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道徳の観念(どうとくのかんねん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-10-7 22:32:30  点击:  切换到繁體中文

第一章 道徳に関する通俗常識的観念

 道徳の問題を持ち出す際、いつも邪魔になるものは、道徳に関する世間の通俗常識である。ここで通俗常識というのは、常識があるとか常識がないとかいう、ああした人間の共通な生活必需観念の謂ではなくて、却って世間の人がごく便宜的に大まかに粗雑に振り回している処の、出来合いの観念のことを云うのであるが、この意味に於ける通俗常識は、事物を少し細かく検討しようとする時に、大抵邪魔になる。これは今更ここで説くまでもないことだろう。だが今の場合、事が道徳の問題に関してだと、この邪魔になり方が普通の場合に較べて比較にならぬ程甚だしいのだ、ということを注意したいのである。それはなぜかというと、後に説明するように、道徳そのものが実は或る一定の意味に於ける常識に他ならないからで、常識自身はそこまでつきつめて考えないに拘らず、道徳とは常識そのものと斉しく生活意識[#「生活意識」に傍点]全般を総括する名称だと考えられねばならぬだろうからである。生活意識全般は、或る一定の意味の常識なのだ。
 尤も道徳というものに関する常識的な観念が、道徳というものに就いての理論的な分析省察の邪魔になるからと云って、この常識自身と全く別な世界にぞくする言葉で道徳を説明するのでは、元来道徳の説明[#「説明」に傍点]でも何でもなくなって了うだろう。そういう意味では道徳の理論的な観念はいつも道徳の常識的観念を縁とすることによって、その検討が始められねばならず、そして終局に於て、常識的道徳観念からの絶縁としてではなくて却ってそれの深化又は変貌として、道徳に関する理論的概念を取り出さねばならぬ。だがそのためにも、道徳に就いての常識的な観念が、殆んど迷信に近いまでに頑なで有害なものだということを知らねばならぬ。
 常識はまず第一に、道徳というものを社会構造の領域乃至文化領域の一つだと仮定している。と云うのは、社会機構の諸層は常識によると、経済・政治・社会関係・道徳界・芸術・宗教・学問・等々に区分されている。この区分法の原理を吟味して社会構築の段階として之等のものを適当な順序に排列するのだとすれば、この区分をすること自身は科学的なことで誤りではないのだが(史的唯物論の不朽の功績の一つはここにある)、併しそれにも拘らずその場合にも、あくまで道徳に関する通り一遍の常識を利用[#「利用」に傍点]してそう云っているのであって、道徳なるものに関するこの場合の常識的想定そのものに就いては、なお問題を残しているのである。史的唯物論がそこで[#「そこで」に傍点]問題にしているのは(併し他の場合には問題がもっと変らねばならぬが)、所謂道徳なるもの(と云うのは「常識的に」道徳と呼ばれている処のもののことだ)が決してそれ自身絶対に独立した全く独自な原則に立つものではなく、実は社会機構に於ける下部構造の上に建てられた処の、そしてこの下部構造を原因とする一つの結果としての、上部構造の一部分に他ならぬ、ということであって、この所謂道徳なるものが実はどういう含蓄を有つものであるかは、その限りではしばらく論外におかれているのである。
 従って、道徳がそうした何か判り切ったような一領域であり、他の諸領域との区別限界などが初めから知れ切ったものであるかどうか、それはまだその限りでは問題ではないのだ。つまり史的唯物論が道徳に対して、そのイデオロギー論的段階づけによって一定の領域を指定した限りでは、さし当り常識で道徳と呼んでいる処のものはここに位置するものだということを、科学的に単に指示したに過ぎないのであって、それ以上に、この常識的な道徳という観念によって指し示された領域が果してそのままで充分に理論的に不都合のないものかどうかは、まだ問題になっていない。――だが史的唯物論によるイデオロギー理論乃至文化理論は、問題を当然そこまで押し進めなければならない筈だ。そうすると、一体道徳とは何かということが初めて根本的に問題になる。一体道徳という観念[#「観念」に傍点]が何かということからが問題になって来ざるを得ない。道徳なるものの占める領域がどこからどこまでに渡っているかというような領土問題などは、その時、道徳という観念の如何に対応する名目的な問題になると云うことが出来るかも知れない。
