一
美しい木立、柔かな草原、自然の豊かな繁茂の中に、坦々たる街道が真直に続き、日は麗わしく照っている。二人の恋人が、或は二人の仲間が、肩を並べ、楽しい足取りで、その街道を進んでゆく。古い生活を捨てて、新らしい生活の方へ。彼等は襤褸をまとい、小さな包みを提げ、ポケットに一片のパンを持ってるのみであるが、前途には洋々たる希望がある……。
それは、人の心を慰め微笑ませる情景である。――クレールの「自由を吾等に」、ルノアールの「どん底」、チャップリンの「モダン・タイムス」、其他の映画が最後に取上げてる情景である。
それが人の心を慰め微笑ませる所以は、たとい彼等が其処で一片のパンを食いつくそうとも、前途には、多くのパンがあり、多くの仕事があり、要するに、自由な新たな生活があるからである。現実にあるのではないが、あるだろうという予想或は予約が、現実の姿を取っているからである。
豊かな自然のなかでは、予想或は予約が如何に容易く現実の姿を取ることぞ。豊かな自然のなかに飢えてる動物を想像することは、甚しく困難である。
現実に、襤褸をまとい、小さな包みを提げ、一片のパンをかじりながら、田舎道を辿るのは、敗残者の道行であり敗残者の逃亡である。新生活の建設は、単なる予想にすぎず、地平線の彼方の夢にすぎない。ただその夢は現実の相よりも大きく力強く、現実の姿を取って全体をおし包む。然し実際には、新生活の建築は其後のことである。
ドストエフスキーの「罪と罰」の結末は惨めである。シベリアへ流される殺人者と、その後を追う売笑婦。普通の人は眉をひそめるであろう。そこへ黎明の光をもたらすものは全く、其後の新たな物語にすぎない。「死の家の記録」に見られるような深い人間性の展開があるだろう、という予約にすぎない。モルナールは「ドナウの春は浅く」のなかで、現実生活に敗れた少女をして、ドナウの濁流の中に身を投じさせた。そしてその後で、少女を乗せていた空舟のまわりに、濁流を乗り切る野菜船の男女の歌声を、勇ましく高らかに響き渡らせた。別個のものを、或は別個の思想を、持って来たのである。
現代の多くのインテリの生活には、旧生活からの逃亡と新生活への首途とが綯い合されている。あらゆる信念の崩壊を一度くぐりぬけてきた人々にとっては、遁走が発足であり、発足が遁走である。彼等が感ずる「旅へのいざない」は、二重の意義を持つ。その旅は、あらゆる遺棄と獲得とを必然条件とする冒険の旅である。而も遺棄は確実であり、獲得は不明である。地平線の彼方は全然見通しがつかない。彼方に、「序次と美と栄耀と静寂と快楽と」が果してあるかどうか、その信念は勿論、憧憬さえも失われている。明かなのは現在が安住の地でないこと、そしてただ発足と建設。何処へ、そして何を、それは次の問題だ。先ず発足そして建設。目標は、内容は、つまり「一つの言葉」は、おのずから生れてくるであろう。――斯かる旅にとっては、前途に一筋の大道は存在しない。自ら道を切り拓いて進むより外はない。道を切り拓くにつれて、それが一つの言葉となってゆくのだ。
詭弁であろうか。なぜなら、目標不明の発足は彷徨に終り、内容不明の建設は徒労に終るから。然しながら、新たな時代の首途には、曖昧模糊たるものがあり、星雲の運行に似たものがあり、必然と偶然とが衝突しあって生ずる不可測な力がある。この力を、吾々の知性は常に追求する。
この追求に身を以て当る場合に、新たな情景が展開される。
美しい木立、柔かな草原、青い大空、晴朗な日の光、つまり豊かなる自然――なぜなら、自然は常に豊かだから。そして夢みるような街道――なぜなら、街道は旅の象徴であり、旅は夢想だから。そして二人の恋人か或は仲間――なぜなら、一人で道を進み得るのは神のみであり、人は伴侶として藁屑をも掴みたがるものであるから。そしてこの二人は、或は美服を着飾り或は襤褸をまとおうとも、或は革の鞄を抱え或は小さな包みを提げようとも、或は七面鳥の丸焼を飽食し或は堅パンを噛ろうとも、必ず、肩に一本の鶴嘴をかついでいる――なぜなら、自ら道を切り拓いてゆかねばならないから……。
豊かな自然のなかの街道を鶴嘴をかついで進む二人の恋人或は仲間。それは恐らく滑稽な情景であろう。少くとも映画の結末になり難いだろう。然しながら、「新らしい物語」を夢みるラスコーリニコフにとっては、そして作者ドストエフスキーを持たないラスコーリニコフにとっては一本の鶴嘴が必要なのである。
