A
神社参拝は、良俗の一つとなっている。明治神宮や靖国神社など、国家的な国民的な神社へ、祈誓のために参拝することは別として、町々村々にはそれぞれ、氏神や其他の神社があり、常に参拝の人がたえず、非常時に際して、支那事変に際して、参拝者は殊に多くなった。
氏神や其他の神社、云わば民衆的な神社へ、参拝してる人々の姿態、それは本来、清く明るく朗かであるべきことが、希望されるのである。なぜなら、それらの参拝は本来、感謝を主としたものであるだろうから。祭礼日の参拝は、生活の楽しみを感謝し且つ祈るものであり、七五三の参拝は、子供の生長を感謝し且つ祈るものであり、日常の参拝も、そういう線上に於てなさるるのである。つまり、将来への希望をこめた現在の感謝である。
然るに、近頃、数多い参拝者の姿態に、何かしら切迫した陰影、云わば必死に取縋ろうとしてるようなものが、目につく。戦地にある人々の武運長久を祈るのは、誰しも同じ思いであろうが、そういうことと違って、一層個人的な一層打算的なものの匂いがする。これは、生活があまりに窮迫してるせいであろうか、心情があまりに衰弱してるせいであろうか。それはとにかく、個人的な願用を主とした参拝は、これは良俗とは云えない。神社以外に於ても、種々の講中の威勢のよいお詣りなどは、見ても愉快なものであるが、御利益あらたかなお稲荷様への深夜の憂欝なお詣りなどは、世の中を明るくするものでは決してない。
態度は心意の如何によって決定される。感謝を主とした参拝の態度と、願用を主とした参拝の態度とは、おのずから異るものであって、後者の態度が近頃多く目につくということは、識者の一考再考を要する。殊に、態度が心意を決定する場合があるに於ては、猶更である。
B
婦人の洋装に、殊に若い婦人のそれに、一つの種類が近頃目立つようになってきた。
職場的洋装、というと変だが、例えば、バスの女車掌のそれ、デパートの女店員のそれ、喫茶店の女給のそれ、其他、個々のオフィス・ガールのそれなど、各職場の事務服としての洋装は、大抵、既にしっくりと彼女等の身についているし、必要なものでさえあり、少しも不自然ではない。女学校の制服と似たものである。
次に、個人的好みからの、そして行動の便宜からの、洋装がある。野球場や、映画館や、新劇の劇場や、用達しの急ぎ足の街頭などに、そういう簡素な洋装が見られる。これはまだ、前のものほどしっくり身についてはいないが、然しひどく不自然ではなく、そして幸なことには、若々しい元気が見えており、実務的行動の頼もしい匂いさえある。
さて、それらのもののなかに、それらのものが多くなってきた故でもあろうか、他の一種の洋装が目立つのである。一言で云えば、おしゃれのためのそれであり、流行の先端を切ったつもりらしいそれである。そしてこの種の洋装はまだ大抵、彼女等の体躯ではこなしきれないでいる。
女にとって、洋装は和装より簡単であろう。肌につけるものから順次に比較しても明かだし、和装の半襟や帯とその付属品一切の繁雑さを考えても明かである。けれども、この種の彼女等は、簡単なるがために洋装をしてるのではない。映画女優めいた丹念な顔の化粧、厄介なセットを要する毛髪のウェーヴ、時間のかかるマニキュア、そういうものを考え合せれば、洋装は一種のおしゃれであることが分る。日本髪の芸妓が少くなり、お座敷で雛妓が蓄音器に合せて流行小唄を踊り、カフェーやダンスホールが繁昌する時だから、おしゃれの洋装が銀座街頭を濶歩するのも、無理からぬことかも知れない。
然しながら、他の種類の洋装が、既に日本の女の身体にほぼついているのに、この種の洋装のみが、何故うまく着こなせないでいるのであろうか。外でもない、単におしゃれだからである。こうしたおしゃれが身につかないということは、ハイカラなめかしやの悲哀であろうが、この種の悲哀が深いほど益々社会は健康であろう。