 道徳の領域は常識によると大して問題にならない程度に判然としているように思われている。例えば法律で禁じられていないに拘らず道徳では禁じられている行為がある。これで見ると恐らく道徳の領域は法律の領域よりも広く、そして又恐らく之を含んだものだろう、という風に考えられる。法律で禁じられていても道徳的には正しいと意識される場合も、今日のブルジョア的乃至半封建的法律では決して少なくないが、それは元来道徳そのものが二つに(階級的に)分裂しているからで、一方の側の道徳から見て善い行為も、他の側の道徳から見て悪いということになっていればこそ、法律上でも禁止されているわけだし、それにこの点をもっと便宜的に片づけるには、悪法も法である以上之に従うことが道徳的だという風に形式化して考えれば、咄は極めて簡単だ。とに角道徳界と法律界との限界は判然としているように見るのが、常識である。
 経済領域と道徳領域との区分も亦、常識的には一応判然としている。物質への興味と精神への興味とは相容れない裏表であると考えられている。カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ、と云うのである。史的唯物論は生産関係によって経済関係乃至社会関係を説明するのであるが、道徳も亦この生産関係から終局的に説明される。それはすでに云ったことだが、その場合にも依然として経済関係(乃至社会関係)と道徳との常識的限界を利用している。と同じに道徳と政治との限界さえが常識を利用して設定されている。尤もこの常識を利用したからと云って、この理論自身が常識を仮定しているということにもならず、ましてこの理論が常識的だということにもなるのではないが、にも拘らずここで常識的限界が利用されているという事実は今大切だ。
 史的唯物論を模倣した一例はF・シュタウディンガーの著書『道徳の経済的基礎』(岩波文庫版)である。之によると経済が道徳を決定するというのであるが、処がこの道徳なるものは、要するに単に社会秩序乃至社会機構のことに他ならないのである。人間相互の物的関係や利益社会関係や共同社会関係が道徳の材料であって、この共同社会関係が他の社会関係の上位に位するようになることが、取りも直さず道徳ということだと考えられている。従って道徳は、もはや経済機構自身や社会機構自身と領域的に別なものではないので、社会全体が道徳的本質に他ならぬものとなる。社会主義も亦一つの倫理学に帰着する。政治も亦道徳に他ならない、ということになっているわけである。――社会を道徳に還元することは独りシュタウディンガーに限らず、多くのカント社会主義者(乃至カント主義的マルクス主義者)の共通特色であって、一見之は、道徳や倫理を、もはや常識的な狭い領域にとじこめられた観念としてではなく、之を最も広範な含蓄を持った観念にまで深化するもののように見えるかも知れない。だが実は、これこそ何よりも、道徳の独立領域[#「独立領域」に傍点]という常識観念の誇張の結果そのものなのだ。
 カントは経験界とは全く独立な之とは全く絶縁した本体界を、英知界を、道徳の世界・道徳の領域と考えた。之は道徳という領域が何かハッキリと決って他の領域から機械的に限界されて横たわっているという一つの根本的な常識を、批判体系の根柢として採用したことであって、シュタウディンガーやM・アードラー、フォルレンダー達のカント社会主義者は、多かれ少なかれ、この常識のこうした科学的合法化の後継者に他ならなかったのである(この点に関しては米田庄太郎『輓近社会思想の研究』上巻が参考となる)。
