「違う。」と星野は叫んだ。
星野に言わすれば、支那というものだけを実感しているのは、日本の旧時代層であって、新時代層は中華民国というものを実感している。その実感から、中国を近代的統一国家へと護り育てようとする誠意も生れてくる。この誠意は信頼して貰わなければならないのだ。
然し秦に言わすれば、その近代的統一国家の概念と支那という概念との間には、日本人の頭脳の中で喰い違いがある。だから、例えば日支文化の交流提携ということについても、旧支那文化と新日本文化との交流という、喰い違った面に於て考えられる弊がありはすまいか。
然し星野に言わすれば日本には本質的な新旧間の断層はなかった。
然し秦に言わすれば、支那にもそういう本質的な断層はない筈だが、断層があるように見える現象を心から泣いたのは、あの偉大な作家魯迅だった。
然し星野に言わすれば、万国公墓の魯迅の墓に肖像の焼き付けを嵌め込んだ、あの俗悪さに、魯迅は一層泣くだろう。
話はこのような筋途を辿っていったが、秦は次第に憂鬱になってゆき、随って言葉も少くなっていった。その秦の肩を叩いて、星野は繰り返し言うのだった。
「も一度、詩に立ち戻りませんか。僕達は君の詩作を翹望している。世界の情勢は君の詩心を誘発せずにはおかない筈だが……。」
星野はさすがに、戦争のことを直接に言うのを避けた。然し、詩のことが話題に上ると、秦はすぐに言葉をそらしてしまった。
「少し腹ごしらえに出かけましょうか。」
話の最中に秦はたち上った。張を亭主の方へやって、星野を促して外に出た。宵の街路は雑踏の盛りにあった。肩々相摩する人込みは、それでも何の澱みも作らずに流れ動いていた。不思議に秩序ある混雑だった。秦はその間を巧みにすりぬけつつ、星野を競馬場の彼方へと導いていった。途中で幾度か、彼が頭や肩や手先の微細な身振りで、通りすがりの者に合図したらしいのを、星野は気付いた。そのうち、二人の青年がいつしか後に随っていた。秦は彼等に一言も口を利かなかった。
小さな回教料理店に落着いた時、星野は秦と相並びながら、張と他の二人の青年に取り囲まれた形になった。秦は彼等のことを、懇意者とだけで、何の紹介もしなかった。彼等は殆んど口を利かず、慎ましく控えていて、羊肉を盛んに煮た。酒はあまり飲まなかった。秦と星野は、羊肉よりも酒の方に気を入れた。
星野はもう可なり酔っていた。得体の知れない青年たちに取り巻かれ、真中に煙筒のつき立っている鍋を前にし、老酒の杯を重ねた。正面の欄間、血の滴るような羊肉を盛った皿が際限もなく現われてくる料理場口の上方には、阿拉伯父の経典が額縁にいれて掲げられており、そのアラビア文字は怪しい模様を描き出していた。
嘗て東京で酔ってた時のように、星野は秦を、もうシン君と呼ばずに、日本流にハタ君と呼んでいた。
「ねえハタ君、何よりも詩だ、そして詩と酒だよ。その門から、至高な精神に通ずる。」
秦はじっと阿拉伯父の経典に眼を挙げた。
「剣の道にも通ずる……。」
「そうだ、剣の道にも……。君、詩を書き給え。」
秦は眉根に皺を寄せた。暫くしてから、ぽつりと言った。
「詩を作るより田を作れ、これも東洋精神の一つだ。」
星野はその意を汲みかねて、二つ三つ目叩きをした。
秦はだしぬけに、上海近郊の日本軍経営の農場のことを話しだした。そこには、台湾から来た本島人の青年たちや、附近の農村の娘たちが、数多く働いている。厳格な訓練と規律との中に働いているのだが、今では皆、精気に溢れた朗かな表情をしている。青年たちはその農場を自分等の土地と感じ、もう台湾に帰る気持ちもない。娘たちは農場の仕事を楽しみ、喜んでそこに通勤している。
「彼等の表情を、あなたは見ましたか。」
「いや、知らなかった。」
「それでは、是非一度は見ておいでなさい。」
話がそこでへんに途切れた。なにか言葉に気が乗らなくなった。
その料亭を出て、四辻に来た時、秦はふいに立止った。淡い星影がちらほら浮んでいる夜空を仰いで、そこに佇んでしまったのである。
星野は数歩引き返して、彼を呼んだ。彼は返事もしなかった。星野はその肩を捉えた。彼は棒のようにつっ立ったままだった。と、突然大きく笑いだした。
酔ってるんだな、と星野は思った。だが、彼は意外なことを言いだした。
「東京を思い出した……。」
「え、東京を……。」
「銀座の四辻のことですよ。」
彼はまた笑った。
星野は投げやられた気持ちだったが、やがて、それを思い出して、愉快そうに笑った。
銀座裏の四辻は、虎ノ門事件と共に秦啓源についての双璧の逸話だった。――彼は或る時、白昼、銀座裏の四辻にふと立ち止った。空に何かちかちか光るものがあった。眼のせいか、それはすぐに消えたが、彼はやはり空を仰いだまま、自分でも意識しない想念に囚えられて、ぼんやり佇んでいた。そこは人通りもあまりない場所だった。ところが、気がついてみると、まわりには、七八人の通行人が立ち止って、同じように空を仰いでいた。彼はも一度大空に瞳をこらしたが、何も見えなかった。変な気持ちで歩きだした。暫くして振り返ると、もうそこには人立ちもなかった。それが、夢ではないのだ。
