一
むかし、近江[#ルビの「おうみ」は底本では「おおみ」]の国、琵琶湖の西のほとりの堅田に、ものもちの家がありまして、そこに、ふたりの兄弟がいました。兄はたいへん顔が長いので、堅田の顔長の長彦といわれていましたし、弟はたいへん顔が丸いので、堅田の顔丸の丸彦といわれていました。
顔長の長彦は、体がやせて細く、少しも力がありませんでしたが、たいそう知恵がありました。そして、京の都からやって来て、そこに隠れ住んでいる、年とったえらい先生について、いろいろなことを学んでいました。
顔丸の丸彦は、知恵はあまりありませんでしたが、体がまるまるとふとって、たいそう力があり、むじゃきな乱暴者で、野原や山を駆け廻ったり、剣や弓のけいこをしたりしていました。
このふたりの兄弟は、いたって仲がよく、互いに敬いあっていました。
ある年の夏、ひどいひでりがして、琵琶湖の水が一メートル半程もへりました。そのひでりのため、米や芋がほとんどとれませんでしたから、そのあたりの人々は、たいへん困りました。食ものにもだんだん不自由するようになりました。
堅田の顔長の長彦は、一日一晩、考えつづけました。そしてそのあたりのおもだった人たちに相談しました。
「米や芋は、一年に一度きりできません。このままでは、貧しい人達は、ほんとに食べものがなくなるでしょう。聞くところでは、この湖水のずっと北の方、海に近いあたりは、米や芋がたくさんできたそうです。だから、みんなで金を出しあって、買って来ようではありませんか」
それはよい考えだと、みんな賛成しました。そしてお金を出しあったので、たくさん集まりました。
ところが、遠い北の国まで、米や芋を買いにいくのは、たやすいことではありません。まだぶっそうな世の中で、途中でどんな悪者にあうかわかりません。これはぜひとも、力のつよい顔丸の丸彦に、行ってもらおうということになりました。
そこで、顔丸の丸彦は、湖水の岸に多くの船をしたて、おおぜいの水夫たちをひきつれ、刀をさし、鉄づくりの鞭をにぎりしめた、いさましい姿で、まっ先の船にのりこみ、追い風をまって出発しました。
この一隊は、琵琶湖をつききり、竹生島からずっと先の方の岸に船をつけ、それから北の国へ行って、米や芋をたくさん買いいれ、人夫をやとって、それを船にいっぱい積みこみました。悪者にもであわず、なにもかもうまくいきましたので、みんなは喜びいさんで、帰りをいそぎました。
すると、思いがけなく、湖水の上で暴風雨にであいました。見る間に空はまっ黒な雲におおわれ、大粒の雨が降りだし、はげしい風が吹いてきて、湖水には大波が立ちました。顔丸の丸彦は水夫たちをさしずして、多くの船がはなればなれにならぬよう、ふとい綱でつなぎあわせ、岸の方へ進ませようとしましたが、あたりは夜のように暗く、ただ風と波にながされるばかりでした。そのうちに、岩ばかりの岬に吹きつけられ、船は二つにわれたり、ひっくりかえったりして、沈んでしまいました。みんなは船をすてて、岬に泳ぎつきましたが、けがした者も多くありました。
顔丸の丸彦は、さすがに、刀と鉄の鞭とを手からはなさず、水夫たちをよび集め、がたがたふるえてるのを励ましました。そして道をたずねあて、湖水のふちにそって、夜も昼も歩きとおして、家へ帰りつきました。
そして丸彦は、兄に今までの出来事をくわしく話してから、いいました。
「申しわけのために、私は死んでおわびをします、あとのことは、よろしくお願いします」
顔長の長彦は、だまって聞いていましたが、しずかに答えました。
「生きるも死ぬるも、まあ私にまかせておきなさい。そしてまず、水夫たちにてあてをしてやって、待たせておきなさい」
それから顔長の長彦は、二日二晩考えつづけました。そして弟にいいました。
「こんどのことは、もうどうにもしかたがない。けれど、私たちには責任があるし、死んだからとて、その責任をはたせるわけのものではない。このうえは私たちだけで、できるだけのことをしてみよう。元気を出しなさい」
そこで、長彦と丸彦はいろいろ相談して、失敗のとりかえしをすることになりました。
