第三章 大衆文芸の歴史
本章では、私は、日本の大衆文芸が如何なる歴史的過程を経て発展して来たか、について講じたいと考える。
さて、一体、日本には、古代から大衆文芸と称んでいいような文芸作品が存在したのであろうか、という疑問が起って来るであろう。私の考えに依るならば、かの「竹取物語」とか、「宇治物語」とかなぞは、当時の通俗小説であったと見て、何等差支えないと思うのである。そういう見方でするならば、そこで又そんな見方で私は正しいと思うのであるが、その各々の時代の社会的条件に依って、仮令その読者範囲が限定せられ、今日のように、否将来愈々そうであるだろうように、広大な読者層を持つことは不可能であったにしても、兎に角、私が最初に云った意味の、一般的な、興味中心の通俗的な文芸作品は、ずっと古くから我が国にもあることはあったのだと云える。
だが、余り古い時代のことを、此処でぐずぐずと述べるのも本講座の目的では無いと思うから、私は、本講座に必要な限りに於て、ずっと近代に接近している江戸時代の通俗的読物の類から考察を進めよう。
江戸時代の、謂わば大衆文芸は、次の十種類に分ち得ると思う。
一、軍談物(難波戦記、天草軍記)
二、政談、白浪物(鼠小僧、白木屋、大岡裁きの類)
三、侠客物(天保水滸伝、関東侠客伝)
四、仇討物(一名武勇伝、伊賀越、岩見重太郎)
五、お家物(伊達騒動、相馬大作、越後騒動)
六、人情、洒落本物(梅ごよみの類)
七、伝奇物(八犬伝、神稲水滸伝)
八、怪談物(四谷怪談、稲生武太夫、鍋島猫騒動)
九、教訓物(塩原太助の類)
十、戯作(八笑人の類)
此等、江戸時代の通俗小説類を一貫して見るのに、勿論当時の幕府の封建的支配の影響の下にあったためでもあるが、次のような諸点がそれ等の作品を通じての特徴として挙げられると思う。
一に、当時の以上の作品は、凡て全然無批判であった。そして、
二に、ある一つの型に、すっかり嵌り込んで了っていること。
三に、概して、勧善懲悪を目的としていること。そして、そのために、屡々、事実が極端に曲げられ、或は誇張されている。且、歴史的事実の研究が、非常に不足していたこと。
四に、空想的な、想像力がとても貧弱で、お話にならないこと。例えば、稍々江戸時代の雰囲気の出ていると思われる第十の「戯作」にしても、都会人中の極く狭隘なサークル内の人達の生活を描いているのに過ぎないのである。
それ等の欠点のためでもあり、亦、幕末から明治へかけての政変のためでもあるが、江戸時代の民衆の文芸は、幕府の末に到って遂に堕落し、みる影もなくなったのであった。
では、次に明治時代にはいって、大衆的なる文芸として、先ず最初に何んなものが現れ出でたであろうか。否、現れざるを得なかったか。
提督ペルリの来朝、幕府の倒壊。そして明治維新、開港となり甫めて日本は数百年の怠惰安佚の眠りから覚めた。西洋の文物は続々として輸入され、封建的鎖国の殻を破った我が国は、忽ちにしてその風貌をあらため始めた。即ち遅ればせながら、西洋先進諸国に伍せんとして、日本の資本主義は、遂には不完成に終ったとは云え、隆々たる発展の端緒を開きはじめたのであった。かかる時、今とは違って、我国の新興勢力たりしブルジョアジイは、封建的残存物と対抗して、何を獲んとして居ったか。曰く、自由、平等! そして、自由民権が叫ばれ、議会制度を獲得せんとしたのであった。そのために、尊い民衆の血は流れ、処々に一揆の勃発を見た。
