娯楽というものの価値が正当に評価されていない、娯楽が有つ深長な意義にもっと注意を払わなければいけない、娯楽の理論的な考察をもっと真剣に試みる必要がある、とそう私は主張したいのである。なぜかと云うとやがて明らかになるように、民衆が自分自身の生活について反省する時、娯楽は最も重大な実際問題だろうと思われるからだ。尤も吾々は、かつて農山漁村の民衆生活を心配したり、後には軍義的労働力としての民衆の体位を心配したりする、ああいう心配の仕方によって民衆のことを気にかけているわけではない。吾々は勿論民衆を支配したり指導したりする役目を持ってはいない。民衆を自分の手段とする者ではない。吾々はつまり吾々[#「吾々」に傍点]自身の問題として、娯楽というものを省察せざるを得ないのである。
こういうと、笑い出す人もいなくはない、娯楽の価値を正当に評価せよなどということは、諸君のような抑々初めから娯楽を平俗な低級なものだとして軽蔑したり叱りつけたりしている、一種の「インテリ」でなければ必要のないことで、大衆はそんなことを云われるまでもなく娯楽の価値はチャンと判っているのだと、そう云うだろう。なる程そうかも知れない。併し吾々という或る一群のインテリ群が娯楽の余暇と娯楽の能力さえをあまり持っていないというのが事実とすれば、その事実は決してこの吾々が「インテリ」であったり民衆を見下す相対的な貴族であったりするがためではない筈だ。実際を云うと、民衆こそは殆んど全く、娯楽の余暇と能力とを奪われている場合が圧倒的ではないのか。
娯楽というと、前資本制的な反資本主義者は、すぐ様近代都市的消費生活に於ける娯楽のことを考える。デパートやダンスホールなどを考える。そして娯楽の不健全さをそれとなく暗示するのである。農村の前資本主義的生活に於ける娯楽の大衆的な貧弱さが精神作興に打ってつけの健全さに他ならぬとでも云いたいような通俗常識もあるのである。正月、盆、秋祭り、其の他の祭礼、こそが健全な唯一の娯楽で、それ以外のものは百姓達の驕慢を連想させる政治的不吉の兆でしかない、というような徳川政府的常識も未だに衰えないのである。だがこういう常識の所有者、否こういう常識の保守者自身、の娯楽能力は別として、こういう常識そのものは正に、前資本主義的な生活の已むを得ない所産であったわけで、今日の娯楽は市民的交通の極度の発達と地方性の喪失とに照応しなければならぬ処の、近代的な観念なのである。農民の祭礼も決して娯楽でないのではないが、近代的な市民の交通関係に相応する娯楽観念の内に、包摂されてしか生き残らぬ娯楽であろう。例えば盆踊りは当局による上からの奨励にも拘らず、全国的に衰微しつつある。多少の復興を見る処もあるのは、それが実は近代的娯楽の意味を受け取っているからに他ならない。
吾々は今日、近代的な資本主義的(そしてそれから展化する処の社会主義的)娯楽を抜きにして、娯楽を論じることは完全に不可能だ。だが元来民衆を抜きにして娯楽を考えることは出来ない。それが娯楽というものの性質が、慰安や快楽の個人的性質と違う点であることを後に見ようと思うが、今日の一般民衆に於ける娯楽の貧弱さは、一方地方に於ては娯楽の前資本主義的な貧弱さのことであり、他方近代都市生活に於ては、資本制的娯楽そのものの分量さえが大衆にとって微量に過ぎるということだ。要するに今日の日本の民衆は、正常な意味での(近代的な)娯楽を恵まれてはいない。娯楽を知らぬ者は、高級文化の崇拝者たる一群のインテリなどより先に、一般の大衆自身だったのだ。
だから日本では、娯楽についての大衆的な・民衆的な・又云わば民主的な・観念が殆んど発達していない。娯楽は不当に卑しめられ、そして同時に事実に於ては不当に放置されている。こう見て来ると、民衆生活の民主的伸張擁護のために、娯楽が今日何を意味するだろうかが、略々見当づけられるだろう。娯楽なるものは、民主的な課題の一つなのだ。
