正覚坊というのは、海にいる大きな亀のことです。地引網を引く時に、どうかするとこの亀が網にはいってくることがあります。すると漁夫達は、それを正覚坊がかかったと言って大騒ぎをします。正覚坊が網にかかるときっと大漁がある、と言われているのです。漁夫達は皆集まって正覚坊をとり巻き、近所の家から酒をたくさん取り寄せて、それを正覚坊に飲ませます。正覚坊は酒が好きです。頭が赤くなるほど酒のごちそうになって、それから海に放されます。うれしそうに頭を打ち振りながら、波の上を沖の方へ泳いで行きます。漁夫達はその姿を見送って、残りの酒を皆で飲みながら、大漁節というおもしろい歌を歌ったりなんかして、次の大漁を祝います。
そういう正覚坊について、おもしろい話があります。
ある海岸の漁夫村に、平助という一人者の漁夫がありました。昔は沖遠くまで漁に出たりなんかして、強いたくましい若者でしたが、家族の者はみんな死んでしまい、ひとりっきりで年は取りますし、後には、岸辺の小魚や川の魚などを取って、その日その日を送っていました。そしてこの平助は、酒が大変好きでした。いくら飲んでも酔ったことがありませんでした。あまり飲むと身体にさわるよと人に言われても、彼は平気でした。酔うから身体にさわるので、俺のように酔ったためしのない者はいくら飲んでも大丈夫だ、と彼はいつも言っていました。始終貧乏をしながら、少しお金があると酒ばかり飲んでいました。村の人達は彼のことを、正覚坊だとあだなしていました。
ひどい暴風雨の晩でした。平助はいつものように徳利を前にすえて、ひとりつまらなそうに酒を飲んでいました。すると、表の戸をことりことり叩くものがあります。初めは風の音かと思っていましたが、それが何度も続くものですから、平助も少し気になりました。彼は杯を前に置いて、表の方をふり返りながらたずねました。
「誰だい?」
何の返事もありませんでした。耳をすますと、風と雨との音に交じって、やはりことりことりと戸を叩いています。
「何か用事かね」と平助はまたたずねました。
それでも返事がありませんでした。しまいに平助は、仕方なしに立ち上がって、表の戸を開いてみました。さっと風と雨とが吹き込んで来たかと思うまに、闇の中から、まっ黒な大きなものが、のそりのそりとはい込んできました。平助は腰をぬかさんばかりに驚きました。よく見ると、それは畳半分ほどもある大きな正覚坊でした。
正覚坊だとわかると、平助は初めてあんどしました。いきなり表の戸をしめて、正覚坊を部屋の中に連れて来ました。正覚坊はそこにぐったりとなって、喉元をふくらましながら、はあはあと息をきらしてるらしいのです。
「おい、どうしたんだい」と平助はたずねました。
正覚坊はじっとしています。いくらたずねても黙っています。それもそのはずです、亀に口がきけるわけはありません。平助はそれに気付いて、ひとりで声高く笑い出しました。そしてそれはきっと沖の方から暴風雨に吹きつけられて来たのだろう、と考えました。それで、元気をつけてやるために、徳利の酒を茶碗についで差し出しました。すると、正覚坊はその中に首をつき込んで、きゅーっと一息に飲み干しました。平助はうれしくなりました。縁起がいいと言われてる正覚坊が、向こうから訪ねて来てくれたんですもの、漁夫としてこれくらい愉快なことはありません。平助はすぐに、ありったけのお金で、酒をたくさん買って来ました。そして二人で飲み始めました。正覚坊もだんだん元気になってきまして、しまいには酔っぱらって部屋の中をおかしな格好ではい廻ります。亀踊りをやってるのでしょう。平助も酔っぱらって首や足を振り動かしてる正覚坊にちょうしを合わして、歌を歌ったり手拍子をとったりしました。
そのうちに、酒はなくなりますし、夜はだんだんふけてきますので、とうとう、平助はそこに倒れたまま眠ってしまいました。
朝になってふと眼を覚ますと、平助はちゃんと布団を着て寝ているのでした。見ると、正覚坊も同じ布団の中に、ぐうぐう眠っていました。平助が起き上がると、正覚坊も起き上がって、きょとんとした眼をしています。暴風雨はもう静まっていました。
平助は正覚坊の背中を撫でながら、さてその始末に困りました。家に置いておけば、自分が漁に出た不在中に、村のいたずら小僧どもからどんな目にあわされるかわかりません。まさか床の下や押入れに一日隠しとくわけにもゆきませんし、また、始終連れて歩くわけにもまいりません。それかって、このまま海へ逃がしてしまうのも、何だか心残りです。