此の血腥い時代を背景として、反動的な残存勢力の必死の反抗にも拘らず、西洋の先進諸国の物質文明、精神文明は新らしき進歩的思潮と共に、尚も滔々として輸入されつつあった。そして、当然、西洋の文芸も亦、従って輸入され、翻訳されたのであった。進歩的な人達に依って輸入されたそれ等の文芸作品が、当時の政治的風潮の当然の結果として、自由の思想を盛ったものが主であり、その思想の宣伝の意志の下に、先ず輸入され、翻訳されたのも不思議ではあるまい。こうして、かかる種類の宣伝小説、或は目的小説の翻訳が、近代の我国の大衆文芸の、否文学一般の先駆をなしたのであった。仮令、それ等が、文学史上より見る時、文学的な何等の功績を修め得ない程度の、非芸術的な価値の劣等なものであったとは云え――。
トルストイの「戦争と平和」なぞ、その当時、「自由の旗名残の太刀風」の題下に翻訳されたのであった。その他主なるものの数種を挙げるならば、
坪内逍遥訳、リットン「開巻悲憤概世士伝」、関直彦「春鶯囀」、井上勤訳、ジュール・ベルヌ「佳人の血涙」、モア「良政府談」、大石高徳訳「蒙里西物語」「共和三色旗」等々がある。
以上のごとき、数多の外国小説の翻訳に依って、我国の江戸時代よりの小説類に全く欠けていたものを外国文学中に発見し、外国小説の面白さをつくづくと感じた読者自身が、今度は、自ら創作欲に駆られて、書き初めたのであった。
その主なるもののみを挙げるならば、
東海散士柴四朗「佳人之奇遇」、「東洋之佳人」、矢野竜渓の「経国美談」、「浮城物語」、末広鉄腸の「雪中梅」、「花間鶯」、木下尚江の「良人の自白」、「火の柱」、内田魯庵の「社会百面相」等がある。
之等は、凡て、翻訳小説と同じく、政治、社会、教訓、或は立志に関する宣伝小説であった。
以後、時代の進歩とともに、西洋文明は愈々我が国民に消化され、その精神的な血となり肉となりはじめた。従って、翻訳小説も、愈々隆盛を極め、宣伝小説に限定されず、より広く、より一般化して、変態的ならざる、正常的な発達を遂げたのであった。
そして、最初には、何よりも大衆に喜ばれ、理解され易い種類のものが翻訳され初めた。即ち「探偵小説」と「冒険小説」とである。そして、その当初に於ては、それ等探偵小説や、冒険小説の読者は、宣伝文学の訳者と同じ人の手になったのであった。
主なる例を次に挙げよう。
森田思軒の「探偵ユーベル」、「間一髪」、原抱一庵の「女探偵」、徳冨蘆花の「外交奇譚」、黒岩涙香の「人外境」等。
では、何故、当時探偵小説が一般に喜ばれたのであろうか、と云うと、憶うに当時は、尚自由民権の叫ばれた直後であり、仕込み杖の横行した時代であったが故に、自然一般の空気がかかる風潮に影響されていて、従って探偵的興味が強く人心に働き、かかる情態に適応したものであって探偵小説が流行したものの如くである。
現代を、探偵小説流行の第二期とするなら、当時は、方にその第一期に当っていると云い得るだろう。その翻訳小説の盛大を極めたのと同時に、探偵小説の創作も、盛んに行われたのであった。
例えば、「お茶の水婦人殺し」だとか、「大悪僧」だとか、「ピストル強盗清水定吉」、「九寸五分」、「因果華族」等が書かれた。
併し、それ等創作探偵小説の愚劣さ加減と来ては、言語道断なものがあった。即ち、新聞記事中の事件は、直ちに小説に書きあらためられるのであって、例を挙げるならば、近頃の説教強盗といったような、当時世間を震撼させたピストル強盗清水定吉とか、稲妻小僧坂本慶次郎とかは、忽ち探偵小説となった。だから、探偵小説を創作すると云うよりは、寧ろ新聞記事の小説化と云った方が妥当であろうと思う。そして加之、事実を興味深く粉飾するために、何の小説にも一様に、護謨靴の刑事と、お高祖頭巾の賊とが現れ、色悪と当時称せられた姦淫が事件の裏に秘んでいるのに極まっていた。
以上のような、程度の低い、探偵小説は、やがて、当然行き詰らざるを得なかった。そうして、それに代って、冒険小説が勢力をもち始めた。
