三
妙に勿体をつけて睡眠を讃美したのに拘らず師父ブラウンは唖者のような作男ゴーをのぞいた
外誰よりも一番早く
起出でた。そして大きなパイプを吸いながら、その黒人が菜園で無言に働いているのをジッと見守っている彼の姿が見られた。夜の明け放れる頃には夜来の嵐は
篠つくような
驟雨を名残として鳴りをひそめ、ケロリとしたようにすがすがしい朝が一ぱいに訪れていた。作男は坊さんと何か話をしていたような素振りさえ見えたが、官私二人の探偵姿を見ると、俄にプリプリしたように鋤を
畝の中に突込んだ。そして朝飯の事について何やらほざきながら、キャベツ菜の
作列に添って台所の方へ姿を掻き消してしまった。
「あの男は見上げた男ですぞ」ブラウンが口をきいた。「あの男は馬鈴薯をたまげるほど掘るのでな。ただし」と彼は妙に落着いた情深い心になりながら「あの男には欠点もあるのです。いやお互に欠点のないものがどこにあろうかな。すなわち、あの男は畑の
畝を
真直に掘らん事じゃ。まあ諸君ここを見なさるがいい」
彼はこういって突然ある一点を踏みつけてみせた。「時に私にはどうもあの馬鈴薯が怪しいと思われるのじゃ」
「ヘエなぜです」クレーヴン探偵は、
小男の坊さんが新趣向を提出したのを面白がりながら訊ねてみた。
「どうもあの馬鈴薯が怪しいと云うのは、第一作男のゴー自身を怪しいと想っているからじゃなあ、ゴーは
外の箇所はきっと掘るが、どうもここだけは変な掘りかたをしている。大方この下には大へん立派な馬鈴薯でも埋まっている事じゃろう」
フランボーは鋤を引抜いて、いきなりザクリとその地点に突込んだ。彼は
土塊の下に馬鈴薯とは見えずしてむしろ醜怪な
円屋根形の頭をもった、
[#「、」は底本では「。」]蕈のような形をした変なものを掘り出した。がそれは冷たいコチリという音がして鋤の
尖にぶつかって手毬のようにコロコロと転がりさま一同の方へ歯をむき出した。
「グレンジール伯爵様じゃ」とブラウンが悲しげに云った。そして悄然として
髑髏を見下ろした。それからしばし彼は黙祷するものの如くであったが、やがてフランボーの手から鋤をとって「さあこうして元の通りに土をかけねばならん」と云いながら
頭葢骨を土に深く押やった。やがて彼は小さな身体と大きな頭を地中に棒のように立っている鋤の大きな
把手にもたれさせた。その眼はからっぽで額には
幾条も
襞がただしくならんでおった。
「そうじゃ、もしこの最後の怪異の意味さえ合点が出来るものならなあ」
彼はこう
独語をつぶやきながら、
鋤頭によりかかったまま、教会で祈祷をする時のように両手に額を
埋めた。
空の雲々が
銀碧色にかがやき出した。小鳥等は
玩具のような庭の木々の中でペチャクチャとさえずり合った。その音があまりにやかましいので、まるで木自身が
掛合噺をやっているかのようであったが、三人の人物はじっと無言の
態であった。
「やれやれ、もうこれで御放免が願いたいもんだ」とフランボーがたまらなくなってガンガン
呶鳴った。
「この頭とこの世界とはどうもシックリ合わんもうさらばだ。やれ
煙草だの、やれ
汚された祈祷だの、やれなんだのだって」
ブラウンは額に八の字を寄せ、いつもに似合わぬ
気短になって鋤の柄をバタバタとはたいた。
「とっととやれ」と彼が叫んだ「何もかも火を見るように明白なんだ。嗅煙草も歯車も
何にもかもなんだ。今朝眼をさますと同時に解ったんじゃ、そうしてわしは外へ出て来て作男のゴーとも話したんじゃ。どうして、あの男は阿呆で
聾に見せかけているが、なかなか聾や馬鹿どころではない。ところで諸君あの条項書はあのあの通りでキチンと筋が通っている。わしは破れた。
弥撤書についてもカン違いをしていたが、あれはあれで穏かなもんじゃ。しかしこの最後の件ですぞ。墓をあばいて人物の頭を盗みおろうというここに確かに穏かならんもんがあると見た。確かにここにばかりは魔法があるようだ。どうもこればかりは嗅煙草や蝋燭というたようなわけのない話とは筋が違うようじゃ」