処が今日娯楽と云えば、民衆に躾けをつけようという心掛けの人間にとってか、そうでなければ民衆の歓心を買おうと心掛けている人間にとってしか、用のない観念であるように見える。飴と鞭とか、それとも飴だけか、の相違しかない。どれも民衆の利用者がもつ処の観念であり、民衆という原料から専ら効用を惹き出そうという側の人間のもつ観念でしかない。で、なぜ吾々が今、娯楽の考察を重んじなければならぬかが、重ねて判るだろうと思う。
古代以来の倫理思想・倫理説・倫理学・を見ると、娯楽を以て道徳の何等かの原理としたものは案外少ない。之に反して、幸福[#「幸福」に傍点]を原理としたものは、古来絶えない主流をなしている。快楽説というやや不幸な名を以て呼ばれるものがそれだ。快楽と幸福との区別はとに角として、その場合の問題の要点は快楽ではなくて幸福にあるのが恒で、エピクロスの園は実は酒池肉林の快楽の園ではなくて、幸福な賢者達の典雅な文化的社交界であったのだ。娯楽が近代庶民的な卑近さを有っているに反して、幸福は云わば超歴史的なモラルのアプリオリのようにさえ見える。つまり幸福というものは人生の一つの要請であって、それを想定しなければ話しにならぬが、そうかと云ってそれを想定したからと云って話しが実際に片づくものでもないのである。だから実際幸福という観念は往々にしてロマン派的なものであったり(メーテルリンクの『青い鳥』)象徴派的なものであったりする(A・ジードの『エル・ハジ』の如き)のだ。それが多少理論的な形をとると、理想主義的なものであったり観念論的・精神主義的・乃至神学的・なものであったり、そうでなくても高々精神医学的な処方や説教に類似している他ない。ヒルティの『幸福論』などがこうした最後のものの典型である(R・ケーベルはヒルティに対して深い同情を示している――『論文集』第二巻を見よ。そしてケーベルが文学の最も大きな役割の一つを教慰[#「教慰」に傍点]とでも云うべきもの――エヤバウウンク――に見出していることは面白い。教慰と娯楽との関係に就いては後に)。
ヒルティの幸福論の最初の一篇は、幸福というものが労働の内にしか見出せないという説明を以て始まる。休息と労働とは単純に相反した対立物ではない、疲労させる休息もあれば休息となる労働もあるが、結局に於て幸福は労働し労作することの裏にしかない、というのだ。この知恵は、云わば人生の生理学として真実であるばかりでなく、又社会科学的な真実をも含んでいないのではない。ただ問題なのは、こうした幸福がいつも何か個人的なものでしかないという、宿命なのである。なる程幸福は結局に於て個人の幸福なのだ。之を措いて社会の幸福も何もありはしない。だが単なる個人の幸福には止まらぬ処の個人の幸福、夫を仮に社会の幸福とか休戚とかいうなら、そういう幸福も考えて見なくてはならぬ。だが之はもはや人生の生理学の圏外に横たわるように見える。夫は幸福と呼ばれてはいない。
それだけではない、幸福が個人そのものの幸福でなければならぬ限り、幸福を求める道は必ずしもヒルティのように労働の内ばかりにあるとは限るまい、他の解釈も大いに可能となるだろう。どんな不幸の内にも何かささやかな幸福はあるものだ。殆んど完全な絶望の内にさえ、多くの自殺者の遺書に見られるようなセンチメンタリズムの幸福の閃きはあるものである。死の恐怖がそのまま安心に転回されるという宗教的幸福が存在し得るのも亦嘘ではない(「イワン・イリイッチの死」)。幸福を個人的な観点からつきつめて行けば、こうして観念的な解決の底なし沼へつき進まざるを得ない。而も幸福というものはそういう個人的な観念であることを止め得ない。――ここに幸福という観念の観念性と無力とが横たわる。だからこそ之は単なる要請に他ならぬというのであり、想定以上のものではないというのだ。之を一つの能動的な構成原理として取り出すには不向きに出来ているのだ。恐らく幸福の説が幸福説とならずに多く快楽説となって現われるのもここに関係があるだろう。快楽の方が一つの構成原理として(快楽原理)、幸福という観念よりも適切なのである。