まず大津の町までいって、できるだけたくさんお金を借りあつめ、あちこちで船をやといました。それから水夫たちをあつめ、丸彦が隊長となって、また北の国へ、米や芋を買いにいきました。そしてこんどは丸彦も、用心に用心をかさねましたので、ぶじに荷物を運んで来ました。
そうした旅を三度くりかえしました。そして米や芋が、山のようにたくさん集まりました。
それを見て、心配していた人たちは、ようやく安心して、喜びあいました。
二
みんなが喜んでるうちに、ひとり、堅田の顔長の長彦は、だんだん考えこんできました。しだいにお金に困ってきたのです。
大津の町で借りあつめたお金は、はじめ相談した人たちが出しあったお金よりも多かったほどですが、湖水に沈んだいくつもの船の持ち主に、その船の代をはらったり、それから三度も、米や芋の買い入れのために、たいへんなお金を使ったので、すぐに足りなくなりました。おもだった人たちのうちには、きのどくがって、お金をいくらかでも出そうという者もありましたが、多くは、はじめの失敗にこりて、だまっていました。
そこで、顔長の長彦は、三日三晩、考えつづけて、弟にいいました。
「たくさんの貧しい人たちのためになることだから、私は決心をした。大津の町のお金持で、この屋敷を売ってくれるなら、お金はいくらでも出そうという人がある。それも、こちらでお金ができたら、いつでもまた買いもどしてよいという約束だ。だから、一時、この屋敷をお金にかえたいと思うが、どうだろうか」
顔丸の丸彦は、野原や山をとびまわることがすきで、家や屋敷などはなんとも思っていませんでしたから、すぐに答えました。
「そうです。お金にかえておしまいなさい。またあとで、買いもどせばよろしいでしょう」
それで、すぐに話はきまりましたが、ただ[#「ましたが、ただ」は底本では「ましたが。ただ」]一つ、困ったことがありました。
その屋敷の庭のかたすみに、大きな梅の木が一本ありました。その梅の木について、ふたりのお母さんが、亡くなる時、ふたりを枕もとに呼んで、くれぐれもいい残したことがありました。
「あの梅の木は、とてもたいせつな木です。それですから、もしもよそへひき移るようなことがありましたら、あの木だけはかならず、ほかの人にたのまず、あなたたちふたりで、よく掘りおこして、枯れないようにして、持って行かなければいけません。これは、なくなったお父さんと私とふたりで、あなたたちに、くれぐれもいい残すことですから、忘れないようになさい」
その梅の木が、ちょうどいま、花を咲かせておりました。それを掘りおこして、あらたな小さい家の庭へもっていくのは、なんだかかわいそうでたまりませんでした。しかし、両親からいい残されたことですから、守らねばなりませんでした。
「だいじょうぶです。私が掘りおこしてみましょう」
顔丸の丸彦は、すぐに庭へおりていって、その強い力で、梅の木の根のまわりを、深く掘りはじめました。
梅の花がはらはらとちりました。顔長の長彦は、その花をじっと眺めていました。
がちりと、何か鍬の先にあたったものがありました。それからまた、がちりがちりと、鍬は少しもとおりません。丸彦はそのへんを掘りひろげました。よく見ると、そこには大きな石のふたがありました。やっとのことで、その石のふたをとりのけますと、下は石の箱になっていまして、その中にまた、大きな木の箱がありました。箱のふたをあけると、丸彦はびっくりして声をたてました。長彦も息をのみました。
大きな箱の中には、金銀や宝ものがいっぱいつまっていたのです。
梅の木のわけが、ようやくふたりにもわかりました。両親は家のためを思って、万一の時の用意に、そこにたくさんの財産を埋めておいてくれたのです。
それで、ふたりは助かりました。屋敷も売らないですみました。借りたお金もはらうことができました。兄弟のせわになった人たちも、みな助かりました。米や芋がたくさんとどいていますし、それを、貧しい人たちは、ただでわけてもらうようになりました。そして、ひでりのあとの翌年まで、皆は食物に不自由なくすごせました。
こうして、堅田の顔長の長彦と顔丸の丸彦とは、みんなから神さまのようにあがめられました。人々はいろいろ相談して、顔長の長彦には、支那からきたというみごとな紫檀の机を、顔丸の丸彦には、琉球からきたという大きな法螺の貝を、記念の贈りものにしました。どちらも、そのころでは珍らしい品物でした。
