三
翌日になると、今井は熱が去ってけろりとしていた。それでもまだ顔の色が悪く、何処となく力無げな様子だった。も一日くらい寝ていなければいけない、と辰代は説き勧めたが、今井は曖昧な返辞をしながら、朝から起き上って、そして何をするともなく、室の中にぼんやりしていた。
それから引続いて、今井の様子は変ってきた。朝起き上って皆と顔を合せる時には、必ず丁寧に頭を下げた。晩にはよく茶の間に坐り込んで、雑談の仲間に加わった。縁側の前の三四坪の庭に下り立って、植込の間の蜘蛛の巣を指先でつっ突いたり、またはいつまでも屈み込んで、苔類を一々見調べたりした。台にのってる小さな木の箱に、二三十銭の駄金魚が六七匹飼ってあった。そんなものにまで興味を覚えてきたらしく、麩をやっては眺め入った。そればかりではなく、今迄の粗暴なぎごちない身体つきに、何処となく角がとれて、弱々しいしなをすることがよくあった。頑丈な身体を変にくねくねとさして、指先で頬辺を支えてる様子などは、一寸滑稽に感ぜられた。
「今井さんの様子は、あれから何だか変じゃなくって?」と澄子は母へ云った。
「まだ病気がすっかり癒りなさらないんでしょう。」と辰代は云った。「表面は癒ったようでも、しんに悪い所があって、それが一度にどっとひどくなることがあるものですよ。注意してあげなければいけません。」
そして彼女はそれとなく、身体の調子や気分の工合を尋ねてみた。
「天気がいけないんです。」と今井はいつも答えた。
実際いやな天気が続いた。梅雨期にはいったせいもあろうが、しつっこい雨が絶え間もなく降って、降らなければ陰鬱に空が曇って、何もかもじめじめと汗ばんでいた。今井は縁先に蹲って、その雨脚や曇り空をいつまでも眺めてることがあった。
「今井さんは雨がお好きなの?」と澄子は尋ねた。
「ええ好きです。」と今井は答えた。「雨の降るのを見ていますと、都会の上に雨降る如く、吾が心のうちにも涙降る、というヴェルレーヌの詩を思い出します。」
澄子は喫驚した顔付で、今井の様子を見守った。
「あなたは詩もお読みなさるの。」
「昔読んだことがあります。夢中になって読み耽ったものです。」
「そう。じゃあ一寸教えて下さらない? 私いくら考えても分らない所があるから。」
そして彼女は、英語の教科書の中にある短い詩句を持ってきた。今井はそれをすらすらと解釈してきかした。
澄子はまた意外だという顔付をした。
その晩彼は中村に云った。
「今井さんはあれで詩人だわ。私喫驚しちゃったの。」
中村はただふふんといった顔をしてみせた。
「詩の解釈はあなたよりよっぽどお上手よ。」
「それはそうだろう。僕は医者だけれど、あの人は文学者だから。」
所が、その晩今井が下りて来ると、澄子は試してでもみるような気になって、此度は代数の問題を尋ねてみた。今井は容易く解いてやった。
「私は算術は嫌いですが、」と彼は云った「代数と幾何とは非常に好きです。中学の時に代数で百点貰ったことがありました。」
「じゃあこれから時々教えて頂戴。私数学は嫌で嫌で仕方ないわ。」
「嫌なのより下手なんだろう。」と中村が口を出した。「僕がいくら教えてやっても、さっぱり覚えないんだから。」
「あら、あなたは駄目よ。教え方がぞんざいで、独り合点ばかりなすってて、私がよくのみ込まないのに、先へ先へとお進みなさるんですもの。」
「なあに僕のは天才教育だからさ。」
そういう中村の眼を見返して、澄子はくすりと笑った。
「こういう凡才を相手だと、骨が折れますよ。」と中村は今井の方に言葉を向けた。
今井はぼんやり何かを考え込んでいた。それからまた話しかけられても、短い返辞をするきりで、多くは黙っていた。しまいには縁側に立っていって、金魚に見入った。
