已百支國 吉田氏は之を伊爾敷と訓み、薩摩國麑島郡伊敷村に當てたり。余は之を石城と訓む。栗田寛氏の古風土記逸文に伊勢國石城の條に日本書紀私見聞を引て云く、伊勢國風土記云。伊勢云者伊賀事志社坐神。出雲ノ神ノ子出雲建子命。又名伊勢都彦命又名天櫛玉命。此神昔石造レ城坐二於此一。於是阿倍志彦神來集不レ勝而還却。因以爲レ名也云々と、則ち此の石城なり。
伊邪國 吉田氏は薩摩國南北伊作二郡とす。余は志摩國答志郡なる伊雜宮所在地とす。即ち天照大神遙宮と延暦儀式帳、延喜式神名帳等にいへる者なり。又伊勢國度會郡にも伊蘇郷あり、伊蘇宮、伊蘇國は並びに倭姫命世記に出でたり。
郡支國 明南監本、乾隆殿板本は並びに都支に作れども、宋元本に從て郡支に作るべし。吉田氏は串伎、即ち今の大隅國姶羅郡加治木郷なりとす。余は之を伊勢國度會郡棒原神社の所在地にあてんとす。谷川士清の和訓栞「くぬぎ」の條に云く、神名式伊勢國度會郡に棒原神社見ゆ、こは棒ノ字字書の義に違ひたれば欅原にて訓もぬをすに誤りたる也社地今田ノ邊郷淺管村に在り萬葉集に
度會の大河のへの若歴木われ久ならば妹戀ひんかも とあり。神名帳考證にも棒は欅字の誤也、久奴木の略語奴木原也、長谷街道也とあり。和名鈔に又度會郡沼木(奴木)郷あり。
彌奴國 吉田氏は薩摩國日置郡市來郷の湊かといへり。余は之を美濃國とす。
好古都國 吉田氏は之を好占都に作り笠沙、即ち今の川邊郡加世田郷とす。余が見たる諸本、一も好占都に作れる者なし。故に舊に從て讀み、美濃國各務郡、若くは方縣郡を當つべし。備前和氣郡に香止(加加止)郷ありて聲音はよく通へども、地勢の連絡なきを奈何せん。
附記、松下見林の異稱日本傳には次有伊邪國より好古都國に至る二十一字を脱したり。本居氏の馭戎慨言にも同數の字を脱したるを見れば、本居氏は異稱日本傳によりて説を爲し、三國志の原本をも檢せざりしことを知るべし、其の力を用ひたる考證にあらざること明かなり。然るに其説のよく後人を動かせしは、一は後人の其名に眩せられ、一は國人の自尊心に投ぜしに由るのみ。
不呼國 吉田氏は薩摩國日置郡日置郷とす。余は伊吹山の邊にある伊吹、即ち和名鈔の美濃國池田郡伊福とす。伊福吉部氏の占據せし地なるべし。
姐奴國 本居氏は之を伊豫國周敷郡田野郷とし、吉田氏は訓で谿とし、薩摩國谿山郡とす。是れ皆姐を以て妲と爲せるなり。然るに諸本妲に作る者なし。余は之を近江國高島郡角野郷とす。津野神社あり、川上郷廿餘村の産土神にして、都奴臣の祖、木ノ角ノ宿禰を祀ること、栗田氏の神祇志料に見えたり。
對蘇國 本居氏は土佐をいふかといひ、吉田氏は薩摩國阿多郡田布施郷とす。即ち和名鈔の田水郷なり。土佐とよむは、聲音に於て最も適へども、地勢隔離すれば、余は姑らく之を和名鈔の近江國伊香郡遂佐郷に擬すべし。
蘇奴國 吉田氏は之を噌唹即ち今の大隅國西噌唹郡とせり。余は之を延暦儀式帳、倭姫命世記に所謂佐奈縣なりとす。伴信友の倭姫命世記考に云く、佐奈縣は古事記上卷に佐奈縣(イセ也)中卷伊邪川宮段に伊勢の佐那造、帳に伊勢國多氣郡佐那神社とあり、佐那は今多氣郡に佐那谷とて一谷の大名にて、村八村ありとぞと。
呼邑國 吉田氏は大隅國肝屬郡鹿屋郷とす。余は伊勢國多氣郡麻積(乎宇美)郷とす。中麻積公の祖豐城入彦命を祀れる麻積神社あり。又倭姫命世記に櫛田よりして御船爾乘給弖幸行、其河後江爾到坐、于時魚自然集出天御船爾參乘支、爾時倭姫命見悦給弖、其處爾魚見社定賜支とあり。伴氏の考に魚見社は神名祕書に機殿、儀式帳云、魚見社三前、月讀命、豐玉彦命、豐玉姫と見えたり、延喜式神名帳にも多氣郡魚見神社見えたり、麻積と關係ありげにも見ゆ。
