青島水族館は全く名ばかりのちっぽけなものであるが、ここの硝子の水槽のなかに、ウマヅラハギというおかしな魚が一匹いる。長さ二十センチあまりのものだが、長めの菱形で、頭が見ようによっては馬の横顔に似ている。こいつが身体も尾鰭もしゃちこばらして、頭を上に尾を下に縦に浮いて、じっと天の一角を眺めている。いつまでもじっとして大真面目でいるので、見ているとこちらが可笑しくなる。北京の中央公園で飼育されてるさまざまの奇怪豪華な金魚も、この一匹のウマヅラハギの姿態には及ばない。
北京の北海公園には、という一本の木がある。山東の山にいくらもある木だそうだが、白樺の幹に松の枝葉をくっつけたもので、如何にもふざけている。白い幹に緑の針葉でつっ立って威張ってるので、見ていると、人をばかにするなと云ってやりたくなる。この木の下にウマヅラハギを泳がしてみたら、面白かろう。
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青島の救済院には多くの孤児が収容されている。この救済院の囲壁に、小さな穴があいていて、夜になるとそこで、院内の室から往来へ箱の口が開かれる。箱の中に子供の泣声がすると、室内の者がこれを聞きつけ、箱をひっこめ、中から子供を取出して、それを院に収容する。この仕方によって、捨児する者は人に顔を見られることなくして、児を救済院に委託することが出来る。人情を加味した合理的な処置であろう。
モダーンなハイカラな青島の都市にも、捨児をする者や貰子をする者がいくらもあるそうである。
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支那の一般大衆は概して、幼時には相貌が美しく、長ずるに従って人相が悪くなる、という定評である。女はこれが殊に甚だしく、十七八歳までの美人は頗る多いが、二十歳を越す頃からとたんにお婆さんになり、所謂年増美とか姥桜とかは全くないと云われる。然し例外がないでもない。
青島の平庚五里は遊里であるが、ここの或る房の芸妓の、或は母親ともいい或は阿媽ともいうのが、良人の死後長く独身でいる四十歳をすぎた美人である。
平庚五里は特殊な大建築で、広い中庭をかこんで廻廊があり、廻廊に面して小房がずらりと並んでいる。二階から上のそれらの小房が遊女たちの室である。最上階の六階が最も高等なものとされ、ここにいるのは娼妓というよりも寧ろ芸妓であろう。客があれば鈴が鳴らされ、その階の二三十人の美女たちが、料亭に呼ばれて少数を除いた全部、客の前に立並んでその選択を待つ。選ばれた女は客を小房に案内して、お茶を供し談笑する。鈴が鳴ればまた駆け出していって、新たな客を他の房に案内する。客は茶をすすり水瓜の種をかじりながら、一時頃までも気長にぼんやりしている。この小房の一つで雑役をしている前記の女が、四十すぎた例外の美人で、水のしたたるようなその色っぽさは、そこの年若い芸妓のいずれを持ってきても足許にも及ばない。
北京の前門外の暢園茶社には、大勢の客が茶を飲みに行く。正面に小さな舞台があって、若い女たちが楽器を鳴らし、歌をうたってくれる。合唱がすんだあと、客の名指しの女が独唱する。そしてここには、至極の年増美人の代りに、至極の銘茶がある。
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青島から少し離れた李村というところは、未だに時々匪賊の出没する危険が去らないが、そこの新民会支部の一隅に、李村医療所というのがあって、三四人の日本人が農民の診療に当っている。若い人たちで、女性も一人いる。この人たちは金光教の信者で、感ずるところあって支那農民の中にとびこみ、殆んど独学で医療の知識を修め、乏しい薬剤で治療に従事している。その献身的努力には涙ぐましいものがある。
北京の天理教支部でも、医療の方法で民衆に近づき、既に若干の支那人信者を獲得しているが、この李村医療所の人たちは、医療が主で、金光教布教は殆んどやってないらしく、その純真さにまた民衆の信望の濃いものもある。
布教による民心獲得も重要なことであるが、医療は先ず何よりも当面の必要事である。農民の子供たちがにこにこして、李村医療所で治療を受けてる光景は、将来への大きな希望を与えてくれる。
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済南には紅卍字会の母院がある。百二十万の金を投じて近年出来上った豪壮な堂宇で、種々の室内の什器も、或は簡素に或は豪華にその処を得ている。
