愉快な話というものは、なかなかないものだ。殊に事実談になると猶更である。事実談は、どんな愉快な面貌を具えていても、どこかに一脈の憂愁を湛えている。現実というものが、本質的にそう佗びしいものであるか、或は現実に対する吾々の感性が、現実をそう佗びしく塗りたてるのか、いずれとも分らないが、とにかく不思議な現象ではある。
ヨタになると、随分愉快な話もありそうだ。ところがヨタというものは、凡人がやたらに弄ぶべきものではない。凡人の手に弄ばれる時、それは卑俗低劣に堕し、擯斥すべきものとなる。ヨタは、稀代の天才によってのみ生かされる。諸種のイズムの窮屈さをいとう稀代の天才が出て、もし文芸界に身を投ずるとしたならば、ヨタリズムなどという運動が起るかも知れない。それは諸種のイズムと対蹠的に立つイズムである。そして漫談などというものは、一種の凡人的ヨタリズムだ。
昨年の、朝日新聞か日日新聞かの、雑記帳とか青鉛筆とかいった欄に、次のような記事があった。
――アメリカで、すばらしい金儲の考案をした男がいる。大きな建物を設けて一方に猫を飼い、一方に鼠を飼う。ところで、猫の皮は一枚相当の価格がする。皮をはいだ猫の肉を鼠に食わせ、そして鼠算で繁殖する鼠を猫に食わせる。建物だけで、原料は何もいらずに、猫の皮が無尽蔵に収獲されるというのだ。誰かやってみる者はいないか。
これは一寸愉快な話だ。猫の肉だけで鼠が育つものかどうか、そんなことはここでは問題にならない。貧乏人は、奇想天外な金儲の話には、理屈を超越するものだ。
ところが、右の話、実は、イタリーのピチグリリがその作品のなかに、もっと面白く書いている。和田顕太郎氏訳「貞操帯」のなかの「アマチュア探偵」の一部を左に引用してみよう。
――「いろんな商売を盛んにやりましたよ。毛皮製造の商会を始めましたが、付属の建物として、バラックが二棟あります。一方のバラックには、毛皮を取るため、猫を飼いました。もう一棟には、鼠を飼って、猫の餌にするので、うんと肥らせました。猫に食われる鼠は、何を餌に育てるかというと、毛皮をひん剥いだ猫の肉を食わせました。こういう遣り方で、最初は面白いくらい儲りましたがね、ある日のことですよ。鼠に餌をやっても、食いません。猫の肉に匂いがするから御免だというのです。猫の方は、鼠の肉に猫の味がするから、そんな鼠を食うよりも餓え死をした方がいいと言います。たった八日間に、僕の見ている眼の前で、一万九千匹の猫と、二万三千五百匹の鼠が、ばたばた死んでしまいました。可哀そうな奴等。思い出すと、どうもいけない。あの時の損は五十万弗からでしょうな。」
これが、或るカフェーでの、或る紳士の話である。まだまだ、同様なヨタが続く。こんなことをすまして書き立てる作者は、さぞ幸福だろう。梅干というものは、梅の木の何方に向いた何番目かの枝の何番目かの実を、何月何日の何時頃にとったものが、最も美味である、などと『南国太平記』のなかで坊さんに饒舌らしてる直木三十五も、さぞ得意だったろう。『馬車』のなかで占筮の講義を長々とやってる横光利一の気持とは、まるで質が違うようだ。
ヨタは真面目でないところにその面白みがある。がふざけては堕落する。そのかねあいがむずかしいのだ。所謂ナンセンス文学などのうちには、新聞紙に引用されるくらいの愉快なエピソードが、少しは現われてもよかろう。プロレタリア文学などにも、時には愉快な通風孔が必要だ。それは案外強く労働者や農民を惹きつける。飲食の時など、彼等は如何に愉快な話を歓迎することか。而もそれは断じて、被搾取の苦渋な生活からの逃避ではない。
クロポトキンが、セント・ピーター・ポールの要塞に監禁されてるうち、健康を害して病監に移された機会に、そこを脱走した。その時の話は、余りに有名である。この有名さは、話の愉快さに負うところが多い。脱走計画の万事は、外部の同士チャイコフスキー団によって立案された。「中は大丈夫だ。」というクロポトキンの相図に対して、赤い玩具の風船をあげて「外は大丈夫だ。」という相図をする、そういう約束だった。ところが、「その日は妙なことが起った。玩具の風船は、セント・ペテルスブルグのゴスティナイ・ドフォル近くに、いつもいくらでも売っていた。然るに其日の朝は少しもなかった。ただ一つの風船も見つからなかった。最後にたった一つ、子供の持ってるのを見つけたが、それは古くて飛びそうもなかった。で友人等は眼鏡屋へ駈けこんで、水素を造る道具を買ってその風船に水素をつめたが、やはり飛ばなかった。水素がまだ乾いていなかったのだ。時は迫った。で一人の婦人が、その傘に風船を結びつけて、自分の頭の上に高くかざして、病監の庭の高い塀に沿って道を行ったり来たりした。が私にはそれが少しも見えなかった。塀が高くて、その婦人の背が低かったのだ。」
そして結局、其日脱走しなかったのは幸運となり、其後、ヴァイオリンの音にかえて、コントスキーの昂奮的な舞踏曲を相図に、彼は脱走し了せたのである。この恐ろしい脱走計画に、赤い玩具の風船は愉快な思いつきである。アナーキズムの主導者となったクロポトキンにふさわしい話だ。それはボルシェヴィズム的ではなく、どこまでもアナーキズム的だ。ボルシェヴィズムは陰鬱だが、アナーキズムは朗かである。
頭の禿は、玩具の風船と同じくらいの愛嬌的なものだが、場合によってはひどく不愛嬌になる。或る洒落男が、齢四十歳やそこいらで、頭の真中に銅貨大の禿が出来た。頭髪で隠しても、変にすいて目立つ。いろいろ苦心したあげく、毎日キルク炭を塗るのも厄介なところから、思いきって禿のところに墨で刺青をした。それで当分は安心だったが、やがて、禿が次第に大きくなっていった。刺青はもとの大きさだ。遂には大きな禿の真中に、銅貨大の黒い刺青だけが残った。――話もこうなると、愉快を通りこして悲惨だ。寧ろ禿げざるに如かず。然し禿は世に存在する。
禿と同様に病気も存在する。筆者は昨年末に、十二指腸潰瘍と十二指腸周囲炎との併発症で、病床に横たわる身となった。いろいろ説明を聞くと、随分厄介な病気らしい。
ところが、治療の効か養生が行届いたせいか、尼子富士郎医学博士が眼を丸くして驚いたほど、超スピードで快癒していった。全快までにはなかなか時日を要するらしいが、平生の生活状態に復るには僅かな日数ですんだ。
然るに、この病気の原因は実にはっきりしていた。胃酸過多とか胃腸衰弱とかいうのではなく、単なる飲酒過度だ。爾来、筆者はこう主張する。――「病気は酒ですべきものだ。酒が原因の病気は、酒をたちさえすれば、直ちに快癒する。」
友人たちのうちで、飲酒家は賛成してくれるが、不飲酒家は笑って相手にしない。
然し、酒を飲まない者が健康を誇るのは、アイルランド人の誇りと同じである。吾人はユダヤ人虐待の汚点を有する歴史の一頁をも持たない、なぜなら、決してユダヤ人を入国せしめなかったからだ、とアイルランド人は誇らかに云う。
それは一面の真理をもっているし、妙に人を考えこませはするが、次で愉快な微笑を催させるではないか。
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