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概括的唐宋時代観(がいかつてきとうそうじだいかん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 16:16:43  点击:  切换到繁體中文


 政治の實際の状態に於ても變化を來して、殊に黨派の如きは其性質を一變した。唐の時にも、宋の時にも、朋黨が喧かりしが、唐の朋黨は單に權力の爭ひを專らとする貴族中心のものにして、宋代になりては、著しく政治上の主義が朋黨の上に表はれた。これは政權が貴族の手を離れてから、婚姻や親戚關係から來る黨派が漸次衰へて、政治上の意見が黨派を作る主要なる目的となつたのである。勿論この黨派の弊害は、政治上の主義から來たものでも、漸次貴族時代と類似したものとなつて、明代にては、師弟の關係、出身地方の關係などが重にこれを支配して、所謂君子によりて作られた黨派も其弊害も、小人の黨派と差別がなくなり、明は遂に東林黨のために滅亡したといはるゝに至り、清朝にては甚だしく臣下の黨派を嫌ひ、其ために君主の權力を益々絶對ならしめた。
 經濟上に於ても著しき變化を來した。唐代では有名な開元通寶の鑄造を行ひ、貨幣の鑄造は引續き行はれしも、其流通高は割に少ない。貨幣の流通が盛んになりしは宋代になつてからである。唐代は實物經濟といふ譯ではないけれども、多く物の價値を表はす貨幣の利用を、絹布によりて行つた。然るに宋代にありては、絹布、綿などの代りに銅錢を使用する事となり、更に發達すると紙幣さへ盛んに用ひられた。紙幣は唐代からして已に飛錢といつて、これを用ひたといふ事であるが、宋代に至りては其利用が非常に盛んで、これを交子、會子等と稱し、南宋時代は紙幣の發行高は非常の額に上り、其ために物價の變動も甚しかつた。兎も角充分に利用され、次の元代に於ては殆ど、銅錢鑄造の事なくして、單に紙幣のみを流通せしむることゝなつた。明以後不換紙幣政策が極端に行はれたので、遂に敗滅せるが、要するに宋代に入りて貨幣經濟が非常に盛んになつたといふ事が出來る。銀も此頃よりして漸次貨幣として重要の位置を占むる事となり、北宋時代などは僅かの流通にとゞまりしも、南宋に至りては餘程盛んになりしものらしく、元の伯顏が南宋を滅ぼして北京に歸る時に、南宋の庫から收得した銀を、北京に運ぶために一定の形に鑄造したのが、今日の元寶銀の始めだといはれて居るから、宋末には餘程流通をしたものと見える。明清に至り益々此傾向盛大となり、終に全く銀が紙幣の位置を奪ふに至つた。兎も角、唐宋の代り目が、實物經濟の終期と貨幣經濟の始期と交代する時期に當るので、其間に貨幣の名稱なども自然に變化を來した。昔は錢も兩とか銖とかで稱へられたが、これは勿論重量の名稱にて、昔は一兩が二十四銖と算せられた。宋以後一兩を十錢と計算することゝなり、即ち一錢が二銖四※[#「(ム/(ム+ム))/糸」、117-17]に當る。元來開元通寶一文が重量二銖四※[#「(ム/(ム+ム))/糸」、117-17]で、十文が一兩となるのであるから、宋代よりは重量の名稱を廢して錢の箇數であらはすことゝなり、これによりても錢の使用の當時如何に盛大なりしかを知るに足るのである。日本で重量の名稱を一匁(一文目)といふ如きは、支那の錢の名稱を逆に使用したものである。
 學術文藝の性質も著しく變化して來た。假に之を經學文學で説いて見れば、經學の性質は唐代に於て已に變化の兆候をあらはした。唐の初期までは、漢魏六朝の風を傳へて、經學は家法若くは師法を重んじた。昔から傳へ來つた説を以てこれを敷衍する事は許されたが、師説を變じて新説を立てる事は一般に許されなかつた。勿論其間には、種々の拔道を考へて、幾度も舊説を變じたるも、公然とかくの如き試みをする事は出來ない事であつた。其結果、當時の著述は義疏を以て主とした。義疏とは經書の注に對して細かい解説をしたので、これが原則としては疏不破注といふ事になつて居る。然るに唐の中頃から古來の注疏に疑を挾み、一己の意見を立てる事が行はれた。其尤も早いのは春秋に關する新説である。其後宋代になると此傾向が極端に發達して、學者は千古不傳の遺義を遺經から發見したと稱し、凡て自己の見解で新解釋を施すのが一般の風となつた。文學の中でも、文は六朝以來唐まで四六文が流行したが、唐の中頃から韓柳諸家が起り、所謂古文體を復興し、凡ての文が散文體になつて來た、即ち形式的の文が自由な表現法の文に變つて來た。詩の方では六朝までは五言の詩で、選體即ち文選風のものが盛んであつたが、盛唐の頃から其風一變し、李杜以下の大家が出て、益々從來の形式を破る事につとめた。唐末からは又詩の外に、詩餘即ち詞が發達して來て、五言・七言の形式を破り、頗る自由な形式に變化し、音樂的に特に完全に發達して來た。其結果、宋から元代にかけて曲の發達を來し、從來の短い形式の敍情的のものから、複雜な形式の劇となつて來た。其詞なども典故ある古語を主とせずして、俗語を以て自由に表現するやうに變つた。これがために一時は貴族的の文學が一變して、庶民的のものにならんとした。
 又、藝術の方では、六朝・唐代までは壁畫が盛に行はれ、主として彩色を主としたが、盛唐の頃から白描水墨の新派が盛んになつたけれども、唐代を通じては新派が舊派を壓倒する譯には行かなかつた。然るに五代から宋にかけて、壁畫が漸次屏障畫と變じて、金碧の山水は衰へ、墨繪が益々發達した。五代を中心として、以前の畫は、大體は傳統的の風格を重んじ、畫は事件の説明として意味あるものにすぎざりしが、新らしき水墨畫は、自己の意志を表現する自由な方法をとり、從來貴族の道具として、宏壯なる建築物の裝飾として用ゐられたものが、卷軸が盛んに行はれる事となり、庶民的といふ譯ではないが、平民より出身した官吏が、流寓する中にも、これを携帶して樂しむ事が出來る種類のものに變化した。
 音樂も唐代は舞樂が主で、即ち音を主として、それに舞の動作を附屬さしたもので、樂律も形式的であり、動作に物眞似などの意味は少くして、ことに貴族的な儀式に相應せるものなりしが、宋以後、雜劇の流行につれて、物眞似の如き卑近の藝術が盛んになり、其動作も比較的複雜になつて、品位に於ては古代の音樂より下れるも、單純に低級な平民の趣味にあふ樣に變化した。其尤も著しき發達を表はしたのは南宋時代である。
 以上の如く、唐と宋との時代に於て、あらゆる文化的生活が變化を來したので、此他にも微細に個人的生活を觀察すると、其何れもの點に、此時代に於ける變化の表れたことを認むるが、今はかくの如き微細の點を述べる事は避ける。
 要するに支那に於ける中世・近世の一大轉換の時期が、唐宋の間にある事は、歴史を讀むものゝ尤も注意すべき所である。

(大正十一年五月發行「歴史と地理」第九卷第五號)





底本:「内藤湖南全集 第八卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年8月20日発行
   1976(昭和51)10月10日第2刷
底本の親本:「東洋文化史研究」弘文堂
   1936(昭和11)年4月発行
初出:「歴史と地理」
   1922(大正11)年5月発行、第九巻第五号
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
2001年1月27日公開
2006年1月13日修正
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