星野武夫が上海に来て、中国人のうちで最も逢いたいと思ったのは秦啓源であった。だが秦啓源は、謂わば上海の市中に潜居してるもののようで、その消息がよく分らなかった。
星野は中日文化協会の人に頼んだ。
協会の人は頭をかしげた。
「秦啓源氏のことは、よく分りませんが、早速取調べて、何とか連絡をつけましょう。」
それが、幾日待っても、音沙汰なかった。
星野は大陸新報の人にも頼んだ。
新報の人はちょっと考えた。
「秦啓源……名前は知っていますが、よく分りませんね。聞き合せてみましょう。」
それが、やはり、いつまでも音沙汰なかった。
それから、星野は、日本軍特務機関の嘱託になってる某氏にも、頼んでみた。
某氏は事もなげに引受けてくれた。
「秦啓源ですか、よく知っていますよ。すぐに逢うようにしてあげましょう。」
然し、それきり音沙汰がなかった。
星野はなお二三の中国人に尋ねてみたが、要領を得なかった。
つまり秦啓源は、日本側にも、また中国側にも、一部の人々にはよく知られているが、大部分には知られていなかった。その上彼は、何か故意に姿を晦ましているらしくもあった。星野は少し忌々しく思った。次には、いつとなく彼のことを忘れかけてきた。
星野は忙しかった。上海と南京とを股にかけて、各方面に日程がぎっしりつまっていた。文学を中心として文化一般に亘り、いろいろな会合や調査などに、毎日飛び廻っていた。忙忽のうちに日々は過ぎて、予定一ヶ月は終り、あと数日で日本へ帰ることになった。
ぽつぽつ、帰途の荷物を整理しながら、星野はまた、秦啓源のことを思い出すのだ。そしてもう、思い出すことは、星野の性情として、何故彼に逢いたかったかを反省してみる方へ傾むいていた。
秦啓源は以前、東京に長らくいたことがある。中国大使館付の通訳官とかいう話であったが、誰も彼が通訳などしているのを見たことはない。それより彼は、文学者仲間に詩人として知られていた。日本語の長詩も数篇発表した。茫洋とした詩風で、中に鋭利な観察を含んでいた。抒情風の衣をまとった叙事詩、それが本領らしかった。勿論彼の詩才を認めそれを高く評価したのは、東京の文学者のうちの一部にすぎなかった。その一部にとっては、彼はまた時折、飲み仲間でもあった。酒には実に強かった。いつも金は多く所持していた。
太平洋戦争が始まって半年ばかりの後、彼はふいに支那へ帰った。失恋の結果だという風説もある。大使館から帰還させられたのだという風説もある。公金を費消した疑いがあるという風説もある。重慶側の知識層に知人が多いということは、今では一部に認められている。
彼ははじめ北京に住み、それから上海に移った。
この秦啓源を、星野は文学に復帰させたかったのである。彼の詩は中国文学に一つの生気を齎すであろうと、そう考えた。そして彼を文化活動の表面へ誘致したかった。彼のような能才を市井に潜没させておくのは、惜しみても余りあることだ。星野は、一種の在野文化使節としての使命から、また文学者同士の友情から、彼に逢いたかった。
その望みも果さずに、星野はもう、上海を立ち去ろうとしているのだ。星野が此地に来ていることは、新聞の記事によって、秦啓源は知ってる筈である。すぐにも姿を現わすべきではなかったか。
胸中の後味わるい思いを振り捨てるように、星野はつと立ち上って、知人から贈られたウイスキーの一瓶を戸棚から取り出し、窓際で飲みはじめた。
上海の空はいつも濁っている。それが今暮れかけた陽光を孕んで、へんに盲目的な没表情をしていた。キャセイ・ホテルの五階の星野の室からは、隣りの建物に切り取られた残りの空が、布片のように見え、反響のないその布片へ向って、雑多な物音の入り交った街路の喧騒が立ち昇っていた。
星野は佗びしい気持で、食慾も起らず、ただウイスキーを飲んだ。耳はひとりでに、大気を満してる騒音に傾けられていた。得体のはっきりした東京の騒音と異ってることが、旅情を深めた。旅情のうちには、蘇州の若い女の清麗な面影も浮んだ。それが、ふと、対蹠的な機縁で、或る時の秦啓源の姿をも思い出させた。