この紅卍字会は、現在三百万の会員を有すると云われているが、それが大抵富有な上層階級の人々ばかりである。会員からの寄付金などは如何程でも集め得るらしい。或は一種のフリーメーソン的結社であるとの説もあるが、実践としては、道院に於ける個人々々の修業と、会としての社会的救済事業とを立前とする。この会が、富有な上層階級の人々で成っていることは、注目を要するところであろう。
この紅卍字会母院とよい対照をなして、呂純陽の廟というごく小さな堂が、※[#「足+勺」、353-上-9]突泉の隣りにある。民衆の信仰あつく、参詣の人は絶えず、廟前には小店が櫛比して、浅草の仲見世の観がある。面白いのは、或る時祈願の道士に呂純陽の姿が、顕現したということで、呂祖空中顕像という写真版が売られている。
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北支の鉄道は華北交通会社の経営に属しているが、この鉄道については概念を改める必要があろう。
現在、鉄道沿線の左右各十キロ内の村落は、鉄路愛護村として組織され、匪賊の襲来に対して村民が自警するようになっている。なお列車内や所々には、会社に属する一種の警備兵が配置されている。そしてこの愛護村に対しては、不足物資の配給や穀物種子の分配などが、会社の負担による安価でなされているし、其他種々の工作も行われている。即ちこの鉄道は、単なる交通運輸の機関のみでなく、また治安工作の幹線であって、各重要都市をつなぐ一本の線を広さのある面にまで拡げるのを、主眼としてるのである。時々の犠牲者も相当に多い。
それはそれとして、膠済線に於ては、主要駅を列車が通過する毎に、日本語の歌と支那語の歌とが交互に、蓄音器から放送される。眼を楽しませるものの少い広漠たる平原の中の車中で、それらの歌にじっと耳を傾けるのは、日支人にとって嬉しいことである。
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済南は水の都とされている。泰山山脈の地下水が此処に豊富に噴出して、黒虎泉となり※[#「足+勺」、353-下-7]突泉となる。※[#「足+勺」、353-下-7]突泉は現在、十万余の人々に浄水を供給している。
この水の都には、恐らくは支那随一の湯屋たる銘新池がある。豊富に硝子を用いた近代的な大建築で、広間には多数の人々が湯にほてった身体を横たえ、枕を並べて休らっている。上階の特別室に通れば、普通のバスの外に、理髪、美容術、手足の爪切り清掃、耳掃除、按摩など、凡そ人体に関する一切のものが完備している。湯にだけ浸って帰りかける者を、ボーイは怪訝な顔で見送る。此処に来る支那人は、大抵半日は費し、一日を費す者も少くない。一般に支那人にとっては時間は金ではないが、これもその一つの現象であろう。
だが、湯屋で時間を費すよりも、旧市公署の一隅に佇む方が楽しい。韓復渠によって建物は自爆されてるが、庭園は旧態のままで、その池の一つに珍珠泉というのがある。深い清澄な池の底から、メタン瓦斯の玉が幾つも、昼夜間断なく湧き上っている。旧名真珠泉で現名珍珠泉だが、全く真珠のさまざまな珍珠が水底から湧き上ってくるようで、いつまで眺めていても倦きない。真珠を砕いて之を呑めば美人になると、支那婦人の間には古くから伝えられている。
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済南の大明湖ほど実用と風流とを兼ね具えてるものは少なかろう。この広い湖沼は、幾つもの私有地に分れていて、それぞれ蓮や蒲などの収益を相当にあげている。それらの私有地の間に、舟を通す水路が幾筋も開かれていて、或は狭く或は広くそして屈曲して、両側には蘆荻が生い茂っている。画舫に身を托してこの水路を進めば、俗塵は剥落して詩趣が湧く。
一般に支那の都市にある湖水は、底浅く薄濁りであるが、それぞれに趣きは異る。絶勝とされる杭州の西湖は、煙雨の日に画舫を浮べるべきである。南京の玄武湖は、ボートに乗って城壁を眺めるによく、北京郊外万寿山の昆明湖は、モータボートを走らせるによく、北京市内の北海・中海・南海は、その周辺をそぞろ歩きするによいが、済南の大明湖は、実は画舫よりも和舟でも浮べ、その中に寝ころんで無念無想になるのに適する。
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北京には数多くの記念的殿堂と公園とがあり、それらの主なものを、遊覧バスで大急ぎに見廻るのにも、一日を要するほどである。
