次は釋訓篇であるが、邵晉涵が此篇所釋、始乎明、終乎幽也といつた所から考へると、釋詁篇が單に始也に始まつて、終也に終つた最初の體裁につて作つたのではなくして、死也で終るやうに附加された後の體裁に作したといふことが分る。此篇は一篇中前後兩節に分け得るやうに出來てゐて、前半は主として詩書に見えてゐる疊辭の解釋であるが、後半即ち朔北方也以後は頗る雜になつてゐる。尤も前半も其の末の方即ち子子孫孫引無極也以下の部分は其の前と體裁を異にし、前の部分は疊辭の解釋とはいへ、猶其の釋しかたが簡單であつて、釋詁釋言に近い體裁を存してゐるに反して、子子孫孫引無極也以下は直接に其の言葉の解釋をするのではなくて、頗る詩序の體裁に近くなつてゐる。それから後半の中で前の部分は既に書傳若しくは春秋公羊傳などの解釋を含んで居り(一)[#「(一)」は自注]、又或る部分は全く今日の大學の文句そのまゝである。即ち如切如磋道學也から有斐君子、終不可兮、道盛徳至善民之不能忘也までがそれである。又後半の末の部分は揚雄の方言などゝ類似した所もあつて、益々その後世の附益たることを疑はしめるのである。然しそれでも履帝武敏、武迹也、敏拇也と解釋してゐるのを見ると、これは詩の大雅生民篇の解釋であるが、恐らく三家詩と一致するものであつたらしく、毛傳とは全く解釋を異にしてゐるのである。これらの證據から考へると、四庫全書提要に爾雅の出來たのを毛傳以後と考へてゐることが頗る薄弱になる。今日三家詩は傳つてゐないが、釋訓篇の存在することによつて、三家詩の序の體裁は大體斯くの如きものではなかつたらうかといふことが想像し得られるのである。毛傳は恐らく三家詩以後に其の體裁を學んで新らしく書かれたものであるかも知れない。 以上兎も角釋詁から釋訓に至る三篇は詩書の古い部分、若しくは古い傳の解釋といふべきものであつて、後に附益せられたと思はれるものでも、春秋公羊傳がそれに加つてゐる位の程度である。それから考へると、畢竟最初に出來た經書は詩書の大部分であつて、其次に春秋が出來たのであるらしい。而してそれは先づ齊の稷下の學問の起る前まで位の時代に出來たと推斷し得ると思ふ。 それから釋訓以下の各篇即ち釋親・釋宮・釋器・釋樂・釋天・釋地等の各篇であるが、其の大部分は禮に關係のあるものである。これらの諸篇は禮學が起つたが爲めに、其の解釋として必要になつたのである。それで釋親は禮に於て最も重んずる宗法の爲めに書かれたものであり、釋宮以下は名物度數の解釋をしたものである。其の中で時代思想のいくらか見はれてゐるものを擧げると、例へば釋天の歳名の條に夏曰歳、商曰祀、周曰年、唐虞曰載とあり、又祭名の條に周曰繹、商曰、夏曰復祚とあるが如き其の一である。一體三代を並べ稱する考は、既に論語などにも見えてゐるが、孟子には殊に著るしく、三代の田賦の比較異同などを委しく説いてゐる。それで何事でも三代を並べ稱することは、矢張り或る時期から起つた思想に依つて支配せられたものと思はれる。こゝに擧げた歳名の中でも、商には祀といひ、周には年といつたといふことは、當時の簡策とか金文とかに證據のあつたことであらうが、夏に歳といつたといふが如きは別に證據のあつたことではない。況んや唐虞に載といつたなどに至つては勿論問題とならぬ。祭名に於ても、周の繹、商のは、猶經に徴證があるが、夏の復祚に至つては諸家の爾雅に此言なく、郭璞の本のみ之あり、その郭璞も未見義所出と注してゐる位である。これらは皆三代を並べ稱する時代思想に依つたもので、其の中には強ひて三代を並べんが爲めに無理につけた名前もあることゝ思ふ。此の三代を並べ稱するのは、多分夏正といふものが暦法家に依つて考へられ、制度の沿革といふことが禮家に依つて考へられた時代、即ち戰國の初期の頃に出來た時代思想であらう。