平助はいろいろ考えていましたが、ふと名案が浮かんできました。村の側を流れてる川が海に注ごうという川口のそばに、大きな入江がありまして、深い深い沼を作っていました。平助はそこに正覚坊を入れてやろうと考えました。川口から海へ逃げて行けば仕方ないけれど、こういうおとなしい正覚坊だから、あるいは沼の中にいて時々遊びに来てくれかも知れない[#「来てくれかも知れない」はママ]。
「お前をよい所に住ましてやるぞ」と平助は言ってきかせました。「深い広い沼だから安心だ。海に出るとまた暴風雨にあうから、おとなしく沼の中に住んでいろよ。そして時々遊びに来いよ。酒を用意しておいてやるぞ」
正覚坊はその言葉がわかったかのように、頭をこくりこくりやってみせました。
平助は人に見つからないようにして、正覚坊をつれて沼へやって来ました。正覚坊は一つお辞儀みたいなことをして、沼の底へ沈んでゆきました。
平助はうれしくってたまらないような気がしてきました。元気いっぱいで漁に出ました。大層よく魚が取れました。晩になると、魚を売ったお金で酒を求めて、正覚坊が来るかも知れないと待ってみました。
晩遅くなってから、戸をことりことりと叩くものがあります。平助は半信半疑で戸を開いてやりますと、正覚坊がちゃんと来ているではありませんか。平助の喜び方ったらありませんでした。夜ふけるまで二人で酒を飲んで、それから一緒に寝ました。朝になると、正覚坊は沼へ帰ってゆきました。
それからは、毎晩平助の家へ正覚坊が遊びに来ました。二人で楽しく酒を飲みました。
ところが、元来正覚坊とあだなされてるくらいの平助と、本物の正覚坊とが一緒になったものですから、いくら酒があってもすぐになくなってしまいます。平助は無欲ですから、お金をためようなどとは思いませんでしたけれど、正覚坊と二人で充分に酒を飲めないのが残念でした。ことに漁が少ない時なんかは、少しばかりの酒を前にして、しおれ返ってしまいました。
平助が困ったように考え込んでるのを見て、ある晩、正覚坊は何と思ってか、そこにあった投網をしきりに引っ張ります。それを見て平助は、これは投網を打ちに行けというんだなと悟りました。
平助は正覚坊を連れて、投網で夜漁に出かけました。すると何しろ正覚坊が魚を追い廻して来てくれますので、そこの所へ投網を打つと、はいることはいること、またたくまに持ちきれないほど取れました。
そういうふうにして、平助と正覚坊とは、充分に酒を飲むことが出来ました。一晩漁に行けば、二三日分の酒代はわけなく稼げるのでした。
けれども、あまり酒を飲んだのがいけなかったのです。翌朝まで正覚坊は酔っぱらって、沼の底へもぐるのも忘れて、岸で昼寝をすることがいくどもありました。それを村の人達に見られたのです。
沼のほとりで大きな正覚坊が眠ってるのを見たと、一人の者が言い出しました。すると、俺も見た俺も見たと、いくにんも見た人が出て来ました。それならばひとつ生捕りにしてやろう、ということになりました。縁起がいい奴だから村中で池の中に飼ってやろう、という相談がまとまりました。
それを聞いて、平助は心配しました。池の中に飼われると、一緒に酒を飲むことも出来なくなるわけです。その上、平助は若い時荒海の上を乗り廻したことがあるだけに、正覚坊がもし狭苦しい池の中に飼われたら、さぞつらい思いをするだろうと考えました。どうしても正覚坊を村の人に生捕らせてはいけません、しかし、どうもうまい方法が見当りませんでした。
そうこうするうちに、いよいよ明日は村中で沼に網を入れるという、その前夜になりました。平助は仕方なしに、村の人達をだましてやろうと考えました。そして、正覚坊へはよく言ってきかして、その晩二人で大きな石を沼の中に沈め、正覚坊は沼の岸辺の真菰の中に隠れました。
翌日になると、村の漁夫達は朝早く集まって、沼へ大きな網を入れました。大変重たいものがかかりました。そら正覚坊がかかったと言って、総掛りで、引き上げてみますと、大きな石ではありませんか。皆はがっかりしました。平助一人が心で喜びました。
ところが漁夫達の中に一人の物識りがいまして、そういう沼に住むくらいの正覚坊だから、きっと石に化けたのに違いない、と言い出しました。人々もなるほどと考えました。
そこで、その石を正覚坊になすのが問題となりました。酒をぶっかけたらいいかも知れない、と一人の男が言い出しました。早速酒を取り寄せて、石にぶっかけてみました。けれども、元々からの石ですから、酒をかけたくらいで正覚坊になりようわけはありません。
