人の生活に最も大事なのは、自分の生を愛し慈むの感情である。生きてるということに対する自覚的な輝かしい感情である。なぜならば、そういう感情からこそ、本当に純な素直な力強い生活心境が生れてくるのだから。
この自分の生を愛する心を、吾々は忙忽たる人事のうちにあって、往々にして失いがちである。そして第二義的なものに――生の本質にではなくして生の便宜たるものに――ばかり眼を向けがちである。名誉だの名声だの金銭だのというようなものが、更に卑近な方面では、衣食住に関する余贅なものが、吾々の前に立塞がって、吾々の心を惑わし煩わしがちである。勿論それらのものは、生活に必要であり、活動力を刺戟しはする。然しながら、それらのものに囚われる時、それらのものばかりを追い求むる時、人はただ功利に走って、本当の生活の味を味い得なくなる。それらのものが目的となって、生きることが方便となる。
自分の生を――一生を方便とする、それほど惨めな浅間しいことがあろうか。人にとっては生きることが目的であって、名誉や金銭や名声や衣食住に関する余贅などは、生きるための方便であるべきである。(勿論茲に云う生きるということは、単に生命を持続することばかりでなく、生きるということが必然に内包してる、仕事や働きなどをも含めて云うのである。)そして人を正しく生かすものは、己の生を愛する心である。
己の生を愛し慈む心を、吾々は大自然に接する時、最も多く体得する。
大自然に接すると、吾々は自己の微小を感ずる。人生に於て吾々の眼を強く惹きつけていたあらゆるものの価値が一時に払拭され、凡てのものの中心であった自分自身が微々たるものになって、ただ悠久永劫な大自然のみが、何物にも無関心な大きさで君臨する。その時吾々自身は、もはや、地上の虫けらにも等しく浜の真砂の一粒にも等しくなる。さまざまの雑念に脹れ上っていた吾々の心は、それらの雑念を払い落して、赤裸々な清さに澄み返り、さまざまな雑事をまとっていた吾々の生は、それらの雑事を払い落して、ただ在るべきままの姿で横たわる。其処にはもはや生も死もなく、生死を超えた悠久な落付きのみがある。そしてこの偉大な静平の中に於ては、ぽつりと冴えた心の眼が、自分の露わな生の上にじかに据えられる。それは輝かしい直接内観の瞬間である。生きてることが如何に有難く貴いかを、しみじみと感じさせられる。そして自分の生を愛し慈むの念が、胸の底から湧き上ってくる。
深山幽谷に身を置く時、大海に舟を浮べる時、或は仰いで大空に見入る時、吾々は最初自己の微小を感ずるけれども、何等かの妄念に支配されない限り、吾々はその感じに圧倒されるものではない。自己を微々たるものと感ずるのは、あらゆる雑念雑事を払い去った赤裸な自分自身に対する――平素見馴れない自分自身に対する――一時の頼り無さに過ぎない。心を静めて観ずれば、自己の微小はやがて自己の偉大となる。小我を去って大我に還るとは、この間の消息である。たとい吾々の生が落ち散る一枚の木の葉に等しかろうと、その一枚の木の葉はやがて、深山幽谷全体の気魄に相通うものである。たとい吾々の生が波間に漂う一の泡沫に等しかろうと、その一の泡沫はやがて、大海全体の力に相通うものである。たとい吾々の生が一の仄かな星の光に等しかろうと、その一の仄かな星の光はやがて、天空に散布してる無数の星辰の輝きに相通ずるものである。而も不思議なのは、微々たる自分の生を静に見守ることによって、そういう広々とした境地へ踏み出していく、生きた心の働きである。生きてるということが、如何に輝かしい貴いことであるか! 吾々は大自然に接して初めて、本当に自分の生を愛し慈みたい念が、胸の底からしみじみと湧き上ってくる。
第一にこの意味で私は、大自然を讃えたい。
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