此処に冒険小説とは、大人子供の如何に拘らず、興味深く愛読出来る冒険談、或は探険談と呼ばるべき種類のものを指すのである。それ等探険小説、或は冒険譚というものは、日本の嘗ての要素に全然無かった種類のものを含んでおって、小説そのものも、事件それ自身も、当時の人々の未知のものであり、無経験のものであり、空想だにもしなかったものであった。換言するならば、当時、日本の文芸にとって、全く新しき境地であり、開拓地であったのである。宜なり、当時の新らしき文学を理解し、信奉する、主として若き、新進気鋭の徒は、悉くその方に走ったのであった。
「地底旅行」「海底旅行」「三十五日間空中旅行」等の、当時の人々の好奇心を煽り、空想力を楽しましめるに充分な読物が現れ、
森田思軒は、「大東号航海日記」「大叛魁」「十五少年」を書き、
松居松葉は、「鈍機翁冒険譚」を発表し、
菊池幽芳は、「大宝窟」「二人女王」を書き、
幸田露伴は、「大氷海」を、
桜井鴎村は、「三勇少年」「朽木舟」「決死少年」を、
そして、
押川春浪は、「武侠艦隊」「海底軍艦」「空中飛行艇」を発表して、世の喝采を博した。
その他、
スタンレーの「アフリカ探険記」、キャピテン・クックの「世界三週航実記」、「ロビンソン・クルーソー」、「不思議の国巡廻記」「アラビアン・ナイト」等が翻訳された。
かくの如く、冒険、乃至は探険小説の発達は、当時の少年文学に大きな刺戟を与え、少年文学が提唱された。即ち
尾崎紅葉は、「侠黒児」を書き、
巌谷小波は、「黄金丸」を発表し、
川上眉山は、「宝の山」を、
土田翠山は、「小英雄」を、
与謝野鉄幹は、「小刺客」を書き、
黒岩涙香に依って、「巌窟王」「噫無情」が翻訳されたのであった。
時代物としては、
外山ゝ山の、「霊験王子の仇討」(ハムレット)、「西洋歌舞伎葉列武士」が現れ、
村上浪六は「三日月次郎吉」「当世五人男」「岡崎俊平」「井筒女之助」と彼の傑作を続々と発表し、
塚原渋柿園は「最上川」を、
村井弦斎は、「桜の御所」を報知新聞に書き、その他、「衣笠城」「小弓御所」を著した。
加之、新聞小説も漸く盛んになり、
恋愛物としては、
蘆花の「不如帰」が著され、
紅葉山人の「金色夜叉」が明治三十年に出でて、世に喧伝され、
弦斎の「日出島」が出て、
幽芳は、三十三年大阪毎日新聞に、「己が罪」を書いて世の子女を泣かせ、
小杉天外は、「魔風恋風」を三十六年読売新聞に連載し、大倉桃郎は、「琵琶歌」を書いた。
同時に、講談は、明治十一年に表れた「牡丹燈籠」を最初として、之又続々と新聞に連載された。
以上のごとく、通俗小説は、明治三十年頃を絶頂として未曾有の盛観を極め、更に百花撩乱たるの観あること、今日の大衆文芸の盛んなること以上であった。今日の如きは大衆文芸の重要なる一分野である少年文学は全く見る影もなく衰えている。この当時の文壇と、震災以前、大衆文芸勃興以前の文壇とを比較して見るなら、如何に文壇小説がその後、尊ばれ、以外の文学が軽蔑され、衰えたかを一目瞭然と知ることが出来るであろう。例えば少年文学にしても、その分野に踏み止るもの小説唯一人であった。
かかる文壇小説偏重の悪傾向は、如何なる原因より発し如何にして助長されたのであろうか。
我々は、此処で、日本に稀なる四人の文芸批評家の出現を省みなければならない。即ち、高山樗牛、森鴎外、坪内逍遥、島村抱月が之である。当時、我国には前述の如く、通俗小説以外に文芸は皆無であった。彼等四人の評論家は口を揃えて、文学の正統性を論じ、純粋文芸の必要を力説し、主張し、堂々たる文学論を戦わしたのであった。彼等の云わんとする処は正しかった。彼等は文芸を正道に帰さんと試みた。斯くして、彼等の文学論は、遂に圧倒的な勢力を文壇に占めるに到って、世の文学者、作者は、今度は悉く通俗小説を棄てて彼等の下に馳せ参じたのである。以後、通俗小説に踏み止まったものは、今まで通俗小説を書き馴れて来た老人達のみで三十年以前から書き来った儘に、漸く消えなんとする通俗文芸の命脈を保っているに過ぎなくなった。