「なかなかしぶとい奴[#ルビの「やつ」は底本では「ゆつ」]だ」とも一人の男が言いました。「この上は行者に祈ってもらおう」
一同はそれに賛成しました。幸いとその村の近くの町に、狐つきを落としたりなんかする行者がいました。それがすぐに呼ばれてやって参りました。
村中はお祭りのような騒ぎでした。御幣をこしらえるやら、色々な品物を供えるやらして、いざ御祈祷となると、村中の人が男も女も子供も集まって来ました。行者はまっ白な着物をつけて、御幣を打ち振り打ち振り、魔法めいた文句を口の中で唱えながら、しかつめらしく御祈祷を始めました。けれども、石は何としても石です。正覚坊になりっこはありません。
そのうちに、額から汗を流して一生懸命に祈っていた行者は、はたと祈りをやめて言いました。
「皆さん、これは正覚坊が化けたのではありません。元々からの石です」
村の人達はあっけにとられて言葉もありませんでした。やがてその気持ちが静まると、正覚坊に対して腹が立ってきました。この上はぜひとも本物の正覚坊を生捕って、仕返しをしてやらなければならない、と口々に言い立てました。正覚坊が化けた石だと誰かがよけいなことを言ったのなんかは、もう忘れられてしまっていました。
けれども、その日はもう夕方になりましたから、翌日沼狩りをすることにして、一同は罵り立てながら引き上げました。
それらのことを、平助は始終胸をどきつかせて眺めていました。晩になると、困ったことになったと思案にくれました。実はこうこうだと今更言い出したところで、村中の人の気が立ってる折りですから、それこそ、正覚坊ばかりではなく、平助までひどい目に逢わされるに違いありません。こうなった上は、夜のうちに正覚坊を逃がしてやるより外仕方ないのです。
平助は死ぬような思いで、きっと決心をいたしました。酒をたくさん買っておいて、正覚坊が来るのを待っていました。正覚坊は平気な顔をして、いつもの通りやって来ました。
二人は酒を飲み始めました。しかし平助は気がめいりこんでしまいました。終には涙をぼろぼろ流して、正覚坊の頭を撫でながら、よく訳を言ってきかせました。
「そういう訳だから、もうお前とは別れなければならない。名残惜しいけれど仕方がない。沖に出たら、暴風雨やなんかに気をつけて、身体を大事にするがよい。亀は万年も生きると言ってあるから、お前も長く生きて、時々は俺の事を思い出してくれよ」
正覚坊も、平助の言葉がわかったかのようにうなだれてしまいました。涙をこぼすまいとつとめているように眼を瞬きました。
そして、酒もなくなり、夜明けもまぢかになった頃、平助は正覚坊を連れて海に出ました。西の方の空に三日月が掛かっていて、海の面がぽーと明るくなっていました。
「それじゃこれで別れるから、達者に暮らせよ」
そう言って平助は、正覚坊の頭を撫でながら、沖の方へ放してやりました。正覚坊は何度もお辞儀をして、後ろをふり返りふり返り泳いで行きました。その姿が波の向こうに見えなくなってからも、平助はぼんやりそこに立っていました。
やがて、早くも夜が明け放れて、村の人達は沼狩りを始めました。しかしもう正覚坊がいなくなった後のことです。いくら狩り立てても取れません。一同は諦めて帰って行きました。
それからというものは、平助はまるで気抜けのようになりました。そして、毎日沼のほとりに出ては、かの大石を正覚坊の姿に刻み始めました。平助が正覚坊に憑かれたという噂がぱっと村中に広がりました。しかし平助は、実は真面目で一生懸命だったのです。
正覚坊の像がいよいよでき上がった夕方、平助は村の網元の家へ行って、そこの御隠居に、一部始終のことをうち明けました。御隠居はびっくりしました。なおその上びっくりしたことには、翌朝平助は死体となって沼に浮かんでいました。酒に酔ったあまり溺れ死んだのか、あるいは身を投げて死んだものか、誰にもわかりませんでした。けれども、その前の晩、正覚坊の像にもたれてしくしく泣いていた平助の姿を、月の光りで見たという者がありました。
村の人達は、網元の御隠居から平助の話をきかせられて、大変気の毒がりました。そして、平助の死体を沼の岸に埋めてやり、その上に正覚坊の石像をのせて祭りました。
今では、その沼を正覚坊沼と言っていまして、平助が刻んだという正覚坊の石像も残っています。沼の魚はみんなその石像に供えたものとして、誰も取らないことになっています。海で大漁がありますと、村の人達はそこに集まって大漁祝いをいたします。
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