古くダンテがイタリア語の父であるとされ、又降ってルターがドイツ語の完成者と云われるように、ルネ・デカルトはフランス語の恩人とされている。ダンテの『神曲』、ルターの『新約聖書』の翻訳に、その意味で比較すべきものは、『方法叙説』と呼ばれているあの Discours de la Mthode である(之は屈折光学と気象学と幾何学との後から書かれたものでこれ等の序説の意味をも有っている)。これはデカルトの母国語であるフランス語で書かれた殆んど最初の哲学書である。而も人の知る通り、最も貴重な思想的意義をもった哲学書である。
それ以前の学術書で、ラテン語で書かれずにフランス語で書かれたものは、一つか二つしかなかったと云われている。学術用語として無条件の権威のあったラテン語を用いずに、日常の俗語であるフランス語を使って哲学の根本問題を論じようとしたことには、吾々が今日想像する以上の重大意義がなければならなかったと共に、又想像以上の決意をも必要としたものであったろうことを、思って見ねばならぬ。古典的な著書を、著述された実際の雰囲気の中にありありと眼に浮べて見ようと試みたことのある人ならば、誰でもこの推定をしないわけには行かないだろう。
デカルトは『方法叙説』の終りの辺で、みずからこの問題に解答を与えている。「私が私の先生の言葉であるラテン語で書かずに、母国の言葉であるフランス語で書いたのは、自分自身の本来の極めて純粋な理性しか用いない人の方が、古人の書物しか信じない人よりも、私の意見をよく判ってくれるだろうと思うからだ。良識と探究とを結びつける人こそ私の審判官として望ましいのだが、そういう人達は、私が自説を俗語で説いたからと云って、その理解を拒むほどに、ラテン語のひいきではなかろうと信じる」、と云うのである。
フランス語のよくは読めない私自身は、この『ディスクール』の文章全体が果して純粋な美しいフランス語であるかはどうか判定の限りではない。多分良いフランス文であろうとは想像している。だが、デカルトのフランス語に対する功績は、そういう作文問題にあるよりも、勿論もっと根本的な処に横たわる。と云うのは、この俗語を以て最も厳密な思案の道具としたという、フランス語に対するその信任の厚さに、功績があるわけだ。之は一応は言葉や国語の問題ではあるが、だが決してそれだけの問題には止まらない。実を云うと、そういう俗語によって表わされる観念の問題であり、使われる概念の問題であり、運用されるカテゴリーの問題なのである。
するとこの俗語への信任は、全く伝承的な惰性を脱却した思考法への信頼、ということに他ならないことがわかる。逆に、そういう自分自身の苦心から始まる思案の方法、伝承的な惰性や又学者社会の習慣的な約束から全く独立した思惟、をやる決心、そういう思考態度をみずから例示しなければならぬ筈のこの『叙説』の如きはワザワザ俗語を使うことによって、或いは使いこなして見せることによって、その意義の疑うべからざる所以を実証し得なければならぬという理屈になる。つまり最も日常的な平俗な俗語によればよるほど、わが『ディスクール』の所説自身が、より実地に証拠立てられるわけだ。
尤も、この点になると、デカルトの恐らく極めて意識的に注意を払った方針にも拘らず、必ずしも極端に徹底しているとは云えない。と云うのは、時々、恐らくやむを得ないというような仕方で、この場合では学術上の寧ろ安易なコンヴェンションであるラテン語をば、説明のために括弧に入れているからだ。俗語ではなお不安だと考えられる個所もあるわけである。だが勿論そんなことは、揚げ足取り以外に、今大した苦情にはならないだろう。
フランス語で書いたのは、この『ディスクール』と、エリザベト女皇のために書かれた『パッション』論だけだ。尤も『メディタチオネス』や『プリンキピア』(いずれもラテン原文)の仏訳語については、デカルト自身責任を取っているが、処が併し『ディスクール』をフランス語で書いたという根本精神は、即ち「古人の書物」によらずに「生来の最も純粋な理性」によって物を考えるという根本態度は、実はもっと広く、デカルトの著述の全体を一貫する或る一つの特色としても現われているのである。
