春を想うと、ただもやもやっとした世界の幻が浮んでくる。それは日向に蹲ってる猫で象徴される。日向の猫の眼が、細い瞳をぼんやり開きかけては、またうっとりと閉じていくように、春の息吹きは、あらゆるものの眼を閉じさせる。冷い空気と暖い空気とがもつれ合って、なま温い靄を蒸発させ、光と影とが入乱れて、茫とした反映のうちに融け込み、物の輪郭がくずれて、太い柔い曲線にぼかされ、あらゆるものの露わな面が――その奥から覗く神秘な眼が、宛も息を吐きかけられた硝子のように、ぼーっと曇っている。何一つはっきりしたものはない。凡てがぼやけている。うとうととなごやかに仮睡している。
けれども、日向の猫の身体が、肉感的な微妙な触感をそそる毛並を揃えて、何かしら獰猛な淫蕩なものを内に蔵しながら、温い息に揺いでるように、春の息吹きに曇ってるこの盲いた世界も、喘ぐ……というほどではなくとも、或る気ぜわしない不安な呼吸に肉感的な波動をなしている。触れたら掌がむずむずしそうな、無羞恥な蠢めきをしている。脂濃い女の髪の、一筋一筋が生きていて、それが一塊にもつれ合って、じっとりと寝乱れた形である。
日向にまどろんでる猫は、無神論者……というより寧ろ、無神者である、彼が所有してる神もなければ、彼に君臨してる神もない。神のない世界に日向ぼっこをしている彼は――淫蕩な身体をうっとりと横たえてる彼は、刹那主義の享楽者である。そして、神のない地上の刹那々々の享楽は、如何に蠱惑的でまた力弱いことであろう! 其処に、春の歓楽と哀愁とがある。一の面影を石に刻み込むだけの力強い執着は、この世界には存在し難い。一の面影から他の面影へと転々と移りゆく所に、若々しい生命の喜びがあり、忘られた面影やまだ見ぬ面影が現在の面影の上に重なってきて、やるせない惑わしが生ずる所に、神のない楽園の悲しみがある。
此の世界を見つめていると、もやもやっとした中から、次第にさまざまな象が浮出してくる。――その少しを捉えてみよう。
桃や桜や菜種や紫曇英[#「紫曇英」はママ]などの花が咲き乱れている。葉が少くて花が多く群ってるのは、宛も人造花の姿である。自然に咲いた花によりも、室咲の花、紙や布で拵えた花、それにより多く似てるそれらの花が、如何に華かでまた淋しいか! そして上には、日の光の曇った盲いた空が、余りに強い光や風を防ごうとするかのように、軽やかではあるが低く狭く垂れている。息苦しい陶酔が地上を支配する。自分の舞に眼の眩んでる蝶が、物狂わしく行方に迷っている。自分の声に魅せられてる小鳥が、喉の裂けるまで囀り交わしている。そして今、それらのものをのせた大地の肌が、種子の芽ぐみ卵の孵る温気にじっとりと汗ばんで、間を切って息している。息と汗の蒸気とがもつれ合って、ゆらゆらと陽炎の立つ片隅に、まだ背肌の乾ききらない蛇が、淫蕩なとぐろを巻いている。叢の影から、蛙が大きな目玉をむいている。朽葉の上には、蛞蝓が鈍銀の粘液をぬたくりながら、匐いだしかねて角を潜めている。彼等は――蛇と蛙と蛞蝓とは、互の恐怖から悚んでるのではない。無関心な眼で互に眺めながら、自分自分の猥らな思いに、うっとりと考え込んでいる。そしてそのまわりを、紺青に金線のある蜥蜴が、ひょいひょいと頭をもたげては、また小足にすばしっこく馳け続ける。やがて彼は喉が渇いて、顎をぴくぴくさせながら、池の水を飲みに行く。池の中には、泥にしっかと四足を踏み込んだ大きな牝蝦蟇の背中に、幾匹もの牡蝦蟇[#「牡蝦蟇」は底本では「牝蝦蟇」]が群がって、執拗な争いのうちに絡みあっている。気を失った牝蝦蟇は、なお背中に一二の牡からしがみつかれたまま、臍のない太鼓腹を上にして、ぽかりと水面に浮んでくる。