娯楽はそこで、確かに幸福と最も密接な関係を有っている。だが幸福に較べて遙かに社会的な特性を備えた観念であり、又もっとズット現実的で積極的な社会福祉の原理である、ということを予め注意しよう。と云うのは幸福なるものは元来一つの要請でしかなかったから、理想主義者の理想のように、由緒正しく真ともで肯定的なものであるには相違ない。誰が一体幸福を本当に否定する気になる者があろうか。それは丁度、社会運動をする者は誰だって人間の精神的自由を理想目的としていないものはないのと変らない。ただ困るのは、そういう理想目的を単に肯定[#「肯定」に傍点]しただけでは何物も始まらないということである。否そういう理想目的のただの肯定が却って現実の出発を妨げ又歪めるという点なのである。肯定的精神は大抵理想主義の精神なのだ。幸福も亦理想主義者のユートピアのようなもので、之をどんなに肯定したり強調したりしても、民衆はそれだけでは一向現実に於て幸福にならないのである。幸福となるための現実的な入口は、却ってもっと部分的な、もっと一面的な、云わば充分に周縁しない一種不完全な幸福観念にあるのである。もっと制限された、否定の可能性を欠かぬ処の、幸福観念である。処で娯楽は丁度そうしたものだ。
娯楽は決して幸福の凡てではない、そのほんの一部分にしか過ぎない、而も最も下等な種類に近い幸福でしかない、或いは寧ろ積極的に幸福と呼ぶことさえ出来ないものかも知れない。併し娯楽を入口とし娯楽を通路としない限り、幸福の社会的実現は事実不可能なのである。幸福は或る種の目的であろう、娯楽は之に反して決してそれ自身目的ではない、何かの手段に過ぎない。ただ実際に不可欠な手段であろうと思われるのである。
娯楽は或る意味で、消極的な弁解的な特徴を有っている。暇つぶし、退屈凌ぎ・休息・慰安・というものとごく近い点があるからである。併しこういう種類のものと娯楽との区別が今、大切である。往々娯楽をこういうものとしてしか考えないのが常識であるだけに、益々そうだ。
暇つぶしと退屈凌ぎは大体から云って有閑層での出来事であるというのが常識であるが、必ずしもそうばかりは云えない。閑暇やアンニュイが一種の文化的ポーズになる時は、それが他ならぬ有閑層のイデオロギーになっている時なのであるが、併し忙しい生活の内にも、突如として暇つぶしと退屈凌ぎとの必要を生じて来ることがあるのである。一定の、恐らくその時必要な又は可能な、労働に対して、気乗りがしない時、その労働が免れることの出来ぬ課題であればある程、或いはその労働が唯一の許された可能な労働であればある程、暇つぶしと退屈凌ぎとの必要は大きくなる。つまり労働が欠如している時ではなくて、気の向いた労働が欠如している時に、之が必要になって来るわけだ。
暇や退屈に苦しむということは抑々贅沢のように考えられているが、併し実際は、労働が出来ないということは人間にとってこの上ない不幸と苦痛なのである。云わば人間は一秒々々の時間について労作の義務を感じているのである。人間生活の時間の有限性が、こういう義務感を発生させる。そうでない限り、永久に「明日ありと思う心」は消えないので、仕事を無限に延引することは少しも仕事の成就を妨げることにはならぬ筈だろう。処が、芸術は長く人生は短い、というのが事実で、そこから時間に就いての人間的責任が生れて来る、という風に説明して出来なくはない。率直な事実は、人間が一般的に労働しないでは一刻も意識生活が出来ないということだ。ところで或る特殊のその場で可能な又必要な労働が何かの原因で気の向かない時に、それに対する全くの弁解のために、他のもっと気の向く、従ってもっと平均的な一般的な這入り易くて責任の軽い何等かの労働を選択する、ということが、暇つぶしであり退屈凌ぎということである。勿論そういう安易労働に多くの社会的効用を期待することは出来ない。だから之を労働と呼ぶことに引け目はあるが、併し少なくとも一種の活動でないとしたら、暇をつぶし、退屈を凌駕するだけの、能動性さえあり得なかった筈だろう。
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