樗牛、鴎外、抱月、逍遥四人の優れた評論家が唱えた処は、誠に正しかった。併し、その文学論は、今度は反動的に、文壇小説偏重の傾向を培い、文芸を文壇小説一種に限らんとする努力がなされるに到った。加うるに、日本に於ける自然主義文学運動が次第に盛んとなるや、この傾向を愈々助長促進せしめ、自然主義文学者に非ざれば、作家に非ず、とまで叫ばれるに至った。その後、文芸上の風潮は人道主義派、新理智派とそのイズムの色に変化はあったが結局彼等は、文壇小説以外の通俗文芸を度外視し去り、従って通俗文芸に対する、若き作家達の関心、努力は全く無くなって了ったのであった。このようにして、震災以前の大衆文芸は、沈滞その極に達した。
蓋し、今日の大衆文芸の隆盛は、必然的なものであって社会がかくも大衆的にならなくても、新らしい通俗文芸は当然起らねばならぬ機運にあったものだと云い得るのである。
そこで、話は震災以後に移るのであるが、震災以後に於ても、本田美禅、岡本綺堂、前田曙山、江見水蔭、渡辺黙禅、伊原青々園、松田竹嶋人と云うような人達が通俗小説を相変らず発表しているのであるが、之等の人は、謂わば硯友社派の残存者達であり、文壇小説家としては落伍した連中であって、残念ながら新らしき大衆文芸の復活者とは決して云えないのである。
復活以後の最初の作品として挙げるべきは、震災前即ち大正四五年に東京都新聞に連載された、中里介山の「大菩薩峠」である。今日でこそ、大衆文芸の一典型とまで持囃されているが、発表当時は勿論、大正十二三年頃に到る迄は、その存在すら一般には認められなかったのであった。その他、国枝史郎は、講談雑誌へ「蔓葛木曾桟」を書き、白井喬二は、人情倶楽部へ「忍術己来也」を、大佛次郎はポケットに「鞍馬天狗」を書いていた。然も、之等も亦、殆んど全く人々の注目する処とはならなかったのであった。
大正八九年頃、当時、私は「主潮」と謂う雑誌を編輯していたのであるが、その中で、私は「大菩薩峠」と、後藤宙外の大阪朝日新聞に書いた小説とを比較して、「大菩薩峠」の優れていることを賞讃したことがあったが、それも又一般の人々の認める処とはならなかったのである(以下、少々私自身の自慢のように聞えるかも知れないが、事実であるから何とも致しかたのないことだと思う)。その後、春秋社に這入った私が、喧嘩別れをして出た時に、大菩薩峠を置土産にして去ったのであった。
「苦楽」が発行されることになって、私が編輯の任に当った。そこで私は有名な文壇人達に同誌上へ通俗小説を書いて貰い、自分も書いた。それから大衆文芸の機運が漸く動き始めたと云っていいと思うのである。そこで、長谷川伸、平山蘆江、土師清二、村松梢風、大佛次郎、吉川英治等が続々と新らしい大衆文芸を提供し、広汎な読者層が、之に応じ始めたのである。
この新らしく勃興し来った大衆文芸が以前のそれと異る処は、次の諸点であろう。
即ち、人物に人間性を与えたこと、物語が事実らしくなって来たこと、文章に新鮮味が加わったこと、等であるが、批判という点では、矢張り殆んど欠乏していると云わなくてはならないであろう。
震災後、起って来たプロレタリア文芸が、実に盛んになって、今日プロレタリア文芸理論の論議が喧噪を極めているのと同様に、将来を期待される大衆文芸も亦、今やその理論を一応は確立すべき時にまで立ち至っているのではないだろうか。新聞紙上に於ても、屡々大衆文芸が問題となっているのを、我々は見るのである。我々は、将来の発展の見通しをつけるためにも、大衆文芸理論を、兎も角も確立する必要があるのではなかろうか。
