広い病室。一方の壁に沿って寝台があり、窓の方を枕に一人の患者が眠っている。少し離れて、二脚の椅子が窓際に並んでいる。他方の壁に沿って、入口の扉に近く、床に二枚の畳敷があり、年若な女と看護婦とが、布団を並べ小さくなって眠っている。次に大きな瀬戸の火鉢があって、洗面器がかかって湯気が立っている。次に窓に片寄せて小形の卓子があり、花籠や果物籠や薬瓶やコップの類が雑然とのっている。窓には白いカーテンが下してある。電灯に黒い紗の覆いがしてあって、室の中は薄暗い。真夜中過ぎの静けさ。窓際の二脚の椅子に、ぼんやり人影が現われる。一人は肥っており一人は痩せているが、どちらも同じ顔立で、同じく小洒の白い寝間着を二枚重ね、同じく小洒の広帯を前に結び、同じく患者の方をじっと見つめている。そして静かな声で話し出す。
A――お前はいつも痩せて悲しそうな顔をしているね。
B――お前はまた、いつも肥って嬉しそうな顔をしているね。
A――そうさ、俺は嬉しいのだ。
B――俺は悲しいのだ。
A――だがお互に、もう幾日の生命でもない。屹度恢復するなどと、医者は気安めなことを云ってるが、そうでないことを、俺はよく知っている。
B――それを知っていながら、お前は悲しくはないのか。
A――少しも悲しいとは思わない。俺は常に、いつ死んでもよいような生き方をしてきたのだ。生きている間は、生きることを楽しみ、死ぬ場合には、死ぬことを楽しむのだ。生きたいとか死にたいとか、そういう欲求は俺にはない。俺にとっては、生も死も結局同じものだとしか考えられない。
B――お前は極端な虚無主義者だ。俺はそういう虚無主義を憎む。俺に云わすれば、生は凡てであり、死は無である。生きてる間こそ、この俺という者もあり、俺の生活もあり、人生もあるのだ。死はそれらのものを凡て滅ぼしてしまう。生も死も同じだというお前には、生活もなく、人生もなく、お前自身もなく、ただあるのは虚無ばかりだ。
A――いや、俺には常に喜びがある、その喜びを楽しむ俺自身がある。
B――然しお前が死んでしまったら、その喜びはどうなるのだ、その喜びを楽しむお前自身はどうなるのだ。
A――それがどうなるかは、俺の知ったことではない。俺はただ、生きることを楽しみ、死ぬことを楽しむだけだ。生きた後はどうなるか、死んだ後はどうなるか、そんな先のことを考えてはしない。所がお前は、生きることや死ぬことを考えはしないで、生きた後のことや死んだ後のことなど、馬鹿げたことばかり考えている。俺に云わすれば、お前のような極端な夢想家にこそ、本当の生も死もなくて、ただあるのは虚無ばかりだ。
B――いや、俺には常に理想がある。自分自身をより善くし、自分の周囲の者達をより善くし、他人をもより善くしたいという、強い欲求がある。そのために俺は、今死んではならない、もっと生きていたい、という念が起るのだ。
A――自分や他人をより善くしたいということなら、俺だって望まないことはない。ただ俺は、何かを為すことによってそうしたいというのではなく、自分がよく生きることによって、もしくはよく死ぬることによって、自然にそうなるということを、晴々とした気持で感得しているのだ。お前のように、もう自分は助からないということを知りながら、まだ生きたいとくのは、自分自身や周囲の者達に、徒らに悲しみを与えるだけだ。
B――それならお前は、今迄為しかけてきたことを、これからなし得べきことを、すっかり為し遂げないで、このまま中途で斃れるのを悲しいとは思わないのか。
A――為し遂げるとか中途で斃れるとか、そんなことは人間の浅墓な考えなのだ。人の欲望には限りがない。その無限の欲望が果されないからといって、お前のように悲しんでいては、結局生きることも死ぬことも出来なくなる。これまで十分に生きてきた、これから十分に死ぬのだ、というだけで沢山ではないか。
B――そんな考え方は虫螻の考え方なのだ。存在というものだけを知って、生活というものを知らないのだ。
A――それではお前の考え方は、自惚の強い空中楼閣式の考え方なのだ。生活というものだけを知って、存在というものを知らないのだ。
B――そんな風に云えば、水掛論に終るの外はない。理屈を止して、実際のことについて考えてみるがよい。
A――それもよかろう。……では、お前はなぜ死ぬのがそんなに悲しいのか。