その金魚を、今井は自分のもののように大事にし出した。何処から聞いてきたのか、金魚の飼い方をいろいろ述べて、麩なんかをやってはいけないと云った。
「金魚に麩は、人間にお茶のようなもので、食べても少しも滋養にはなりません。その上可なり不消化です。麩よりも、御飯や鰹節をやった方がいいんです。」
「だって、御飯をやれば、眼の玉が飛び出すというじゃありませんか。」
「そんなことはありません。やりすぎて、消化が悪くなって、痩せるから飛び出すんです。」
そして毎日夕方、彼は水を半ば取代えてやった。大きなバケツに、水を半分ばかり汲んで、それを何度も運んだ。一杯汲んで運んだら早く済むのに、と澄子が云うと、重くって仕方がないと答えた。澄子は笑い出した。
「私水一杯ぐらい平気よ。」
そして彼女は、バケツに水をなみなみと汲んで、歯をくいしばりながら平気を装って、とっとと運んでいった。
水ばかりではなく、少し目方のある物に対すると、今井はいつも重いというのを口癖のようにした。それからまた、何をしてもすぐ疲れたと云った。
「今井さんの弱虫!」と澄子は笑った。
「そんなことを云うものではありません。」と辰代はたしなめた。「屹度どこか身体がお悪いんですよ。中村さんに聞いてみましょうか。なおるものなら早くなおしてあげた方がようござんすから。」
「いくら中村さんだって、診察してみなければ分りゃしないわ。そして今井さんは、医者にみて貰うのが、あの通り大嫌いでしょう。とても駄目よ。」
それでも辰代は気にかかって、或る時中村に相談してみた。中村は注意深く辰代の言葉を聞いていたが、ふいに笑い出した。
「いや何でもありませんよ。」と彼は云った。そして澄子の方を向いた。「澄ちゃん、用心しなけりゃいけないよ。」
「どうして?」
中村はなお薄ら笑いをしながら、それきり何とも云わなかった。
その意味が、辰代と澄子とには解せなかった。そして辰代はそれを、やはり何か病気の暗示だという風に考えた。一人気を揉みながら、今井の様子をそれとなく窺ってみると、前よりも外出することが更に少なくなったり、室の中に寝転んでいることが多かったり、庭の隅に萠え出てる草の芽に見入っていたり、雨脚を眺めながら涙ぐんでいたり、月の晩には遅くまで窓によりかかっていたり、始終黙って考え込んでいたり、大声に笑うことがなかったりして、何もかもみな病気を想像させるようなことばかりだった。そして彼女は、或る晩地震のことから、本当に彼を病気だときめてしまった。
八時頃だった。中村は病院からまだ帰って来ていなかった。辰代と澄子とが茶の間で、一人は裁縫を一人は学校の下調べをしていた。そこへ可なり大きいのが、どしんと一つきて、それからぐらぐらと揺れた。おやと思うまに、もう小揺れになって、天井から下ってる電燈の動くのや、柱時計の振子の乱れたのなどが、自然と眼についた。それが暫く続いた。
「地震ね!」と澄子は分りきったことを云った。
「何時でしょう。」
「八時少し過ぎよ。」
辰代は胸勘定でもするように頭を動かした。
「五七の雨に四つ旱、というから、まだ雨が続くかも知れませんね。」
そう云ってる所へ、階段に大きな物音がした。二人が喫驚して眼をやると、息をつめ眼を見張っている今井の顔が、薄暗い階段口からぬっと出てきた。
「どうかなさいまして?」
今井はすぐには口を利かなかった。天井からあたりをきょろきょろ見廻して、それからほっと吐息をついた。
「地震でしたね。」
「まあ、逃げ下りていらしたんだわ。」と澄子が云った。「あれくらいな地震に……。私もっとひどいのだって平気よ。」
今井は何とも云わないで、長火鉢の横に坐って、小首を傾げながら耳を澄した。
「また来るかも知れませんよ。」