二
広漠たる荒海の上を、数隻の船が、満帆に風を孕んで突進する。帆船ながら、厳めしく武装されている。乗組の人々も、精気溢れた逞ましい者等で、弓矢や槍や剣を身につけている。船は波浪をつき切って、一直線に進んでゆく。やがて潮煙の彼方に、陸地が現われる。その沿岸を、船は暫し巡航し、上陸点を決定するや、まっしぐらに突き進む。船は半ば陸地に乗上げる。武装の人々は船から飛び出し、そして其処で、時ならぬ狼煙と火焔とが立昇るのである。――彼等は船を焼いたのだ。自ら退路を断って、死地に身を投じたのだ。然しそれは、果して死地か、或は豊饒なる新世界か。
これは、シラクサの僭主アガトクレスがカルタゴを攻略した時の光景というよりも、寧ろ多く、ノルマンの或る人々が南方に新生活を求めた時の光景と、そういうことにしたいのである。
戦争に於て「船を焼く」ことは、アガトクレスの如き無謀な暴将にして初めて為し得るのみである。然しながら、個々の勇士はみなそれぞれ、「己が船を焼いて」敵陣に突進する。「己が船を焼いて」こそ、新たな境地が開けるのである。ノルマン人にとっては、豊饒な新世界が開けるのである。
かかる気魄を、吾々は日常忘れがちである。忘れるというよりも、いざという時になってもなお、船を焼かずに済せることが余りに多い。そしてそれが常習となったならば、どうであろうか。
デパートには常習万引の客というのが幾人かある。多くは、社会的地位の高い、富有な、そして相当年配の所謂貴婦人に属する。眼差しに落着きがなく、化粧は入念であり、香水のかおりは程よく、毛皮の襟巻を少々汗ばむ頃まで用いる類の婦人である。彼女は店内をそぞろ歩き、あちこちの売場に立止り、鷹揚に物品を弄び、然し一品も購わずに、やがて出口へ向い、自動車を呼んで、すっと消えてゆく。もう既に、彼女の袖の下には、幾点かの品物が、多くは高価なものが、潜んでいるのである。――そうした彼女の後ろ姿を常に一人の男が静に見送っている。何処にも見かけるような平凡な様子の男で、目立たない物腰だが、眼付だけは鋭い。この男は既に、彼女の後を最初からつけていたのである。そして今彼女の後ろ姿を見送って、口辺で微笑しながら眉をひそめる。
その月末、デパートから、万引の品物の代価の書付が、彼女の家に郵送され、やがて集金人が来る。彼女は金を払う。――そしてまた彼女は、デパートに平然と現われて、万引を働く。デパートにとっては、彼女はよい御得意様であって、そこの私設刑事が鄭重に待遇するのである。
彼女は世の中に退屈してるのであろうか。退屈のあまり、一種のスリルを求めて、その身分と財産を最後の避難所と意識しながら、万引をしにやって来るのであろうか。もしそうならば、結果は、つまらない悲喜劇の繰返しにすぎない。満たされない欲求の繰返しにすぎない。――それとも、多くの心理学者が解釈するように、彼女は一時の生理的並に精神的錯乱にかられるのであろうか。そして後で自ら惘然とし、後悔し、代金を払い、懊悩し、而もまた一時の錯乱にかられて、身分と財産を最後の避難所とする潜在意識を以て、再び犯すのであろうか、もしそうならば、結果は、単に錯乱と後悔と懊悩との繰返しにすぎない。沼の泥をかきたてることの繰返しにすぎない。
何等発展のないばかげた繰返し、それを支持するものは、彼女に於ては、身分と財産を最後の避難所とする意識であり、或はその潜在意識である。このもののために、彼女には到底、「己が船を焼く」ことは出来ないだろう。最後の避難所が、この場合、即ち「船」なのである。
遠征に出たノルマン人と、常習万引婦人と、こう並べるのは余りに均衡のとれないことであろうか。然しながら、己が船を焼くことの出来る者と出来ない者と、それを並べるのも同様に均衡のとれないことなのである。両者は人種が異るのだ。単なる万引行為に、実際に己が船を焼くような愚者はあるまい。だからこれは比喩の話である。更に、海上で己が船を焼くような愚者はあるまいし、船を焼くのは上陸した時のことである。だからこれも比喩の話である。
フローベルは晩年、ブーヴァールとペキュシェという二人の低俗なる生活を描くことに、心身を労した。彼がその二人を愛していたのか憎んでいたのか、私は知らない。ただ私は、遠征のノルマン人を愛し、常習万引婦人を憎む。そしてこの場合、愛するが故に憎む、憎むが故に愛する、というような言葉は絶対に意味をなさないものとしたいのである。
三