B――俺はまだ若い。いろんなことを為残している。これまで為して来たこと、これから為すべきこと、ぼんやり夢想していたもの、はっきり掴んでいたもの、味いつくしていない多くの喜びや悲しみ、自分自身の肉体と精神、自分自身の生活、自分自身の世界、それら凡てのものは、今俺が死んだらどうなるだろう。闇に呑み込まれてしまうばかりだ。それがどうして悲しまずにいられよう。
A――それら一切のものが、闇に呑まれようとどうしようと、そんなことはどうでも構わない。生きてる間だけ十分に生きてた、という意識だけで俺には十分なのだ。
B――俺が今茲で死んだなら、俺自身に関する一切のものは、永久にこの世から亡びてしまうのだ。幾億万の人間が生れて来ようと、俺自身と同じものは何一つ世に現われはしないだろう。
A――そういう風に唯一無二にこれまで生きてきた、という意識だけで俺には十分なのだ。
B――其処に俺の看病に疲れて眠ってる妻は、俺が死んだらどうなるだろう、それから、子供や、両親も……。皆が俺を頼りにしているのだ。
A――彼等は、俺が死んだら一時悲しみはするだろう。然し俺の身体が清らかな灰になり、石碑の下に納められる時、彼等は生死を超越した神聖な朗かさを、涙のうちに感ずるに違いない。そして俺が亡い後、両親は年老いており、子供は幼いし、妻はか弱い身であるけれども、確に餓死するようなことはなく、自分の力でどうにか生きてゆくだろう。そしてこの、人に頼らず自分の力で生きてゆくということが、他の何物よりもよく、彼等に人生の深い味を味わせるだろう。最もよく生きるということは、最もよく生を味わうということに外ならない。俺はこれまで可なり困難な生活をしてきたお影で、そのことをよく知っている。俺は彼等を愛しているから、彼等に生活の苦しみを与えたくはないが、然し俺の死によって、彼等がよりよきものを得るとすれば、俺は安んじて死んでゆける。
B――お前の見方は、高邁ではあるが残酷だ。俺は彼等に対して、もっと人情の多い愛を持っている。彼等がより深く生きることよりも、より幸福に生きることを、俺は望んでいる。俺の死によって、彼等が如何ばかり深い心の痛手を受けるか、如何ばかり悲しみ悩むか、それを俺は恐れるのだ。俺は彼等を幸福にしてやりたいのだ、生きていて幸福にしてやりたいのだ。
A――それは俺も望まないことはない。然しどうせ死ぬものなら、俺は平然とした輝かしい死に方をして、彼等の心のうちに、生死の彼方からさす平和な光を投げ込んでおきたいのだ。
B――俺は生死の彼方などというものを信じない。死の彼方は空虚な闇であり、生の此方だけが、生のなかだけが、輝かしい光である。俺はその光のうちに彼等を包み込んでおきたい。……単に彼等ばかりではない。あの花籠を持って来てくれた女達や、あの果物籠を持って来てくれた友達のためにも、俺は生きていてやりたいのだ。俺が死んだなら、彼等や彼女達はどんなにか力を落すことだろう。そして俺の敵共は、どんなにか喜んで我儘を振舞うことだろう。味方の者達に悲しみと落胆とを与え、敵の者共に喜びと勇気とを与えること、それをどうして遺憾に思わずにいられよう。
A――俺はそうは考えない。俺が死んだなら、味方の者達は一層勇気を振い起して、そのためにずっと豪くなるだろう。そして敵の者共は、張合がなくなり油断をして、そのために却って退歩するだろう。もし俺が心配をするとすれば、味方の者達のためにではなくて、反対に、敵の者共のためにである。
B――お前は理想というものを、生きることの目的を、すっかり取失ってしまっているから、そんな考え方が出来るのだ。
A――いや俺の理想は、お前の理想のように偏狭ではない。俺は凡ての人をよりよくしたいのだ。
B――それでは、この病院の中にいる患者達のことを考えてみるがよい。病院の中では、一人の患者の死亡は、如何に暗い打撃を凡ての患者に与えるか、それをお前も知っているだろう。殊にこの病院には今、俺と同じ病気の重症患者達がいる。あの人達が俺の死を聞いたなら、どんなに心を打たれ気を挫かれるか知れない。或はそのために絶望しきって、助かる者まで死ぬるかも知れない。殊に付添の人達は、俺の死によって、自分の患者の死を眼に浮べて、どんなにか痛ましい気持になるだろう。そのためにでも、俺は容易に死にたくない。
