横須賀の海岸に陸から橋伝いに繋ぎとめられ、僅かに記念物として保存されている軍艦三笠を、遠くから望見した時、私は、日本海大海戦に勇名を馳せた軍艦のなれのはてに、一種の感懐を禁じ得なかった。そしてその感懐が、ひいて三笠に対する興味となって、「軍艦三笠」と頭する小説を書いてみようと思うようになり、少しばかり記録を調べにかかったことがある。その時私の頭の中には、一個の存在として三笠が映っていた。軍艦という構造物ではなく、生きた一つの個体なのである。先ず、進水式があげられて、彼女は海に浮ぶ。当時他に比肩するもののない美丈夫なのだ。日本の近海を誇らかに漫歩する。そのうちに日露戦争となり、日本海の海戦には、旗艦として僚艦の先頭に立ち、縦横に駆馳して旗艦を逐い、輝かしい凱旋をする。然るに其後、彼女の生活は次第に衰運に向かい、新式の優秀な軍艦が相次で現われ、彼女は遂に記念物として、ミイラ的な存在を横須賀沖に続けることになる……。そういうことを、じっと考える場合、乗込員などはもう私の頭には映らず、艦長や司令官なども彼女のうちの一微粒子となり、「皇国の興廃……。」の信号も彼女の顔面筋肉の僅なおののきに過ぎなくなり、ただ彼女の姿だけがそこに現われるのだった。或は港の中にじっと立止り、或は静かな海をそぞろ歩きし、或は暴風雨の中を突進する……。その後ろ姿を見守っていると、彼女の姿は益々小さくなり、海戦においても、指頭大の玩具の舟にすぎず、砲弾は砂粒にすぎない。そして遂には、私は彼女の姿を見失いがちで、茫漠たる海洋だけがはてしもなく広がってるのだった。私はまたあらためて彼女の姿を探し求め、彼女の跡を追うのであるが、ともすると再びその姿を見失いがちで、海洋の永遠な広茫だけが全面に立現われてくる……。そういうわけで、三笠は常に縮小し縮小して、一の微粒子とまでなって私の眼をのがれ、私はそれを捉える術もなく、遂に「軍艦三笠」は書けなくなってしまったのである。
この「軍艦三笠」と全く逆なことを、私は「錆びた銃弾」で経験した。私が中学時代を過した郷里の、海岸の松林のなかに、昔、射的場があって、聯隊の兵士たちが時折実弾射撃をやった。その射的場の附近の砂の中に、流れ弾が埋ってることがあって、それを掘りだすのが少年の楽しみだった。そうした弾丸の一つを主題にして、「錆びた銃弾」という小説を私は考えてみたのである。射的場の砂中から拾い出された一個の銃弾が主人公なのである。ところがこの主人公は、見つむれば見つむるほど、際限もなく拡大されていく。先ず最初には、製鉄所がある。そこに働く数千の労働者、昼夜とも不断に火焔を発してる熔礦炉を中心に、複雑なる製鉄工程。次には、特殊な組織をなす軍需品工場。そして生まれ出た一個の銃弾が、弾薬庫の中に他の同類と共に蓄積され、聯隊に輸送され、兵士に分配され、小銃に装填され、発射され、三百米を一瞬間に飛んで、砂の中に突入し、そこで錆びていくのである。そしてこの作品では、製鉄所は省略するとしても、軍需品工場は是非必要であるし、なお、軍隊組織を無視するわけにはいかない。かくして、一個の弾丸を見つめる時、その背後に、或はそれを通して、種々の設備や組織が立現われてき、錯雑紛糾を極めるのであった。云いかえれば、一個の弾丸は際限もなく拡大していって、私の視野の外にまで拡がり、私はその全貌を捉えることが出来ず、「錆びた銃弾」が書けなくなってしまったのである。
ところで、軍艦三笠は限りなく縮小し、錆びた銃弾は限りなく拡大して、どちらも作品にはならなかったのであるが、対象物の縮小と拡大というその正反対な動きは、私に種々のことを考えさせるのである。固よりこの正反対の動きは、見方の相違から来るのではあるが、創作という点から云えば、どちらも、焦点が合わなかったことを意味する。
「軍艦三笠」にせよ「錆びた銃弾」にせよ、共に特殊な主題ではあるが、これを一般論化して、象徴的意義に解することも出来る。実際のところ、人間について、その性格や心理や境遇や事件を取扱う場合、時として、見つめてるうちに、その対象物が次第に縮小していって消え失せたり、次第に拡大していって視野から溢れ出たりするのは、屡々経験することである。どこか眼の焦点が合っていないのである。眼の焦点が対象物にぴたりと合って、見つめることはただ対象物を明確ならしめるだけに過ぎないという、そうした場合こそ理想的であろう。然しこの理想的な場合は甚だ少なく、ともすると、見つめてるうちに対象物が延びたり縮んだりする。その延び縮みが甚しくなって、前述のような場合には、作品は書かれずに終る。そしてこの「書かれざる作品」は、吾々に種々のことを暗示し示唆してくれ、吾々を深く考えこませるのである。時としては、書かれたる作品よりも、書かれざる作品の方が、より多くのことを吾々に教えてくれる。
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