問題はそこでまず、この自分なるものが社会科学でどう取り扱われ得るかである。自分というこのごく日常的な常識にぞくする観念を、下手に哲学的に解明しようとすると、忽ち札つきの観念論に陥らざるを得ない。事実之までの思い切った観念論(バークリやフィヒテの主観的観念論)は単に観念を馬鹿々々しく尊重したことがその動機なのではなくて、この「自分」なるものを観念のことだと思い誤ったり、又之を観念的に掴むことが相応わしいことだと思い込んだりしたことに由来する。「自分」は社会科学(つまり史的唯物論――唯物論)でどう取り扱われるか。
M・シュティルナーは何と云っても参照を免れまい。シュティルナーに云わせれば、「神と人類とは何物にも頓着しない、自分以外の何物にも。だから自分も同様に、自分のことを自分の上に限ろう。神と同じく他の凡てのものにとっては無である自分、自分の凡てである自分、唯一無二である自分の上に」(『唯一者とその所有』――岩波文庫訳)、である。「自分にとっては自分以上のものは何もない」のだ。自分だけが自分の唯一無二の関心事だ。――だがどうしてそんな馬鹿げたことが主張出来るのか。併しシュティルナーが、自分と云うものを人間[#「人間」に傍点]や人類[#「人類」に傍点]というものから区別しているという点を今忘れてはならない。シュティルナーが云っているのは、個人が凡てだというのではない、個人ではない[#「ない」に傍点]処の「自分」が凡てだというのだ。そう云われて見れば、この唯我独尊主義も、決して簡単な妄想ではなくて相当複雑な虚妄であることに、戒心しなければならないだろう。
処がシュティルナーの「自分」は「創造者的な虚無」だというのである。と云う意味は、自分が一切のものの創造者であり、世界はつまり自分の所産だというのである。そして自分は世界を創造するに際しても何ものにも負うのでなくて自分自身にしか負う処がない。だから「無からの創造」だというのである。人間の生涯とその歴史的発達は、この自分の創造物だというのだ。――だがこうなるとこの自分と人間(個人)とはどうして別なのだろうか。なる程人間(個人又はその集合としての人類)ならば、それが歴史を創ったということも何とか辛うじて説得出来るかも知れない。併し誰が一体、自分が古代から現代までの歴史を造ったと実感するものが、狂人でない限りあるだろうか。――自分なるものが個人や人間と別な範疇だという論理はよい、だがそうだからと云って、「自分」なるものの形而上学的体系は困る。之は独りシュティルナーに限らず、彼の先輩たるフィヒテに就いても同様に困る点だ。
『ドイツ・イデオロギイ』(唯物論研究会訳)の大半をこの「聖マックス」・シュティルナーの批判に割いたマルクスは、処で彼をこう批評した。「若しも聖マックスが、種々な『事』及びこれ等の事の『所有主』、たとえば神・人類・真理をばもう少し詳しく観察していたならば、これ等の人格の主我主義的な行状に立脚せる主我主義も、これらの人格自身と全く同様に、仮構物であらざるを得ないという、反対の結論に到達する筈だったのだ」と(多少訳を変更)。――つまり「自分」の体系としての形而上学に立脚しようとするが故に、却って「自分」というものが個人という人格物に帰着して了うわけだ。
シュティルナーの根本的なナンセンスは、彼が「自分」というものを正面へ持ち出したことではなくて、却ってこの自分を安易にも、結局に於ては個人人格というようなものだと想定し、そしてこの個人人格から歴史と社会とを体系づけようとした処の、観念論的な大風呂敷にあったのだ。彼の人間に関する理論が、機械的で非歴史的で意識主義的であるのは、全くここから来る。
自分というものを個人(人間)から区別しながら、なお結局に於て自分を個人と考えねばならなくした根本的要求は、自分を何か世界の説明原理[#「世界の説明原理」に傍点]としようとする企ての内に存する。個人を世界の説明原理としようとするのが典型的な観念論であるが、之に倣って「自分」なるものを世界の「創造者」という説明原理にしようとしたのが、シュティルナーによって典型的に云い表わされたエゴイズム(理論的又道徳的)なのだ。――だが「自分」とは実は、そういう世界の説明原理(創造者・元素・其の他)である或る[#「或る」に傍点]物ではなくて、単に世界を見るものであり之を写す(模写する)ものなのだ。「自分」は個人とは異って交換することの出来る物[#「物」に傍点]ではない。自分とは自分一身[#「自分一身」に傍点]だ。之は鏡面であって物ではない。
