上篇ノ一
すぐ前に居た一人が突のめされたように、たたっと、よろめいて、双手で頭を抱えると、倒れてしまった。
「伏せっ、伏せっ、伏せっ」
土方は、つづけざまに、こう怒鳴って、大地へ伏してしまった。
「畜生、やられた」
土方の頭の上で、人間の声というよりも、死神の叫びのような絶叫をしたので、振向くと、口から血の泡を流しながら渋沢が、槍を捨てて、鎧の紐を引きちぎろうとしていた。
「何うした?」
渋沢は、眼球を剥出して、顔中を痙攣させながら、膝を突いて、土方へ倒れかかった。土方が避けたので、打伏しに転がると、動かなくなった。
「撃たれたらしいが、何処を――」
と、思ったが見当がつかなかった。
「顔で無いと――鎧を射抜く筈は無いと――」
土方は、洋式鉄砲の威力が何の位のものか、この戦争が最初の経験であった。味方のフランス式伝習隊の兵を見ると、旗本のへっぴり侍ばかりで薩摩のイギリス仕込みだって、これと同じだろう。
(いよいよ斬込みとなったなら鉄砲なんか何の役に――)
と、思っていたが、半町の距離で、この程度の威力を発揮するとしたなら、研究しておく必要があると思った。
そして、右手で、肩を掴んで真向けに転がすと、半分眼を開いて血に塗れた口を、大きく開けて死んでいたが、顔には、何処も傷が無かった。
(鎧の胴を通すかしら)
土方が、胴をみると、小さい穴があいていた。丁度、肺の所だった。
顔を上げると、御香ノ宮の白い塀の上に、硝煙が、噴出しては、風に散り、散っては、噴き出し、それと同時に、凄まじい音が、森に空に、家々に反響していた。
いつの間に進んだのか、五六人の兵が、往来に倒れていた。両側の民家の軒下の何処にも、四五人ずつ、槍を提げて、突立っていた。そして、土方が、何か指図をしたら、動こうと、じっとこっちを眺めていた。
頭の上を、近く、遠く、びゅーん、と音立てて、弾丸がひっきり無しに飛んでいた。周囲の兵は、皆地に伏して、頭を持上げて、坂上の敵を睨んでいたが、誰も立つものは無かった。
一人が、槍をもって、甲をつけた頭を持上げながら、腹這いに進んでいた。その後方から、竹胴に、白袴をつけ、鉢巻をしたのが、同じように、少しずつ、前進していた。
「危いぞ」
銃声は聞えていたが、外から、耳へ入るので無く、耳の底のどっかで、唸っているように感じた。前方の地に、小さい土煙が、いくつも上った。
「あっ」
と、叫んだ声がしたので、振向くと、一人が、額から、血を噴き出させて、がくりと前へ倒れてしまった。
御香ノ宮の塀に、硝煙の中から、ちらちら敵兵の姿が見えてきた。土方は、その姿が眼に入ると共に
「おのれ」
と、叫んで、憤怒が、血管の中を、熱く逆流した。その瞬間、七八人の兵が
「出たっ、芋侍っ」
と、いう叫びと共に、憑かれた獣のように、走り出した。真中の一人が、よろめいた。先頭のが、槍を片手でさし上げて、何か叫びながら、少し走ると、倒れてしまった。
二人が、元のように地に伏した。
「馬鹿っ、出るなと云うに」
土方が叫んだ時、残りの者が、皆倒れてしまった。
「退却っ、このまま、這って退却っ」
土方は、このまま日が暮れたら、全滅すると思った。
「退却っ」
鋭い声がしたので、その方を見ると、近藤勇の倅、周平が、白い鉢巻をして、土方を睨んでいた。
「犬死してはならぬ」
土方が、睨み返して怒鳴った。
「射すくめられて戦えぬなら、いっそ戦へ出ん方がよろしい」
周平は、こう叫ぶと
「進め」
片手を突いて立上ると、右手の槍を高くさし上げて
「かかれ」
と、叫んだ。軒下の兵が、走り出した。両側から、二三十人ずつも、往来へ、雪崩れ出した。銃声が激しくなって森を白煙で隠す位になると、倒れる者、よろめく者、逃げて入る者、伏せる者、みるみる内に、七八人しかいなくなった。