C
銀ブラということは、数年前からの流行語であり、銀座というところは、東京の名所で、地方から来た人は、デパート三越などと共に銀座を見物するようになった。これは、東京で銀座が最も都会的だということからの、おのずからの結果であろう。そしてこの、最も都会的だということは、最も街頭的だということのようである。
どうしてそうなったかは問わないとして、銀座は実際、他の何処よりも街頭的な感じがする。試みに、銀座で何か買物をしたとすれば、他の何処で買ったよりも、街頭で買ったという感が深い。
買物ばかりではない。飲食の場合もそうである。カフェー、バー、新興喫茶店、小料理屋、鮨屋、ビヤホール、それらのところで、酒を飲むとすれば、それは街頭で飲んだ感じである。他の処では、如何に街頭に面したおでん屋でも、飲んだ酒は屋内で飲んだことになるが、銀座でだけは、屋内でなく街頭で飲んだことになる。新宿や浅草の盛り場でも、恐らく銀座ほどの街頭感はあるまい。銀座に於ては、菓子を食い珈琲を飲むのは勿論、相当な料理屋で夕食をしても、それが大抵、街頭でなされたことになる。銀座で女に戯れるのは街頭で女に戯れるに等しい。
都会生活というものは、それが深まれば深まるほど、街頭的となるようである。街路はもはや道路ではなく、都会という大なる建造物の廊下であって、既に廊下である限り、屋内と屋外との区別は不明瞭となる。街頭的ということは、廊下的ということである。
銀座の街路は、道路であるより多く廊下である。そしてこの廊下、万人共通のものである。だから多くの人は、取澄しまた着飾っている。道路でよりも共通の廊下での方が、人は見栄を気にするものらしい。そして見栄から種々の流行が生れるのであろう。
D
帝都の上空を飛ぶ飛行機――殊に軍用飛行機に対して、事変以来、市民の態度が著しく変ったようである。以前は、飛行機の爆音を耳にし、或は飛行機の姿を認めても、街路を行く人々はただ、ははあ飛んでいるなと内心に思うだけで、むしろ素知らぬ様子をすることが、文化人らしい一つのポーズでさえもあった。特殊な長距離飛行機など、一種のスポーツ的興味を伴うものは別として、普通の飛行機に対する関心は、謂わば田舎者めいた野暮くさいものとの感じがあり、街路に立止って飛行機を眺めるなどは、一般の人々の――殊に、悲しい哉インテリ階級の人々の、へんに照れくさい思いをする事柄だったのである。
然るに、事変以来、飛行機に対する関心は俄然高まり、機影を認める時は固より、その爆音を聞いただけでも、会話を中止し街路に立止って、相手の肩を叩きかねない様子で上空を仰ぐことが、自然のこととなり、時には、尖端的な文化人らしい態度とさえも是認されるに至った。
この変化は、注目に価する。そしてこれは勿論、戦地に於ける我が軍用飛行機の壮挙、渡洋爆撃とか荒鷲とかいう言葉が明示するような壮挙によって、飛行機の実効的性能が市民の心に感銘されたからであろうが、然しなおその上に、飛行機というものが、勇敢な行動性を象徴するものとなり、一の思想の域にまで高まったからであろう。即ち、勇敢な行動性の最も具象的なものが、現在では飛行機なのである。
一般市民の、殊にはインテリ階級の、飛行機に対する関心は、だから、一種のスリルと飛躍とを持つ勇敢な行動性への翹望とも見られる。かかる翹望が窒息しない間は、大都市も老朽しないであろう。このことは、戦争の面以外への拡がりを持つ。
E
汽車の内部の光景――殊に、宵に発車する長距離の急行列車で乗客の多いものなどの内部の光景には、考えさせられるものがある。例えば、東京駅を宵の八時か九時頃に発車する神戸行とか下関行とかの、急行列車をとってみるがよい。そして三等車よりも二等車が最もよい。