社会を特殊化せば個人になる。ここまでは明らかに社会科学の領域だ。併しこの個人を如何に特殊化しても「自分」にはならぬ。一体もはや特殊化し得ない分割不可能であるということが個人乃至個体(In-Dividuum)の意味だったのだから、これは寧ろ当然だと云わねばならぬ。もし同じ[#「同じ」に傍点]特殊化の原理で「自分」というものにまで到着出来るのなら、この特殊化[#「特殊化」は底本では「殊特化」となっている。誤記か]の原理を恰もその科学的方法としている処の社会科学は、同様に「自分」というものをも、そのままで[#「そのままで」に傍点]、科学的[#「科学的」に傍点]に取り扱える筈だが、特殊化の原理が「個人」以上に進行し得なかったのだから、社会科学的方法は個人の処で止まらざるを得ない。つまり一般に社会科学的概念は、そのままの資格に於てでは[#「そのままの資格に於てでは」に傍点]、「自分」という事情をうまく科学的に問題に出来ないのである。
そこで考え得られる対策は二つしかない。一つは、個人を社会科学的に自分[#「自分」に傍点]にまで押して行く代りに(夫は不可能だった)、「自分」から出発し、そして個人の方へ還って来ようという仕方である。だが之も亦不可能であった、なぜなら自分とはそういう世界の説明原理[#「世界の説明原理」に傍点]であってはならなかったから。もし夫が世界の説明原理であるかのように思われるとしたら、夫はもはや「自分」ではなくて個人のことだろう、処が個人で以て世界を説明することは途方もない観念論だった。――でこの方向が駄目だとすると余る処はただ一つの方向だけである。それは個人から自分にまで行くには、社会から個人にまで来るのに使った社会科学的方法・社会科学的個別化原理を、何か適当に改革乃至修正しなければならぬということだ。恐らくこの仕方以外に、理論的に「自分」なるものの概念を規定出来る道はないだろう。モラルの概念も亦、ここで初めて理論的に成り立つことが出来るだろう、ということになる。
だがもう少し「自分」というものを分析して見る必要がある。一体自分というものは、シュティルナーが夫で熱中していたに拘らず、存在[#「存在」に傍点]するものかどうか、そういう一見奇妙な疑問を出してかかる必要があるのである。なる程個人は立派に存在している。そして個人が持っている精神や心というものも、丁度物体に力が存在しているような意味で存在している。処が自分というものの存在に就いては、古来哲学はその証明に苦心しているのだ。たしかに自分はあるようだ。併しどういうことが自分が存在しているということであるか、又なぜ自分が存在していると云う[#「云う」に傍点]ことが出来るか、という問題になると、解答は極度に厄介なのである。デカルトの、「自分が考える、故に自分が存在する」というのが、何等の推論でないことは云うまでもないので、この「故に」は単に、彼が自分というものの存在を事実上すでに仮定していることの告白を示す気合か掛声にしか過ぎない。――とに角、少なくとも自分というものは、普通の意味での存在性を持ってはいない、普通の意味では存在しない[#「存在しない」に傍点]、従って普通の意味では無[#「無」に傍点]だ(無である[#「ある」に傍点]とは云えない、ただ無だ)。
処で之と同じような事情におかれたもう一つのものがある。夫は意識[#「意識」に傍点]だ。意識も丁度自分に対立する自分という個人[#「自分という個人」に傍点]のように、精神や心と考えられればその存在性に問題はないが、それが本当に意識と考えられると、夫が存在するかどうかが問題だ。意識(Bewusstsein)はDas bewusste Seinという或る存在(Sein)であるように書かれるが、之は単にドイツ語で哲学の術語を造る時の便宜から起きたことに過ぎない。そして之は恐らく「意識ある存在」という意味にはならずに、「意識された存在」、即ち存在が意識された、という意味になるのだろう。いずれにしても、存在[#「存在」に傍点]と意識[#「意識」に傍点]とは別であり、従って意識は存在ではない、存在しない、無だ。――自分は自分で自分を考えることが出来る。自分が自分で自分を考えなければ、即ち自覚しなければ、即ち又自意識を有たなければ、自分というものは考えられない、処がこの考えるとか考えられるとかいうことが、他ならぬ意識するということだ。で之を以て、自分というものと意識というものとが、同じ性質のものだということが判る。その意味で、自分はあるかないか知らないが、とに角夫は意識だ、と云うことが出来る。