秦啓源が東京にいる時、赤坂の芸妓の梅子と深い仲だったのは、星野たち一同には周知のことだった。梅子はもう二十六七歳の、芸者としては年増の方で、ただなよなよとしただけの女だった。どこに惚れあったのか、それは当事者以外には分らぬことだが、二人は深く言い交していたらしい。正式に結婚するつもりだとも秦啓源は公言していた。それが、どうした事情か、梅子は他にも旦那を持つと共に、暫く座敷を休んだ。
その頃のこと、秦と星野と、やはり文学者仲間の田中と、三人で、或る夕方、虎ノ門の近くを歩いていると、梅子に行きあった。
夕方といっても、残照の澄んだ、よく見通しのきく一刻だった。梅子は一人で、街路の向う側を歩いてきた。それを秦は真先に見付けた。ひきつめ加減の洋髪で、着物の沈んだ臙脂色の縞柄に、帯の牡丹の花の金色が浮きだしている。秦は何とも知れぬ奇声をあげた。そして三四歩駈けだした。とたんに、疾走してきた自動車が前を掠め去った。秦は車道の真中に佇んだ。
向うの人道では、梅子が一足ふみ止った。顔色をかえて見つめた。そして一瞬間、軽くしかししとやかにお辞儀をして、あのなよなよとした彼女が、小股の足並も乱さず歩み去ってしまった。
この出会の情景は、星野には極めて当り前のことに思われたが、秦啓源には奇妙な印象を与えたらしい。彼は暫く口を利かなかった。よろめくような歩き方だった。そしてその夜、銀座裏のバーで酔っぱらいながら、異民族間の距ては如何ともしがたいなどと、梅子のことについてではなく、一般論として言いだした。それから更に、日本人は全体として中国人を蔑視してるとまで言った。
敏感な星野は、話を梅子のことに引き戻しながら、一般論として弁護した。――あの時の彼女はそれならば、どうすればよかったのか。あの態度は、私情を芸妓としての教養で包みこんだ、立派なものではなかったか。あの一見素気ないような態度は決して秦を他国人として蔑視したものではない。かりに秦を日本人だったとして、同じ場合に臨んだものとしても、彼女の態度には聊かも変りはなかったろう。日本の各社会層にはその社会層特有の訓練があるもので、その訓練が身について教養となる。このことを観取しなければ日本人の美点は分らない……。
論旨が、秦啓源に理解されたかどうかは、星野にも分らなかった。なにしろ、酔った上でのことだ。然しながら、思い出すと星野は苦々しかった。ばかばかしいことを論じたという気がした。二人の愛情のことだけを尋ねて、慰めてやればよかったのだ。
そのことをも、星野はもう殆んど忘れていた。ただあの街頭の一瞬の情景だけが、後になるほどへんに生々しく浮んでくるのだった。
その情景は遠く、蘇州美人の面影は手近にぼやける……。街衢の騒音がすべてを呑みつくそうとするのだ。そういう状態で星野がぼんやりしている時、静に扉が叩かれて、老年の室付ボーイがはいって来た。一葉の名刺を差し出した。
大型の名刺で、ただ姓名だけ、秦啓源と印刷してあった。鉛筆で簡単な書き込みがあった。――御隙ならば御来駕願い度く、この使者が御案内仕る可く、当方より参向すべきを、失礼の段御容赦下され度く候。
星野は飛び上った。廊下には一人の中国人が待っていた。招じ入れると、彼は恭しく一揖して、扉のそばに佇んだきりだった。星野はじっと眺めた。三十年配の頑丈な男で、折目の着くずれた背広服をつけ広い額と低めの鼻とが目についた。
星野は行くことにきめた。
「場所は、遠いんですか。」
「近くであります。」と男ははっきりした日本語で答えた。
星野は電話にかかって、その晩逢うことにしていた知人に、差支えが出来た旨を断り、帽子を取って出かけた。途々、彼は秦啓源の近況を案内者に聞くつもりだったが、案内者はひどく鄭重な無言な態度だったし、ホテルの前には三輪車が待たしてあった。すべては逢ってからだと星野は考えた。
よく気が廻る星野のことだから、普通ならば、ちょっと訝しく思うところだった。秦啓源は彼の宿所を知っており、しかも彼に宛てた名刺には室番号まで書き添えているのに、今まで、姿を見せないばかりか電話さえもしなかったのである。そのことを星野は、旅先の習わしで不問にしたのか、或は忘れていた。とにかく彼は、虚を突かれた形だった。
秦啓源の方では、星野を迎えることを、嘗て親しかった知人への儀礼とぐらいにしか思っていなかったらしい。