 道徳の領域が何かハッキリしているように想定されるのは、実は道徳に関する観念自身が機械的に固定しているからなので、道徳という観念と他領域の観念との間に機械的に限界を引き得るとか、道徳という観念は固定不動なものだとか、考えることに由来する。そしてこういう考え方は要するに道徳の内容そのものが固定不動なものだという考え方から脈を引いているのである。――なる程道徳と名づけられる一つの領域が存することを、吾々は何としても疑うことは出来ないだろう。だが夫は何も道徳という独立な世界がどこかでハッキリとした柵をめぐらしているということにはならぬ。問題はいつも道徳の領域と他領域との交流[#「交流」に傍点]であり而もその本質的な交流なのだ。道徳と政治との交流はシュタウディンガーも触れているが、卑俗な形では現に政治の倫理化とか政教一致とかなって現われている。特に道徳と法律との交流は著しいので、ヘーゲルなどは両者を「抽象法」の名の下に一緒に取り扱っていると云ってもよい。アメリカの法律家ロスコー・パウンドは実際家の見地から、この交流に就いて興味深い分析を加えている(『法と道徳』高柳・岩田訳)。
 だがそれより以上に大切なことは、一体道徳なるものが、一般に一つの領域だ(その限界は機械的に与えるべからざるものでその内容も固定不変なものではないとして)と云って片づけられ得るかどうかなのだ。と云うのは、道徳は社会関係・政治関係・法律体系・其の他其の他と並列[#「並列」に傍点]する一領域であると考えられるにも拘らず、他方之等一切の諸領域の一つ一つに接着していることをも見落すことが出来ないのである。そういう関係があればこそ、社会そのものが道徳的本質に還元されたり、政治や法律が単なる道徳に帰着されたりするということも初めて可能だったわけで、社会主義が倫理学に包括されて了うという誤りも、決して理由なしには発生しなかったのである。でもしそうだとすると、道徳はもはや単なる一領域であるに止まらず、恐らく一領域であるにも拘らず他領域をも蔽うか又は之に付随するかする処の、或るものだと云わねばならぬ。之をなお或る種の領域だと云うことは自由だが、それはもはや之まで云って来た意味での一領域ではない。
 だから、例はやや飛躍するが、プラトンが善のイデアを最高のイデア、諸イデアのピラミットの頂点と考えたことには意味があったわけで、善のイデアはもはや他の諸イデアと並列したものではなく、一段と高いオーダーにぞくすることを意味するのだと解釈すべきだとも云われている。だがそうだからと云って誰もプラトンを汎道徳主義者や倫理主義者に数えようとはしないだろう。――つまり凡てのものを道徳に還元しようという各種の汎道徳主義乃至倫理主義なるものは、実は凡ての他領域の事物を、道徳という一つの領域[#「領域」に傍点]に還元しようとするからこそ誤っているのであって、之は、道徳というものをどこまでも一領域にすぎぬものと仮定しておいた上で、さてこの特別な一領域を無遠慮にも世界の全領域に押し拡げよう、という仕組みに他ならない。常識はいつでもこの種の手口を便宜に思うもので、教育学者や教育家は、教育というものを何か自分達の専門[#「専門」に傍点]の領域だと仮定した上で、この専門領域の内に世の中の一切のものを抛り込んで了おうとする。徳育や修身の専門家(?)が養成されるのも、日本のこの教育専門家の領域[#「領域」に傍点]からであるが、そうした道徳の専門家の考えは、道徳が生活の特別な一領域であり従って[#「従って」に傍点]又生活の全領域を含む領域だという、道徳領域説の常識が、漫画になったものだ。