「種々の事物や事件は、私の頭の中では整理されて、謂わばそれぞれの抽出の中に納めてある。一事から他事に移る時には、私は前者の抽出を閉め、後者の抽出を開ける。斯くして、如何なる事柄も互に混乱することなく、また私を邪魔し或は疲労させることがない。眠ろうとする時には、私は凡ての抽出を閉め、すぐに眠るのである。」――これはナポレオン自身の言葉。
そういう頭脳を想像してみよう。そこには無数の抽出があって、あらゆる事柄がそれぞれの抽出の中に整理されている。どの抽出かが任意に開けられ、また閉められる。凡ての抽出が閉められる時は、即ち睡眠なのである。
事務机などの抽出にしても、仔細に観察する時には、不思議な感じを人に与える。各種の抽出に各種の事物が整理してある。全く未知の人の未知の室にはいって、そこにある抽出を一つ一つ開いてみたならば、如何なる発見がなされるであろうか。抽出とは一体、誰が考案したのであろうか。――而もここでは、頭脳の中の抽出のことをいうのである。全く抽出がなくて、あらゆる事実がむきだしに散乱してる頭脳もあろう。数個の抽出しかない頭脳もあろう。君の頭の中には幾つの抽出があるか?――無数の抽出があって、画然と整理されてる頭脳、それは驚嘆に価いする。
斯かる頭脳の運行のなかでは、恐らく、思想も一つの事物に等しく、情愛や意欲も一つの事物に等しく、人間も一つの事物に等しいだろう。
「如何なる情意の動きも、彼に対しては働き得ないことを、私は漠然と感じた。彼は人間を、一つの事実或は物と看做し、自分と同類とは看做さない。彼は憎みもせず愛しもせず、彼にとってはただ彼自身あるのみで、他の凡ての人間は数字にすぎない。」――これはナポレオンについてのスタール夫人の言葉である。
ここでは、ナポレオンのことが問題ではない。ナポレオンについて種々の見解があろう。ただ、彼に関する一二の事柄を機縁に、別な人間像を打立ててみたいのである。
この人間像の、その頭脳の抽出のなかには、斯くして、あらゆる人間が、単に数字として、事物として、納められている。必要に応じて、それらの抽出のどれかが開けられ、中の物が取出されるだろう。即ち誰かが使用されるだろう。事物がその本来の用途にあてられるように、人間もその才能性格によって、それぞれの用途にあてられるだろう。こうした人間使用は、最も無私に冷静に、云わば公平になされるに違いない。この場合、使用者の方面について、利己的とか功利的とかいう言葉は、意味をなさなくなる。そこにあるのはただ、最も有効な使用のみであろう。
このような頭脳が、大きく而も精密に発展してゆく時、それはもはや個人でなくなり、何か一つの社会的な力となるだろう。そこには、或は政治家の或は事業家の或は将帥の或は文学者の、超絶的に偉大なものの模型が見られる。
然しながら、無数の抽出を具えるこのような頭脳、それを喚起しうち眺める時、或は単に瞥見する時にも、人はなにかしら冷りとする。その頭脳の所有者のために、また自分等のために……。
自分等のための小さな私念は、しばらく措こう。そして、その頭脳の所有者自身のためには……。
頭脳のなかの抽出は、みな一様なものであろうか。形状大小は、固よりさまざまであろう。だが、その色合、その温度、その本来の性質が、問題なのである。
どこかに、隅の方に、奥の方に、柔かな特別の色合のものがありはすまいか。いつも暖く保温されてるものがありはすまいか。大事に錠がおろされていながら、いつでもすぐに開かれるようになってるものが、ないであろうか。――これが一つもないことを想像する時に、或は一つも見当らない時に、その抽出全部の所有者のために、人は冷りとさせられるのである。普通の人の心臓は、そういうことに堪え難いのである。
だが、安心してよかろう。抽出全部が右の如き特別のものである場合には、全く抽出がないのに等しく、そういうものは無いほどよろしいには違いないが、然し大抵は、どこかの隅に、一つ或は幾つかあるのである。これを人情の見地から云えば、それは砂漠のなかのオアシスの如きもの。――ドン・キホーテにはサンチョ・パンザがあり、ハムレットにはオフィーリアがあり、エディプスにはアンチゴーヌがあった。「臨終の枕辺に愛する者を一人も持たないことは、人生の最大悲惨事である。」と誰かが云った。
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