併しながら、私は此処で、大佛次郎の、或は某々、等の大衆文学に関する論を或は反駁し、或は賛成して、議論を闘わそうとは思わない。唯、かかる過程を経て起って来た現在の日本の大衆文芸は、かく進んで行くべきであり又進んで行くであろう、と云うようなことをこの章の結論として一般的に述べるに止めたいと思うのである。凡ゆるものは、原因があって起り、そしてそれ自らが持つ最大限度には発展し得るものなのである。大衆文芸も亦、私が再三述べて来たように、一般的には、資本主義的な世界思潮の波に乗って生れて来、特殊的には我国に於ける自然主義文芸運動の変調的発展に堰き止められたために特に遅れて、併し反って急速に、近頃になって再び新らしく起って来たのであった。そのことは、第二章の意義の処で可成り詳細に述べたと思うからここには云わないことにする。かかる必然的結果として文学の一部門中に誕生した大衆文芸は、従って芸術小説とは自らその性質を異にして広汎な読者層を包含する故に、階級的な特殊性を避けようとしても避け切れないものがあるのではないかとも思われる。勿論、現在、興味のみのもの、興味即ち事件の運びの面白さと謂ったもののみで、成立した大衆文芸が存在し得るのは事実だ。だが、大佛氏が云うように、現在の資本主義的ジャーナリズムが握っているように思われる所謂「大衆」が、その歴史的必然の途を踏んで階級の特殊性を愈々自覚して来る時、現にしつつあるごとく思われるが、その階級的分離の速度を強めて行くのは当然だからである。そして、作家それ自身もやはり社会生活をするものである以上、彼等自身何等かの色づけをされざるを得ないのではないだろうか。即ち、作家達個々の良心に従って、個々の大衆作家の描く作品そのものも変って来る訳ではある。だが、大衆作家が、大衆作家である所以のものは、その作品があくまでも文壇的ではなく、大衆的、通俗的文芸作品でなければならない、と云うことは何等変りないのである。
我国の大衆文芸は、その範囲未だ極めて狭く、鶴嘴の触れてない未採掘の分野は、尚尊い金鉱を蔵してその儘、我々の足もとに広く、深く横たわっていることを知らなければならないのである。そして、それ等を開拓して行くことこそ大衆文芸作家の任務であり、大衆文芸を益々盛んならしめる所以であろうと思う。
で、私はこの章の最後に当って、大衆文芸の分類方法に関して、若干の意見を述べようと考える。そのことに依って、諸君に大衆文芸の分野でありながら、日本の大衆作家達が、全く手をつけていないような、然も広大な鉱脈を知らせることが出来るだろうからである。そして又、それ等こそは、大衆文芸を目指す諸君によって是非開拓されなければならない沃土なのである。
で、もし、日本の過去の作品のみを以て分類するなら、第一に「軍記物」源平盛衰記とか、難波戦記とか――現在の例をとると、日米戦争未来記とか、秩父宮勢津子妃の愛読書だという「進軍」とかは、立派に大衆文芸の一分野を占めていいであろう。
第二に「白浪物」又は「政談物」とでも呼ぶべき「鼠小僧」とか、大岡越前守の関係物とか。第三には「侠客物」第四に「仇討物」第五に「お家騒動」第六に「怪談物」第七に「伝奇物」第八に「教訓物」第九に「人情本」即ち、恋愛小説の類、第十に「戯作物」これらは総て、大衆文芸の中へ含まれて差支え無い物である。
以上の分類法は、私が江戸時代の通俗小説を分類するの方法を適用して見たのであるが、之を、現在の言葉により現在の分類法を用いるなら、第一「探偵小説」第二「冒険小説」第三「少年、少女小説」第四「宣伝小説」この中には、政治、宗教、思想等、作によって目的を宣伝、流布せんとする物の一切が含まれてくるのである。第五に「歴史小説」第六に「伝奇小説」この両者の相違は後章に詳説する。
