五、ユーモア小説
一体、ユーモアとは、現象の見方にある。人生に、到る処に絶えない数限りなき悲劇的現象を、喜劇的に見たものがユーモア小説なのである。だから需要は常にありながら作者が非常に、稀なのである。ユーモア小説作者の稀なことには、二重の不利が存在するからである。一つは、他から反感を抱かれ勝ちであること。そして、今一つは、作法上に非常に困難があるので、教養あるものに解るように書けば、無教養な人達にはその面白さなり諷刺なりが理解されない憂いがあり、教養少き人達の為に解り易くすれば、教養あるものからは駄洒落なぞと軽蔑されること。加うるに、我が国に於ける、かの畸形的な、自然主義文学の発達が作品に現れるユーモアを極端に軽蔑したことも、ユーモア作家の少いことの、そして、従って優れたユーモア小説の少いことの重大な原因をしているのである。現在、ユーモア小説作家としては、大泉黒石、佐々木邦の二人を除けば、皆無といっていいであろう。私の考えでは、かの夏目漱石の「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」は、立派なユーモア小説であると思っている。
現在、世にユーモア小説として喧噪されているものの殆んど総ては、低級な言葉上の洒落とか、業々しく無理にユーモア的に歪められたる会話、故意に笑わそうと作られたるもののみである。かかるもののみがユーモア小説とされている現状に於て、我々は大いに考え直さなくてはならない。
だが勿論、ユーモアには、言葉及び会話の自然的な可笑しさが重大な役目を持つのである。外国のユーモア小説が翻訳されても、面白さが半ばなくなるのもその為である。例えば、改造社の世界大衆文学全集で翻訳されているし、フィルムにもなって我国へ輸入されたから、読者諸君も知っているだろうが、亜米利加で驚くべき売れ行きを示しているアニタ・ルース夫人作の「殿御は金髪がお好き」というユーモア小説でも、原書で読むと、仲々面白い洒落た会話が到る処に見出されて興味深いものがあるが、翻訳ではその味が全く無くなって、原書と比較にならぬ程面白くなくなっているのも、その故である。又、江戸時代の黄表紙が現在の言葉に翻訳されても、同様に面白味がなくなるのもそうである。
そのように、ユーモア小説は、言葉が大切であるから、普通の小説家としての才能だけでは書けない。特別な才能が必要とされるのである。駄洒落や無理強いな可笑しさから一歩抜け出た作家の、ユーモア小説が現れれば、それは大したものだ。が併し、丁度漫画家が正道的な画家達から、軌道外の存在として見られるように、ユーモア小説家も、普通な小説家、所謂芸術小説家達から往々にして虐待される傾向があるのである。
政治的な諷刺、社会に対する諷刺小読も、勿論、ユーモア小説の部類にはいる訳であるが、一面より見れば、小説の中に入れてもいいようである。
六、目的小説
或は、「宣伝小説」。先に、私は大衆文芸を内容的に分類すると、興味中心的な、娯楽本意の、事件の起伏、波瀾の興味によって読者を惹きつけようとするものと、以上のことは勿論であるが、所謂芸術小説のごとく、人間及び社会等の探究、解釈、換言するならばある何等かの思想を盛らんとするもの、以上の二つに帰することが出来ることを講じたと思う。目的小説、宣伝小説と称せらるるものは即ち後者に属する処の小説である。その中には、盛るに政治的宗教的、思想的内容をもってし、その作品に依って作者の思想を宣伝、流布しようとする物の一切の種類を含むのである。
明治時代の、我国に海外文芸が輸入された当初に、翻訳され、制作された一切の通俗的小説が、当時の自由民権の思想に影響され、その政治的社会的思想を、積極的に流布し、宣伝する目的のもとに書かれた宣伝小説であり、その他立志の、或は教訓的な宣伝小説であった。坪内氏の訳になるリットンの「開巻悲憤慨世士伝」とか、井上勤訳する処のモアの「良政府談」とか、創作では、東海散士の「佳人之奇遇」、矢野竜渓の「経国美談」等々皆然りである。
