「母」なぞを読めばよく理解されるだろう。この恋愛は、先ず、ソート・ロシアの若きゼネレーションから必然的に起ったのである。私はこれを「同志的恋愛」と呼ぶ。
後の二つは、どうしてか載っていなかったのであるが――
第七は、「友人的恋愛」である。これは、私の主張する処であるが、実際あり得るし、既に、エレスブルグの「ジャンヌ・ネイの愛」にも書かれている。仮令、主義主張は異にしようとも、お互いに精神的にも肉体的にも許して行こうとする恋愛関係である。私は、これこそが本当に自由ではないかと考える。
第八は、「倦怠的恋愛」であって、これは生活に倦怠をおぼえはじめた中年期の男女の、或はデカダン的とも云うべき恋愛心理である。徳田秋声氏に於けるような、又は有閑夫人の青年学生に対するような、可成り遊戯的であって、熱烈な然も覚めれば跡かたもなくなるような場合の多い恋愛である。つまり、中年期の男女性が生活に刺戟を求める種類のものである。
こうした八種の恋愛の内、「母性的恋愛」の外はすべて誤った悖徳的行為として斥けられ、怖れられ、蔑まれ、口にすることさえ禁じられていたものである。然も現実には存在した。ただ、「同志的恋愛」「友人的恋愛」「社交的恋愛」に至っては、正しく新時代の産物に外ならない。
「愛欲小鋭」は古い型と因習を破って躍り出なくてはならぬ。何故なら、世相は十九世紀とは一変した。今まで陰にひそんでいた恋愛関係は愈々露骨に表面に現れ、今までなかったような新らしい恋愛の型を創造した。「愛欲小説」こそはそれらを反映し、時代の尖端的神経と新らしい風俗を描きだす使命に駆られているのだから。「愛欲小説」こそは、その各々の時代の風俗史であり、その時代を彩る華やかな色彩でなくてはならない。
されば、新らしい「愛欲小説」は、新らしい恋愛心理を、新らしい恋愛技巧を、新らしい型の女を、その中で創造しなくてはならないのだ。近代の「愛欲小説」は、こうした意味で純粋に都会的なものだといえる。だが、「都会的」だということは、銀座のプロムナードを歩くステッキガールを、断髪の女を、無批判に描くべしという意味ではない。勿論、ステッキガールも描かるべきであろう。だが、それをもっと現実に拉して、もっと社会的、経済的根底から解剖して描くべきである。我々は、現在もっと現実性をもった女性を、もっと新らしい型の女性を知っている筈だ。それらを解剖して、それらに正しい方向を――決して古い型へ退却させるのではない。我々は、私が挙げた八種の恋愛を肯定しなければならないと同様にすべての新らしい型の女性を大胆に肯定しなくてはならない。――指し示すように、新らしい恋愛道徳を附加して描かねばならないのだ。
例えば、「ラ・ギャランヌ」のごときマグダレンの「女」のごとき、或はコロンタイ女史の恋愛物語「赤い恋」や「恋愛の道」等のごときを読み給え。
又、例えばアメリカ映画に現れるような女の生活は、その儘決してアメリカの女の実際上の生活ではない。映画上の創作である。併しながら、映画の上の創作は、ただちに実生活に影響する。つまりアメリカの生活を尖端的に純粋な形で映画が創作する、それが逆に実生活に反作用を起して、かかるスクーリン上の風俗が、こんどはアメリカ女性の生活の上に実際化されつつあるのである。
こうした意味で、新しい「愛欲小説」は、その時代の風俗の流行のトップに、常に立っている覚悟で書かなければならない。「愛欲小説」は時代のショウウィンドウを飾る常に新らしき、それ故にこそ最も美しい流行着でなくではならないのである。
結論
考えて見れば、この少い頁数の中に充分に「大衆文芸作法」を盛ることは不可能なことであった。例証さえも充分に挙げる余裕がなかったことを残念に思う。私たちは小走りに此処まで来た。併し、大体に於て、見透しはついた訳だ。不満な点は、後の機会にゆだねて、私は一まず筆を措かねばならない。
で、結論として、私は次のことを諸君に告げる。
第一に、現代人類は凡ゆる意味で、恐ろしく重大な転換期――変革期に立っている。だが、彼岸には、今、偉大な文化の時代が、創意が開けようとしているし、又開かねばならぬ時である。それらは、私たちの任務であるとともにより若き、青春に富める読者諸君の重い任務であるのだ。
第二に、かかる時に際して、文芸は亦、それらの一環として、新らしい大文学の時代をひかえて、陣痛に悩んでいる。大衆文芸は、この時、その文芸の任務の一つを負って生れ、そして成長しつつあるのだ。大衆文芸は、如何なる方向へ進まんとするか進むべきか、――曰く、より「科学」の方向へ。
第三に、然も、顧るに我国の文壇は、あまりにも狭苦しく、片寄っており、そして姑息に沈滞していた。ために、小説の種類も亦、非常に少く、淋しかった。大衆文芸はこの単調を破って茫大な読者層に迎えられつつある。
そして最後に、この科学の加速度的進歩と、思想的混乱――アメリカニズムとボルセヴィズムの無批判な吸収――のさ中にあって、今、将来の文芸こそが夫らを正しく認識し、指導し、方向を示すべく運命づけられているのをひしひしと感ずるのである。
要は、より多種類の、より優れた文芸作品が創造されんことを、私は切望して止まないのである。
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