事変下の文学について、改めて文学の実体ということが問題になってきた。それについて一私見を述べてみることにしよう。
考察の糸口を引出すために、ごく素朴なことを先ず考えてみる。――文学は常に、現実に対して、マイナスのものとプラスのものとを持っている。これは芸術一般にも通用する常識である。現実を如何に如実に描写しようとしても字義通り如実に描写出来るものではなく、必ず足りない所があるものであって、この不足の部分、マイナスの部分を伴うことはあらゆる描写の必然の運命である。だから描写には対象の特異相の選択ということが重要となる。描写の秘訣は選択に在るとも云い得らるるだろう。――然るに文学が、描写は止まるものではなく、何等かの意味で表現だと云わるる所以は、それが現実に対してプラスのものを持つからであろう。このプラスのものとは、云うまでもなく、対象への関心の持ち方、批判とか解釈とか要望とかいうもので、大袈裟に云えば、先の見通しをも含めた現実整理の仕方であり、主観的に高調すれば、現実に加えられた作者の心血となる。
ところで、現代の文学が当面している困難は、このプラスのものの無力さを痛感してるところにある。由って来る所以は、この事変下に於て、現実そのものの攻勢的跳梁があり、而もその現実自体が、在来の観念の秩序の埒外にはみ出すものであって、先の見通しがなかなかつき難いばかりか、当面の整理さえもなし難いという事態にある。かかる事態のなかで、一般的な真理とか、或は人間の心理やモラールを探究することは、甚だ困難であるばかりでなくまた迂遠の感さえなくもない。圧倒してくる現実に対して先ず第一に立向わねばならないし、さもなければ押し潰される恐れがある。だから文学実践の場合に於ても、現実と取組むことに力が先ず集注され、前述のプラス的なものが遠景に退き、随ってその無力さが曝露されたように、一応は感ぜらるるであろう。その結果、素材そのものの力に頼る傾向が生ずるのも、当然のことであろう。
然しながら、文学はそれ自身の生存を欲する。記録的なものにせよ、報告的なものにせよ、即生活的なものにせよ、そのなかに、文学の本質的なものが生動し続けていないであろうか。――次のことは、人づてに聞いた話であって、真偽のほどは確かでないが、恐らく本当のことであろう。即ち、火野葦平氏の「土と兵隊」のはじめの方に、或る兵が船の甲板から、千人針の布を海中に落し、泳ぎを全く知らない身でありながら、その布を追っかけて海に飛び込み、布を掴んであっぷあっぷやってるところを、水兵から救いあげられる、という件であるが、あれは事実ではなく、実は、その兵は自ら海に飛びこみはせず、水兵に頼んで千人針の布を拾ってもらったのであると、筆者が語ったそうである。ところで、その事実よりも、千人針の布を追っかけて兵が自ら海中に飛びこんだとする方が、その兵の感情を浮出させるし、敢て云えば真実性を昂揚する。こうした例は、所謂素材主義の作品を仔細に検討してみるならば、至る処に夥しくあるであろう。そしてこれは、全く文学的表現方法、伝統的な方法なのである。
斯くて、部分的には在来の文学方法が安泰としているのに、作品全体を貫く方面に於て、即ち構想とか現実整理とかの方面に於て、在来の文学方法に疑念が持たれ、それと共に素材の力が前面に押出してきた、というところに問題がある。
多くの読者は、現在、文学作品を文学として鑑賞しながら読んではいない。そのうちで、いろいろの原因から来る作品の質の低下と相俟って、酷しい現実を紛らすための娯楽偸安の具として作品を読む多数者のことは、茲では取上げないことにして、ただ、作品のうちに何等かの精神的拠り所、即ち広い意味で一種のモラールを求めてる人々のことを、考えてみたいのである。彼等は文学鑑賞の愉悦を知らないわけではあるまいが、それを楽しむだけの余裕を持たず、もっと直接に、現在の激しい事態のなかに於て、自分の精神を支持したり鞭打ったり、導いたりしてくれるもの、または希望を与えてくれるもの、直接的なモラールを要求しているのである。島木健作氏の「生活の探究」の読者のうちの善い者は、そういう読み方をしているだろう。――こういう読み方は、一方では文学を進展させる動力となると共に、他方では文学を混乱させる素因とならないとも限らない。
作家の方でも、現代では、右のような読者の要求に応じたい意図を多分に持つことは、現代文学の性質上、当然のことであろう。そしてそういう意図の上に、私の所謂文学のプラス的なものの自覚が加わって、茲に、換言すれば、作家の側でも文学の観念が変ってきた。世に宣伝されてる国策文学などの影響のことを云うのではない。固より、その影響も或る方面には多少あるかも知れないけれど、然し作家は大抵、先駆者でありまた大愚であって、当面の政策に対する関心よりも、将来への夢を多く孕むものである。斯くて、作家が真剣に実践する文学は、生活の慰安ではなくて生活の推進力となり、比喩的に云えば、生活から咲き出した花ではなくて生活を育てる養液となり、更に云えば、あったこと若しくはあることの表現ではなく、あるべきこと若しくはあり得ることの表現となった――少くともそういう観念となってきた。而もこの中心的な本質的な核をつつむ肉体の生成は、社会的なまた経済的な広い視野と、科学的なきびしいリアリズムの精神とで、なされなければならないというところにまで立至っている。
こういう文学が、はげしい現実の跳梁と重圧との下に如何に困難であるかは、自明のことであろう。だから前に述べたような事情によって、或は素朴な感動に還るといっても、或は素材の力に頼るといっても、或は現実の認識を深めるといっても、それには大抵「先ず」の一語が冠せられ、その「先ず」からさきの見通しは、模糊として薄暗いのである。作家が文学を実践するに当って、文学という言葉は既に実感としては甚だ空疎な響きしか持たず、それでもやはり文学には違いないのである。――斯くて、作家達は各自にそれぞれ特別な肚の据え方をして、或は観念的に或は方法的にいろいろの探究をなし、極言すれば、文学ジャンルの進展を夢みてる者もあろう。
斯かる事態から、当面の混乱と行詰り的現象が生じている。然しながら、やがてはそれがつきぬけられることを、文学――に今では淡い実感しか盛られなくなっているが、他日濃い実感が盛られるであろう文学に――私は信頼したい。要は、文学の持つプラス的なものが如何にして強力に確立されるかに懸っている。
茲まで云ってきて、私はただ云いっ放しにしておこう。この間の事情の闡明や見通しは甚だ厄介なことであって、且つ、文学実践によって表明せらるるのを待たなければならない。いろいろの情勢上、さしあたっては悲観的ながら、然し文学は常に楽観的な夢を根強く持つものである。
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