第七に「スポーツ小説」この中へ、海洋又は山岳文芸を含めてもいい。第八に「立志小説」又は、修養、教訓小説と云っていいもの。第九に「花柳小説」第十に「滑稽、諷刺小説」第十一に「恋愛小説」第十二に「実譚小説」第十三に「怪異小説」第十四に「戦争小説」第十五に「英雄小説」第十六に「科学小説」と。こんな風に分類して行くなら、「競馬小説」「カフエ小説」「シネマ小説」……と何ういう風にでも分類ができる訳である。
然し、もしこれを内容的に見るならば、ただ二つに帰してくる。その一つは、興味中心、娯楽的、即ち事件の起伏波瀾、変化の面白さのみによって、読ませようとする物であり、他の一つは、勿論、そういう点も十分に考慮されて居るが、純文芸の目的たる、人間及び人生、社会等の探究、解釈をも含めている物である。
そこで、私は、次のように分類するのがいいのではないかと思う。
一、時代物
二、少年物
三、科学物
四、愛欲小説
五、怪奇物(広い意味の探偵小説)
六、目的、又は宣伝小説
七、ユーモア小説
一、時代物
時代物は、これを伝奇小説と歴史小説に分類する。
伝奇物とは、髷物であり、所謂大衆小説と称せられている処のものである。主として事件の葛藤、波瀾を題材としたものであって、従って興味中心的であり、多少は歴史的虚偽を交ぜても構わない種類のものである。
現代の日本の大衆作家の作品の殆んど凡てはこれであると断言することが出来る。
歴史小説と称ばるるものは、歴史的な史実の考証的研究の充分にされたものであって、歴史的事実は毫も曲げずして、新らしき解釈を下した作品である。シェンキヰッチの「神々の死」等の諸作、フローベルの「サランボ」等の如きが例として挙げられ得るであろう。
二、少年物
主として想像力に基く一切の作品、大人の持っている分子の一切をも含めたものを、凡てこの題下に呼ぶのであって、怪奇物語、冒険、探険小説等々を包含するのである。例えば、「竹取物語」、「西遊記」、「アラビアン・ナイト」、スチブンソンの「宝島」、アミーチスの「クオレ」、マロオの「家なき少女」、トウエンの「ハックルベリー・フィンの冒険」「トム・ソーヤの冒険」、「ロビンソン・クルーソー」、「不思議の国巡廻記」等。
この種の創作には、殆んど我が国では手がつけられて居ないといってもいい。よき少年文学は、大人の文学作品の書ける上に、より充分な「空想力」が無ければ書くことは困難である。これを、只単に、年少の人の読物なりとして軽蔑し去る理由は少しも無いのである。それだけの理論さえ理解出来ずして、一端これを棄ててしまった文壇小説が益々狭隘な途に踏み込んでしまったのは当然と思われる。
現在、少年、少女小説は、一の転換期にあるように観察される。嘗て、少年を喜ばした処の、空想力に依った科学的探険談は、現在の加速度的なテンポで進歩して止む処を知らない科学の知識によって書き改められるべき時に到達しているのである。この転換期に於ける少年文学は、科学と空想とが如何に巧みに結合するかによって解決されると思う。旧き一切のものは、新らしきものの材料となり得るであろう。もし、現在日本の文学界に最も必要な小説を求むるならば、私は第一に少年文学を挙げるに躊躇しないであろう。
少女小説に到っても、同様である。現在の少女小説作家が、同性愛と古きセンチメンタリズム以外の何物も描き得ない時に、大人の愛欲生活の世界は、思想的にも経済的にも急速に変化しつつあるのである。かかる重大な危機に臨んで、果して現在の少女小説作家は如何に考えているのか、私は大方の少女小説作家諸君に問いたい。
三、科学小説
科学小説と称ばれる種類の作品例は、日本には皆無である。外国に例を取るなら、ハッガードの探険談。ウェルズの諸作品。近頃では、テア・フォン・ハルボウ女史のメトロポリスなぞが、そうである。科学の進歩発展した今日、日本にも当然創作されなければならないものである。私は現代に於ける進歩とは、科学の発展以外の何物でもあり得ない、と断言して過言ではあるまいと思う。精神文明、芸術的諸作品、と云ったものは頽廃しつつある。少くとも科学と比較する時は、退歩していると云い得るだろう。斯る時に当って、日本に未だ曾て科学小説の現れなかったというのは、日本人が如何に科学に対して無理解であったかを示すものである。と同時に、今後に於て科学小説の領域に全き発達の余地が残されていることをも指し示すものである。