物質は云うまでもなく普通の意味で、存在[#「存在」に傍点]している。之を写し反映するものが意識だ。簡単に機械的に考えると、物質を反映し模写するものは頭細胞其の他の物質だ、と云われるかも知れない。だが外界の物質と頭物質との関係は物質相互間の物的因果交互作用関係にすぎないのであって、それ自身は反映でも模写でもない。反映・模写とは物質と意識との間にしか起きない関係を云い表わす言葉だ。で外界の物質と頭細胞物質との物質相互の物的関係が存在していて、その存在に沿って随伴[#「沿って随伴」に傍点]して起こる或る関係が、意識による反映・模写ということであり、つまりそういう作用としての意識なのである。この関係は存在に随伴することなしには決して起きない。存在が存在しなくなれば起きなくなる関係だ。それでこの存在とこの関係との間には又何等かの関係[#「関係」に傍点]がある。之は一応不離な関係だが併し直接には因果関係ではない。反映・模写という言葉は、こうした非因果的な直接関係を云い表わす範疇なのである。だから実は意識があって存在を反映するのではない(意識は元来なかった)、却って反映という存在の随伴現象が意識ということだ。夫が「自分」ということなのだ。
自分乃至意識は、存在に随伴する関係であるが(その随伴の仕方関係が意識とも反映とも模写とも写すとも見るともいうことだ)、処が一般に存在に随伴する関係は、意味[#「意味」に傍点]と呼ばれる。意味は厳密に云うと存在の因果所産でも何でもなくて、存在が有つ[#「有つ」に傍点]処の一つの関係のことだ。存在に意味があり、存在が意味する[#「意味する」に傍点]のである(意識が意味するのではなくて存在が意味するのだ。インテンションとは実は之だ)。意味がある[#「ある」に傍点]とは、意味が存在するということではなく、又意識が意味を産み[#「産み」に傍点]与えるというのでもなくて、存在が意味を有つ[#「有つ」に傍点]ということだ。で意味はない[#「ない」に傍点]のだ。――そうすると、例の自分乃至意識は意味[#「意味」に傍点]にぞくするものだということになるだろう。
さて私はここに二つの秩序界を並べねばならぬ事情に立ち至った。一つは存在・物・物質の秩序界だ、もう一つは自分・意識・意味の秩序界だ。前者は存在し後者は存在しない。そして後者は前者の存在に随伴するのである。――「個人」と「自分」とを隔てたあのギャップは、実はこの二つの秩序界の間に横たわるギャップであった。而もこのギャップならば、随伴という橋渡しは一応ついた。
併しそうすると、つまり自分というものは個人に随伴するというだけでケリがつきそうだ。それなら社会科学は個人の問題を取り扱うことによって、随伴的に[#「随伴的に」に傍点]自分というものの問題を取り扱えばよいわけだ。処がそう簡単には行かない。自分・意識・意味はそれ自身一つの秩序界だ、というのは、独自の体系をなすことが出来る(尤もそれは存在[#「存在」に傍点]の世界の体系ではないが。)今物質界乃至存在界が独自の体系をなすことは自明だろう。処でこの二つの独自の体系が並べられたとすると、簡単に一つの存在と一つの意味とを対応させて済ますことは出来なくなるので、意味は更に意味同志、存在は云うまでもなく存在同志、の間に、意味的連関や因果的交互作用的関係を有っている。――この二つの体系を総合することは、二つを簡単に加え合わせるようには行かぬ。二つを掛け合わせなくてはならぬ。と云うのはつまり、存在の体系に意味の世界を附加[#「附加」に傍点]することによって、存在の体系をば意味の世界を含んだ[#「含んだ」に傍点]体系にまで、拡張的に[#「拡張的に」に傍点]組織し直さねばならぬということだ。個人から自分なるものへの橋渡しをするためには、そういう論理的工作が要るのである。――モラルとはこの論理的工作の内に、必然的に出て来るものだ。
私は少し長々しく、認識論めいた議論を試みたが、之は全く、自分というあの一見判り切った日常観念を、少しばかり而も常識的に反省して見る必要があったからだ。でその結果は、存在の体系を、どうすれば意味の世界をも含んだ体系に、拡張出来るかという、論理上の工夫を考えねばならぬということに帰着する。