 道徳が生活場面の一領域の意味に尽きると考えることは、道徳に就いての常識的観念の第一の不備な点であった。之によるとスッカリ道徳にぞくするものと全く道徳にぞくさないものとが、ハッキリ区別されるわけだが、併し之ほど都合の悪い結果を伴うものはあるまい。芸術は芸術であって道徳とは別だという。それでは芸術に於ける道徳=モラル程、無意味なものはなくなるわけだ。内容は道徳でも形式は道徳ではなくて芸術だと云うのだろうか。だが道徳の形式とは何だろう。それはもはや常識が答え得る問いではないかも知れないが、自由意志の自律に従うとか、目的意識的行為の形を取ったとかいうことだろう。処が自律に従わなかった場合も決して道徳の領域外にあったのではなくて、却って反道徳・不道徳という刻印を捺されるために、あくまで道徳の領域の内になければならぬ。実践的行為の形を取るということが道徳の形式でないことは、芸術的創作だって実践的行為だし、単に善いか悪いか何かを考えただけでも立派に道徳的な問題にぞくする、そういうことを考えて見れば判ることだ。――道徳なるものは、だから生活の一切の領域に、或る仕方に於て着き得るのだ。どういう権利でどういう仕方で着くかは、後に見ようと思うが、とに角その意味に於て、道徳とは生活意識そのものを意味するのだと、仮に云っておくこととしよう。念のため断わっておくが、道徳は確かに一応、常識がそう想定している通り、生活の一領域のことなのだ。にも拘らず、それに尽きることなく[#「それに尽きることなく」に傍点]、根本的には生活意識そのものを意味するという含蓄を有つものだ、と云うのである。

 常識による道徳の考え方の第二の特色は、道徳を善価値[#「善価値」に傍点]だと考えて片づけることだ。という意味は、道徳とは道徳的なこと[#「道徳的なこと」に傍点]であり善であることだ、というのである。尤もこの常識は少し常識的に反省して見ても可なり動揺せざるを得ないもので、もし道徳ということが善であるとしたら、悪は道徳の外に逸して了わざるを得ないだろう。それから、もし仮に悪をも道徳に数えるならば善と悪という道徳的価値の対立が理解出来なくなる、というわけだ。
 このディレンマに類する関係は確かに、道徳を例の仕方に従って領域的に考える処から生じる。道徳という領域を善であることの領域に限定するから、悪なる領域をも含む筈の道徳領域が説明出来なくなるのである。善悪という(仮にそういう常識的用語を借りるとして)道徳的価値対立[#「価値対立」に傍点]の関係をば、なお領域的に考えることから起きる困難なのだ。
 併しそうだからと云って、道徳という領域が現に存するという事実と無関係に、単に善悪という対立だけを道徳現象だと云って片づけることは出来ないことだ。領域という空間と関係なしに、価値の対立という力関係を考えることは、全く人工的なことに過ぎないだろう。道徳は一つの領域だ、処が道徳的であることは価値対立の一方を選ぶことだ。この対立関係も領域も、どれも道徳的であると云う他あるまい。――だがこの点は常識が心配する程困難なものではなく、吾々にはこの常識の二つの矛盾した要求を調和させることは容易だ。例えば人間界という一つの領域には色々の人間が充満している。どの人間も間違いなく人間だ。どの人間も領域的には皆人間的[#「人間的」に傍点]だ。処がその内にこの人間界全体と対比して見て比較的人間界の一般共通の性質をよく代表しているのとそうでないものとの区別が、事実この領域内の内容に就いて発見される。前者はそこで、価値的に云って人間的[#「人間的」に傍点]であり、後者は之に反して人間的でないと云われることになる。この関係はそのまま道徳にもあて嵌まる。道徳という領域の内容をなす夫々の道徳現象は、領域的には皆道徳的[#「道徳的」に傍点]だ、処が価値的にはその領域に最も相応わしいものだけが[#「だけが」に傍点]最も道徳的なのだ。一般に価値は各個現象が全体現象に対して持つ比例の区別を、抽象して強調誇張する処から発生する。道徳価値の対立は道徳領域の内容たる全道徳現象の単なる比例関係[#「比例関係」に傍点]から発生するのだ。
 善価値(悪という反価値の対立物としての)にだけ道徳を認めようという常識の権利とその失権との消息は右によって略々明らかになったと思うが、併し道徳を価値的に道徳的[#「価値的に道徳的」に傍点]であることに限定したり又は専らそこを強調しなければ気が済まなかったりするのには、他に一つの動機が伏在しているのである。云う意味は、道徳なるものを人間の或る特別な独立な属性と考えていると云うのだ。つまり人間性には善の性質と悪の性質とがあって、善の性質を有った人間が、善人であり道徳的人物であり、悪の性質を持ったものが悪人で不道徳漢だというわけなのだ。或いは人性初めから善であるとか又は初めから悪であるとかいう穿鑿も亦、ここにぞくする考え方なのである。これによると道徳とは結局人間性の一性質に過ぎぬわけで、人でなしは往々にしてこの大事な人間性を欠くが故に人非人だということになる。
