ひとり日本に限るわけではないが、特に現在の日本に於ては、含蓄ある意味での科学論が、多少とも進歩に関心を持つ社会人の溌剌たる興味の対象になっている点を、私は注目したい。近代日本の科学論の歴史は勿論決して新しくはない。特に社会科学乃至歴史科学に就いての科学論的反省は、叙述そのものにとっての日常不可欠な要点をなすので、夙くから注目されている(愚管抄の昔からあるにはあるのだ)。近代で最も先駆的な段階は恐らく田口鼎軒氏の『日本開化小史』などに見られるだろう。
著しい例として挙げた田口氏のこの歴史叙述が、遙かに、世界大戦直後から日本に於て文化的時局性を帯びて来た史的唯物論に連続していることは、云うまでもなく、そして史的唯物論が今日、歴史科学・社会科学・に関する科学論の圧倒的な内容であることは断るまでもない。同様なことは自然科学に就いても、多少の割引と共に、あて嵌まる。但し近代的技術学との連関に基く「自然科学」なるものは、日本に於ては全く新しい文化内容であったから、それに関する科学論は、他よりおくれて世界大戦前後に初めて始まるのである(田辺博士の小著『最近の自然科学』はその意味で特徴的なものだろう)。特に自然弁証法を内容とする自然科学に関する新しい科学論は、つまり唯物論の立場から統一点を与えられた実際的な科学論は(之は日本だけではないどこでもだが)、ごく最近の仕事に属する。――で今日、日本文化的時局性に於て溌剌たる現象を呈している科学論一般は、唯物論に対する向背如何に拘らず、実は唯物論的な科学論議をめぐって現われていると云っても云い過ぎではあるまい、というのが私の見解だ。
だが、元来科学論は科学そのものからの反省的な産物であるにも拘らず、矢張り一種の相対的独立性を持って世界の思想史の上を歩いて来ている。科学論は科学そのものとは往々にして独立な契機をみずから工夫することによって、思想史的な発展をして来ていることも忘れてはならぬ。そんな科学論などは、宙に浮いたもので観念的な過剰物にしかすぎない、という批評も嘘ではないが、併しそうばかりは云えないわけがある。なぜというに人類の歴史には、浮き上っているにせよ早急にせよ、とに角思想という抽象を可能ならしめる一つの運動があるのであって、この思想というものの歴史から見ると、科学論の科学そのものに対する相対的な独自性という事実には、歴史的意義があるからである。
科学的精神というものも、宙に浮いたものであってはならぬわけだが、そうかと云って之を専門の科学者だけの精神と理解することは、勿論由々しい誤りである。例えば、科学的精神は科学を実際に研究することを離れては無内容だという考え方も、一見物を「具体化」すやり方のようだが、半面却って思い切った抽象なのだ。なぜなら、それでは専門の科学者でない一般大衆は、科学的精神に遂に近づくことを許されないのであるか、科学的精神は彼等には猫に小判なのであるか、と問わなければならなくなるだろう。科学的精神が一つの思想として、社会的実在性を有つ時には、之は科学の専門家だけによる反省的所産でばかりあるのではない。勿論専門家の科学研究をば指向的に貫くものであると共に、夫は歴史的経緯の結果として、同時に、人間生活全般を貫く大衆の生活意識の基調でもなくてはなるまい。生活全般・文化形態全般・が科学という文化の一ジャンルに解消して了うのでない限り、科学的精神なるものの思想的な抽象性と普遍的な流通性とには、実際上の意義があるのだ。そうでないとすれば「思想」というものを一般に否定する他ない。思想が犯す浮き上りの弊害、或いは寧ろそういう必然的な誤謬の故に、思想の抽象的流通性そのものの実在性をさえ、観念的に無視したり否定したりする結果となってはいけない。この必然的な誤謬を克服して行くという課題の実行の内にこそ、思想の真実が実現するのだ。この点現代の科学(自然科学と社会科学)の専門家乃至科学アカデミシャン達の一考を要する処であり、同時に彼等の社会的な位置と役割とに関する問題だ。――単にブルジョア科学者のことだけではない、唯物論的傾向にある科学者達に於てもだ。唯物論の「具体化」の名の下に、擬似ブルジョア・アカデミシャニズムに陥り込んではならないのである。