これらの列車は、いつも乗客がこんでいる。然るに、東京駅で乗りこむが早いか、直ちに二人分の座席を占領して、長々と寝ころび、枕まで持出している者が、随分ある。それ故、品川や横浜あたりで乗車した気の弱い者は、時とすると、座席がなくて長く立たされることがある。寝台車の喫煙室の方に行ってみても、そこはまだ寝ずに語りあってる人々でふさがっているし、食堂も満員だし、彼はまた普通車の方に戻ってきて、室の隅に、或は連れの者の側に、佇むの外はない。而もすぐ近くには、二人分の座席に寝そべっている者が幾人もあるが、身を起して半分の席を譲ろうとする者もなく、通りかかる車掌も、この不公平な有様に無関心らしく、座席の整理などはしてくれない。漸くして、多少親切な人の情けによって、座席を得るのを待つだけである。
二人分の座席に寝そべってる方の人々にも、いろいろ口実はあろう。ひどく疲れてるのに寝台がとれなかったとか、或は自分が起きて席を譲らなくても、誰かがそうしてくれるだろうとか、兎に角、寝そべってるのが自分だけでないというのが口実になるのであろう。
それにしても、立ってる方の人が、なんと温和なことか。彼は別に渋面もしていない。寝てる人を起し、或は車掌に頼んで、一人分の座席の当然の権利を主張することもしない。ただ誰かが自発的に席をあけてくれるのを、気長く待ってるだけである。
朝鮮や満洲や北支などの列車内で、日本人が威張りちらしてるというような話は、よく聞かされるところである。然るに、東海道線の夜の二等車内の光景は、それに相反するものであって、これを、何と解釈したらよいのか、兎に角、なごやかなことである。而も、立ってる方と寝そべってる方と、直ちに地位を変り得るのだから、更に妙である。或はこういうところに、日本人の集団戦闘に強い所以があるのでもあろうか。
F
これは少しく一般的なことになりすぎるが、東京を訪れた外国人の印象として大抵、事変下の帝都の有様が平常と余り変りないのを驚歎的に語ってることが報ぜられている。実際、帝都の有様は平常とさほど変ってはいない。だがそれかといって、徹底的な灯火管制でもやれというのか。酒や煙草を全廃せよとでもいうのか。全部下駄ばきにでもなれというのか。常住不断に深刻な顔をでもせよというのか。
帝都の有様は、事変下にあっても悠然としている方がよかろう。考えてみれば、大都市にあっては、直接の銃後の勤めなるものが存在し難い。如何に精神を緊張さしても、各自の日常の仕事に精励する以外、直接には、消費面の節約以外に為すべきことが見出し難い。農村にあっては、出征者が最も強力な勤労者であり、出征者のある家の仕事を、皆で相寄って為してやるのを第一として、さまざまの直接な勤めが見出される。然るに大都市では、オフィスの勤務など屋内的なことばかりで、それも補充人員には不足はなく、為すべき仕事が見出し難いのである。而も軍需工業の濡いは都会に氾濫して、花柳界は賑い、箱根や熱海の旅館は満員とくる。
帝都で直接的な仕事を最も持たない青年学生が、休暇の間に地方農村に散らばって、そこで何を感得して戻ってくるか、そしてそれがどういう風に帝都の空気に影響するか、或は何等の影響をも与えないほど無力であるか、これこそ問題にしてよかろう。風俗の問題は、結局精神風景の問題である。
G
箱根、日光、富士山麓、軽井沢など、自然の美と交通の便宜とに恵まれた土地の、安易なホテルのホールなんかでは、よく、家族か親しい仲間かの数人の、午後のお茶の集りが見受けられる。その中で、欧米の白人の連中は、いろんな意味で人目を惹く。大抵、彼等の体躯は逞ましく、色艶もよい。眼は生々と輝き、挙措動作は軽快で、溌剌たる会話が際限もなく続く。心身ともに、精力の充溢があるようである。之に比較すると、日本人のそうした集りには、あらゆる点に活気が乏しい。見ようによっては病身らしく思える身体を、椅子にぎごちなくもたせて、動作は鈍く、黙りがちにぼんやりしている。精力の発露などはあまり見られない。