華奴蘇奴國 吉田氏は噌唹の別邑(今東噌唹郡にや)歟といへり。余は二の擬定地あり、一は遠江國磐田郡鹿苑神社の所在地なり。一は古事記に八島士奴美神の子に布波能母遲久奴須奴神あり、母遲は大穴牟遲神の牟遲に等しく、貴の義にして韓語の matai (上の義)に當り即ち不破の國主なり。久奴須奴といへる神名も、古代の習として地名を取りたるべければ、之を華奴蘇奴に當てんと思ふなり。
鬼國 本居氏は肥前國基肄郡なりとし、吉田氏は城、即ち薩摩國高城郡なりとす。されども鬼の音はクヰにしてキにあらず。古音は又魁、傀、槐等に近かるべければ、寧ろ桑の訓にあてゝ、尾張國丹羽郡大桑郷か、美濃國山縣郡大桑郷などにあてん方穩かならんか。
爲吾國 松下氏はイガと訓みたれば伊賀に當てたるならん。本居氏は筑後國生葉郡にあて、吉田氏は可愛即ち今の薩摩國薩摩郡高江郷に當てたり。然れども當時の爲の音はウヰ若くはウワ、クワなるべければ、余は之を三河國額田郡位賀郷即ち今の岡崎地方、若くは尾張國智多郡番賀郷にあてんとす。
鬼奴國 松下氏はキノと訓みたれば紀伊國に當てたるなるべし。吉田氏は今の薩摩國出水郡阿久根なりとす。余は之を伊勢國桑名郡桑名郷に當てんとす。
邪馬國 本居氏は豐前國下毛郡に山國あり、又景行紀に八女縣といふも見ゆるといひ、吉田氏も八女即ち今の筑後の山門及上妻下妻二郡なりとせり。余は伊勢國員辨郡野摩(也末)なりとす。
躬臣國 吉田氏は其名審にし難しといへども、猶今の三潴御井の地にあたるといへり。余は伊勢國多氣郡櫛田(久之多)郷なりとす。倭姫命世記にも御櫛落し賜ひて、櫛田社、定賜ふことあり、儀式帳にも櫛田根椋の神御田奉ること見え、神名帳には多氣郡櫛田神社、櫛田槻本神社、大櫛神社等あり。
巴利國 吉田氏は原、即ち今の筑後國御原郡なりとす。余は之を尾張國若くは播磨國に當てんとす。
支惟國 吉田氏は之を以て肥前の基肄郡としたり。大和の附近にては、之を紀伊とも見るべけれども、惟の音ウヰより推せば寧ろ吉備に當てん方的當ならん。
烏奴國 本居氏は周防國吉敷郡宇努郷とし、又大野といふ處も西の國々にこゝかしこ見えたりといへり。吉田氏は大野、即ち今の筑前の御笠郡大野山なりとす。余は之を備後國安那郡に當てんとす。國造本紀に吉備穴國造あり、孝昭帝の皇子天足彦國押人命の後、彦國葺の孫八千足尼を定められ、又安那公といふよしも姓氏録に出づ。景行紀に穴海あり、安閑紀に婀娜國あり、即ち安那、深津二郡を兼ねて海に瀕せる地なることは、吉田氏の地名辭書にも見えたり。
奴國 即ち前に出でたると同じ。
此女王境界所レ盡。其南有二狗奴國一 其南とは奴國を承けて言へるなり。菅氏が之を汎く女王國の南と解したるが爲に、反て三國志を疑ひ、後漢書の恣意改竄して、自二女王國一東度レ海千餘里、至二拘奴國一といへるを正しとして取りたるは、善く讀まざるの過なり。後漢書の取るに足らざることは已に言へり。本居氏も後漢書によりて、伊豫國風早郡河野郷を狗奴國とし、吉田氏も其誤りを襲へり。余は之を肥後國菊池郡城野郷に當てんとす。即ち奴國の南に當れる地なり。
會稽東治 治は冶の訛りなり。續漢書郡國志に會稽郡に東冶[#「冶」はママ]縣なし、楊守敬が三國郡縣表補正に其の誤脱なることを辯ぜり。今の福州府治なり。
以上 地名を考證し畢る。
(以上明治四十三年六月「藝文」第壹年第參號) 次に官名に就て述ぶべし。但し其中、卑狗のヒコ即ち彦たり、卑奴母離のヒナモリ即ち夷守たるが如きは、辯證を費すを須ひざれば、主として、其餘從來未だ解釋せられざりし者に就て試みんとす。
爾支 隋書、北史に擧げたる我國の官名に、伊尼翼あり。黒川氏は翼を冀の訛りなりとして、之をイネキと訓み、即ち稻置なりといへり。此の爾支即ちニキも同語の轉訛と見るべし。
泄謨觚、柄渠觚、 馬觚 泄謨觚も 馬觚もみなシマコ、即ち島子と訓むべきに似たり。但し我が上古にかゝる官名、もしくは尊號ありといふことを聞かず。柄渠觚はヒココ即ち彦子などゝや訓むべき。されど此も亦古書に證例なければ、確かには定めがたし。