「ええ、屹度来るわ。」と澄子は肩をそばめて見せた。「揺り返しは初めのよりひどいと云うから、此度は大変よ。そしたら私、今井さんを負って逃げてあげましょうか。」
今井はなお遠くを聞き入りながら、火鉢の縁にしっかとつかまっていた。
その二人の様子を見比べて、辰代は怪訝な気がした。これまで二三度地震はあったが、それも此度のより強くはなかったが、澄子こそ恐がってはいたれ、今井が恐がったためしはなかった。それなのに此度に限って……。そしていろいろ考え合してみても、今井は病気に違いない、と辰代は考えた。
それにしても変梃な病気だった。今井は普通に食も進み、別段痩せた模様もなく、ただ力が失せ気が弱くなり身体がなよなよとしてきただけで、それも一方から云えば、あの変人が普の人間に近よってきただけで、何処といって変った様子は見えなかった。
「何処が悪いのかしら?」
そう思って辰代は、なお今井の様子に眼をつけた。すると今井は、万事澄子にも及ばないほどの弱々しさになっていた。――庭の木戸の輪掛金に、きつい差金を少し強く差込まれたのが、どうしても取れないで、今井はまごまごしていた。それを澄子は見かねて、一度にぐっと引抜いてやった。――自分でお茶をいれて飲むつもりで、今井は茶箪笥から茶の鑵を取り出したが、少し錆のあるその蓋が、なかなか取れなかった。「私が開けてあげるわ、」と澄子が云って、二三度やってみた後、容易く引開けてやった。――箪笥の後ろに落ちた櫛を取るから、手伝ってくれと奥の室に、澄子は今井を呼んできた。そして二人で、二段重ねの箪笥の上の部分を、持ち上げて下しにかかった。それが今井には大変な努力らしかった。箪笥を再び重ねる時には、今井は危くよろけそうだった。澄子は一生懸命に気張りながらも、今井を叱ったり励ましたりして、そして勝誇ったような顔をしていた。――「今井さん指相撲をしましょう、」と云って澄子は手を差出した。今井は一寸躊躇したが、着物の袖口を伸しながら手を出した。そして節の太い頑丈な彼の親指は、反りのよいしなやかな澄子の親指に、何度も他愛なくねじ伏せられてしまった。「それじゃ此度は腕相撲、」と澄子は挑んだ。「よし腕相撲なら負けやしません。」そして彼は居住居を直して、幅広い肩と握り合した手先とに、顔まで渋めて力を籠めたが、澄子のきゃしゃな腕にも余りこたえがなくて、彼女の顔が赤くなる頃には、しなしなと押伏せられてしまった。三度やったが三度とも負けた。「右は駄目です、左でしましょう、」と彼は云った。そして左の腕相撲では、澄子は一たまりもなかった。右手まで手首に添えても、やはり彼にかなわなかった。彼はただにこにこ笑っていた。――或る晩、中村が病院に泊って来ることになってた時、夜遅くなって、裏口に何かしきりに音がした。玄関の茶の間にいた辰代は、うとうと居眠りながらも、耳ざとくそれを聞きつけた。ことことと戸を指先で叩くようなその音は、間を置いてはまた響いてきた。鼠にしては余り根強すぎ、犬にしては余り規則的すぎる、一寸怪しい物音だった。辰代が耳を傾けているのを見て、其処にいた澄子も今井も耳を傾けた。暫くして、「戸締はしてあるでしょうね、」と辰代は不安げに尋ねた。してある筈だと澄子は答えた。「でも何だか怪しいわ。今井さん、見て来て下さらない?」と彼女は云い出した。今井はすぐに立上ったが、奥の室から薄暗い台所の方を覗き込んだばかりで、先へ進もうとはしなかった。「ほんとに意気地なしね、」と澄子は怒ったように云いながら、後から立ってきて、いきなり今井を台所へ押しやり、自分も一緒に進んでいって、ぱっと電燈のねじをひねった。今井はその俄の光に、眼をぱちぱちやっていた。それを見て、澄子はおどけた笑い声を立てた。