その話は、人々を喜ばした。彼等は秦啓源の人柄の大陸的風貌だなどと誇張した。秦啓源の方では、東京に好奇な閑人の多いのに苦笑した。
だが、今では、秦の笑い方は異っていた。その底には、別種の真剣さが籠っていた。
歩きながら彼は言った。
「一人が立ち止って空を仰げば、数人の者が立ち止って空を仰ぐ。
そのようなことが、この上海で見られますか。東京には共通の一般心理があるが、上海には個々の心理きりありません。共通の心理には共通の言葉がありますが、個々の心理には個々の言葉きりありません。中国ではまず、共通の言葉を作りだすことです。」
星野はただ漠然と、中国の統一国家とか、東亜の解放とか、思いつくままを呟いた。
「駄目です。」と秦は遮った。
彼は保甲青年団にも少し働きかけてみた。思わしくなかった。それから故郷のことに思いを馳せた。支那全土の耕地の三パーセントを占むると言われる墓地、到る所に見られる墓地のことが、新たな意味で頭に浮んだ。それから、天災や戦乱で流離常ならぬ農民のことが、新たに頭に浮んだ。
「土地です、土地に対する愛着です、大切なものは……。」と彼は星野に言った。
「多くの人がそれによって生きてる日本では、あなたには却って理解しにくいでしょう。」
「いや、分るよ、よく分る……。」
だが、星野の言葉は空虚な響きを帯びていた。
「私は旧弊なことを考えたものです。」
そう言って秦は笑った。星野の胸にその笑いが、鋭いものを伝えた。
賑かな大通りに出ると、張は三輪車を三台つかまえた。星野は秦の横に乗せられた。頭も身体もふらふらしていた。[#「ふらふらしていた。」は底本では「ふらふらしていた」]
静安寺路の奥まったダンスホールに一同ははいった。特別な待遇を受けたらしかった。強烈な酒が出された。
音楽は拙劣だったし、妙に客も少くて淋しかったが、いつのまにかじみな衣裳のダンサーが大勢、同席に来ていた。秦は巧みに踊った。星野も少しく踊った。
星野は急に意識がぼやけてきた。時の経つのが分らなくなった。何もかも忘れかけた。
皆が立ち上る気配に、星野も立ち上った。へんに騒々しい静けさを感じた。路地に出た。外は暗かった。
ここまで付き添ってきていた二人の青年が、突然駈けだした。叫声が起った。秦の姿は見えなかった。星野は衝動的に街路へ走った。眼が覚めた感じだった。
淡い明るみの中に、人立ちがあった。数名の者が走っていた。人立ちのなかに張浩が地面に倒れていた。横腹から血が流れ出していて、身動きもしなかった。
星野は秦を見出した。昂然……という感じでつっ立っていた。その腕を掴むと、彼は振り向いた。
「送らせますから、すぐお帰り下さい。」
返答の余地をも与えぬほど厳とした言葉だった。先刻の青年の一人が三輪車を走らして来た。星野は青年と並んでそれに乗った。車夫は何等の好奇心も興味もないもののように、ペダルを踏んだ。
星野はそれきり、秦啓源には逢えずに、日本へ帰った。迂濶にも秦の居所を聞いておかなかったのである。然し尋ねたとて秦は恐らく教えはしなかったろう。
出発まで、彼は秦を探したが、探す方法の手掛りさえもなかった。或る時、南京路の人込みのなかで、あの時の青年の一人を見かけたように思ったが、先方で隠れたのか、即時に見失ってしまった。彼は四日後に、早朝、飛行機で日本へ飛ぶことになった。
彼は出発前、秦啓源への伝言を私に託した。もしも逢えたら……と私は答えた。その代り私は、張浩の死を彼に知らせた。政治的なまたは思想的なテロの犠牲ではなく、なにか商取引にからんだ事件らしいと、私は力説したが、彼はなかなか信じなかった。ただそう信ぜよと言っても無理だったろう。然し私の言葉は真実なのである。私はこの事件によって、秦啓源の生活をかなり詳しく知ることが出来た。それもやはり別な物語に属する。
私が滞在していたのはブロードウェー・マンションの十五階の一室で、目の下に街衢の屋並から、遙か、黄浦江の流れや村落が展望された。多くは大気が濁っていて、少し遠くはもう茫とかすんでいた。
或る夕暮、その窓から、私は秦啓源と二人で外を眺めていたことがある。窓外にはもう蝙蝠が飛び廻っていたが、電灯もつけず、無言のままでいた。
秦は私の方を顧みて言った。
「上海では、僕はどうも異邦人のなかにいる感じだ。君の方が、上海に落着きがいいようだね。」
「まあそうも言えるね。」と私は微笑した。
それから私は真面目に言った。
「無錫に帰るのかい。」
「そうするつもりだ。此処では、なにかと邪魔が多くて、本当の仕事が出来ない。」
「上海の憂愁だね。」
「星野君の言い草じゃないが、詩を書くといいかも知れないよ。」
「うむ、そんな気もしてきた。」
それからまた私達は無言になった。やがて、言い合したように立ち上った。老酒と無錫料理とへ赴こうというのである。
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