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傍人の言(ぼうじんのげん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-13 14:13:06  点击:  切换到繁體中文

「文士ってものは、こう変に、角突きあってる……緊張しあってるものだね。」
 そうある人が云った。――この人、長く地方にいて、数ヶ月前に東京へ立戻ってきたのであるが、文学者や画家に知人が多く、といって自分では何にも書きも描きもしないで、少しばかり教師をして、多くは遊んだり読んだり観たりしてるのである。実際的には余り役に立たない存在であるが、いろんな点で、私が敬愛している友人なのだ。――それが、いきなり右のようなことを云い出したのである。私には、とっさに、理解できなかった。
 聞いてみれば、実は、或る記念会のことなのである。――三四十人集まった会合だが、そこに来てる文士たち、互に知り合いの仲で、挨拶をしあったり話をしあったりしていたが、その態度がおかしいというのだ。煙草の吸い方、口の利き方、笑い方、眼のつけ方……そのどこにも、ほんとに打ち解けた朗かさがなくて、わきから見てると、お互に緊張しあってる……俗に云えば、同じ職業の女同士のように、角突きあってるとしか見えない……。
「それでいて、個人的に逢えば、誰もみな好人物だし、酒をのめば、しめくくりのないだらしなさをさらけだすんじゃないか。それが、公の席上で顔を合わせると、好人物同士が、だらしのない者同士が、お互に緊張しあってるんだから、僕たちから見ると、おかしいんだ。」
 そう云わるれば、私にだってよく分る。各方面の人々が集まってる場所では、文学者は最も率直な――無遠慮無作法だと云えるほど自由な――振舞をなすことが多いのに比して、文学者だけの集合の場合には、実際、一種の冷たい緊張した空気がかもし出されて、体面を保つというのか、気兼ねをするというのか、隙をねらいあってるというのか、とにかく、お互いに襟をつくろっておるという風になりがちである。会場から外に出て、初めてほっとする者が、いくらもあることだろう。
 それを、文学者の非社交性だと一言に片付けることは、妥当でない。文学者にはむしろ、人なつっこい淋しがりやが多いものだ。常住孤高な境地にあるというようなのは少ない。してみると、右のような現象は、ふだん、物を観察したり書いたりしている態度――仕事の上の一種のポーズ――それの不知不識の現れから起るのではあるまいか。顔をつき合せることによって、お互に相手の書いたものを読んでるという気持、転じて、お互に相手から読まれているという気持になるのであろう。ところで、物を書く以上は、書くに足りるだけのものを書きたい、というほどの覚悟は誰しも持ってることだし、そうした仕事の上の心構えが、不知不識にのぞきだすのであろう。
「然し、」と友人は断乎として云う、「そんなことでは、よい作品は書けない。書かないでもよいようなものを書くのは、固より愚劣だが、よいものを書こうとする緊張感は、却って創作の邪魔になりはしないかね。緊張感のために硬ばった作品が余り多いじゃないか。」
 さてそれは、分るような分らないような……私は一寸彼の顔を見守ったものだ。
      *
「君は象皮病というのを知ってるだろう。」と友人は別なことを云いだした。
 その象皮病に、彼のうちの小猫がかかったことがあるというのだ。初めは単純な一寸した皮膚病くらいに思っていると、だんだん広がるに随って、毛がぬけてくる、皮膚に皺がよってくる、そしてその皺んだ禿げた皮膚が、こちこちに固くなって、丁度象の皮膚のようになってしまった。そうなると、もう回復の途はない……。
「作品だってそうだろうじゃないか。」と彼は云うのだ。書こうという気構えからくる一種のポーズ――表面だけの緊張感、それはそのまま作品に感応して、表面がこちこちに固まった、云わば象皮病にかかったような作品になってしまう。そんな象皮病の下では、生きた血が自由に流れることは出来ない。脈搏はとまってしまう……。
 それはそうだろう、が、例えば……と私が云いだすと、例えば……と彼はすぐに応じてくれた。例えば……徳永直の作品にそんなのがあった。いくらもあった。ところが、先月か先々月かの「火は飛ぶ」という作品は、あれはいい。象皮病がなおった作品だ……。
 こうなると、彼はイデオロギーの問題を全く無視してるんじゃないかと、私はふと思うのである。が彼に云わせると、イデオロギーなんてものは、創作に於ては、やはり一種のポーズに過ぎないのだ。ブールジョア既成作家が、特殊な見方、特殊な取扱方、特殊な表現、そんなものに囚われて力み返るのが一つのポーズなら、特殊なイデオロギーの角度からばかり眺めるのも、一つのポーズだ。凡て物事は、弁証法的にはっきり見なければいけない。弁証法的にはっきり見る時には、あらゆる「ゾルレン」は当然否定される。「ゾルレン」を否定すれば、イデオロギーは、創作上、一つのポーズではないか。