そういう風な今井の様子を、辰代は呆れ返って眺めた。肩幅の広い骨組の頑丈な今井だけに、滑稽でもあれば痛々しくもあった。そして、これは多分肺病の初期とか神経衰弱とか、そういった風の病気に違いない、或はその両方かも知れない、というように彼女は考えた。
「あなたどこかお悪かございませんか。」と彼女は尋ねてみた。
「いえ別に何ともありません。」と今井は答えた。
それでも辰代は肺病とか神経衰弱とかについて、それとなく中村に問いただして、結局今井の生活がいけないと結論した。朝一度御飯を食べるきりで、時々西洋料理や蒲焼などを取寄せはするものの、大抵はパンと牛乳とで過しているので、身体に精分がつくわけはない。中村のように一日病院につとめてるのなら格別、今井は家にばかりごろごろしてるので、もし家の者同様でよかったら、午も晩も賄をしてやってもよい、と彼女は考えた。
「ねえ、澄ちゃんどうでしょう?」と彼女は娘にも相談した。
「お母さんさえそれでよかったら、今井さんはお喜びなさるでしょうよ。」と澄子は答えた。
それで辰代の決心はついた。病気のことには触れないようにして、例の不経済をたてに、もしよかったら実費で――全部で二十五円ばかりで――賄付にしてあげてもよいと、彼女は云い出してみた。
「結構です。」と今井は答えた。「どうかお願いします。」
そして翌日から、今井は辰代の拵えてくれる米の御飯を食べることになった。そのために、辰代の手がふさがっている時には御膳を運んだりなんかして、自然と澄子が二階に上ってゆくことも多くなった、そういう時今井は大抵机に両肱をついてぼんやりと、開け放した窓から空を眺めていた。
「空を見てると、一番心がしみじみ落付いてきます。」と彼は云った。
「だって、こんな曇った陰気な空じゃつまらないわ。」
「私はあの雲の上の、晴れた清らかな空を想像するんです。人間の世界から雲で距てられた、澄みきった清浄な空です。」
そして、その高い清浄な空を想像ししみじみと心が落付いてる今井は、澄子へ向って、彼女の身の上を尋ねたり、隣室の中村のことを尋ねたりした。殊に中村のことについては執拗だった。
「私はあなたが、中村さんと、親戚とか従兄妹同士とか、そんな風な関係かと思いました。余り親しそうだから。」と今井は真面目に云った。
「そりゃあ私、中村さんを兄さんのような気がしてるわ。」と澄子は答えた。「だって、高等学校の時からもう六七年も家にいらっしゃるんですもの。私まだ十歳ばかりだったから、よく負さったりしてあげたわ。今でもどうかすると、僕の背中に乗っかったことがある癖に生意気だなんて、人を馬鹿にしてしまいなさることがあってよ。忌々しいから、そんな時には後で仕返しをしてやるわ。こないだなんか、ウェストミンスターの煙草の袋に、アンモニアを一雫垂らしといてやったの。そりゃあ可笑しかったわ。この煙草は臭い臭いって大騒ぎなんでしょう。そして私が放笑してしまったものだから、とうとうばれちゃったの。でも平気よ。昔のことを云って人を馬鹿になさるから一寸おしっこをひっかけてやったんだわ、金口なんか吸って生意気だ、と云ってやると、いい気持だったわ。それでも後でお母さんから、嫌というほど叱られたの。」
「然しあなたは、何でも中村さんに相談なさるんでしょう。」
「ええ、時々……。でも何だか、本気に聞いて下さらないから、つまらないわ。」
今井は暫く黙っていたが、ふいに云い出した。
「私はあの人が嫌いです。皮肉ばかりで固めたような感じがしますから。」
「だって、皮肉な人は頭がいいんでしょう。」