外国に例を求めるならば、マロックの「ジョン・ハリファックス・ゼントルマン」なぞは、立志的目的小説であり、ホオソンの「緋文字」は、宗教的、教訓的目的小説といい得るであろう。「アンクル・トムス・ケビン」は合衆国の奴隷解放を描いた宣伝小説であり、かのビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」は、歴史的小説であるとともに、仏蘭西革命を書いた政治的社会的宣伝小説である。シェンキヰッチの「何処へ行く」等の歴史小説でも、当時なお人心宗教に篤かりし時代に於て、それは宗教的宣伝小説であった。トルストイの「戦争と平和」が明治時代に我国に翻訳されたのも、それが当時の社会状態に対する政治的な社会的な鋭い批判を含んでいたからであり、「復活」等が当時の帝政露西亜の政府の忌諱に触れて焼かれたにも拘らず、人心をかくも捉え得たのは、亦その政治社会に対する宣伝的要素を充分備えていたからである。トルストイの作品は、社会的目的小説であったと同時に、彼の哲学、そして宗教をも内容としたから、哲学的宗教的意味に於ける、宣伝小説でもあった。
震災後から猛烈に、大衆文芸と、肩を並べて勃興して来た、当時の民衆文学、即ち今日のプロレタリア文学のごときも、プロレタリア的、革命的思想を民衆の間に広く宣伝せんとする意識的な宣伝小説である。外国ではかかる小説が可成りに広く深く民衆の中に根を張っている。露西亜のマキシム・ゴリキイとか、仏蘭西のロマン・ローラン、アンリ・バルビュッス、亜米利加合衆国のアプトン・シンクレア等の作品はそうである。その他、通俗読物として、ウイリアムス、梅原北明訳の「ロシア大革命史」、ジョン・リードの「世界を震撼させた十日間」等、挙げられるであろう。それ等は我国に於ても割合に広く読まれているようであるが、我国自身のプロレタリア文学は、反って未だ充分に民衆化されていないようである。我国のプロレタリア文学も、その意味でまさに転換期にあると云えるであろう。プロレタリア文学が、文壇的な大衆とは可成りにかけ放れた、狭隘な読者範囲に止っていて、その域を充分脱していないということは、プロレタリア文学の本来の目的に叛くものであろうと思う。プロレタリア文学派の人達は、かかる自慰的な域から自身を解放して、文芸のもっと広い大道へ現れ、もっと広汎な読者層を捉えるべく、眼界を転じなくてはならない。林房雄君なぞが、近頃そのことを論じ、「大衆化」が問題とされ来ったのは、注目すべきことであろう。
宗教が民衆の情熱でありし時代、哲学が民衆の指針でありし時代、それ等の時代には宗教的、哲学的目的小説が行われた。今や、社会の変革が民衆の声ならんとする時、まさに革命的宣伝小説は勃々たる隆興の機運にせまられている。
その他に、戦争小説とも称ばるべき一群の通俗小説がある。我国の過去の作品を取ってみるなら、「源平盛衰記」「難波戦記」等の戦記物、日露戦役当時で謂うならば、「肉弾」、「此の一戦」等、現在では「日米戦争未来記」とか「進軍」といった類いの小説。これらは、戦争を、軍国主義を積極的に宣伝、鼓吹するものであるから、当然、宣伝小説の部門に入れられるべき性質のものである。
七、怪奇小説
私は、これを広い意味に於ける探偵小説、所謂怪奇小説と称ばれるものも含むものである。共に、空想的疑惑、恐怖的な好奇心を唆るものだからである。人間社会の宇宙の凡ゆる不可思議が残るくまなく科学的知識に依って解き得る時が来るまで、人間の生活をおびやかす物のみに対する人間の心理の、空想的疑惑、恐怖心は人間を誘惑するであろうし、人間社会から凡ゆる犯罪がなくなるまで、より科学的に深まりつつも、探偵怪奇に対する好奇心は人間の著しい魅力として残るであろう。尚人間それ自身は、現在では決して完全無欠ではない。例えば視覚は往々にして錯覚を生じる。錯覚とは知りながら、ある心理的状態においては、それが恐怖心を抱かすことがある。怪奇は、曾て怪奇なりしものが科学によって克服されればされる後から、愈々微妙に、複雑に、緻密にそれ自身を科学の隙間から突如として立ち現れ来るのである。一方、犯罪は愈々巧妙にして新な方法で構成されていく。加うるにこの歪める現在の社会に於て、一方に莫大なる富のあくなき集積があると同時に、反面に貧困を愈々深刻化し広汎に拡がらせていきつつある。かかる時、犯罪は亦社会的に後を絶つべくも無いのである。