存在の体系の諸規定を云い表わす諸範疇は、実験的・技術的な検証性を有った処の、技術的な科学的概念[#「科学的概念」に傍点]である。だが之だけでは意味の世界を含んだ体系を築くカテゴリーにはなれない。そこでこの科学的範疇を、意味の世界との連絡と云い表わし得るようなカテゴリーにまで、改造しなければならぬ。それには他の手段はないので、実験的技術的に検証し得るというこの科学的範疇の性質を、或る点で制限し、比較的且つ一応そうした検証的実証性から独立に見えるような性質を、外被のように之にかぶせる他はないだろう。実験的科学的機能だけではなく、そういうものから一応比較的に独立であるように見える機能をば、この実験的科学的機能という肉体の上に、被服として纏わらせねばならぬ。こうしてこの科学的概念[#「科学的概念」に傍点]は、様々のニュアンスを得、一種のフレクシビリティーを得、例のギャップを飛躍する自由を得るのである。この機能は空想力(想像力・構想力)とか象徴力とか誇張力とかアクセント機能とかだ。
こうして大体象徴的な性質を有たされた限りの科学的概念は、もはや之までの科学的概念ではなくて、文学的表象・文学的影像[#「文学的表象・文学的影像」の「・」を除く部分に傍点]である。象徴や空想や誇張其の他は、そうしたニュアンスやアクセントは、正に文学的な影像と観念との、特色ではないか。――この間の消息の内に、一般に、科学と文学(独り文芸に限らず広く芸術一般に於ける精神・イデーでよい)との論理的連関が設定される。そして今この科学的概念が社会科学乃至史的唯物論のものだとすれば、この文学的表象が持つ象徴や空想や誇張その他の、この非存在的[#「非存在的」に傍点]な機能が、自分[#「自分」に傍点]というものを個人[#「個人」に傍点]から区別する例のギャップを埋めるものに他ならぬ。個人とは社会科学的概念だ。之は史的唯物論によって片づく。之に反して「自分」とは、文学的表象だ。之は一切の文学的又実に道徳的なニュアンスとフレクシビリティーとを有っているだろう。個人に関する体系は立派に社会科学という科学になる。だが自分に就いての体系は、文学にはなっても科学的――実証的・技術的――理論とはならぬ。ニーチェやシュティルナーなどの自我思想が文学的特色を有つのは、広義に於けるそのスタイルの問題には止まらない。
さて私はどうやら道徳・モラルの問題に帰ることが出来るようだ。以上に述べた科学的概念と文学的影像との関係、科学と文学との関係、の内に、モラル(文学的観念による道徳)なるものが横たわるだろうからだ。
モラルとは自分一身上の問題であった。尤も之は何も個人道徳[#「個人道徳」に傍点]を意味するのでもないし、又道徳が個人的なものだというのでもない。個人が自分[#「自分」に傍点]と別だということは既に述べた処だ。寧ろモラルは常に社会的モラルだ。社会機構の内に生活する一人の個人が、単に個人であるだけでなく正に「自分」だということによって、この社会の問題は所謂社会問題や個人問題としてではなく、彼の一身上の[#「一身上の」に傍点]問題となる。一身上の問題と云っても決して所謂私事[#「私事」に傍点]などではない。私事とは社会との関係を無視してもよい処のもののことだ。処が一身上の問題は却って正に社会関係の個人への集堆の強調であり拡大であった。社会の科学的理論の体系も亦、この一身上の問題を単に私事として顧みずにおくことは出来ない。モラルはこうしたものだと云うのである。――科学的概念が文学的表象にまで拡大飛躍することは、他でもないので、この科学的概念がモーラライズされ道徳化されヒューマナイズされることだ。この概念が一身化され[#「一身化され」に傍点]自分というものの身につき[#「身につき」に傍点]、感能化され感覚化されることだ。今や[#「今や」に傍点]、自分=モラル=文学[#「自分=モラル=文学」の「=」を除く部分に傍点]は一続きの観念なのである。社会の問題が身についた形で提出され、自分一身上の独特な形態として解決されねばならぬということが、文学的モラルを社会科学的理論から区別する処のものだ。