科学とは、単に機械に対する驚異というような狭い意味の言葉では、決してない。私の意見に依れば、人間の生活は、自然的倫理作用より科学的倫理作用に支配されるようになって来た傾向がある。と云うのは、科学は、必ずしも人間の要求する幸福を実現する方向にばかり進んでるのではない。人間は、自然的な人格作用として、人口の増殖と食物の増加を望む。この自然的倫理作用の命令に従って、科学が支配されるならば、一年中に米が三度取れるようになっているべきだ。然るに、科学の発見があるごとに、一つの傾向だけが雪だるまのように広がり、大きくなるのである。例えばテレビジョンの発明まで、享楽的方面にすばらしい発達を見せている。処が、享楽的科学の発達は、人口増殖とか食物問題とかとは、概して矛盾した結果を齎す。つまり、人間的生活は人間の自然的欲望の倫理作用より科学的なる倫理作用に支配さるるに到るのである。この科学文明の歪んだ道を、正当に引き戻すためだけでも、科学小説は、今や立派な使命を持っていると、云えるのである。
四、愛欲小説
現在までの家庭小説は主として恋愛小説であった。殆んど凡ての文学は恋愛事件を含んでいるから、一切の文学は恋愛小説であるとも云える訳だが、特に愛欲のことを取扱った小説を大衆文芸の一部門として分けてもいいと思う。
ただ、今後の作者が特に、恋愛を取扱う場合に注意すべきは、恋愛を科学的に考察することである。精神的恋愛、肉体的恋愛、という古くよりの二つの区別を信奉するものは、新らしき恋愛小説は書き得ないだろう。私をして云わしむるなら、恋愛は八種類に分類し得ると思う。参考のために、以下少しく、恋愛について述べよう。
一、思春期的恋愛。この時代の恋愛は、ただ無闇な、盲目的な情熱にうかされるのであって、無批判的で、相手を選択する余裕がない。街角で出あった最初の異性が恋人である。恋愛は、本質的にかかるものではあるが、特にこの思春期に於ける恋愛は、情熱的で、無批判である。
二、母性的恋愛。無自覚な、大多数の、日本の女性の恋愛は悉く、この種類に属するのであって、恋愛はそれ自身として独立していないのである。子供を欲しい事が、無意識的に動いて、異性を欲しがる処の恋愛である。かかる恋愛は、子供さえ出来れば、あらゆることに忍従するものである。
三、性欲的恋愛。ある人々は恋愛で無いと云うかも知れないが、恋愛的な気持の一抹もないようなことは絶対に無いと云っていいから、恋愛の中に入れていいと思う。
四、英雄崇拝的恋愛。必ずしも、その人を独占しようとするのではなくして、その人に、好意をもたれんことを望む。活動俳優に対するファンの気持。著名人物に交際を求める男女の恋愛心理といったものが、これに属する。
五、社交的恋愛。殆んど之に同じもので、頗る遊戯的な恋愛である。音楽会へ行く時の、競馬を見る時の、舞踏会へ行く時の相手といった、軽い携帯用の、ステッキのような恋愛である。
六、同志的恋愛。コロンタイ女史の小説に表れるような最も新らしい型の恋愛であって、何よりも第一に、政治的に思想的に一致した意見によって同志として結ばれていなければならない。これは、労農ロシアの若きゼネレーションの中から必然的に生れたもので、近頃日本でも林房雄なぞに云々され、流行せんとする傾向があるが、本来はそんな軽率な、皮相的なものではないのであろう。
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