エドガア・アラン・ポーの小説は、芸術小説の部類に含まるべきものながら、その題材は主として怪奇物語を取扱っている。我国で例を取れば、江戸川乱歩の傾向がそうである。探偵小説に至っては、益々科学的知識との結合は重大である。犯罪が愈々科学的に巧妙に行われると同時に、捜索も亦、科学的に緻密に行われる。ルブラン、ドイルより現在に至る探偵小説を吟味してみ給え。それが如何に科学を反映しているか。
だから、怪奇小説に筆を染めんとする諸君は、よろしく何よりも科学的知識を、そこでそれと結合した特異な、豊富な空想力を涵養しなくてはならぬ。
以上、私は概括的に、我が国大衆文芸の発達史、及びそれに加うるにその各々の種類を説明し終えた。文学は、今や世界的に転換期に到達している。ブルジョア文学よりプロレタリア文学への転換等よりもっと広汎な意味に於て。その二つを合せたものと云った意味でもない。もっと綜合的な、構成的なものへの転化の意である。成程、プロレタリア文学者は多少の科学的な考え方をするであろう。併し私の云うのは、もっとずっと広い意味に於ける科学的な知識、自然科学、社会科学全般に渡っての知識を包括して云うのである。経済、政治、その他一切の社会現象、人間の知識の凡てを、文学者が自らのものとした時、甫めて十九世紀に全盛を見、以後次第に衰微した文学が再び勢よく発芽し、花咲き出でるであろう。
私が、以上を主張するのには、抑々次の三つの根拠を有するのである。
一、赤露的言論の絶対的権威、無批判的受け入れ方、に対する批判。
一、無思想であり、無反省でありながら、然も恐しき実行力を、生活力を伝播していくアメリカニズムのジャズ文明に対する批判。
そして以上の二つは、当面の世界の二大潮流である。最後に、
一、自然的人間的作用の科学文明の発展進路に対する正当なる批判、が亦文学によってなされなくてはならぬと云うこと。
つまり、世界中の距離が縮み、世界中の思想がインターナショナル的になり、世界の学問と学問との領域が益々接近しつつある今日、その各々のエッセンスを
擢んで、理解し、其専門化して歪められたる方向を正しきに引き戻すのは、文学者の綜合的知識と批判を
俟つの他は無い。かかる任務を果し得る文学は、より以上に構成的、綜合的でなくてはならぬと考える。以上の意味に於て、私は将来の小説は、「社会的小説」であると断言して
憚らないものである。
もし、これを文学史的に観察するならば、嘗て人類が未だ宗教に情熱を有していた当時、文学が宗教と結び付いていたように、その後文学が哲学と結び付いたが如く、そこで、又文学者の人生観に依って、人類を救わんとした如く今日我々の情熱は社会制度の変革に燃えている。それと文学が結び付くことは、歴史的に必然なことである。そして次の時代に於て、文学が科学と結合するであろうことも亦文学の必然的な道程ではあるまいか。
第四章 文章に就いて
これより、愈々本論にはいる訳である。この章では、一般的に大衆文芸は、如何なる文章を適当とするか、を講ずる
意りである。
大衆文芸に於ける文章は、記述の明晰にして理解し易いことを、第一条件とする。つまり、「話すが如く書く」ことを根本原則とするのである。だから、出来得る限りに於て芸術上の技巧的な個人性を出さないように努めなくてはならぬ。何故なら、技巧の表現の個人性が深まれば深まる程一般の人々に解りにくくなるものだからである。芸術が言葉の表現にある以上、芸術家としては技巧上の個性と謂うものは当然現れるものではあるが、所謂芸術小説とは異り大衆文芸といわるる一般向きのものであるからには、表現上個人的特異性のあまり深まるようなことは避けなくてはならない。此のことは、古来屡々芸術家に依っても云われて来たことであって、仏蘭西の詩人レミ・ド・グルモンも「話すがごとく書くべし」と主張している。