その夕方、実は、私は彼と三馬路の一隅で、秋の季節の無錫料理を味わっていたのである。無錫の近くに彼の生家があって、それは可なりの豪家らしく、そこへ向後幾年間か引き込んでしまうことに、彼の心はほぼ決しかけていた。いろいろなことで、上海に於ける彼の身辺に脅迫が重なりつつあるのは、私にも分っていた。然しこの事柄については別な物語に譲ろう。
郷里の無錫に心が向いている彼は、無錫料理を好んだ。その夕方、私も彼と共に老酒を飲みながら大石蟹をつっつき、槍蝦をかじり、蚶子をほじくった。清水のなかに住むこの大蟹と小蝦と小貝との生肉について、彼はしきりに自賛していた。
「こういう食物は、寄生虫の伝説さえなければ、日本の文学者にも好かれそうだ。」と彼は言った。
その文学者のことから、私は、星野武夫に逢ったらどうかと言いだした。
「そうだね、礼を欠いてはいけまい。」と彼ははっきり言ったのである。
然し、彼の顔はなんだか曇っていた。それから、眉根に皺を寄せて暫く考えた。
「今からすぐに逢おう。」
そう言ってしまうと、彼はまた晴れやかな顔付きになった。
彼は名刺を取り出して、鉛筆で二三行走り書きした。それから、いつも彼が引き連れている張浩を、星野武夫のホテルへ遣した。
「電話でもかけてみなくてよいのか。」と私は注意した。
「いや、たいていホテルにいる筈だ。」
その答は意外だった。彼は星野の動静を探り知っていたのかも知れない。私は彼の顔を眺めた。彼は眼を挙げた。
「君も、今夜つきあってくれるだろうね。」
私は微笑して答えた。
「いや、外に用事があるし、まあ、君達だけの方がいいだろう。」
彼は私を見て、かすかに微笑した。
これは私と彼との間の暗黙の了解事項だが、私達が非常に親しくなったことについては、当分のうち他に知られたくない事情があった。この事柄も別な物語でなければ述べられない。
そこで、私は暫くして立ち去ったのである。
星野武夫が張浩に案内されて来た時、秦啓源は一人ぽつんとしていた。そこは二階の広間で、幾つもの大きな卓が並んでいて、客は入れ混みになっている。秦は窓際の隅の卓にいた。
星野はつかつかと歩み寄っていった。
「やあ、しばらく。ずいぶん探しまわっていたんですよ。逢えてよかった。」
秦は立ち上って、笑顔で、黙って右手を差し出した。それから、席について、ケースの煙草をすすめた。張がマッチの火をすった。
以前通りの秦だった。こわい毛の長髪、澄んだ深い眼差し、中国人にしては珍らしい秀でた鼻筋……。だが、頬の皮膚になんだか血色のうすい荒みが漂っている。黒い洋服はきっかり体躯についた仕立て方で、襟の折返しの工合か肩の袖付の工合か、それとも淡色の編みネクタイの影響か、へんに伊達好みな気味がある。その頬とのちぐはぐな印象に、星野はなにか冷りとしたものを感じた。
「食事は……。」と秦は尋ねた。
「まだです。別に食いたくもないので、ウイスキーを少しやったところですよ。」
「そう、あなたは洋酒の方でしたね。然し、老酒も少しいかがですか。」
「いや、大好きですよ。」
当りさわりのない挨拶だけが長引いた。久しぶりに逢ったせいばかりでなく、また、張が側に控えてるからばかりでなく、つき込んだ話に持ってゆきにくい気味合いがあった。
星野は室の中を見廻した。あちこちの卓に倚ってる客たちは、たいてい支那服の商人風な年輩者が多かったが、それがいずれも静粛で、おっとりした温顔だった。星野は妙な気がした。これまで接した中国人はたいてい、饒舌で騒々しく、表情が険しかったのだ。
「ここは、いいですね。なんだかなごやかで……。」
秦は笑顔をした。
「ほかと違っているというのですか。」
「ええ、雰囲気が……。」
「これが本当の中国……本当の支那ですよ。あなたは諸方を見て廻られたでしょうが、上海の雑踏の中心地にこんな姿があろうとは、思われなかったでしょう。」
「然し、これが本当の中国の姿とは、どういうことでしょう。騒々しい険しい表情の中国は、それでは本物でないというのですか。現実は常に本物でしょう。」
「いえ、それは別な問題ですよ。私はあなた方の実感のことを言っているのです。中国というものはあなた方の実感の中にはなく、あるのは支那というものだけでしょう。」
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