之に依つて推すと、經傳の中にある種々な制度の沿革を三代に割當る思想の根柢を見出すことが出來るのである。鄭玄なども經書を注する時に、古文の禮制と今文の禮制とが符合せない場合には、多くは今文のものを殷の禮であるとして解決した。然るに朱子は其點に就いて破綻を窺知し、語類に漢儒説禮制、有不合者、皆推之以爲商禮、此便是沒理會處、と言つてゐる。 それから釋天釋地には他の經書若しくは他の書籍と一致しない説があるが、それは却て研究の手掛りとなる所のものである。例へば釋天にある歳陽の名は史記歴書のそれと一致しない。尤もこれは爾雅の方が多分誤であらうと思はれる。それは太歳在戊曰著雍、在己曰屠維の二つが字形の類似に依つて同じものらしく推測せられるからである。若しさうすれば自然他のものも誤つてゐるのではないかと考へられぬことはない。兎も角史記とは傳來の相違といふことだけは疑なき所である。それから又星名が二十八宿整頓してゐないことも淮南子などゝ相違する點であるが、これも二十八宿説が起らぬ前に書かれたものとも考へることが出來るし、或は爾雅の筆者は星暦の專門家でなかつた爲めに疏略に流れたものとも考へることが出來るのである。猶最も著るしい相違のあるのは釋地に見えた九州である。其の書き方が初めの七州だけは禹貢若しくは周禮職方氏などゝ類似してゐるが、末の二州は河の南とか漢の南とかいふ書き方でなく、燕曰幽州、齊曰營州といふ樣な前の分と類しない書き方をしてゐる。齊曰營州といふのが最後に在ることを見ると、矢張り稷下の學問の殘を擧げる輩が書いたらしく思はれるが、體裁の不揃なのは、地理の專家が書いたのでない爲かも知れない。要するに禹貢とか周禮職方氏とかと相違のあるのは、九州に關する傳來の相違であつて、これが殷の制であると郭璞以來解釋してゐるのは朱子の言ふ如く無意味なことである。それから十藪なども大部分は職方氏、呂覽と出入してゐるが、矢張り傳來の異同を見るに足るものである。此の釋地に類似したもので、釋丘、釋山、釋水の三篇があるが、これは殊に晩出の疑があつて、禹貢若しくは山海經、楚辭などの或る部分の如き地理に關する記述が流行り出した頃の作と考へられ、恐らく戰國末期のものらしい。殊に此の三篇の中で釋丘の初めの部分には山海經の解釋と思はれる所がある。釋山の中で五山五嶽に關することが初めと終とに見えてゐて、然かもそれが一致しないなどは、一篇の中に時代若しくは學説の相違が見はれてゐることを示すものであるが、これは恐らく秦漢の際に書かれたものと考へられるのであつて、其の最後の梁山晉望也の句は春秋傳并に國語などゝ關係をもつことを示すものである。然かも梁山が晉の望なる意味が公羊傳にはこれ無く、他の二傳及び國語には共に見えてゐるといふことは、三傳の前後の關係を示すことともなるものである。それから釋水の末の部分で河曲なども矢張り山海經と關係があり、九河は禹貢の解釋とも視るべきものである。これらは山海經と禹貢とが、一は信用すべき經書で、一は信用するに足らぬ小説雜記であるといふ考の反證になるものである。而して又山海經と禹貢との出來た時代も殆ど大差がないといふことが、それに依つて考へ得られるのである。 次の末の方の釋草釋木釋蟲以下の各篇は、即ち論語に詩を學べば多く鳥獸草木の名を知ると言つてある實證ともいふべきもので、大體は詩の解釋であると視て差支ないのである。或は今日の詩に見えない物名があつても、それを以て直に詩以外のものゝ解釋と速斷することは出來ない。