だから、芸術小説と大衆小説との分岐点は題材の如何にあるのでは無くて、寧ろその文章にあるのである。例えばエドガア・アラン・ポーの幾つかの奇怪なる物語は、まさしく大衆的に興味を惹くものではあるが、その文章はあくまで個性を発揮した、立派な芸術小説的なものである如き然りである。だから、ポーの文学的地位は芸術作家であって、決して通俗作家ではない。試みに、日本の現在に於て、最も特異な文章を書く芸術作家として、有名な、横光利一君の文章を引用して置こう。後に挙げるであろう処の、大衆作家の文章と比較されたら、面白いと思う。
ナポレオンの腹の上では、今や田虫の版図は径六寸を越して拡っていた。その圭角をなくした円やかな地図の輪廓は、長閑な雲のように美妙な線を張って歪んでいた。侵略された内部の皮膚は乾燥した白い細粉を全面に漲らせ荒された茫茫たる沙漠のような色の中で僅かに貧しい細毛が所どころ昔の激烈な争いを物語りながら枯れかかって生えていた。だが、その版図の前線一円に渡っては、数千万の田虫の列が紫色の塹壕を築いていた。塹壕の中には膿を浮べた分泌物が溜っていた。そこで田虫の群団は、鞭毛を振りながら、雑然と縦横に重なり合い、各々横に分裂しつつ二倍の群団となって、脂の漲った細毛の森林の中を食い破っていった。
フリードランドの平原では、朝日が昇ると、ナポレオンの主力の大軍がニヱメン河を横断してロシアの陣営へ向っていった。しかし、今や彼らは連戦連勝の栄光の頂点で、尽く彼らの過去に殺戮した血色のために気が狂っていた。
ナポレオンは河岸の丘の上からそれらの軍兵を眺めていた。騎兵と歩兵と砲兵と、服色燦爛たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と進軍した。砲車の轍の連続は響を立てた河原のようであった。朝に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線を造って、潮のように没落へと溢れていった。(「ナポレオンと田虫」)
――山上の煉瓦の中から、不意に一群の看護婦達が崩れ出した。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
退院者の後を追って、彼女達は陽に輝いた坂道を白いマントのように馳けて来た。彼女達は薔薇の花壇の中を旋回すると、門の広場で一輪の花のような輪を造った。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
芝生の上では、日光浴をしている白い新鮮な患者達が坂に成って果実のように累累として横たわっていた。
彼は患者達の幻想の中を柔く廊下へ来た。長い廊下に添った部屋部屋の窓から、絶望に光った一列の眼光が冷く彼に迫って来た。
彼は妻の病室のドアーを開けた。妻の顔は、花弁に纏わりついた空気のように、哀れな朗らかさをたたえて静まっていた。」(「花園の思想」)
そこで、大衆文芸の文章は? くだけて云うなら、
難渋な文章を書いてはいけないのである。仮りに、今、手もとにある、同じ二月七日の夕刊から三つの例を次に取って見よう。諸君自身、吟味比較して読んでみ拾え。
四人の武士が集って、燭台の燈火を取り巻いていたが、富士型の額を持った武士が一人だけ円陣から抜けだしてふすまの面へ食っついたので、円陣の一所へ空所が出来て、そこから射し出している燈火の光が、ふすまの方へ届いて行って、そこに食いついている例の武士の、腰からかがとまでを光らせている。腰にたばさんでいる小刀のこじりが、生白く光って見えるのは、そこへ燭台の燈火が、止まっているがためであろう。と、その武士がうなされるようにいった。
「あのお方がズルズルとはって行かれる。若衆武士の方へはって行かれる。肩が食みだした。……ずっとそのさきに若衆武士がいる。……そう白の顔! 食いしばった口! 若衆武士は半身を縮ませている! ねらわれているちょうのようだ! ひの長じゅばんがずれて来た。ズルズルとはって行かれる毎に、じゅばんのえりが背後へ引かれる! くび足が象牙の筒のように延びた。……左右の肩がむきだされた。象牙の玉を半分に割って、伏せたような滑らかで白い肩だ! ……焔が二片畳の上を嘗めた! あのお方の巻いていたしごきの先だ! ……だんだん距離がせばまって来た。でも五尺はあるだろう。……」(中略)