「頭が悪くて皮肉な人だってありますよ。勿論中村さんは頭がいいようだけれど……。この室に来た当時は、そりゃあ変な気がしたもんです。妙にあの人から圧迫されるようで……。第一こちらは、この通り粗末な室だし、向うは立派な八畳の座敷でしょう。それが、壁一重越しで、縁側続きなんだから、まるで私はあの人の徒者といったような感じです。向うの物音が気になって仕方なかったんです。それでも、負けてなるものか、反抗してやれ、という風に心を持ち直して、それからだんだんよくなって、もう今では、こちらが主人で向うが従僕だと、平気で落付いています。」
澄子は驚いて彼の顔を見つめた。その視線を眼の中に受けると、彼は俄に狼狽の色を浮べた。眼を外らして、煙草に火をつけて、煙草の吸口を親指の爪先で、ぎゅっと押し潰し押し潰しした。そして云った。
「こんなことは、人に云うべきことじゃありませんが、あなただから云ったんです。誰にも云わないで下さい。」
「ええ。」
そう答えて、澄子は自分の胸の中だけにしまったが、そのことが妙に気にかかった。今井の云っただけのものでなしに、自分自身も関係しているような、そして何だか悪いことになりそうな、或る大きな影が、心の上に落ちかかってきた。
そして澄子がその方に気を取られてる時、一方では辰代が、以外なことを耳にした。
今井は越してきて、五月の末になると、洋食屋と鰻屋との払いだけを済し、それから五円紙幣を一枚出して、残りの下宿料と牛乳屋の払いとは、今暫く待ってくれと云った。辰代は別に気にかけないで、その通りにしておいた。それから六月の末になると、今井は如何にも恐縮したような顔付で、十円だけ差出した。金の来るのがどういうものか後れたので、とにかくそれだけ納めておいて、残りと諸払いとは暫く待ってほしい、と云い出した。そして辰代は、すぐに金を催促するからという彼の言葉を信じて、それで我慢していた。所が、晦日に金を取りに来た牛乳屋が、辰代の断りの言葉を聞いて、先月から滞ってるのにそれでは困ると、可なりうるさく云ってから、何と思ったか、下宿人には用心しなければ06.4.20いけないと注意して、次のような話をした。
やはり或る素人下宿屋で、大学生と称する学生を世話した所が、それが変な男で、毎日家にばかりごろごろしていて学校へ行く様子なんかはてんでなかった。訪ねてくる友人連がまた、みんな破落戸みたいな者ばかりだった。そして、やれ洋食だの鶏だの牛肉だのと、さんざん贅沢なことを云っといて、月末には五円しか金を払わなかった。次の月もやはり五円だった。三ヶ月目には一文もないと云った。余りひどいので、しまいには主人も腹を立てて、内々調べてみると、なるほど大学に籍だけはあるが、学校に出てる様子は少しもなかった。そしてまた、方々の下宿屋を食いつめた後で、もう正式の下宿屋にはいられなくなってることも分った。それから主人はうろたえ出して、その学生の持ってる品物や書物などを――不思議に書物だけは可なり多く持っていたのを――無理に売払わせて、それでも不足の金はまあ諦めをつけて、とうとう逐い払ってしまった。それがつい二三ヶ月前のことである。
「そんなことがよくありますから、うっかりひっかかっちゃ大変ですぜ。」と牛乳屋は云った。
辰代は驚いてしまった。話の中の学生が、余りに今井と似通っていた。或は今井であるかも知れなかった。そして狼狽の余り、牛乳屋の払いはさせられてしまって、それから澄子へ相談してみた。
「まさか、あの弱虫の今井さんが!」と澄子は打消した。
「でもあれは、病気のせいではありませんか。家にいらした時からのことを考えてごらんなさい。」
母にそう云われてみると、澄子も多少の疑惑を持ち初めた。
「ともかくも、家にどなたかお友達がいらしたという話だったから、その名前をそれとなく聞いてごらんなさいよ。」
「お母さんが聞いたらいいじゃないの。」
「いえ、私から聞くと角が立つから……。」