三家詩の佚亡した今日に於て、昔詩の本文に今の毛詩と何れだけ異同があつたかを十分に知ることが出來ぬのみならず、その上それらの物名の解釋には、詩の本文にあるものゝみではなく、詩傳に見えたものゝ解釋をも含んでゐるかも知れない。經書の始めて世に出た頃には、之を傳ふる各家は其傳と共に出したので、爾雅が之に對する解釋も、經傳を嚴密に分けて考へないといふことを知らねばならぬ。これは春秋の傳などに於ても同樣である。但詩の外に楚辭の解釋を含んでゐることは爭はれぬ事實である。恐らく楚辭の學は漢初に於て殆ど經書の研究と同樣に盛であつたので、自然その解釋が爾雅の中に入つたのであらうと思ふ。 最後に問題となるのは釋獸釋畜の二篇であつて、其の成立に就いては疑問がある。元來釋獸の中には既に釋畜に屬すべきものを含んでゐる。即ち豕子豬より牝※[#「豕+巴」、34-17]に至る部分の如きはそれである。然るに釋獸の後に釋畜一篇があつて、特別に六畜に關することなどを釋してゐるのは、或は此の二篇が二度に時代を異にして出來たのではないかと考へられる。懿行も其の豕が六畜の一で、釋獸の中に在るのは誤つて置かれたものとしてあるが、寧ろ二度に出來た爲と看る方がよいと思ふ。或は釋草より釋獸に至る各篇は元來詩其他の古書の解釋として先づ出來てゐたのに對し、釋畜だけが後から附益せられたものと疑ふことも出來るのである。釋畜篇の末の部分は殊に易の説卦傳と關係があるらしく思はれる所がある。説卦傳には、兌を羊とし、艮を狗とし、巽をとすることが見えてゐるが、釋畜の最後にそれらのものが一所に列んで擧げられてゐる。このことは邵晉涵も懿行も已に注意して居る所である。それから同じく説卦傳に乾爲駁馬、震爲※[#「馬/廾」、35-6]足、爲的、とある。これらは餘り他書に見えない名であるが、釋畜の馬屬の中に含まれてゐる。即ち駮如馬とか、膝上皆白惟※[#「(馬-れんが)/廾」、35-7]とか、(後)左(足)白※[#「(馬-れんが)/廾」、35-7]とか、※[#「馬+勺」、35-7]白顛とかあるので、其中駮は山海經にも出で、※[#「(馬-れんが)/廾」、35-8]は詩にも出て居るが※[#「馬+勺」、35-8]は易のみに限られて居る。[#著者所蔵の「研幾小録」の欄外には、「秦風車鄰有馬白顛傳白顛的也」といふ著者の書き込みがある。]又釋畜に馬八尺爲※[#「馬+戎」、35-9]といへるに對し、郭璞は周禮を引いて之に注してゐるが、周禮には※[#「馬+戎」、35-9]の字が龍になつてゐる。そこで懿行の考に依れば、説文※[#「馬+來」、35-10]字下云、馬八尺爲龍、月令駕蒼龍、注馬八尺以上爲龍、淮南時則篇注引周禮、及後漢書注引爾雅、亦倶作龍、郭引作※[#「馬+戎」、35-11]者、欲明此※[#「馬+戎」、35-11]與彼龍二者相當、因改龍爲※[#「馬+戎」、35-11]、非周禮舊文也、といつて居る。この龍も易に最も屡々用ゐられる龍の字の解釋で、説卦傳では震爲龍とある龍のことであるかも知れない。これらから考へてみると、易の説卦傳と爾雅の釋畜篇とは關係があつて、易が經書として認められる頃の時期が、即ち爾雅の編纂の完成せられる頃であつたらうといふことになるのである。若しそれが漢の初め頃とすれば、即ち易の方では田何、爾雅の方では沛郡の梁文の頃となり得るのである。 以上述べた所を總括すると、爾雅の中でも釋詁篇は七十子を距ること遠からざる時代、若しくは七十子の末年に出來、其後戰國の初め頃までの間に種々附益せられたものと考へ得る。釋言篇は七十子の次に來る時代、即ち孔子を素王とする時代に出來て、稷下の學問の盛なりし頃までに附益せられたものである。釋訓篇は尤も多く種々な時代を含んでゐて、釋言篇と大體同じ頃から漢初までに亙つて附益せられて來たらしい。