然しながらこれは、体躯の大小は別として、日本人に精力が不足してるからだとばかりは云えない。第一に、日本人は余りに自然に親しみすぎている。伝統的に自然の息吹きに感染しすぎている。だから、明媚な風光に接する時には、家郷的な親しみが深く、おのずから保養的な気分に静まることが多い。自然を享楽する意味合よりも、自然の中に自らを保養する意味合の方が多い。
第二には、日本人の社交性の乏しさが挙げられるだろう。ただ茲に、注意すべき一事がある。日本人は、太平洋の中に浮んだ一隻の船に乗合わしてるようなもので、日常他国人との交渉も少く、お互同士の社交性はさほど必要でなかったに違いない。それ故にか、或は他の原因でか、日常の私生活に於て、妙に精力を蓄積する術を心得ている。汽車や電車の中などで寸暇をぬすんで仮睡する才能なども、その一つの現われであろうか。下らなく動き廻ったり饒舌り散らしたりすることは、精力の消費と考えられ易いのである。それに近い道徳もあった。
それはそれとして、新たな風潮が起りかけている。主に銀座を舞台とする、新時代人の野性的な交際や論議である。飲酒や漫歩や饒舌が、もはや精力の浪費ではなく、直ちに精力の原動力であり、更に云えば、直ちに思惟そのものとなる。それによって、仕事の能率は倍加されるのである。銀座を多欲的生活の享楽地としてる人々を謂うのではない。銀座を一種の在野的サロンとしてる人々を謂うのである。こういう人々のために、銀座は明朗な清純な一隅を用意してやらなければなるまい。
H
女学生の「キミ、ボク」の言葉が教育界の問題となった。だが、こういう言葉を使ってる女学生は甚だ少数で、而も一般女学生からは顰蹙されている。こういう言葉は恐らく、有閑マダムか女給などの間に発生し、新聞の娯楽面や或る種の小説などで宣伝されて、急に拡まったものであろう。
こういう種類の言葉を若い女たちが使用する心理のうちには、単なる物珍らしがりの外に、新しい礼儀作法への翹望が、漠然とではあろうが含まれている。女の礼儀作法は急激に変革しつつある。二三言云っては低くお辞儀をし、また二三言云っては低くお辞儀をし、かくて際限もなく続く応待の仕方などは、今では甚だ珍妙なものとなってしまった。街頭で夫人同士が出逢って、そういう挨拶をしてるうちに、洋髪のピンが弛んで、付髷が地面に落ちたなどということは、数年前のことながら、今では昔の笑い話としか受取れない。
今では、若い懇意な間柄では、いきなり握手をすることさえ行われ、それが相当身についてもきた。だが不思議なのは、最も伝統的な古い組織の中に生きてる芸妓仲間では、往来などで行き合う時、立止って話をする必要もない場合には、頭と目差との僅かな微妙な動かし方だけで、一切の挨拶が済んでしまうことになっている。こうした作法の簡易化は、決して礼儀の乱れたことを意味するものではない。
所謂遊ばせ言葉は、上流婦人の間でも急激に退化しつつある。だが、「さよなら。」の意味で使われる「御機嫌よろしゅう。」の一語は、充分に生きているし、殊に電話などで最後に云われた「御機嫌よろしゅう。」は、快い響きを耳に残す。
作法や言葉は、殊に女の場合、身につくかつかないかということに微妙な問題がある。それは各個人的なそして全身的な事柄であって、抽象論は用を為すまい。女にとって最も非美的なのは標準作法や標準語であると、こう逆説的に云えば、それは女を文化的に軽蔑したことになるであろうか。
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