後漢書、三國志、晉書、北史等に出でたる倭國女王卑彌呼の事に關しては從來史家の考證甚だ繁く、或は之を以て我神功皇后とし、或は以て筑紫の一女酋とし、紛々として歸一する所なきが如くなるも、近時に於ては大抵後説を取る者多きに似たり。今余が考ふる所は此の二者に異なる者あれば試みに左の序次により、其の所見を下に述べんとす。
一、本文の撰擇
二、本文の記事に關する我邦最舊の見解
三、舊説に對する異論
四、本文の考證
五、結論
一、本文の撰擇
卑彌呼の記事を載せたる支那史書の中、晉書、北史の如きは、固より後漢書、三國志に據りたること疑なければ、此は論を費すことを須ひざれども、後漢書と三國志との間に存する
異の點に關しては、史家の疑惑を惹く者なくばあらず。三國志は晉代に成りて、今の范曄の後漢書は、劉宋の代に成れる晩出の書なれども、兩書が同一事を記するに當りて、後漢書の取れる史料が、三國志の所載以外に及ぶこと、東夷傳中にすら一二にして止らざれば、其の倭國傳の記事も然る者あるにあらずやとは、史家の動もすれば疑惑を挾みし所なりき。此の疑惑を決せんことは、即ち本文撰擇の第一要件なり。
次には本文の中、各本に字句の異同あることを考へざるべからず。三國志に就て言はんに、余は未だ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本等を對照し、更に北史、通典、太平御覽、册府元龜等、此記事を引用せる諸書を參考して其の異同の少からざるに驚きたり。其の
異を決せんことは、即ち本文撰擇の第二要件なり。
今先づ單に其の先出の書たる理由によりて、左に三國志魏書第三十の本文を掲ぐべし。
倭人傳
倭人在
二帶方東南大海之中
一。依
二山島
一爲
二國邑
一。舊百餘國。漢時有
二朝見者
一。今使譯所
レ通三十國。從
レ郡至
レ倭。循
二海岸
一水行。歴
二韓國
一。乍南乍東。到
二其北岸狗邪韓國
一。七千餘里。始度
二一海
一千餘里。至
二對馬國
一。其大官曰
二卑狗
一。副曰
二卑奴母離
一。所
レ居絶島。方可
二四百餘里
一。土地山險。多
二深林
一。道路如
二禽鹿徑
一。有
二千餘戸
一。無
二良田
一。食
二海物
一自活。乘
レ船南北市糴。又南渡
二一海
一千餘里。名曰
二瀚海
一。至
二一大國
一。官亦曰
二卑狗
一。副曰
二卑奴母離
一。方可
二三百里
一。多
二竹木叢林
一。有
二三千許家
一。差有
二田地
一。耕
レ田猶不
レ足
レ食。亦南北市糴。又渡
二一海
一千餘里。至
二末盧國
一。有
二四千餘戸
一。濱
二山海
一居。草木茂盛。行不
レ見
二前人
一。好捕
二魚鰒
一。水無
二深淺
一皆沈沒取
レ之。東南陸行五百里。到
二伊都國
一。官曰
二爾支
一。副曰
二泄謨觚柄渠觚
一。有
二千餘戸
一。世有
レ王。皆統
二屬女王國
一。郡使往來常所
レ駐。東南至
二奴國
一百里。官曰
二馬觚
一。副曰
二卑奴母離
一。有
二二萬餘戸
一。東行至
二不彌國
一百里。官曰
二多模
一。副曰
二卑奴母離
一。南至
二投馬國
一。水行二十日。官曰
二彌彌
一。副曰
二彌彌那利
一。可
二五萬餘戸
一。南至
二邪馬壹國
一。女王之所
レ都。水行十日。陸行一月。官有
二伊支馬
一。次曰
二彌馬升
一。次曰
二彌馬獲支
一。次曰
二奴佳
一。可
二七萬餘戸
一。自
二女王國
一以北。其戸數道里可
二略載
一。其餘旁國遠絶。不
レ可
レ得
レ詳。次有
二斯馬國
一。次有
二已百支國
一。次有
二伊邪國
一。次有
二郡支國
一。次有
二彌奴國
一。次有
二好古都國
一。次有
二不呼國
一。次有
二姐奴國
一。次有
二對蘇國
一。次有
二蘇奴國
一。次有
二呼邑國
一。次有
二華奴蘇奴國
一。次有
二鬼國
一。次有
二爲吾國
一。次有
二鬼奴國
一。次有
二邪馬國
一。次有
二躬臣國
一。次有
二巴利國
一。次有
二支惟國
一。次有
二烏奴國
一。次有
二奴國
一。此女王境界所