こういって彼はコツコツ歩きまわりながら不機嫌そうに煙草をすった。
「皆の衆」とフランボーがわざと勿体らしく云った。「諸君俺に注意するがよい、俺が昔は犯罪家だった事を忘れぬがよい。あの時分は実に面白かった。俺は自分でズンズン話の筋道を組立ててズンズン想いのままに実行したもんだ。その俺だ、こんなのらくらした探偵事件は
仏蘭西ッ
児の俺に堪え得る事ではない。俺はオギャアといって、この世に生れて以来、善悪ともに
片端から手ッ取り早くかたづけたものだ。決闘の約束をするにしても
翌る朝は必ずチャンバラやったもんだ」
「勘定書はいつでも即金でガチャガチャと支払ったもんだ。歯医者へ行くんだって約束日を延ばしたりなんかはせん」
と突然師父ブラウンのパイプが口からすり落ちて
花崗岩の廊下の上で三つに割れた。彼は阿呆の様に眼球をクルクル廻転させた。
「オー神よ、何として私は大根だったろう」
こう叫びながら彼は
泥酔漢が故なく笑う様にワハワハと笑い出した。
「歯医者歯医者」彼はフランボーの言葉を繰返した。「アアわしは六時間も精神的に奈落の底に沈みおった。これと云うのも皆今の歯医者と云う事に気がつかないばっかりだった。
「オー何という簡単なそして美しい、そして平和にみちた考えじゃろう、諸君よ、わし等は一夜を地獄に過した。しかし今は太陽の輝き、小鳥はうたい、そうして歯医者の輝かしい姿が世界を慰撫していられるを見られい」
「アー、私にもその意味がわかるでしょうか、もし地獄の拷問を受ける気で辛抱強くその意味を考えると」とフランボーが大股に前方にのり出して叫んだ。
師父ブラウンは今やわずかに日の輝いた芝生の上に踊り
出したい歓びを押えかねる様な顔付をした。彼は気の毒そうに子供の様に叫んだ。
「オーわしは何となしに嬉しくなって来る。だが今までわしがどのくらい苦るしんだか、あなたがたに見せてやりたいくらいだ。しかし今わしはこの事件には深い犯罪というたようなものが全然ない事を知る事が出来た。だが少し
気狂いじみたものがあるばかりじゃ」
こういいながら彼はもう一度大きく廻って、二人の相手の方に勿体らしく顔を向けた。
「諸君この事件は何も犯罪の物語りではないので」と彼が始めた。「これはむしろ正直の物語というべきである。吾々はこの地上に於ける自分の
分前以上のものを決して取らんところの一個の人間を論ずるのじゃ。だからこの種の宗教族であるところの野蛮な生きた論理の研究でありますぞ。
[#「。」は底本では欠落] グレンジール家を諷して歌った。『生木にゃ青い血、オージルビーにゃ金の血』という名高い
鄙歌はあれは修辞的の意味ばかりでなく文字通りの意味があるのじゃ。すなわち、グレンジール家は単に富を集めたばかりでは無く文字通りに黄金を集めたものでじゃ」
「彼等は黄金製の装飾品や器具を山のように集めたんじゃ。彼等は実にけちん棒でその果は狂人のようになったんじゃ。わし等が城内で発見した、あらゆるものをこの事実に照らしてみる事が出来るんじゃ。それはダイヤモンドの指輪があっても金の指輪がない。
「
煙草はあれども、金の煙草入がない。散歩杖はあるけど金の頭飾りがない。ぜんまいや歯車はあるが
金側時計がない。そしてこれは全く気狂いのような話しじゃが、あの古い
弥撤書にある
基督像の後光や神の
御名でさえも、やはりあれが純金であったものじゃによってこれもまた抜き取られてしまったんじゃ。庭は輝くが如くに見え、草は光をまし行く陽光の
中にいっそう楽しげに見えたのじゃ」
この
気狂のような真理を話した時フランボーは巻煙草に火を点けた。
「そして取去られたんじゃ」と師父ブラウンが語をついだ。
「取去られたんであって、盗み去られたんではない。いつかな、盗賊の仕業なら、こうした謎を残しては行かない、盗賊は純金製の