多模 タマ即ち玉、魂と訓むべし。櫛 玉命、櫛明玉命、天明玉命、天太玉命、豐玉彦命又倉稻魂命、宇都志國玉神など、玉、魂の語を有せる神名甚だ多し。本居氏の古事記傳には 宇迦之御魂の御魂を解して 恩頼( 神靈又 靈などもあり)又萬葉五(二十六丁)に 阿我農斯能美多麻多麻比弖などある意にて其 功徳を稱へたる名なりといひ又 宇都志國玉神の玉は 御靈なり、 故國御魂と云なり、 故此名は此神に限らず、 倭大國魂神、高市 ノ郡吉野 ノ大國栖御魂 ノ神社、山城 ノ國久世 ノ郡水主 ニ坐 ス山背 ノ大國魂命 ノ神、和泉 ノ國日根 ノ郡國玉 ノ神社、攝津國東生 ノ郡生國魂 ノ神社、兎原 ノ郡河内 ノ國魂 ノ神社、伊勢 ノ國度會 ノ郡大國玉比賣 ノ神社、 度會乃大國玉比賣 ノ神社、尾張 ノ國 ノ中島 ノ郡尾張 ノ大國靈神社、遠江 ノ國磐田 ノ郡淡海 ノ國玉 ノ神社、能登 ノ國能登 ノ郡能登 ノ生國玉比古 ノ神社、對馬上 ツ縣 ノ郡島 ノ大國魂神社など各其國處に經營の功徳ありし神を如此申して祀れるなり、右の外にも國々に國玉 ノ神社大國玉 ノ神社と云多し皆同じといへり。 (傳卷九)是にて大かたは釋き得たりと思はるれど更に一證の擧ぐべき者あり、新撰龜相記 (友人富岡謙藏氏が井上頼國博士の藏本より傳鈔せる者によれり井上本は吉田家の祕書を寫せる者なりと云ふ)に今祭 二卜部坊 一櫛間智神社とありて其の注に 母鹿木神社也、一云 ク櫛玉命とあり。されば 間智といへる語と玉といへるとは同義なることを知るを得べし。間智は宇麻志麻遲命の麻遲に同じく、荒木田守良が鹿龜雜誌 (富岡氏藏本)に麻遲の名の古書に見えたるを擧げて、宇麻志麻遲命の外に神名帳の遠江國佐野郡 己等能麻知神社、近江國高島郡麻知神社、及び中臣壽詞に麻知 波弱韮 仁由都篁生出 牟とあるを引き、其の釋義は明かならずといへり。意ふに是れ亦大名持、大穴牟遲、大己貴の持、牟遲、貴及び神功紀五年に見えたる新羅人、富羅母智の母智と同じく、韓語にては上の義なること、此の富羅母智に當るべき人を、三國史記には朴堤上とし、三國遺事には金堤上とし、いづれも母智が上の義なることを推すに足るが上に、訓蒙字會には上を matai と訓じ、恰かも我が古書が貴をムチと訓むに當れるに徴しても知るを得べく、かくてタマ即ち多模も亦上、貴の義にて地方君長の尊稱と解することを得べし。本居氏が布刀玉命を釋して、特に玉を手向の義としたるは、穿鑿に過ぎたり。 (古事記傳八)
彌彌、彌彌那利 彌彌は天忍穗耳、神八井耳、手研耳などの耳と同じかるべし。古事記傳卷七に、天忍穗耳命の名義を釋して、耳は尊稱なり(耳字はもとより借字)下に布帝耳神と云あり、又神武天皇の御子たちに某耳と申す多く、其外の人名にも多かる、皆同じことなり(中略)さて耳てふ尊稱の意は、美は比に通ひて、かの産靈などの靈なるを靈々と重ねたるものなり、開化天皇の大御名大毘々命と申す是なり、此を書紀には太日々尊とありて、垂仁卷に太耳と云ふ人ノ名もあるを以て日々と耳と同じきことを知るべし、又明ノ宮ノ段なる前津見てふ人名を、書紀には前津耳とある(又水垣宮ノ段に、陶津耳とあるを、舊事記には大陶祇と云ふも、據あるなるべし)を以て耳と云は美を二つ重ねたるにて、見と云は、其を一つ略けるものなることを知べし云々とあり。此にて彌彌の義は明らかなり。彌彌那利は我が古書に其語見えず。景行紀十二年に御木川上に居れる賊を耳垂といふこと見えたり。音やゝ近し。但し紀の文にては鼻垂といへる賊と相并べて出でたれば、地方君長の尊稱とも見えざれども、傳説の混入多き古記には、彌彌那利の尊稱を種として、耳垂、鼻垂の説話を生出さずとも限らざれば、姑らく此に擧げて參考とするのみ。