それは当然もっと早く聞いてみるべきことでもあったし、また何かのついでに訳なく聞けることでもあったが、それを一の手掛りとして気にとめると、変にこだわってしまって、うっかり口に出せない事柄のように思い做された。そういう母の気持が、澄子へも伝わっていった。さも重大な問題ででもあるように、澄子は不承不承にその役目を引受けて、いい機会を窺ってみた。
その機会がなかなか来なかった。辰代は幾度も催促した。それで澄子も遂に決心して、或る晩、二階の戸を閉めに行った時、今井から学校の試験のことを尋ねられたのをきっかけに、何気なく尋ねてみた。
「あなたはちっとも学校にいらっしゃらなくて、ほんとにそれでいいの?」
「行ったってつまらないから行かないんです。」と今井は答えた。
「だって家にいらした方はみんな、真面目に学校に出ていらしたわ。……そして……あの……あなたの友達で家にいらしたというのは、何という方なの?」
尋ねながら澄子は、背中が寒くなって顔を伏せってしまった。
「え、私の友人で……。」
「家にいらした方があると、そうあなたは云ってらしたでしょう。」
「あ、あれですか。あんなことはでたらめですよ。」
澄子が喫驚して顔を挙げると、今井は真面目くさって云い出した。
「私はあの時、静かな宿を探すつもりでぶらついていますと、ふとこの家が眼についたのです。あの二階に置いて貰うといいなあと、二三度表を通りすぎてから、思いきってはいって来ました。全く偶然でした。然し今になってみると、偶然だとばかりは云えない気がします。自分の落付くべき所へ、自分で途を開いて、落付いてしまったような気がします。」
澄子は言葉もなくて、今井の顔をぼんやり見つめていた。その時今井は、半分机によりかかっていたが、急に向き返って、膝をきちんと合せ、握りしめた両の拳で腿の上を押えつけながら、少し頭を傾げて云った。
「澄子さん、私はあなたに真面目に聞いて頂きたいことが……いや、真面目に聞かして頂きたいことがあるんです。」
「なあに?」と口の中で云いながら、澄子は一寸居住居を直した。
「本気で、心から、私に聞かして頂きたいんです。」
「どんなこと?」
「あなたは、私を……どう思っていられるんですか。」
「どうって……。」云いかけておいて彼女は、今井の真剣な気勢に打たれてさし俯向いたが、やがて静に続けた。「私にはよく分らないけれど、あなたは、詩人で夢想家で、そしていくらか野蛮人みたいな……そして一寸変った人だと思ってるわ。」
「いえそんなことじゃありません。……私の云いようが悪かったかも知れませんが、そんなら云い直します。あなたは私を……。」そこで彼は文句につかえて、自分で自分を鞭打つように、膝の拳をぎゅっと押えつけた。そして云い直した。「あなたは私を、どんな眼で見ていられるんですか。」
「私何も変には思ってやしないわ。」
「いえそんなことでもありません。」そして彼はまた、膝の拳固をぎゅっぎゅっとやった。「あなたは私に、ただ友達としての感情で対していられるのですか、それとも、異性としての感情で対していられるのですか。」
「まあ! 私そんなことは……。」
「聞かして下さい。本当のことを聞かして下さい。」
「だって、私、そんなことは考えたことがないんですもの。」
「考えたことがないんですって! でもあなたは、もう来年は女学校を卒業されるんでしょう。そして、やがては結婚もされるんでしょう。愛という問題を考えたことがないんですか。」
「ないわ。」
「本当ですか。」
「ええ。」と澄子は力無い返辞をした。
「嘘です。そんな筈はありません。私はあなたを、中村さんのように子供扱いには出来ません。私はあなたに対すると、ただの友達としてではなく、異性としての感情に支配されてきます。そして、いつもあなたのことばかり考えているんです。」