レ盡。其南有
二狗奴國
一。男子爲
レ王。其官有
二狗古智卑狗
一。不
レ屬
二女王
一。自
レ郡至
二女王國
一。萬二千餘里。男子無
二大小
一。皆黥面文身。自
レ古以來。其使詣
二中國
一。皆自稱
二大夫
一。夏后少康之子。封
二於會稽
一。斷髮文身。以避
二蛟龍之害
一。今倭水人好沈沒捕
二魚蛤
一。文身。亦以厭
二大魚水禽
一。後稍以爲
レ飾。諸國文身各異。或左或右或大或小。尊卑有
レ差。計
二其道里
一。當
レ在
二會稽東治之東
一。其風俗不
レ淫。男子皆露
レ。以
二木緜
一招頭。其衣横幅。但結束相連。畧無
レ縫。婦人被
レ髮屈
。作
レ衣如
二單被
一。穿
二其中央
一。貫
レ頭衣
レ之。種
二禾稻紵麻
一。蠶桑緝績。出
二細紵
緜
一。其地無
二牛馬虎豹羊鵲
一。兵用
二矛楯木弓
一。木弓短
レ下長
レ上。竹箭或鐵鏃。或骨鏃。所
二有無
一。與
二耳朱崖
一同。倭地温暖。冬夏食
二生菜
一。皆徒跣。有
二屋室
一。父母兄弟臥息異
レ處。以
二朱丹
一塗
二其身體
一。如
二中國用
一レ粉也。食飮用
二豆
一。手食。其死有
レ棺無
レ槨。封
レ土作
レ冢。始死。停
レ喪十餘日。當時不
レ食
レ肉。喪主哭泣。他人就歌舞飮
レ酒。已葬。擧
レ家詣
二水中
一澡浴。以如
二練沐
一。其行來渡
レ海詣
二中國
一。恆使
下一人不
レ梳
レ頭。不
レ去
二蝨
一。衣服垢汚。不
レ食
レ肉。不
上レ近
二婦人
一。如
二喪人
一。名
レ之爲
二持衰
一。若行者吉善。共顧
二其生口財物
一。若有
二疾病
一遭
二暴害
一。便欲
レ殺
レ之。謂
二其持衰不
一レ謹。出
二眞珠青玉
一。其山有
レ丹。其木有
二※
[#「木+冉」、249-16]杼、豫樟、
櫪、投橿、烏號、楓香
一。其竹篠
桃支。有
二薑橘椒
荷
一。不
レ知
三以爲
二滋味
一。有
二猿黒雉
一。其俗擧
レ事行來。有
レ所
二云爲
一。輙灼
レ骨而ト。以占
二吉凶
一。先告
レ所
レト。其辭如
レ令。龜法視
二火
一占
レ兆。其會同座起。父子男女無
レ別。人性嗜
レ酒。
(魏略曰。其俗不レ知二正歳四時一。但記二春耕秋收一爲二年紀一。)見
二大人所
一レ敬。但摶
レ手以當
二跪拜
一。其人壽考。或百年。或八九十年。其俗國大人皆四五婦。下戸或二三婦。婦人不
レ淫。不
二妬忌
一。不
二盜竊
一。少
二諍訟
一。其犯
レ法。輕者沒
二其妻子
一。重者滅
二其門戸及親族
一。尊卑各有
二差序
一。足
二相臣服
一。收
二租賦
一。有
二邸閣
一。國國有
レ市。交
二易有無
一。使
二大倭監
一レ之。自
二女王國
一以北。特置
二一大率
一。檢
二察諸國
一。諸國畏憚之。常治
二伊都國
一。於
二國中
一有
レ如
二刺史
一。王遣
レ使詣
二京都、帶方郡、諸韓國
一。及郡使
二倭國
一。皆臨
レ津搜
二露傳送文書、賜遣之物
一詣
二女王
一。不
レ得
二差錯
一。下戸與
二大人
一相
二逢道路
一。逡巡入
レ草。傳
レ辭説
レ事。或蹲或跪。兩手據
レ地。爲
二之恭敬
一。對應聲曰
レ噫。比如
二然諾
一。其國本亦以
二男子
一爲
レ王。住七八十年。倭國亂。相攻伐歴
レ年。乃共立
二一女子
一爲
レ王。名曰
二卑彌呼
一。事
二鬼道
一。能惑
レ衆。年已長大。無
二夫婿
一。有
二男弟
一。佐治
レ國。自
レ爲
レ王以來。少
レ有
二見者
一。以
二婢千人
一自侍。唯有
二男子一人
一。給
二飮食
一。傳
レ辭出入。居
二處宮室
一。樓觀城柵嚴設。常有
レ人持
レ兵守衞。女王國東渡
レ海千餘里。復有
レ國。皆倭種。又有
二侏儒國
一。在
二其南
一。人長三四尺。去
二女王
一四千餘里。又有
二裸國、黒齒國
一。復在
二其東南
一。船行一年可
レ至。參問倭地絶在
二海中洲島之上
一。或絶或連。周旋可
二五千餘里
一。景初二年六月。倭女王遣
二大夫難升米等
一詣
レ郡。求
下詣
二天子
一朝獻
上。太守劉夏遣
二吏將