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳 梁書及び南史には彌馬升なし、蓋し脱落ならん。宋本太平御覽 (近ごろ又友人稻葉氏を煩はして宋活字本御覽を圖書寮の宋槧本に對校せるに四夷部の倭國の記事中三國志を引ける者は全く相同じき由を報ぜられたり因て以後は皆宋本として引用せり附記して稻葉氏に深謝す)には彌馬升を彌馬叔に作れり、是れ叔を古寫本などに※ [#「叔」の別体、268-18]に作るより生ぜし異同なるべし。今いづれを正しとも決し難けれども、二字の音も相遠からざれば、いづれを取らんも妨げなきに似たり。此の四の官名は邪馬臺國のものなれば、此の記事考定の資料としては、最も重要なる者なり。凡そ此の倭人傳の官名考定は從來史家の甚だ等間に付せし所なるが、余は最も之に注意し、明らさまに言へば、先づ此の四の官名を考へ得たるによりて本傳考定の鍵を得たるなり。第一の伊支馬といへる語には神名帳には大和國平群郡に 往馬坐伊古麻都比古ノ神社二座あり、栗田氏の神祇志料に、北山鈔を引て、凡そ大甞祭膽駒社の神部をして火鑽木を奉らしむといひ、又神名帳頭注を引き、卜部龜卜次第奧書を參して、卜部氏又此神を祭て、龜卜 火燧木ノ神と云といへり。新撰龜相記にも又祭 二卜部坊 一行馬社 (一名膽駒社在大和國平群郡)火燧木神也とあり。されば此神を祭る卜部の官氏を指して伊支馬とせるか、此れ一説なり。又垂仁天皇の御名を活目入彦五十狹茅天皇 (記には伊久米伊理毘古伊佐知命)と申し奉れり。我が上古の制度には御名代といふことありて、景行天皇の世に日本武尊の功名を録せんが爲に武部を定め賜ひしこと書紀に見ゆ。御名代と并び行はれし御子代の制度は、垂仁天皇の世に御子伊登志和氣王、子なきに因て、子代として伊登志部を定めたること、古事記に出でたれば、此の二樣の制は、其の起源更に記録に見えたるよりも古かるべし。記紀等には垂仁天皇の御名代を定められたりとの事實見えざれども、當時の制度よりして言へば有り得べからざることにあらず、この伊支馬は或は垂仁天皇の御名代ならんも知れずと思はるゝこと、此れ又一説なり。又書紀には、大伴氏が率ゐる 來目部遠祖 天津大來目といひ、大來目部といへるあり、記には久米直等の祖 天津久米ノ命あり、本居氏は其の大伴氏に屬せりや否やに就きて議論あれども、要するに其上古に於て、大なる官氏たりしことは疑ひなし。伊久米といふは伊久久米の省略にてもあらんか。 伊久は 伊香、 嚴などゝ同じく蒙古語の yeke に通ひて、大の義なるべければ、伊久米も大來目も同義なりといふことを得べし。活目入彦の入は親み愛みて云る稱なること、本居氏の説の如く、又孝徳紀二年に見えたる子代 ノ入部、御名 ノ入部の事などを參し、垂仁天皇の來目の高宮に坐せしことどもを取綜べて考ふれば、大來目部と此の天皇とは何等かの關係なくんばあらざるに似たり。されば伊支馬の官名を、大來目部と垂仁天皇の御名代と兩樣に縁ありと考へんことも不可なかるべし。次に彌馬升と彌馬獲支とは、相似たる官名なれば、一併に説くを便とせんか。上の垂仁天皇の御名代といふ事に考へ合すべきは、崇神天皇の御名を紀に御間城入彦五十瓊殖天皇と申し奉ることなり。 (記には御眞木入日子印惠命とあり)此外にも孝昭天皇を紀に觀松彦香殖稻天皇 (記には御眞津日子訶惠志泥命とあり)と申し奉るも、并びに彌馬といへる地名と覺しきを冠したり。國造本紀には長國造の條に志賀 ノ高穴穗 ノ朝御世。觀松彦色止命九世孫韓背足尼定 二賜國造 一。とあり。此の長は阿波國那賀郡なるべきが上に、此國には又美馬郡といふもあり、神名帳には此國名方郡に御間都比古神社ありて、栗田氏は即ち觀松彦色止命を祀るとせり。