処で考えなければならないのは、すでに述べた文学的モラルのあの抽象性(幸福の如き)に就いてである。というのは、道徳に関する文学的観念としてのモラルは、事実の問題として見る時、文学者が有たねばならぬ社会科学的認識とは、殆んど全く無関係[#「無関係」に傍点]な場合が普通なのである。吾々はモラルと社会科学的認識とを区別はしたが、その区別の根拠は実は寧ろ両者の橋渡し[#「橋渡し」に傍点]の説明の上に立ってのことだった。科学的概念による社会科学的認識と、文学的表象による文学的認識との間に、一定の合理的な関係を設定したればこそ、科学的認識と文学との間の区別も出て来たわけであった。処が多くの文学的モラルは、社会科学的認識と関係なしに、何か自分だけで纏まり得たようなモラルとなっている。そういう独自に自分だけで結末のつくモラルの内容は、精々かの幸福のようなものだったろう。そしてそういう超社会科学的幸福は、事実上は、独善的な逃避的な貧弱な幸福に堕す他はあるまい。之は富まずして淫するモラルである。
こうした独善的モラルの観念を私は、文学主義[#「文学主義」に傍点]的なものと呼ぶことが出来ると思う。文学的表象はその現実的肉体として、社会科学的概念をその核心に持っていなければならなかった。処がこの科学的核心がない時には、文学的表象は自分自身で勝手な核心を――再び全く文学的にすぎぬ核心を――造り出す。そうやって文学的表象をそのまま文学的な概念[#「文学的な概念」に傍点](之は何と矛盾した表現だ!)にして了う。要するに科学的概念を排撃して文学的概念を、手近かににわか造りするのである。こういう文学的表象の幽霊か漫画かのおかげで、その際成り立つモラルも幽霊か漫画のようなモラルとなる。而もそういうモラルに限って、社会的には無知な反動的勢力として凡そ社会のモラルを蹂躙するものだが。そしてその際「自分」や自我は、極めて皮相な思い上った又は卑屈な自意識となって了うのだ。
真に文学的なモラルは、科学的概念による認識から、特に社会科学的認識から、まず第一に出発しなければならない。この認識を自分の一身上の問題にまで飛躍させ得たならば、その時はモラルが見出された時だ。逆に初めから文学的モラルから出発するなら、遂に何等の科学的認識へも行きつくべき方法を見出すことは出来まい。そのモラルは自慰的なものとならざるを得ない。そしてこの自慰的環境から脱出するには、もはや文学的モラルでは間に合わないだろう。――例えば階級対立が社会そのものの一切の本質的な規定を決定しているこの社会に於て、階級道徳を抜きにした文学的モラルなどは、本当は想像も出来ない代物だろう。社会のこの歴史的なリアリティーのあくどさや強大さに心を動かさぬということは、モラルのないことの証拠になりはしないか。――「自分」を発見するということは、そんなに素手で方法なしに出来るものではない。そしてその方法は社会科学的認識の淵をばモラルにまで飛躍するという機構であり手続きであるのだ。之を抜きにして見出された自己などは、誠に賤しいものだ。
文学とモラルとのこの結びつきを、特別な形で示しているものは、フランスの文学的伝統の一つであるモラリスト[#「モラリスト」に傍点]たちの立場であろう。モラルという文学的な道徳の観念や言葉も、実はこのモラリストのものであったのだ。道徳の倫理学的観念が初めイギリス的乃至ドイツ的であったに対して、モラルという文学的観念は主としてフランスのものだ。処でモラリストの特色の一つが、矢張り「自分」を探究することにあったのを忘れることは出来ない。――E・ブリュンティエール(之はレーニンによると済度すべからざる反動家だが)は、モンテーニュの『エッセー』に就いて言っている、「それは、人が自己を描こうと企てた最初の書物である。自己を並々の人間の一例として考察しつつ、その自己の中に掴みえた発見を以て人類の博物誌を豊富にしようと企てた最初の書物である」(『仏蘭西文学史序説』岩波文庫訳に基く)。モンテーニュは云わばモラリストの父だが、夫が自分を描こうとした最初の人だというわけである。