 人間の性善と性悪との対立によって、その善性だけを人間の道徳と見做すということは、事実甚だ通用性を有った常識であることを注目せねばならぬ。スティーヴンソンの『ジーキル博士とハイド氏』(この小説はキリスト教を唯物論から擁護しようとして書かれた点が探偵小説以外の興味をなすが)は、この常識の文学的な典型だろう。ジーキル博士は善で道徳であり[#「道徳であり」に傍点]、之に反してその二重人格の片割れたるハイド氏は動物性や野性を帯びているので悪であり道徳でない[#「道徳でない」に傍点]、と云った調子である。この常識は人間の心理や文学的真実に無知な新聞の社会面などに於ても、価値評価の原則になっている。あそこで「悪」とか「社会悪」とか呼んで判ったように説いているものの空疎さは、何人も気付いている処と思う。
 この常識は極めて容易く人格者と非人格者とを区別する(〔貴族院や衆議院〕の議員候補者はいつも人格者として紹介される)。まるで人格という属性を有った人間と之を欠いた人間とがいるかのように。之は又知識と人格とを区別する原理ともされている。知育に対する徳育、頭に対する肚、能力に対する精神、等々の卑俗な対立区分は、どれもこの常識的道徳観念から来るのである。――領域に就いて、道徳が独自な独立した一領域に他ならぬと考えたように、それと同じ調子でこの常識は、人間性に就いて、道徳が独自な独立な一属性だと仮定する。人間の肉体のどこかに、道徳の器管でもあるような風だ。
 悪というものが反道徳であり、之に反して善が道徳的だということを、疑う人はいない。善とか悪とかいうことが何であるかは今殊更問題にしないとすればだ。そして善悪の価値対立が道徳現象だということを疑う人もいる筈はない。だがそういうことと、人間生活の諸事象を、之は善之は悪という風に篩い分けるということとは別だ。処が道徳を善悪の対立につきると思ったり、又善だけが道徳だと云いたがったり、又そこから人間に道徳的器管を想定したくなったりするのは、他の必要からではないので、正に之は善之は悪という風に、節分の豆撒き式の処置を取ろうという心がけからなのである。常識のこの安易な心がけが、道徳に就いての理論を妨害する第二の性質であるのだ。――道徳とは何か[#「道徳とは何か」に傍点]という問題では、すぐ様例の第一の領域道徳主義の常識が妨害を試みる、何が道徳か[#「何が道徳か」に傍点]という問題ではこの第二の善悪道徳主義の常識が妨害を試みる。吾々はこの常識を掣肘しなければ、道徳を理論的に取り扱うことが出来ない。
 この第二の常識的惰性に直接関係あるものは、云わば徳目[#「徳目」に傍点]道徳主義である。道徳を善悪問題と決めて了い、やがて道徳は善だと決め、それから道徳は人間の善性だと決めるから、ではその善性は何々かと云うことになって、知仁勇とか、仁義礼知信とか、忠孝とか、忠君愛国とか、三従の婦徳とか、という徳目(Virtues)が念入りに算え上げられる。で今やこの徳目を覚えることが、之を学習したり暗記したりすることが、そしてこの徳目の活用宜しきを得ることが、道徳となる。こういう常識による道徳は修身[#「修身」に傍点]なのだ。之は徳目の運算なのだから教科書も可能だし試験も可能だ。道徳的なカテキズム(教義問答書)や倫理的カズイスティクが、スコラ論理学のような意味で可能になる。――で人間の人間的性能は諸徳目の化合物かコロイドか混合物と見立てられる。
