それを二十世紀的と云おうと、現代と云おうと、或は新時代と云おうと、言葉はどうでもよろしいが、過去と現在との間に一種の距離を感じ、歴史の必然的なるべき推移のうちに一種の飛躍を感ずる、そういう時代に吾々は在る。
後方を振向いて眺めると、驚くほど遠望がきく。そしてこの遠望、普通のものではない。そこには距離の混乱がある。遠い「昔」のものも、すぐ彼方にまざまざと見えるのがあるし、近い「昨日」のものも、遙かに遠く霞んでいるのがある。つまり、全過去の遺産が一塊となってそこに控えているのだ。かかる遠望は、現在にとって、伝統の中絶を意味する。どこに中絶があるかは問わないとして、現在が過去全部に対立しているのである。この広い遠望のなかから、何を取ってこようと、それは吾々の自由だ。だがこの自由さは、謂わば無軌道の自由さに等しい。
然るに、前方を透し見ると、これは遠望のきかないこと甚しい。遠い地平線どころか、「明日」のことさえも見透しがつかない。現在辿ってる道はあるにはある。然しいつ如何なる断崖に出逢うか分らないのだ。それから先は、自分で道を切り拓いて進むより外はない。自分で自分の道を切り拓く覚悟が、常に必要なのである。これは、先覚者とか先駆者とかについて言うのではない。見透しがつかないことは、あらゆる変動の可能を意味するのである。
かかる境地に、近代のハムレットを置いてみるがいい。――「近代の」という形容を冠した所以は、それがもう過去のものとなりつつあるからである。たしかに、一時、ハムレット的なものが存在した。彼はあらゆる信念や確信を喪失している。そして何よりもひどいのは、欲望に対する熱情の喪失である。或る意図を懐いても、その意図が実現されない前から、実現後の不安や不満を予感する。だから意図を貫徹する熱意を欠き、意図そのものも蕾のうちに萎んでしまう。「喉はかわいているが、渇は常にいやされている。」とスーポーは言っている。つまり、行動の結果に対する不信から、行動そのものが拒否される。必要なのは、行動そのものでなくて、行動についての熱情なのである。これは、自己の豊富さについての自覚から来るところの、行動は限定であり、一つのものを選択することは他の無数のものを捨てることであるという思想、初期のジィドなどの思想とも、関連を持っている。斯くて、何か一つの欲望が欲望されるという歎声になる。
このハムレットを、上述の境に置いてみるがいい。彼は後方を振向いて眺め、また前方を凝視し、そして其処にいつまでも佇んでいるだろう。その表情はどうであろうか。後方を眺める時は、皮肉な微笑を浮べ、前方を凝視する時は、憂欝な微笑を浮べるだろう。そして皮肉な微笑と憂欝な微笑とのうちに、足は水腫に重くなり、体駆は栄養不良に痩せ細ってくるだろう。
だが、ハムレットのほかに、現代のドン・キホーテがいる。――「現代の」と云う所以は、漸くそういう型が出来かかって来たからである。彼は絶大なる信念を持っている。行動に対する信念を持っている。そしてこの信念は、思惟に対する反撥から来り、思惟の拒否を結果する。だからその信念は、行動の目的にはなくて、行動そのものに在る。何処へ行くかは問わない、ただ歩けばよいのだ。腹は水でだぶついていようと、ただ飲めばよいのだ。つまり、戦の目的を忘れた戦士なのである。これは、発足、出立、逃亡、遺棄、獲得、脱出、開拓、其他あらゆる言葉で呼ばれるところの、佇止は窒息であり、百の思考は一の行動に及ばないという思想とも、関連を持っている。斯くて、俺は一体どこに行きつつあるのかと、人に問わねばならなくなる。
このドン・キホーテを、上述の境地に置いてみるがいい。彼は碌に後方を眺めないだろう。其処に豊富な道具があることは初めから分っているのだ。ただ手を後方に差出して、手当り次第のものを掴んでくるだろう。そしてがむしゃらに前途を開拓しようとするだろう。一の道具が役に立たなければ、即時にそれを投げ捨てて、他の道具を掴んでくるだろう。道を開拓するには、先ず一本の鉄の鶴嘴がいる。然し彼にとっては、如何なるものも鉄の鶴嘴と見えるのである。彼の表情が、緊張からやがて焦繰に変らなければ、そして焦躁からやがて憔悴に変らなければ、仕合せである。
斯かるハムレット的なものとドン・キホーテ的なものとを去って、私は一の「童話」を考える。童話とは固より象徴である。この童話を考える機縁は、私事に亘るが、幾つもあるなかで、例えば、――
山本有三主宰「日本少国民文庫」のなかの、「発明物語」について、石本已四雄君が読後感を私に洩したことがある。曰く、有名な科学者達が如何に苦心して如何なるものを発明したかが書かれているけれど、ああいう科学的発見発明の当初には、全く童話的なものが存在するのであって、その童話的なものをこそ、子供に読ませるものとしては、本当に書き生かして貰いたかった、云々。――日支事変の当初、私は蒙古の徳王にひどく心惹かれた。砂漠の中の百霊廟の町、何処より発し何処へ流れ去るとも分らぬ清流、右岸にはラマの聖堂、左岸には粗末な民屋、其処で、ジンギスカン以後の七百年の眠りから蒙古民族を覚醒させんと夢想している徳王、その温容と熱情と知識と知慧、民衆中最高の文化と力との精神……私は彼を童話中の人物として空想したのである。
こう二つだけを並べたのでは、何のことだか分らないだろうし、多くのことを並べなければ、まとまった一の像は得られないだろうが、煩雑を避け一言にして云えば、新時代の童話的精神を要望したいのである。新時代の童話は、明晰な眼を必要とし、新鮮な動きを必要とする。そしてこの眼とこの動きとの間に些の間隙も許されない。眼と動きとの合致がある場合、如何なる現実の重圧があろうとも、常に人間性の明朗さが確保される。明朗な眼とは知性であり、新鮮な動きとは行動である。――斯く言えば、それもただ私の童話であろうか。然しながら、「神話」と「童話」とをもし並立して考えられるとすれば、「童話」の方を取るべき時代ではないか。
いろいろなことが言われている。――思考と行為との分離がある。自我の分裂がある。自意識の過剰がある。信念の崩壊がある。目標の喪失がある。経済の優位がある。夢想の消滅がある。現実の重圧がある。徒労なる彷徨がある。幻滅から来る頽廃がある。復古と偶像破壊との矛盾がある。伝統の断層がある。廃墟と曠野とがある。再建と革新との喰違いがある。其他、数えたてればきりがない。
こういう時に当って、明朗な眼と新鮮な動きとの合致を必要とする童話の世界が、夢想されるのである。この夢想、単なるロマンチックな憧憬ではなく、新時代の童話そのものに於けると同様、科学的な現実的な夢でなければならない。非常時と平常時とが融合しなければならない如く、現実と夢とが融合しなければならない。それ故また逆に、知性と行動との融合する童話の世界が希望されるのである。――たとい現実にはそれが困難であろうと、文学の上に於てはかかる冒険も可能であろう。新時代の文学の途はそこに開ける。
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