そういう自然に取巻かれて、蜜蜂の羽音のする物影に、二人の男が若草の上に寝そべっている。その一人は上気した艶やかな頬を輝かして、薄ら日の光を微笑の眼で迎えながら、独語の調子で語り続ける。
――だって、どうにも仕方がないのだ。僕の魂は風船玉のようなんだ。一つ処に繋いでおいたら、空気がぬけてしぼんでしまうばかりだから、風のまにまにとばしておくのさ。何か一つを選べって? 選べるくらいなら、こんなに彷徨し続けやしない。僕の眼には凡ての女性が、同じくらいに、そして別々の色合で、みな美しいのだ。昼間の倦い明るみの中に居ると、僕の心はあの娘の処へ飛んでいく。娘の小ちゃな魂を、ぎゅーと掌の中に握りしめて、空高く放り上げてやろうか、地面の上に踏みつぶしてやろうか、それとも胸にやさしく抱いてやろうか、何れともきめかねて、惑わしい思いのうちに時間が過ぎる。その躊躇の間が楽しいのだ。馬鹿げた空想が次から次に起ってくる。そして空想の合間合間には、これが自分の選ぶべき娘だろうか、もっと他に優れた娘がいはすまいかと、世界中の処女をよせ集めて、その顔を一つ一つ覗いてみたい気がするのだ。そのうちに僕は凡てが懶くなってくる。あるがままに凡てを受け容れたい気になってくる。けれども、しっとりとした宵闇の中に夜の灯が閃きかけると、僕は蘇ったように身体を起して、華やかな巷の方へ狙い寄っていく。豊満な肉体を臙脂の香りと包んだ怪しげな女性が、ずらりと僕の前に並んでいる。どの顔にも見覚はないが、どの顔にも親しみがある。盃に映った火影、なよやかな衣擦れの音、物に遮られた街路の擾音、凡てのものが、踊れ、踊れ、狂うまで踊れ、と囁きかけてくる。じっとしていることができないのだ。ただむちゃくちゃに、心を怪しくそそるようなことがしてみたくなるのだ、しないではおれないのだ……。
それらの言葉を、も一人の男は眼を伏せて聞いている。やがて彼は黙って立上って歩み去る。首垂れて眼を地面に落しながら、当もなく歩き続ける。どんよりとした空にいつのまにか蒼白い雲がかけて、細い雨が音もなく落ち初めると、彼は慌しく自分の室に戻ってゆき、いつまでもうっとりと考え込む――片恋のままで別れた彼女のことを、心弱さのために我と自ら身を退いて、いつしか音信も途絶えてしまった今、ふっと切なく思い出されて、如何したものだろうかと、やるせない迷いのうちに、空想の輪を十重二十重に織り出して、彼女と自分とをその中に絡め溺らしてゆく。
それらのものの上に、夜の露が繁く結ばれて、清浄な朝日の光が、澄みきった爽かな世界を齎してくる。萠え出たばかりの瑞々しい花や葉や、眼覚めたばかりの汚点のない魂が、一度にぞっとおののいて、眼に見えない輝しいもの――神とも云えるもの――の方へ、おずおずと瞳を挙げる。清らかな求道の園である。然しそれはただ一瞬のことである。間もなく凡ての瞳が、春の息吹きにふーっと曇ってくる。そして、神のない地上の力弱い楽園が――刹那々々の歓楽と其処から来る哀愁とが、凡てを包み込んでいく。
私の斯かる春の幻は、可なり不安で揺ぎ易い。実際、春は余りに慌しい。私一個の感じから云えば、桜の花の開きそめる四月上旬までは、まだ多分に冬であるし、木の葉の出揃った新緑の頃は、春と異った別の世界である。
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