「私はお前一人と決めたよ! こういうことはこれまでには無かった! それは一人に決めたいような、私の好みに合った男が、見つけられなかったがためなのだよ、……お前は私には不思議に見える! 優しい顔や姿には似ないで厳かで清らかな心を持ってる。だから私には好ましいのだよ。私は是非ともその心を食べてかみ砕いて飲んでしまいたい!……お前は「永遠の男性」らしい。だから私は食べてやり度い! そうしてお前を変えてやり度い!」女の声の絶えた時、例の富士型の額を持った武士が、震える声でいいつづけた。
「今、若衆武士が右手をあげた。腰の辺へ持って行った。その手で帯を撫ではじめた。だがあの眼は何といったらよいのだ! 悲しみの涙をたたえていて、怒りの焔を燃やしている。……だがあの座り方は何といったらよいのだ。背後へ引こうとしていながら、同じ所から動かない。……とうとう距離は三尺許りになった。あのお方が腹ばって行かれたからだ!」
そういう武士の後姿を、仲間の三人の美ぼうの武士達は、恐怖しながら見守った。
「すぐにあの男は悶絶するぞ。」
「さあ一緒に手を延ばそう。」「倒れないように支えて、やろう。」
――その時女の声が笑った。
これは、東京朝日新聞に連載されている国枝史郎の「娘煙術師」の一節である。この文章は、はたして「難渋な」まわりくどい文章でないだろうか。もっと明快な表現が出来ないものであろうか。同じ言葉を何度もしつこく繰り返す不必要な長ったらしい形容詞が到る処で使われている。文章が不自然で、生気がなく、従ってテンポがない。これはして見ると残念ながら悪文の適例である。では、次に――
永い用便を終って厠を出た信長は、自然らしく話の序に、近習等に向い
「たれか余の脇差の刻み鞘の数を云い当てて見い、云い当てた者には脇差を与える」
と云う問題を出した。勿論受験者の中には蘭丸も居た。此の試験は大いに不公平である。試験官が問題を漏洩したとは謂えぬが、受験者の一人を偏愛しての出題だと謂うことは出来る。信長ほどの大丈夫も同性愛に目がくらんで、時々こんなメンタルテストを試みたかと思うと、何とも云えぬ親しみを感ずる。
近習等は我勝ちに答案を提出した。是も随分おかしな話である。まるで根拠が無しに、いくつと云うのだから当るはずも無く、当ってもマグレ中りである。占のようなもんだと謂いたいが、占だって占者に謂わせればドウして仲々大そうな根拠があるのだから、此の答案は先ず、占よりも以上に、あてずっぽうの方である。
問う者も問う者なら、答える者も、こんにゃく問答以上の、やみくも問答に暫し市が栄えた。
信長は快心の笑を浮かべつつ
「うむ、それから」と順々に答案を促して居たが、心の中では、この脇差を蘭丸に与うる時の自分の満足と蘭丸の喜びとを予想して、すこぶる幸福であった。
ところが蘭丸は最後まで口をつぐんで答えようとしなかった。
これは同じ日の報知新聞の夕刊の矢田挿雲の「太閤記」の一節である。この文章は如何? これは、確かに解りいい文章である。然も一脈の諧謔味を湛えている。ユーモアに富んだ軽快な文章であると云える。大衆文芸の求める、よき文章の一例であろう。
最後に、同じ報知新聞の、吉川英治の「江戸三国志」から引用しよう。
やっとそこらの額風呂の戸があいて、紅がらいろや浅黄のれんの下に、二三足の女下駄が行儀よくそろえられ、盛塩のしたぬれ石に、和らかい春の陽が射しかける午少し前の刻限になると、丁字風呂の裏門からすっと中に消え込む十八九の色子がある。
曙染の小袖に、細身の大小をさし、髪はたぶさに結い、前髪にはむらさきの布をかけ、更にその上へ青い藺笠を被って顔をつつみ、丁字屋の湯女たちにも羞恥ましそうに、奥の離れ座敷に燕のように身を隠します。
そこの小座敷には、初期の浮世絵師が日永にまかせて丹青の筆をこめたような、お国歌舞伎の図を描いた二枚折の屏風が立て廻されてあって、床には、細仕立の乾山の水墨物、香炉には冷ややかな薫烟が、糸のようにるるとのぼっていました。