 だが修身の特色は、この徳目を永久不変な人間性の元素と見立てることだ。これは道徳内容の(形式だけのではない)固定化を意味する。この徳目を社会にまで及ぼしたものが、国民道徳や公民道徳なのである。国民や公民の徳目は云うまでもなく絶対不動な人間性と絶対不動な国民的伝統とに根ざしていなくてはならないとされる。そう仮定することは、この場合の道徳が有つべき社会的強制力、而も外部的な社会強制力を合理化するために必要なのだ。かくて一つ一つの社会的道徳規範[#「道徳規範」に傍点]や道徳律[#「道徳律」に傍点]が、道徳の何よりの実質だということになる。そして道徳を道徳規範や道徳律として強調しようという常識は殆んど凡ての場合、その規範乃至道徳律が永久不変な内容でなければならぬと仮定している。――かくて徳目道徳主義の常識は、一般に道徳の絶対化、道徳の形而上学化、と必然的な連関を有つのである。この道徳に関する非歴史的な観念は、道徳に就いての常識観念の内最もよく注意されている欠陥であって、事実、道徳全般の一つの秘密は、事物の変化を観念の不変物でおき代えることにあると云ってもいいからだ。このようにして、道徳を道徳律[#「道徳律」に傍点]だけに集中しようとするのが、常識的な道徳観念の第三の欠陥だ。
 だが注意すべきは、仮に道徳規範や道徳律が永久不変な形而上学物と考えられずに、歴史的に変化発展するものと想定されているような場合でも、この想定は多くは単なる想定に止まるものであって、実質的には道徳律を変化発展するものとは考え得ていないのだ、という点である。一体一定の内容を一時的にせよ固定させない限りは、道徳規範にも道徳律にもならないことは云うまでもない。処が道徳内容を一時的にしろそういう固定物に転化することは、つまりその後之を公式として運用するためでしかない筈だが、そうならば之は道徳を例の徳目運算におきかえることに他ならない。道徳律や道徳規範を専ら道徳として尊重するのは、この道徳律や道徳規範がなるべくそのまま[#「そのまま」に傍点]役に立つような詳細さを備えていることを要求することでなければならぬ。処がそういう一つ一つの事項にレディメードに役立つような詳細道徳律は、未だかつて生きた変化する道徳を云い表わし得た例しがない。所謂修身の徳目以外に事実詳細道徳律はないのである。
「万国のプロレタリエルは結束せよ」というのを仮に道徳律[#「道徳律」に傍点]として選んだにしても、之は決してそのまま徳目的に役立つ詳細道徳律ではあり得ないだろう。――だから道徳の名に於て道徳律や道徳規範ばかりに力を入れる常識は、決して道徳の理論的理解を促進するものではあり得ないので、こうしたものを含めて私は、徳目道徳主義の常識としての惰性を指摘すべきだと考える。
 道徳が不変不動な絶対物であるという常識の方は、この徳目主義乃至道徳律主義に較べればまだ度し易いとさえ云っていいだろう。なぜというに、この批難はあまりに屡々云われていることで、今日では寧ろそれ自身常識に化しているだろうからだ。のみならず之はすでにカント自身に於ても意識されていることで、であればこそ彼はその無上命法という最高道徳律を、特に形式的[#「形式的」に傍点]なものとして強調したわけだ。それに、道徳律の時と所によるヴァラエティーに就いては、近世以来殆んど総てのブルジョア実証社会理論家の研究が常識となっている。この常識を知らないものは高々眼のない哲学者か倫理学者先生に過ぎないのだ。
 だが道徳の不変性を要請すること、それは道徳を専ら徳目乃至道徳律として見なければならぬという常識と結局一つのものに帰するのであったが、之は、単に事物を固定した運動のないものと見立てるという例の形而上学的な態度より以上のものを、含んでいる。その点を今注目しなければならない。単に自然物や或る種の社会関係が不変であるという思想は、云わばまだその不変物の真の意味での絶対性[#「絶対性」に傍点]を、即ち絶対的権威や圧力を、主張することではない。例えばキュヴィエがジョフロア・サン・ティレールに反対して夫々の生物の種の不変性を主張した時、彼は必ずしもこの種を絶対的な権威ある存在と考えたということにはならぬ。処が例えばこの夫々の種が神の造り与え給うたものであるが故にとか、イヴの腹に初めから仕込まれてあった限られた一定の数のものであるが故にとかいう理由で、種の不変性を主張するならば、その時この種は何等か絶対的な権威[#「権威」に傍点]をもったもの、真に絶対的なもの、となる。之を実証的に覆した進化論も、この絶対的権威を覆したと考えられる限りに於て、初めて批難[#「批難」に傍点]や賞讃[#「賞讃」に傍点]の対象となるのだ。――つまり道徳の問題となる時初めて、不変者は真の意味での絶対者となる。神聖にして不可侵なもの、批評を加えるべからざるもの、となるのだ。