又播磨風土記にも大三間津日子は即ち孝昭天皇ならんといへり。此等の種々のミマツヒコをいかにして歸一すべきかは、今の急とする所にあらざれども、其の何れも孝昭天皇に縁ありげに見ゆれば、彌馬升を此天皇の御名代、御名入部の類と解し、彌馬獲支を崇神天皇の御名代御名入部の類と解せんとす。上古に於いて族裔の榮えたる皇別の中にては、孝昭天皇の皇子天足彦國押人命の後、崇神天皇の皇子、豐城入彦命の後など著しき者なれば、此の推定は甚しき牽強には陷らざるべし。次は奴佳 なり、中臣氏が上古に在て強大なる官氏たることは、證例を擧ぐるまでもなし。此外にも中跡直といふあり、栗田氏の國造族類考に中跡直は舊事紀に天椹野命中跡直等祖とあり、中跡は和名鈔伊勢國河曲郡中跡 (奈加止)郷、東鑑七に中跡庄、神名式に奈加等神社ある地に起れる氏なり、上に云る中臣伊勢連、中臣伊勢朝臣の中臣は即ち中跡にて、此に起れり、神名帳桑名郡中臣社あり、此氏神ならんとあり。奴佳 が天兒屋根命の裔たる中臣連なると、此の中跡直等なるとは必ずしも問はず、中臣もしくは、中跡の對音と見るべきは疑なし。若し果して邪馬臺を九州地方に擬定せんには、此の四の官名をいかに解すべきか。此の四の官名の擬定は、又本傳の主なる人物たる卑彌呼の何人たるかを推定するにも、極めて有力なる資料たること、下文を見て知るべし。
狗古智卑狗 汲古閣本に智を制に作るは誤れり。宋本三國志、宋本太平御覽、皆智に作れば宜しく之に從ふべし。狗古智は即ち肥後國菊池郡にして菊池の古音は久々智なり。菊池彦は城野郷即ち狗奴國に在る右族にして、熊襲に屬する者なるべし。
以上官名を考證し畢る。
次に人名を考證せんに、其の主なる者は即ち
卑彌呼 なり。余は之を以て倭姫命に擬定す。其故は前に擧げたる官名に伊支馬、彌馬獲支あるによりて、其の崇神、垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一なり。事二鬼道一、能惑レ衆といへるは、垂仁紀廿五年の記事並に其の細註、延暦儀式帳、倭姫命世記等の所傳を綜合して、最も此命の行事に適當せるを見る。其の天照大神の教に隨て、大和より近江、美濃、伊勢諸國を遍歴し、(倭姫世記によれば尾張丹波紀伊吉備にも及びしが如し)到る處に其の土豪より神戸、神田、神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るゝこと久しき魏人より鬼道を以て衆を惑はすと見えしも怪しむに足らざるべし、二なり。余が邪馬臺の旁國の地名を擬定せるは、固より務めて大和の附近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、其の多數が甚しき附會に陷らずして、伊勢を基點とせる地方に限定することを得たるは、又一證とすべし、三なり。年已長大無二夫婿一といへるは、最も倭姫命に適當せること、神功皇后とするの事實に違へる比にあらず、四なり。有二男弟一、佐治レ國といへるは、景行天皇を指し奉る者なるべし。國史によれば、天皇は倭姫命の兄に坐せども、外人の記事に是程の相違は有り得べし。此の記事によりても、國政は天皇の御手中に在りて、命は專ら神事を掌りたまひし趣は知らるべく、たゞ其の勢威のあまりに薫灼たるによりて、誤りて命を女王なりと思ひしならん。命の勢威盛んなりしは、日本武尊の東征に當りて、必ず之に謁し、其の凱旋に當りても、俘虜を神宮に獻つりし事などを見て知るべく、特に其の天照大神を奉じて、神領を諸國に徴するは、一種の宗教的領土擴張にして、其の成功は武力を用ひたる四道將軍にも比すべければ、外國人が女王と思ひしも故なしとせず、五なり。