一。送詣
二京都
一。其年十二月。詔書報
二倭女王
一。曰制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣
レ使送
二汝大夫難升米、次使都市牛利
一。奉
二汝所
レ獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈
一以到。汝所
レ在踰遠。乃遣
レ使貢獻。是汝之忠孝。我甚哀
レ汝。今以
レ汝爲
二親魏倭王
一。假
二金印紫綬
一。裝封付
二帶方大守
一假授。汝其綏
二撫種人
一。勉爲
二孝順
一。汝來使難升米、牛利渉
レ遠。道路勤勞。今以
二難升米
一爲
二率善中郎將
一。牛利爲
二率善校尉
一。假
二銀印青綬
一。引見勞賜遣還。今以
二絳地交龍錦五匹、
(注略)絳地
粟
十張、※
[#「草かんむり/倩」、読みは「せん」、250-16]絳五十匹、紺青五十匹
一、答
二汝所
レ獻貢直
一。又特賜
二汝紺地句文錦三匹、細班華
五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠鉛丹各五十斤
一。皆裝封付
二難升米、牛利
一。還到録受。悉可
下以示
二汝國中人
一。使
上レ知
二國家哀
一レ汝。故鄭重賜
二汝好物
一也。正始元年。太守弓遵遣
二建中校尉梯儁等
一。奉
二證書印綬
一詣
二倭國
一。拜
二假倭王
一。并齎
レ詔賜
二金帛錦
刀鏡采物
一。倭王因
レ使上
レ表。答
二謝詔恩
一。其四年。倭王復遣
二使大夫伊聲耆掖邪狗等八人
一。上
二獻生口、倭錦、絳青
、緜衣、帛布、丹、木※
[#「けものへん+付」、251-2]、短弓矢
一。掖邪狗等壹拜
二率善中郎將印綬
一。其六年。詔賜
二倭難升米黄幢
一。付
レ郡假授。其八年。太守王
到
レ官。倭女王卑彌呼與
二狗奴國男王卑彌弓呼素
一不
レ和。遣
二倭載斯烏越等
一詣
レ郡。説
二相攻撃状
一。遣
二塞曹掾史張政等
一。因齎
二詔書黄幢
一拜
二假難升米
一。爲
レ檄告喩之。卑彌呼以死。大作
レ冢。徑百餘歩。徇葬者奴婢百餘人。更立
二男王
一。國中不
レ服。更相誅殺。當時殺
二千餘人
一。復立
二卑彌呼宗女壹與年十三
一爲
レ王。國中遂定。政等以
レ檄告
二喩壹與
一。壹與遣
二倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人
一。送
二政等
一還。因詣
レ臺獻
二上男女生口三十人
一。貢
二白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹
一。
この三國志の文は、魚豢の魏略によりて、略ぼ點竄を加へたる者なるが如し。蓋し三國志、特に其の東北諸夷に關する記事は、多く魏略を取りて、魚豢が當時の語として記したる文字すらも改めざる處あり。高句麗王傳に「今高句麗王宮是也」といひ「今古雛加駁位居是也」といふが如き、即ち其例にして、この文中にも今使譯所レ通三十國といへるは、亦此と同一の筆法なり。但だ三國志の作者陳壽が、果して此の記事を魏略より取りて、他書より取らざるやは疑ひ得られざるに非ざるも、三國志の裴松之注に引ける魏略の文、鮮卑の條にも、又西戎の條にも、屡「今」の字を用ゐたる例あるを見、又漢書地理志の顏師古注に、此に掲げたる本文中、「女王國東渡レ海千餘里。復有レ國。皆倭種」といへるを引きて、之を魏略の文とせるを見れば、此の疑は氷釋すべし。既に三國志の倭人傳が魏略より出でたるを決せば、次で決したきは後漢書の倭國傳も、同じく魏略より出でたりや否やなり。後漢書の作者たる范曄は支那史家中、最も能文なる者の一なれば、其の刪潤の方法、極めて巧妙にして、引書の痕跡を泯滅し、殆ど鉤稽窮搜に縁なきの恨あるも、左の數條は明らかに其馬脚を露はせる者と謂ふべし。
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