顔丸の丸彦は、法螺の貝をたいへんうれしがって、野原や山を吹きならして歩きました。顔長の長彦は、紫檀の机に寄りかかって、庭の梅の木を見ながら、なにかしきりに考えていました。
三
堅田の顔長の長彦が、庭の梅の木をながめながら考えましたのは、亡くなった両親のありがたい心のことでした。両親があとあとのことにまで気をつけて、梅の木の根もとにたくさんの財産を残しておいてくれましたので、じぶんたちも助かり、近所の人たちも助かったのです。
そのありがたい心を、なんとか記念にしておきたいものと、顔長の長彦は、四日四晩、あれこれと考えました。そして、よいことを考えつきました。
京の都の、名高い彫り物師にたのんで、観音様の像をほってもらいました。それができあがってきますと、庭の梅の木のそばに、小さいお堂をこしらえて、そこに観音様の像をまつりました。そのようにして、両親のありがたい心の記念としたのです。
そのことが、すぐにあちこちへ知れわたりました。ありがたい心がこもっている観音様というので、お詣りに来る人がありました。近くの人たちばかりでなく、遠くの人たちまで、聞きつたえてやって来ました。
するうちに、ふしぎなことがおこりました。ある夜、その観音様がなくなってしまったのです。
だれか、悪者が、盗んでいったのでしょうか。
顔長の長彦と顔丸の丸彦は、方々さがしまわり、たずねまわりましたが、観音様の行方は、さっぱりわかりませんでした。
ところが、またふしぎなことには、その観音様が、七日たつと、もとのとおり、お堂の中にもどっていました。
それとともに、ふしぎなうわさが、ぱっとひろまってきました。――堅田の観音様は、七日のあいだに、あちこち歩いてこられたそうだ。京の清水の観音様や、大和の長谷の観音様など、なかまの名高い仏様にも会ってこられたそうだし、そのほか、あちこち、まわってこられたそうだ。その証拠には、足に、まだ泥がいっぱいついている。あれはありがたい観音様だ。生きた観音様だ。
そういううわさといっしょに、おおぜいの人たちが、お詣りにおしかけて来ました。
顔長の長彦と顔丸の丸彦は、お詣りに来た人たちから、そのうわさをきいて、びっくりしました。そしてともかくも、観音様の足をしらべてみますと、足のうらには、泥がいっぱいついていました。
その足の泥を、じっさいに見た人もたくさんありますので、うわさは確かなこととなって、ますますひろまるばかりでした。そしてお詣りに来る人も、ますます多くなりました。
顔長の長彦は、腕をくんで考えこみました。木でできている観音様の像が、七日のあいだ、あちこちまわり歩かれたということは、どうもほんとうとは思われませんでした。これはきっと、悪者どもが、なにかたくらんで、観音様を七日のあいだ盗み出し、足に泥をぬってもとにもどし、そしてふしぎなうわさをいいふらしたにちがいありません。
「用心しなければいけないよ」と長彦はいいました。
「悪者がいるとすれば、私がひとつとらえてみせます」と丸彦は答えました。
けれども、その悪者はなかなかわかりませんでしたし、お詣りに来る人はふえるばかりでした。
ありがたい観音様だ、生きた観音様だ、といってお詣りに来る人たちは、それぞれおさいせんをあげていきました。いくらことわっても、なげ出していきました。
そのおさいせんが、だんだんたまってきました。大きな木の箱にいっぱいになりました。それは、観音様の前にそなえておいて、また新たにおさいせん箱をこしらえねばなりませんでした。
するうちに、またふしぎなうわさがつたわってきました。――竪田の観音様は、こんどまた、旅にいかれるそうだ。そしてこんどは、少し長い旅らしいから、おるすにならない前に、早くお詣りをしておくがよかろう。
そのうわさといっしょに、また、近くや遠くからお詣いりに来る人がふえました。
「いよいよ用心しなければいけないよ」と、長彦はいいました。
「ええ、充分に気をつけます」と、丸彦は答えました。
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