 単にイデオロギーばかりではない。広い意味で、凡て理想などというものもそうだ。理想を道具として使用してるうちはよいが、理想に囚われると外皮の硬化が将来される。林房雄の「青年」などは、素朴な思念に救われているが、あれがもっと年をとり、もっと凝り固まると――云いかえれば、詩が観念になると、案外、象皮病にかかりそうな恐れがないでもない。ましてや、公式的作品については云うまでもあるまい。
 と、ここまでくると、この論者、あらゆる精進を、すべて排斥するかに見える。しかしそうなってくると、例えば、広津和郎の「故国」など、最も立派なものと云わなければならないだろう。労を惜しんだ取扱い方、作意の沈潜の足りなさ、ディレッタンチズムの匂いのする筆致、それが、却って、あらゆるポーズから解放されたものと云わなければならないだろう。
「誤解しちゃあ困る。」と彼は叫ぶ。「君は、日本画と洋画とのそもそもの出発点の相違を、はっきり区別しないものだから、そんなめちゃなことを云うのだ。」
 これはまた、おそろしくめちゃな論理の飛躍をやってのけたものだ。
      *
 日本画は元来、物の輪廓を取扱うものだし、洋画は元来、物の面を取扱うものだ。輪廓を取扱うからして、筆勢とか墨色とかが重大な問題となってくる。ところが面を取扱う場合には、何よりもヴォリュームが目指されなければならない。光や色はその次の問題だ。ヴォリュームを取失った洋画は、まずだめなものだ。
「ヴォリュームにじかに迫ってゆくということ、それを文学者がもっと真面目に考えてみないのを、僕は不思議に思うね。少くとも、自然主義に毒されたリアリズムの、本当の進路は、そこにあるんじゃないか。勿論、現実を無視するんならそれまでだけれど……。」
 これは、分る人にははっきり分るだろうし、分らない人にはさっぱり分らないだろうところの、謎みたいな論だ。が彼にとっては、如何にもはっきりしてるらしい。思想とか形式とか表現の技巧とかいうようなものは、光や色であって、実体は――現実は、ただヴォリュームだというのである。そして、ヴォリュームにじかに迫ってゆくこと、それを把握しようとするあらゆる努力、それこそ仕事の本質であって、その本質を取失う時には、凡てのことが一種のポーズとなる。
 ……かも知れない、と私も思う。然しそんな初歩の素朴な議論は、吾々はとうの昔に通りすぎている。それから先のことが当面の問題である。
 それなら仕合せだ、と彼は云うのである。ところが実際に於いては、往々、通りすぎることが取失うことになる。人は食べたものを悉く消化吸収するものではない。大部分をそのまま排出する。だから、素朴な議論を何度もくり返す必要が生じてくる。殊に、文学が生活からの逃避場でなくなり、生活意欲を多分に含む時代に於て、そしてそういう時代に、ファシズムが流行したり、ボルシェヴィズムが勢力を得たり、あるいは新たな精神的――心理的――領土が開拓されたりする時に当って、これをなお云えば、欲望と強権主義とが相剋し、また、肉体と精神とが乖離する時に当って、益々その必要が生じてくる。現に、文学者たちの会合で、各人が一番窮屈なポーズをとってる事実は、その必要を立証する以外の何物でもない。光や色のことではなく、ヴォリュームのことを考えてる時には、人はもっと暢達たる風貌になるものだ。
 然し、余り素朴的にのんびりしていたのでは、結局凡俗に堕するのみだ、と私は考えるのである。
 その凡俗がいいのだ、と彼は主張する。フローベルがボヴァリー夫人を書き、ツルゲネーフがバザロフを書き、イプセンがノラを書き、ブールジェーがロベール・グレルーを書いて、文学的ばかりでなく、社会的にも問題をひき起したのは、何も特殊な深遠な思想を披瀝したからではない。山本有三が、親子の問題や女中の地位の問題と、真正面から取組んでも、誰もつまらないという者はあるまい。
 だから、書き方の如何によるのだ、と私は云う。
 だから、ポーズということが問題になるのだ、と彼は云う。
 こうなると、循環論だ。それでも、文学者に対しては傍人たる彼の言、以て他山の石とするに足るものを持っている……或は、より以上のものを持っている、とも思えないでもない。





底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
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