所謂科学論(之は勿論ブルジョア哲学と密接な関係があって発達して来た)というものも、科学に就いての思想的な所産なので、そこに一応相対的に独自な史的発達を有つ或る理由があったのである。云うまでもなく夫々の時代の科学と科学論とは密接な連関を持っている。だがこの連関が機械的に割り切れるようなものでないのが事実であったし、今日でも亦そうだ。それ故今日までの科学論が、主として専門の科学者ではない処の、而も夫々の専門科学の付近で物を考えた処の、哲学者達によって試みられたことには、或る充足理由があったわけだ。
だが、この独自の歴史を持った所謂「科学論」は、日本に於てはあまりに独自すぎる条件の下に、つまり科学そのものから孤立隔絶した条件の下に、輸入されたのである。科学のない科学論、科学と無関係な科学方法論が、日本の哲学界の一時の時局的相貌を支配した。それは世界大戦直後の数年間であり、文化哲学や批判主義哲学の流行と略々一致する。之によって日本の思想界の科学論時代が齎されたようにさえ見えた。尤も全然科学と無関係な科学論は、勿論あり得る筈はない。左右田哲学も経済学と無関係ではなかったし、新カント派の法理哲学に食いついたのは法学者であったのだ。そういう形で科学者特に社会科学者は、専門の領域が日本ではまだ若かったためもあり、著しく哲学的影響を蒙ったことが事実である。この点自信に充ちた自然科学者や惰性の大きな歴史家とは少し別である。併しそれにも拘らず、こうした科学論・科学方法論・は、単にそれが観念論哲学の一分枝に過ぎなかったからばかりではなく、輸入された果実として、花や幹や根をなす科学そのものからの相対的独立性を、全く孤立絶縁した形として受け取ったのである。現に当時、歴史哲学や歴史学方法論は日本の史学にとって殆んど全く不毛であった(例えば平泉澄氏は『わが歴史観』で歴史哲学や歴史学方法論のようなものを試みているが、当時の氏の他の独創的な論策に較べて著しく地につかない青臭いものであった。平泉氏の思想的な本領は遂にここにはなかったので、元来今日氏が立脚している国民道徳みたいなものにあったと見える)。自然科学論もまたその頃は、石原純・田辺元・等の諸氏の業績にも拘らず、何等専門家に真の関心を強いるものではなかった。ヨーロッパでは必ずしもそうでなかったに拘らずである。
かくてこの期の所謂『科学論』は単に科学そのものに対して押しが利かなかったばかりではなく、そのおのずからの結果でもあり一部分その原因でもあるのだが、あまり重厚な社会的現実性を有たなかったのが事実だ。之は思想的な時局性・文化的時事性・を持ったものとはいえなかったのである。かつて古く、歴史は科学であるかどうかという議論が、日本でも試みられたことがある。内田銀蔵博士などが有力な論客の一人であったと思う。この論議はバックルの史観に遠由しているわけで、勿論外国で行なわれたのが日本でも行なわれたのである。前にあげた田口鼎軒氏などもバックルから大きい影響を受けたもののようだ。併しこの論議は当時は、殆んど全く一般学界、まして一般思想、に影を投じなかったらしい。処で今云った所謂「科学論」(大戦直後の科学論時代のそれ)も、要するに之と質的スケールを同じくするものであって、それが少し量的スケールを大きくしたものに過ぎなかったのである。
科学論が、特に社会科学、歴史科学、と現実的な連関を与えられ、そういう意味で学術的に地につくと共に、又時局的な圧力を持った思想として社会的実在性を受け取ったのは、日本に於ては、云うまでもなく世界大戦後からのマルクス主義の発達に由来する。ヨーロッパでは、ブルジョア哲学に基く観念論的な科学論と雖も、なる程一面に於てその不毛振りの悪評は高かったに拘らず、なお且つ科学研究上の或る実用性を持っていた。つまり科学特に社会科学乃至歴史学を観念論化するには有名な武器であった事を見落してはならぬ。処が日本ではそうでなかった。それがマルクス主義に依ることによって初めて、学術的に地についたわけだが、それが又同時に、社会的にも足を地につけることになったのである。之までの日本では未だかつて、これ程社会的現実性と思想的圧力に富んだ科学論はなかった。尤もこの場合、表面上、科学論という言葉ではなしに、史的唯物論の名の下に、又は一般に論理学の名を以て、呼ばれているわけだが。