A――その代りに、俺は全く反対のことも知っている。俺が死んだことを聞いて、この病院の患者達のうちには、自分がまだ生きてることを、しみじみと有難く感ずる者があるだろう。その有難い感じが、自分の生を一層愛し慈しむ感情が、死ぬべき者をも救うかもしれない。その付添の人達も、自分の患者がまだ生きてることに力を得て、輝かしい気持で看病に努力するだろう。彼等は眼に感謝の涙を浮べて、なお生きようとするだろう。そのためにでも、俺の死は無意味ではない。
B――お前がそういう風に考えたいなら、それはお前の勝手だ。然しそういう考え方は、全く中心のない考え方だ。お前は甲のことを考える時、すっかり甲に移っていってしまい、乙のことを考える時、すっかり乙に移っていってしまう。然しお前自身はどこにあるのだ。お前自身の感情はどこにあるのだ。お前の眼は木や石と同じだ、人間の眼ではない。お前は前に、よく生きよく死ぬんだと云った。然しそういう考え方をし、そういう見方をして、それでよく生きよく死ぬことが出来るだろうか。お前は自己を取失っているのだ、自我という意識を取失っているのだ。
A――いや、俺はお前よりももっと広い所に踏み出しているだけだ。お前は何事をも何物をも、自分と他とに対立させて考えている。然し俺にとっては、凡てが自分であって、他なるものはない。俺はこの室にはいってから毎日、あの窓越しに、庭の樹々の梢や青空や日の光や雲の影などを、静かに眺めて暮してきた。そして今では、それらのもの凡てが自分だという心持になっている。昨日だったか、窓の外に雀が飛んできて、其処の窓縁でちゅちゅと鳴いては、また何処かへ飛んでいった。すると俺は、自分自身が雀になって、自由に空中を飛び廻ってる気がした。それは何とも云えない自由な晴々とした気持だった。
B――その雀は俺も見た。そして俺はその雀が飛び去った後で、危く涙をこぼしそうになった。生きているうちにあの雀を再び見ることがあるかしら、とそんなことを思うと、世の中が暗くなるような気がした。空を仰ぎ、日の光を見、小鳥の声を聞くのは、俺が……この俺自身がそうしてるので、俺より他のものではない。俺があって初めて世界があるのだ。俺がなかったら、世界も何もありはしない。否、あってもないに等しいものだ。そういう俺が今死にかかっている。もう余命幾日もないだろう。何ということだ。俺は生きたい、いつまでも生きていたい。
A――死と共に一切が亡びてしまうことは、俺にとっても同じだ。ただ俺は、生きるも死ぬるも、どちらだって構わない。そんなことは俺の知ったことではない。生きてる間は甘んじて生き、死ぬる時には甘んじて死ぬ、それが俺の態度なんだ。
B――俺は生死を自分以外のものに任せたくない。自分の意志で生き、自分の意志で死にたい。生きることも死ぬることも、完全に自分のものとしたい。
A――それでは結局、お前と俺とは、正反対のようで同じかも知れない。
B――同じのようで正反対かも知れない。
A――まあも少し、お互によく考えてみよう。
B――そうしよう。……それにもう夜明けだ。
A――彼女達が眼を覚ます時間だ。
AとBとの姿が消えて、二脚の椅子は空になる。畳敷の上に寝ていた若い女と看護婦とが、物に慴えたように突然眼を覚して、上半身だけで起上る。寝台に眠っている病人がかすかに身動きをする。二人は立上って、その方へ寄ってゆく。
病人――夜が明けたようだね。
女――まだなんでしょう。
病人――もう外は明るくなってるようだ。電灯を消して、カーテンを上げてくれ。
女は窓の方へ行って、カーテンを上げる。外は白々と明けかかっている。看護婦は電灯を消す。蒼白い黎明の光が窓からさしこむ。病人は一寸頭をずらして、その光をしみじみと眺める。
病人――今日も晴れらしいね。
女――ええ。いいお天気ですよ。
病人――窓の外に、お米か御飯粉か置いといてごらん。雀が屹度やって来るから。
女――はい。
看護婦――私が賄方の所から貰って参りましょう。
女――そう、ではどうぞ。……あなた、今日は御気分はどう。
病人――大変よいようだ。
女はほっと息をついて、病人の顔をしげしげと眺める。看護婦は扉から出て行く。病人は力ない微笑を窶れた頬に浮べながら、じっと窓の外を眺めている。
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