処がこの自分・自己とはモンテーニュでは何か。彼の『エッセー』は云っている、「各人は自己の前方を見る。私は私の内部を見る。私はただ私に用があるだけだ。私は私を考察し、私を検査し、私を思料する。……私は常に己れの内を省る」云々(ブリュンティエール前掲書参照)。――処でこの言葉だけを取って見ると、このルネサンスのフランスの貴族文学者は、まるで十九世紀の「ドイツの小市民」の、あのシュティルナーそっくりではないか。ただその自己がもっと文化的に教養が高かったというまでだ。とに角ここでいう自分とは、内部のことだ。自分を単に内部として感じることは、自分を「自分」としてではなしに人間として感じることだ(フランスにはメヌ・ド・ビランの『内部的人間学』なるものがある)。つまり夫は、欲すると否とに関係なく、自分を自分としてではなしに、例の個人という物体として見ることに帰着せざるを得ないだろう。――かくてモラリストの立場は、所謂人間学に[#底本では「間学に」に傍点をしているが、「人間学」あるいは「人間学に」に傍点すべきであろうと思われる]甚だ近いと云わねばならぬ。実際また人間学の多くの型は、モラリストの哲学から生じたものであった。パスカル(『パンセ』)やラ・ロシュフコー(『道徳的省察』――『箴言録』)を見れば、この(内部的)人間学が何であるかは容易に判る。そこでは自分は、人間の名に於て、社会的認識とは殆んど全く独立に、探究されている。之に較べれば、ラ・ブリュイエール(『性格』)やモンテーニュ自身は、実はもう少し社会的関心をもった「自分」であったかも知れない。
だがそれにも拘らず、モラリストは、文学とモラルとの必然的な結合を、その意味で、道徳に関する文学的観念の一つの典型を、思想史の内に印象づけた。その歴史的意義は之を尊重し又利用すべきだろう。――もし多少の歴史的語弊を忍ぶとすれば、道徳に関する文学的観念は、正にこのモラリスト的な[#「モラリスト的な」に傍点]道徳観念だと云っていいかも知れぬ。ただ吾々に必要なのは、之が科学的認識、特に社会科学的認識を踏み渡った上での、道徳・モラルでなければならぬという点だったのである。
最後に科学と文学とを図式的に対比させることによって、文学的観念による道徳なるものの、一つの総括的な意味を、云い表わしておきたい。――科学は云うまでもなく事物の探究だ。文学も亦この科学的探究を踏み渡った揚句、課題を新たにした事物の探究[#「探究」に傍点]である。処で科学の探究の対象は真理[#「真理」に傍点]と呼ばれる。之に対して、文学の探究の対象が道徳・モラル[#「道徳・モラル」の「・」を除く部分に傍点]なのである。この人間的(実は「自分」の)真理は吾々のムードやマナーの末にまで現われるのだ。かくて道徳・モラルとは、一身上の真理[#「一身上の真理」に傍点]のことだ。
だから道徳とは、丁度科学的真理がそうであるように、常に探究される処のものなのだ。その点から見れば、道徳は与えられた道徳律や善悪のことや一定の限定された領域などのことではない。特に、科学が決して、真理と虚偽との対立を決めるというような妙な形の興味を有つものではないと同じに、何が善で何が悪かというような設問の内を堂々巡りしていることは、道徳の探究の道ではなく、従って又道徳の本義ではないのである。
道徳が自分一身上の鏡に反映された科学的真理であるという意味に於て、道徳は吾々の生活意識[#「生活意識」に傍点]そのものでもなければならぬ。そういう生活意識こそ偉大な真の常識というものだろう。そしてこの道徳を探究するものこそ、本当のそして云わば含蓄的な意味に於ける文学[#「文学」に傍点]の仕事なのだ。モラル乃至道徳は、「自分」が無かったように、無だ。それは領域的には無だ。それは恰も鏡が凡ての物体を自分の上にあらしめるように、みずからは無で而も一切の領域をその内に成り立たせる。
私が道徳を社会科学的に見ることに満足しないで、何か文学的に見ようとした、と或る種の人達は考えるかも知れない。併し科学が文学に解消でもして了わない限り、道徳を文学の探究対象のことに他ならぬと見ることは、決して道徳に就いての余計な観念でもないし妙な観念でもない筈だ。何となれば、もしそうでなかったら、一体、文学というものは何のために、何をなしつつ、存在するのか。
(第四章に就いては拙著『思想としての文学』〔本巻所収〕――特にその第一項――を参照。)
底本:「戸坂潤全集 第四巻」勁草書房
1966(昭和41)年7月20日第1刷発行
1975(昭和50)年9月20日第7刷発行
入力:矢野正人
校正:小林繁雄
ファイル作成:野口英司
2001年5月16日公開
青空文庫作成ファイル:
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