「おうお蝶か。きょうは来ぬかと思うていたが」
ふと見ると、屏風の蔭に、友禅の小蒲団をかけて、枕元に、朱羅宇のきせるを寄せ、黒八を掛けた丹前にくるまって居た男がある。
日本左衛門です。――むっくりと起て「一風呂浴びて来るから、待っていてくれ」と、手拭をとる。
「ええ、ごゆっくり」
お蝶はニッコとしながら、袴腰の若衆すがたで、何もかも打解けた世話女房のように、あたりの物を片づけます。
この額風呂の庭には植込もかなり多いので、離れの一棟も母屋からは見透されません。手拭を持った日本左衛門は軽い庭下駄の音を飛び石に遠退かせて、向うに白湯気をあげている風呂場の中へかくれました。
それを、濡れ縁の端から見送っていたお蝶は、彼の姿が隠れると、キッと眠くばりを変えて、部屋の四方を見廻しました。
(中略)
(そうだ! 今のうちに)
彼女のひとみに、そう言うような意志のうごきが険しく見えたかと思うと、お蝶の手はすばやくそれを元の通り包み込んで自分の袖の下へ抱えようとしかけます。
すると、不意に濡れ縁の障子が開きました。
「おやっ?……」
「あっ……」とお蝶はあわてて地袋の中へそれを戻して、何気ない顔を作ってひとみを上げますと、日本左衛門ではありません。
「こいつはいけねえ、座敷ちがいをしてしまった。へへへへへ、つい酔っているもんですから、飛んだ失礼をしてごめんなすっておくんなさい」
無論、額風呂の客にはちがいありますまいが、作り笑いをした眼元に一癖のある町人が、ヒョコヒョコ頭を下げながらぷいと縁先から姿をかくしました。
ですが、町人の去ったあとも、何時までもお蝶の胸は動悸が納まらないように、あの睫毛の濃い眼を見ひらいたまま、
「ああ、よかった……」
と、暫く、胸騒ぎをおさえています。
こうして、ある時は女のまま、ある時は若衆の男姿で、恋に寄せて、彼に近づいておりますが、もし今の挙動をあのけい眼な日本左衛門にちょっとでも見られたならば、もう彼女の運命も長くは無事で居られません。
非常に解り易い文章である。挿雲のそれの様にユーモアとか諧謔味は無い。だが正面から簡単明瞭に描きだすこの作者の表現には、作者独特の正統性と、加うるに柔らかな潤いをもっている。大衆文芸の文章法のよき手本の一つである。
一般の人達が好むのは、要するに、文章の「朗らかさ」であり、「明快さ」である。大衆文芸の第一の使命が、むずかしい思想や論議を解説的に、通俗的に事件の興味によって、読者を惹きつけながら説明することがあるからには、文章は絶対的に、出来得る限り「話すように書くべし」という原則を破ってはならぬ。
之を、芸術小説の例に取っても、菊池寛の作品が一般に持てはやされるのは、その一面に於て、明らかに彼の明快にして適確な、無駄のない文章が与って力ありと謂わねばならない。もし、難かしい文章と明快な文章との価値比較をするような者があるとすれば、夫は全く無用なことで、馬鹿の至りであろう。何故なら、名文とは、難渋な表現、難解な形容詞を使った文章をのみ指すのでは絶対に無いからである。話すように書くことは、一見あたかも最も平易に見えるが、事実は、反対に最も困難なことであるのを、諸君は知るであろう。
最後に、今一つ注意すべきことは、平易な文章というのは、自分の文章の特色を没却することを意味するのでは断じてない、ということである。矢田君に、文の独特の明快さがあるとすれば、吉川君にも亦彼自身の明快さがある。よき文章家には、必ず隠そうとして隠し切れないであろう特色が、自らその文章に浮び出るものである。要は明快であることだ。だが、これは一般論であって、その小説から文章だけを切り放して、内容と別個のものとして論じることは不可能なことである。以下、私は各論にはいるのであるが、そこで各種類の中に、内容と文章とを合せて詳論したいと思っているから、ここではこれ位に止めることにしよう。
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