「だって私……。」
そして暫く沈黙が続いた後で、澄子は何かぞっとして顔を挙げると、今井は眼に一杯涙ぐんでいた。
「あら、どうなすったの?」
今井は黙っていた。
「御免なさい。ねえ、私謝るから……。」
「謝ることなんかありません。」と云って今井は鼻の涙をすすり上げた。
「だってあなたは……。」
「いえ、何でもありません。」
「そんならいいけれど……。」そして彼女はまた繰返した。「御免なさい、ねえ。私には何にも分らないんですもの。」
今井はぴょこりと頭を下げた。
「私の方が悪いんです。あなたは全く純潔です。ただ、愛のことを考えといて下さい。すぐに分るんです。ほんとに考えといて下さい。」
「ええ。」
「屹度ですね。」
「ええ。」
それから、今井は黙り込んで、いつまでたっても石のように固くなっていた。澄子は立上って、自分でも訳の分らないことを考え込みながら階下に下りていった。
奥の室で、箪笥の中を片付けていた母に、ぱったり顔を合して、その顔をぼんやり見つめると、澄子ははっと夢からさめたように、頭の中がすっきりして来て、今井と交えた滑稽な会話が、まざまざと思い浮べられた。そして急に可笑しくなって、其処に笑いこけてしまった。
辰代は呆気にとられた。
「澄ちゃん! どうしたんですよ。狂人のように笑ってばかりいて!」
「だって可笑しいんですもの。」
「何が?……どうかしましたか?」
笑いの発作が静まって、少し落付いてから、澄子はなおくすくす残り笑いをしながら、今井との対話を話してきかした。
辰代はじっと聞いていた。今井が嘘を云ったことについては、さほど怒りはしなかったが、愛のことになると、むきになって腹を立てた。澄子は喫驚した。
「まあ、可笑しなお母さんだわ!」
辰代は澄子の云うことなんかは耳にも入れなかった。
「失礼にも程があります。人の娘に向って、それもほんの子供に向って、何というぶしつけな厚かましいことでしょう。お父さんが亡くなられてから、人様をお世話していますが、それほど踏みつけにされるようなことを、私はまだ一度もした覚えはありません。嘘をついて人の家にはいり込んできておいて、こちらで親切にしてやれば、図々しくつけ上って、何をするか分りはしません。私は何も道楽でこんなことをしてるのではありませんよ。払いも満足に出来ないくせに、何ということでしょう。眼に余ることがあっても、お気の毒だと思って、随分親切に尽してあげたつもりです。それなのに恩を仇で返すようなことをされて、いくら私でも、もうそうそうは辛抱出来ません。とっとと出て行って貰いましょうよ。出て行かなければ、私の方で出ていってしまいます。……澄ちゃん何をぼんやりしているのですよ。そう云っていらっしゃい。あなたが嫌なら、私がきっぱりと断ってきます。」
「そんなことを云ったって、お母さん……。」
「いえいえ、止して下さい。もう我慢にも私は嫌です。」
そして彼女は、そこいらの品物に当りちらした。澄子がいくら宥めても駄目だった。中村が帰ってくると、澄子は飛んでいって、訳を――自分にもよく腑に落ちないその顛末を、かいつまんで話してきかした。そして中村と二人で彼女を宥めた。
「またこんなことがあろうものなら、もう此度こそ許しません。」
そう云って辰代はまだ怒っていた。
中村は笑いながら澄子の方を顧みた。
「だから、澄ちゃんは用心しなければいけないと、僕が云っといたじゃないか。」
「だって、」と澄子は不平そうに呟いた、「私何も悪いことをしやしないわ。」
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