それだけ、社会科学・歴史科学・に就いての近代日本の科学論は、専らマルクス主義をめぐって行なわれているわけである。と云うのは、今日の日本に於ける社会科学的・歴史科学的・科学論は、マルクス主義に対する、或いはもっと原理的にまた一般的に云い現わせば、唯物論に対する、向背を極度に意識しないでは、あり能わぬのが当然なのである。このさい科学論は、この種の科学の思想的な鍵と見做される。それであるが故に、国史主義的な非科学的科学論も亦、之に対する反動的な分極として、初めて存在出来るわけで、もし一方にこの領域に於ける唯物論的科学が厳存していないとすれば、ああした擬似科学論など凡そ意味のないものであり、誰も真面目に対手にしなかっただろうものだ。
初めから思想的な内容を以て今日に及んでいる社会科学とそれに直接する限りの歴史科学とが、その科学論を通じて、学術的性格そのものと思想との連関を存することは、あたり前である。だが自然科学になると事情は少し別な筈で、マルクス主義の全盛期に於ても、自然科学に関する科学論の意義は、専門家の間に充分の関心を呼び起こさなかった。ブルジョア哲学系統の哲学者・自然科学者・による科学論も、決して充分に学術的尊敬を払われたとは云い難い。ましてプロレタリア・イデオロギーの系統にぞくする科学批判が、ブルジョア大学其の他のアカデミーを中心とする自然科学者達を、いたく刺戟したにも拘らず、あまりブルジョア社会的信用を博さなかったのは、当然と云えば当然だが、併し失敗と言えば失敗と云わざるを得ない。
だがこの失敗も亦当然だったのである。と云うのは、当時の科学批判者が自然科学そのものばかりでなく自然科学者の研究的態度そのものの現状に充分の理解がなかったというだけではない。自然科学が、自然科学自身という世俗的な埒を守っている限り、当時はまだ自然科学者を社会的に反省させるだけの内部的な矛盾も、困難もなかったからで、つまりまだ、自然科学内部に於ては、科学論への真剣な省察や、ましてマルクス主義的、唯物論的、な科学論への真面目な注目を強いる条件はなかったからだ。科学の哲学的基礎というようなことを聞いても、まず一応の文化的儀礼として聞きおくという程度のものであり、あまり重ねて耳にすると専門化らしい軽い反感を催したりする程度にすぎぬのだった。まして当時進歩的イデオローグが取り上げた科学の階級性などという問題は、頭から、科学を誣いるものでしかないと考えられた。科学の大衆性と云っても、科学の啓蒙活動と聞いても、丁度日本の議会に婦選案を上提するようなものであったものだ。
処が最近、自然科学者側からする科学論にたいする興味は、前に比較すると異常に高まって来たと云うことが出来るようだ。少なくとも科学論は自然科学界に於ける或る種の市民権を得たように見える。この現象は色々の処に見て取れる。少なくとも夫は科学的ジャーナリズムの発達に見られる。雑誌『科学』や、『唯物論研究』、又『科学ペン』を初めとして、『科学評論』とか『綜合科学』とかの活動を見ねばならぬ。一般評論雑誌に於ける自然科学関係の論文や評論が目立って殖えて来た事も注目に値いする。この科学的ジャーナリズムは、普通考えられているような科学ニュースの提供という意味での科学ジャーナリズムではない。科学随筆(?)の如きものに堕する傾きもなくはないが、それとても単なる全盛の一余波につきるわけではない。現象の要点は、自然科学に関する科学論的省察が、色々の形で盛んになって来たということに他ならぬ。自然科学が、思想一般の問題に対して、重大な役割を再び(云わばルネサンス以来)持って来たことの、国際的現象の、日本的一環なのだ。
この現象を私は、自然科学の思想化的傾向と呼びたいのであるが、反対する人も多いだろう。特に今日自然科学や哲学の出身の科学論者の或る者達が、決定的に占拠した保塁と見做しているのは、科学の所謂社会階級性を否定又は無視してよいという点にあり、又更に、科学の国民的・民族的・国家的・特性の強調に対しては或る程度譲歩した方がよいという点にある。科学階級性の論議はもう過ぎ去った通り雨だという風にされている。なる程この現象に間違いはないと思うが、併し左翼か右翼かを簡単に決めることだけが思想化というものではない。自然科学が例えば世界像や世界観の問題に踏み出せば、それは立派に思想上の問題として取り上げたことなのだ(『科学』一九三七、四月号)。科学教育の問題(『科学ペン』同四月号)も、科学的精神・科学的政策・の問題も、勿論自然科学から踏み出した思想問題だ。
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