それらの主な記念的建築のうち、最も有名な万寿山も旧紫金城も、その風趣に於ては、さほど有名でない天壇に及ばない。天壇のうちでも殊にその圜丘は現代人の心をも打つ魅力を持っている。遠くから見れば、森の中に築かれた白大理石の段丘であり、三段にめぐらされた白色の欄干のみが目につく。ここは昔、毎年冬至の未明に、天子斎戒して昊天上帝を祭られた所で、その壇の円形は天円地方の義に則り、壇上の敷石や欄干や階段などは天数に応じて九の数が選ばれている。それらのことが、ただ圜丘のみで他に何の建造物もないこの壇上で、おのずから感ぜらるるほど、簡素な豪華さを具えてるのである。
散歩場所についても同様で、有名な中央公園や北海公園や中南海公園などよりも、更にすぐれた所がある。朝廷の宗廟たりし太廟の後ろで、多少の時間を持つ散歩者は、一度は必ず足を運んでみるがよい。そこの、柏樹の大木のもとの粗末な卓子に倚って、粗末な茶をすすっていると、精神の疲労はたちまち癒えるし、元気な者は恋を語ってもよかろう。鳩の羽音に驚いて立上れば、低い石塀を越して、堀の向う、旧紫金城の城壁下の人通りも少い広場には、看相を業とする老人が机を据えており、その横では、地面に設けられた輪投遊びを貧しげな人々が楽しんでいる。
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前門外という言葉は、北京旅行者にはただ遊里と響くことが多い。然しここに、支那の富有な老舗は軒を並べている。それら老舗の奥深さと商品の豊富さとは驚嘆に価する。例えば毛皮商の店を訪れてみれば、あらゆる動物の毛皮があり、数百円数千円の豪華品が、幾つもの広間の四壁に処狭きまでに掛け並べてある。また或る楽屋には、高価な六神丸が一杯つまってる箱の横に、玉容丸と称する洗顔用の秘法練薬の箱があり、おしゃれの者には一個六銭で売ってくれる。
前門外は元来、こうした老舗の町である。その側に遊里があるが、これは固より富有な街区への付属物である。遊里が付属してるばかりではない。前門外を少し出れば、日本人から俗に盗坊市場と云われてる安物市場のある、天橋一帯の貧民街があり、更に他方には、琉璃廠一帯の骨董街がある。
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北京には高級な支那料理屋が多く、支那各地の料理法まで味わるること、上海と好敵手である。その料理屋を一々訪れて歩くには、なまなかの財布では持ちこたえられない。ただこれらの料理屋は、上海のそれより綺麗であるばかりでなく、客が多くても比較的静かなのが特長である。無遠慮な外国人の客が少い故であろうか、或は北京人が物静かな故であろうか。
雑沓を極めた東安市場の中の小酒家などでも、珍味が味わえる謂わば高級小料理でありながら、その中はわりに静かである。ここにはまた紹興老酒の高級品があり、左党の喜ぶところであるが、それでいて喧騒な人声は少い。
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輔仁大学はローマ教皇庁に属する大学であるが、ここの女学生は幸福そうである。恭親王邸趾の美しい錦華園を持ち、教室にも宿舎にも王邸の建物がそのまま使用されている。男の学生はとにかく、女の学生にとっては、こうしたところで勉強することによって、一種の心情の豊かさが与えられるだろう。学校校舎に贅沢な建物は不要だとの説がある。たとえバラックの中に於ても、精神さえ確固たらば、勉強は立派に出来るというのである。然しそれは、例えば日本内地に於て云い得ることで、支那の現状には通用しない。閉鎖放置されてる蘇州の東呉大学や済南の済魯大学などのイメージが、頭に深く刻まれてる支那インテリ青年は多かろう。北京の青年も、北京大学よりも燕京大学や輔仁大学に心惹かれる者が多い。建築の完備そのものは一種の魅力を持つし、且つは諸設備や学識に対する予感を左右する。
輔仁大学には八ヶ国人の教授がおり、日本人も一人いる。新教授で支那語の出来ない者には、教授俸給を支給しながら、支那語の教師をつけ、二ヶ年間語学を修練させた後、はじめて教壇に立つことが許さるるのである。斯かる慎重な準備は、単に教師についてだけでなく、あらゆる方面で考えられてよいことである。学校の建物とても、準備の中の一つと見てよい。
●表記について
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「足+勺」 |
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353-上-9、353-下-7、353-下-7 |