釋親以下釋天に至る各篇は、公羊春秋が發達して禮學の盛に起つた時代、即ち荀子の前後から漢の后蒼高堂生の頃までの間に出來、釋地以下釋水に至る各篇は矢張り戰國の末から漢初までに成り、釋草より釋獸に至る各篇は、或は詩の解釋としては古い時代から存在してゐたかも知れないが、先づ漢初までに成り、最後に釋畜篇が漢の文景の頃に出來たのではないかといふ考である。但それは爾雅そのものゝ成立の沿革であつて、これから推測される所の經籍の世に出た次第を云へば、書の周公に關する部分、それに詩の風雅并に周頌魯頌あたりまでは爾雅の釋詁篇の古く出來た部分に依つて解釋されるやうになつて居り、書の洪範其他殷に關する部分、及び詩の商頌などは釋言篇の古く出來た部分に依つて解釋されるやうになつて居り、書の唐虞に關する部分、及び春秋公羊傳の基礎になつた部分は、釋詁篇、釋訓篇などの附益せられた部分に依つて解釋されるやうになつてゐる。これらは經書の中で尤も早く出來たものと看做し得るのである。勿論其の間に多少の早晩はあるが、先づ孟子の頃位までの間に出來たものといつてよからうと思ふ。余の考では、公羊傳の如きは春秋の傳ではあるが、これには史學といふ觀念があるのではない。其點は穀梁傳も同樣で、春秋に史學らしい觀念の出來たのは左傳から始まつてゐる。公羊傳はいはゞ春秋を禮で解釋したもので、公羊春秋が盛になつた後には、次いで禮の學問が發達してくるのが當然であるやうである。爾雅にも其の徴候が見はれてゐて、釋親篇以下が禮の解釋となつてゐる。それから其他に戰國の末年から地理の學問などが特別に起つて、書の禹貢、周禮の職方氏、山海經などの如きものが出來上つたのであるが、それに對して爾雅では釋地篇より釋水篇に至る諸篇がある。釋草篇から以下の各篇に就いては、其の出來た年代を的確に考へ得られない。尤も詩に關したものが多いけれども釋詁篇や釋訓篇の時代とは確に違ふやうで、矢張り揚雄の方言の如く、支那の文化や言語が多種多樣になつた結果として、名物が中國の言語のみでは一般に通用し難くなつた所から、これらの諸篇を作る必要が起つたものと考へられるのである。さうしたならば恐らく戰國の末年の頃のものかと思はれる。それから最後の釋畜篇はそれよりも以下の時代に出來たものらしい痕跡が明かに見えるのに、それが易の説卦と關係のあることを考へると、易が經書に列せられたのは最も晩く、章學誠が易は田何の時に始めて竹帛に入つたといつてゐるのが、必しも誤ではないと思はれるのである。 さて余は前に尚書の編成を考へて、單に時代思想の上から、即ち單に經書に含まれてゐる思想の上から演繹して、其發展すべき自然の順序に依り、尚書の各篇の出來た次第に就いて説明を試みた。而して其の方法を應用すれば、勿論他の經書にも類似した説明が出來得ると信じてゐたのである。然し其の方法は單に論理的に考へてゆくばかりで實證を伴はないものであつたから、他の經書までも其の方法を應用することは餘程複雜な手數を要するものなることを知つた。故に今度は其の方法を一變して諸經の辭書と考へられる爾雅を基礎として、其の實證となるべき部分を拾出し、爾雅の成立に併せて經書の發展する次第を考へてみたのである。この方法も附益、竄入、訛誤などの澤山積重つてゐる古書を取扱ふ方法としては、勿論之に依つて隅から隅まで動かないやうな研究を遂げることは困難であるが、大體の徑路を此の方法に依つて考へるならば、古書の研究に一道の光明を與へ得られないとも限られない。これ余が妄斷の誹を甘んじて受ける覺悟で斯くの如き試みを敢てした所以である。
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