煙草
函を盗めば中味の煙草も何も
皆んな持って行く。金の鉛筆鞘にしても中の
心も何も皆な持って行く」
「そこで吾々は一個の奇妙な良心を、確かに良心に相違ない、持つ男を論じなくてはならんのじゃ。わしはその狂人のような律儀者を今朝向うの野菜畑で発見した。そして一語一什の物語りを聴いたのじゃ」
「故アーキポールド・オージルビー伯爵はかつてこのグレンジール城に生れた人の中では珍らしい美男であった。しかし彼の俊厳な徳は遂に彼を人間嫌いに変じた。彼はこの城の先祖の不正直なことを知って
怏々として楽しまなかった、それから幾分彼は一般に人間というものは不正直なものであると思うようになった。とりわけ彼は慈善とか施財とかいうものを信ずることが出来ないようになった。そしてもし正直に自分に与えられただけの権利以上に決して貪ることを知らぬ人間がこの世にあるなら、その者にグレンジール城内の黄金を残らず譲ってやろうと心に誓った。人間に対してこの挑戦を宣言した
後、彼はしかしそうした人間が何としてこの世にあろうものかと考えながら、城内ふかく人目を避けて閉籠もっていた。しかしながらある日、聾で一見白痴のような一人の若者が遠方の村から、一通の電報を彼のところへ持って来た、伯爵は苦笑いをしながら彼に
新鋳の一銭銅貨を一枚与えた。少なくともその時は銅貨を与えたのだと思っていた、やがて財布をあけて貨幣をしらべてみると、新鋳銅貨はそのままあって十円金貨が一枚無くなってるのを発見した。この偶然の出来事は伯爵の皮肉な頭に対して好ましい光景を与えた。いずれにしても、その若者は人間らしく貪慾の炎を燃やすであろう。すなわち貨幣盗財として姿をくらますか、褒美ほしさに返しに来るか。その夜の真夜中にグレンジール伯爵は寝込みをたたき起された――彼はたった一人で住んでおったんじゃ――そして最前の白痴のために
扉をあけさせられた。白痴は果して持って来た、ただし最前の金貨ではのうて、九円と九十九銭、キチンと釣銭を持って来おった。
「そこで、この馬鹿正直行為を見て、狂的な伯爵の頭は火のように燃えた。彼は自分が永い間一人の正直な人間を求めた今様ディオゲネスで、遂にその一人を求め得たのだというた。彼は新たに一枚の遺言書を書いた、それはわしも見せてもろうたが。彼はその律儀な若者を巨大な人気のないこの城中に引取って、無言の下男として、また――奇妙な方法で――自分の後継者として訓育した。そこで、この奇妙な男が伯爵の
言をいかほど理解したとしても、とにかく次の二つの
訓言だけは絶対に理解した。
[#「。」は底本では欠落]第一に「正直」という文字が万能であること、第二に彼自身がグレンジールの「富」の相続者にされたのであるということ。そこまでは簡単である。男は家中のありとあらゆる黄金を剥取りはじめたんじゃ。しかしじゃその代りに黄金にあらざるものは何一つとして手を触れなんだ。嗅煙草は無論のことである。彼は古い美くしい本さえも引張出して中から金の
類を切取った。しかしそれで他の部分には正直に手をつけんと思うておったようなわけですじゃ
「これだけの事実をわしは知った、しかしわしには
髑髏[#ルビの「どくろ」は底本では「ろうそく」]の一件が了解出来ん。馬鈴薯畑から人間の首が飛出したのを見ては心中すこぶる安からざるものがあった。わしは困り抜いた――そこへフランボー君、君が『歯医者』という一言を提供してくれたんだ。
「したがまあよいわ、金歯さえ抜取ってしまえば、髑髏は元の墓の中へ納めるじゃろうからな」
そして、実際、フランボーがその朝、例の小山を通りかかった時、彼は例の不思議な人物、正直一轍の
吝嗇漢が一度
汚した墓をまた堀返しつつあるのを見かけたのであった、
格子縞のスコッチラシャを頸のまわりで
山風にひるがえしながら、そしてジミな絹帽を頭上にいただいて。