彼の著述態度或いは身振り(ポーズ)の著しい特色の一つは、広義に於ても狭義に於ても、引用というものを利用することが極めて少ないという事である。リフェレンス又はアリュージョンという形の引用さえ少ない、ということである。デカルトはこうした引用を極度に避けただけでなく、自分の思想の様々な源泉に通じる要素が、先人に負う所のありそうな個所をば、極力抹殺し、マスクをかぶることに努めている、とさえ批評されている。所がA・コワレ(『デカルトとスコラ哲学』)などのいう所によっても、デカルトは決して古人や先輩の書物を読んでいないのではないのだ。ひそかに大いに読んでいる。必要な本が手に這入るまでは脱稿をのばしたとか、聖トマスの『スンマ・テオロギカ』やスアレスの本を携えて旅行に出たとか、という事実も挙がっている。
ガリレイの裁判事件を聴いて極度に衝撃を受け、自分の著述活動に恐らく必要以上の政治的要心をしたらしいデカルトの性格と、今述べたこの著述態度との間には、恐らく関係があるのだろう。コワレも云っている。「彼は決して引用をやらない、やってもアルキメデスやアリストテレスの名を挙げるだけである。のみならず例えば明らかにアウグスティヌスやアンセルムスの真似だと思われると、自分がまだ読んだことのない先人と偶然な思いもよらぬ一致を見出したと云って、驚き且つ喜んで見せるという子供らしい又少し滑稽じみた芝居を始めるのだ。そして全くの詭弁や甚だ芳しからぬ説明を用いて、自分の説とその先人の説とが相違しているという苦しい区別を探し出すのである」と。
だが彼のこういう一面の性格に関するらしいことは今問題でない。実は彼こそ最もすぐれたスコラ哲学の悉知者であった。彼の思想の源泉は、ありと凡ゆる処から来ている。恐らくデカルトは、一般にそういう文献学的な(スコラ的・学校的)知識において甚だ豊富な学者であったと推定される。そして特にスコラ哲学的教養に至っては、彼の「近世的」なそして独創的な哲学そのものの、根本的な素養をなすものだと云われている。彼はただそれをあからさまに、それとは示さないように心掛けたわけだが。
デカルトの本当のオリジナリティーは、この伝承的な教養をそのまま使う代りに、これを分解しすりつぶして、自分自身の観念と言葉とによって、自分自身気のすむように築き上げ直そう、というその極めて懐疑的であると同時に極めて建設的な決心の内にあったと見ねばならぬ。そう見れば云うまでもなく、さっきから述べて来たような引用抹殺のポーズは、決して虚勢や何かではなかったことがわかる。そしてそれが云わば露骨に、見本のように現われたのが、他ならぬ『ディスクール』であったのだ。
かくて私はデカルトの俗語によるこの哲学著述において、アレキサンドリア的・スコラ的・(それからもっと一般に種々の)文献学主義に対する最も近代的な批判の精神を見るのである。彼は「引用」というもののもち得る科学上の弱点に対する最も鋭い批判者である。学術的僧侶用語に対する最も大胆な挑戦者である(事実僧侶生活と無関係ではなかったに拘らず)。この文献学主義に対する反対態度は、すでにF・ベーコンの「劇場の偶像」の打倒のモットーとしても現われているし、更に溯れば、ルネサンスにおける「書かれた知恵」に対する「自然の知恵」の高唱としても現われている。だからデカルトはこの意味において最も近代的な哲学者であり従って又近世哲学の祖でもある、と云っていいわけだ。
普通、デカルトの自我問題を以て、近世哲学は始まると考えられている。私は必ずしもこれに同意することが出来ない。近世哲学はF・ベーコンの「唯物論」を以て始まると見るべき世界史的理由があると思うからだ。しかし唯物論の最も重大な批判的要点である「フィロロギー主義反対」(これはすでに唯名論の形から始まる)をば最も自覚的に意識的に企てた人としては、そしてこれを『ディスクール』という実例を以て実演さえして見せた人としては、デカルトを第一位に推さねばならぬ。デカルトのこの歴史的意義は、単に近世的や近代的であるというだけではない、これこそ正に現代的な意義だというべきだろう。
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