「周平っ」
土方は、近藤勇が、大阪で疵養生をしていていないからその間に、周平を殺しては、困ると思った。そして、立上りかけると、周平がよろめいて、膝をついた。
「だからっ」
土方は、大声に叫んで立つと同時に、びゅ-んと、耳を掠めた。その音と一緒に、折敷になって
「誰か、周平っ」
と、叫んだ。一人が、周平の手をとって肩へかけようとしていたが、二人共、倒れてしまった。
「誰かっ」
一人も、周平の所へ行く者が無かった。
二
「もっと伏して」
敵の前で、尻を敵に見せて、這いながら退却する事は、新撰組の面目として出来る事でなかった。人々は、後方へ後方へと、すさり始めた。
(危かった)
一人は、今、自分が伏していた所へ、弾丸がきて、土煙の上ったのを見ると、周章てて四つ這いに、引下った。
「周章てるなっ、見苦しいっ」
一人が、後方から、尻を突いて叫んだ。
「見苦しい。お互様だ」
一人は、隣の人に
「俺の甲は、明珍の制作で、先祖伝来物だが、これでも、弾丸は通るかのう」
首を伏せて、鎧の袖を合せ乍ら、こう聞いたので
「さあ」
と、答えた刹那、明珍の甲をつけた男は、甲の上から、両手で、頭をかかえて、唇を歪めた。
「やられたかっ」
男の顔を見ると、苦痛で、顔中をしかめていた。
最後の列の兵は、素早く、軒下へ飛込んで、軒下づたいに逃出した。一人が、敵へ尻を向けて、大急ぎに、四つん這いに這い乍ら、逃出すと、二人、三人、と、周章てて、這い出した。
「見苦しいぞ、磯子、鈴木っ」
軒下の兵が、軒下を伝って逃げ乍ら、敵に尻を向けて這っている兵へ、怒鳴った。兵は、黙って、もっと急いで、手足を動かした。
御香ノ宮の敵は、新撰組の退却するのを見ると、塀から、次々に乗越えて、槍をもって進んできた。
「止まれっ」
土方が叫んだ。
「出たっ」
「出たっ」
口々に叫んで立上った。塀の上に、又白煙が、いくつも、横に並んで、森の中へ消えていった。十四五人が、鬨を上げて、走り上ると、敵は、周章てて、塀の中へ、隠くれてしまった。そして、銃声が、硝煙が、激しくなった。
「伏せっ。長追いすなっ」
走って行った七八人の半分は、軒下へ逃込み、半分は倒れて、よろめきつつ、這って逃げてきた。
「卑怯なっ」
と、一人が、赤くなった眼で、敵を睨んだ。
「味方の鉄砲隊は?」
「ここは、新撰組一手で戦うと云ったから、墨染の方へ廻ったらしい」
「使を出して――」
「馬鹿っ、鉄砲隊に、あれだけ威張っておいて、今更頼みに行けるか」
人々は、怒りと、無念さと、屈辱とに、逆上しながら、じりじり這って退いた。
正月元日だった。吹き下してくる風が、凍っていて、時々、顔へ砂をぶっかけた。硝煙の臭が、流れてきた。
鎧が、考えていたよりも重いし、這うのに、草摺が邪魔になった。袴をつけている人は、平絹の、仙台平のいい袴を土まみれにしていたし、黒縮緬の羽織に、紐をかけ、竹胴をつけている人は、水たまりに袖を汚していた。
組の者の外に、誰も見てはいなかったが、敵の前で、這っているのを、自分で、苦笑し、侮蔑し――だが
(次の戦いで)
と、思って、慰めていた。土方が
「上村、貴公、鉄砲が打てるか」
と聞いた。
「打てませぬ」
「竜公、貴様は?」
「あんな物位、すぐに――」
土方は大声で
「組に、鉄砲の打てる者はいるか」
と、這い乍ら叫んだ。
「三匁玉なら」
遠くで答えた。
「スナイドルか、ジーベルじゃ」
「毛唐の鉄砲は、打てん」
「誰もないか」
誰も答えなかった。
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