 だから道徳の不変性という観念は、単なる不変性の観念ではなくて、神聖な絶対者、批判すべからざる不可侵物、という観念なのである。事物の不変性は価値評価の世界では事物の神聖味[#「神聖味」に傍点]となって現われる。道徳はそれ自身価値ではなく、却って道徳的価値対立(普通之を善悪と呼んでいる)を強調によって成り立たせる或る領域か或いは領域以上のものであることを述べたが、にも拘らず之は道徳が要するに価値的なものであることを云い表わしているのであった。この価値[#「価値」に傍点]の世界に横たわる処の道徳の不変性を主張するということが、その神聖な絶対性を主張するということになるのは、当然なことだ。
 今は一般に価値というものの理論的分析を企てる機会ではないが、或る学者達の所説によると、一切の価値が、真理価値も美的価値も、それが価値であるという資格を得るためには、或る意味での道徳的価値に帰するというのだが、仮にこの所説を利用するとすれば、真理の評価や芸術的判断に於ても、道徳的評価と同じく、その絶対性と神聖味とが強調される所以は、見易い理屈でなければなるまい。絶対真理(相対的真理に対す)も事実上、一定真理の神聖不可侵、不可批判性、を意味している。認識論上の絶対真理の主張(機械論的・形而上学的・形式論理的・認識論のもの)は、つまり法皇やツァールの真理の権威を擁護することに他ならないわけだ。――処でこれは皆、外観では道徳の例の不変性の主張に帰するのである。
 常識によって想定される道徳の不変性とは、常識の立場にとっては、凡そ道徳なるものは神聖にして侵すべからざるもので、断じて批判の対象になってはならぬ、という想定なのである。常識にとっては道徳そのものを批評批判することは、云わば第一に言葉の上でさえ矛盾したことなのだ。吾々は不道徳をこそ批判すべきであって、道徳そのものを批判することは、原則的に不可能だと考え得べきだろう。と云うのは批評批判する場合の尺度そのものが、他ならぬこの道徳なのであるから、布地で物指を測ることが無意味なように、道徳を批判することは意味がないのだ、とも考えられる。
 なる程事物を価値評価するものがこの道徳である以上、道徳自身を以て道徳を批判するとでも考えない限り、道徳の批判は不可能な筈だ。処でこの神聖な道徳を神聖な道徳自身で批判することは、神聖不可侵な王様が自分を束縛する法律を発布するようなもので、不可能なことか八百長か、のどっちかだ。――でこういうわけで、常識が道徳を不変なものと考えたがることには、表面的に考えて気付かないような深刻な内容があるのである。
 だが云うまでもなく道徳は不変ではない。それは歴史の教える処だし、現今の未開人の道徳と吾々やヨーロッパ人の道徳とを較べて見れば判ることだ。そして更に、今日の道徳は何と云っても徹底的に批判されねばならぬ理由が存する。なぜなら今日の既成道徳――ブルジョア的及び半封建的道徳――の殆んど凡ては、吾々勤労者の階級から見れば明白に吾々人間の解放の妨害者以外の何ものでもないからなのである。併しでは、この道徳は如何にして何に基いて、批判され得るのか。既成道徳そのものがこの道徳を批判し得ないことはすでに述べた。では新しい何等かの道徳によってであるか。だが新しい道徳はどこにあるか、或いはどうやって探しどうやって建設されるのか。仮に自然と新しい道徳が生じて来たにしても、どういう権利根拠で之が既成道徳を克服出来るのか。お互いに相手の道徳が不道徳だ、悪い、と云い合うにすぎないではないか。それは子供の喧嘩か日本の政治家の演説のようなもので、なぜ悪いかを筋道を立てて説明することが出来ないではないか。

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