以二婢千人一自侍といへる、數の過多なるはいかゞと思へど天見通命の孫に八佐加支刀部が兒、宇太乃大禰奈といふ童女などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有二男子一人一(隋書及び北史には二人に作る)給二飮食一、傳レ辭出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舍人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。其餘は下に出づる人名の考證によりて、益々明なるべし。卑彌呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代卷に火之戸幡姫兒千々姫ノ命、また萬幡姫兒玉依姫ノ命などある姫兒に同じとあるは非にして、この二つの姫兒は平田篤胤のいへる如く姫の子の義なり。彌をメと訓む例は黒川氏の北史國號考に上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比彌乃彌己等、また等已彌居加斯支移比彌乃彌己等、註云 彌字或當二賣音一也とあるを引けるなどに從ふべし。
難升米 雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼以に死せりとあり、其の往來に九年乃至十年を費せるは明かなり。一は垂仁天皇とし、一は倭姫命とするの差はあれども、使者の境遇は略ぼ相似たり。
伊聲耆掖邪狗 倭人傳に此人名を出すこと三處なるが其の始めて出せる時のみ伊聲耆掖邪狗とありて、後の二處は、單に掖邪狗とのみありて、伊聲耆の字なし。按ずるに伊聲耆の音はイ、サン、ガと訓むべく、掖邪狗も亦イ、サ、カと訓むべし、蓋し魏人が同一の人を兩樣の對音にて記せる者が、一は重複して記され、一は單に一方のみ記されたるならん。神名帳に出雲國出雲郡阿須伎神社同社神伊佐我神社あり、又同郡に伊佐波神社、伊佐賀神社あり、栗田氏の神祇志料に皆出雲國造の祖、天夷鳥命の子伊佐我命を祀るとせり。此神果して天穗日命の孫ならんには年代合はざるの嫌あれど、出雲國造系圖、中臣系圖、舊事紀の天孫本紀、物部、尾張二氏の系圖すべて帝系に比しては、太だ世數の少きを常とすれば、伊佐我命の年代も必ずしも天穗日命を標準とすべからず。且つもし其名にして居地などに取りたらんには、かの命の後裔が其名を襲用せりとも見ることを得べし。因て姑らく伊聲耆、即ち掖邪狗を以て此命に擬す。
都市牛利 此の人名に就ては、一は田道間守に縁ある者として解することをも得べく、又一は伊佐我命に縁ある者としても解することを得べし。故に上の二者の後に出したり。田道間守に縁ある者としては都市を出石に擬することなり。和名鈔に淡路國津名郡都志(豆之)郷あり、此島は天日槍命に縁あれば、此の都志も但馬の出石に縁ありて、イヅシの省略なるべしとの説あり。牛利は心の義なり。舊事紀天孫本紀に出石心大臣ノ命あり此命は固より田道間守と何の縁故もあるにあらざれども、出石心といへることが人名として用ひられたる例とする事を得べし。心は紀の神代卷に田心姫とある例にて、牛利に當るを得べければ、天孫本紀とは別人としても出石心、即都志牛利といふ人名は、有り得べし。出石は天日槍以來、田道間守が家の居地なれば、其人が正使たる難升米即ち田道間守に縁あるより、次使として魏國に赴ける事を推定し得べし。伊佐我命に縁ある者としては、神名帳に出雲國出雲郡に都我利ノ神社あり、栗田氏の志料に武夷鳥命(即ち天夷鳥命)の孫、津狡命を祀るとせり。都志牛利の志を邦語及び韓語に多き助語とせんには、都我利とも音近くなるべし。此も全く舍つべきに非ず。
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